よるべなき名を抱く
部屋を出た男は深い深いため息を吐いた。はー、とそれはもう地獄の底から響くような重苦しいため息だった。
妙なものを拾ってしまった。
げっそりしながら今朝方まで共寝した娘のことを思い出す。恐らく女性に対して最低の辱めを受けたのだろう哀れな娘だったが、衝撃のあまりか生来の根性がねじ曲がっているのか、色々間違っている気がする。
というか。
(……処女ではないか)
彼は通路のど真ん中でずーんと暗くなった。まだ年端もいかぬ娘を良いように弄ぶのは本意ではなかったし、それこそ情事の何たるかも知らぬ気な少女をいたぶるのも本意ではなかった。かなり胃が痛い。
再び重いため息を吐いた時、悲鳴じみた怒鳴り声が後頭部に直撃した。
「シキ様ぁあああああああ! あ、あ、あなた、あなたは何と言うことを!」
……煩いのがきた。
彼はもっとげんなりした。いやいや振り向く。そこには羊のようなもっさりくるくるした薄茶色の髪を振り乱した側近の姿があった。思った通りに。
「ベルダン、朝から何だ」
「何だ、じゃありません!」
ばん! とベルダンは壁を粉砕する勢いで強打した。ぐわっと上げた顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。良い年した男のそんな顔は見たくない。見苦しいにも程がある。
「あ、あな、あなたと言う人は、恐ろしい目にあったばかりの女性、しかもまだ年端もいかない少女に、ななな、なんという、卑劣なっ」
「……落ち着け」
「落ち着いていられますかっ! このベルダン、シキ様にお仕えして幾千年、そのような駄男にお育て申し上げた覚えはございませんよ!」
「……そもそも幾千年も生きとらんだろうが」
大分錯乱しているらしい。シキは頭を抱えた。頭痛がする。
しかし生真面目で錯乱中の側近はまだまだ続ける。
「それは、それはまあ、あなたももう良い歳をした男、ぐらりときてしまった気持ちは、まあ、汲んで差し上げなくもございませんが、ですが今まで女性にはさしてそのような目を向けられたことなどほぼありませんでしたのに……! よりにもよってこんな無体な! 最低です不潔ですゴミ屑です! はッ、まさかシキ様、あなた、まさかシグルト様のような幼女趣――――」
「――――少し黙れ。お前は俺を何だと思っている」
シキはいっそ意識をなくしてしまいたかった。何が嬉しくて自分の屋敷の廊下でこんな阿呆な疑いをかけられねばならんのだ。
「……俺だってなんとか説得しようとした。だがあの娘も大分……壊れていたからな」
静かに切り出せば、ベルダンは思わずというように口を噤んだ。痛ましく感じたのか、眉根が寄っている。
「取引でなくてはあの娘は今も怯えていただろう。いつ、自分の意思を奪われ捨てられ、挙句の果てに卑劣な目に合わされるか、と。ああしないと今日にも自刃していそうでもあったのだ」
ざらついた眼差しは昏く、憎悪と嫌悪と恐怖と擦り切れそうな自我で漸く踏みとどまっているようだった。
(……哀れな娘)
陵辱される女達は、今の時代、そう少なくはない。けれどもだからと言って割り切れることでもない。ましてやあの幼さでそのようなことをされては、発狂しないだけましだった。
……幼いと言えど、人間の女だ。だが紛れもなく彼が掬い上げた命だ。彼の目の前で尽きようとしていた子供。
自刃などされてはたまらない。この屋敷は決して彼女にとって楽しいものでも癒しになるものでもなかっただろう。それでも一切れの救いめいた柔らかなものが見つかるかもしれないのだ。
アンジェリカ。
名付けたのは、気紛れだ。ただ。
あの闇の中でなお燐光を帯びる白髪と、暗く染まった金の瞳が妙に——眼球の裏側まで、灼きついた。
天使のような娘。
皮肉な名をつけたものだ、と微かに自嘲する。だが彼女にはひどく似合いに思えた。
「……しかしですね、シキ様」
ふと、冷ややかな声が刺した。
「…………あの少女に、欲情はしたのでしょう」
疑問ではなく断定だった。冷たい目が軽蔑するように眇められている。
「…………」
「煽られたんでしょう」
「………………」
「……まさか最後まで、」
「してない! もうその下品な口を閉じろ!」
「下劣はどちらですか! ちょっとは反省してください!」
ぶち切れたらしいベルダンの説教は昼前まで続いたのだった。
***
「ほんっとに殿方というものは……っ!」
猫のような目が殺気立って全身の毛を逆立てる猫のようにぎらぎらと光っている。
しかしアンジェリカに触れる手は驚くほど優しい。そっと、絶対に傷つけないようにしているように感じた。綺麗で温かい手はそろりと彼女の髪を掬い、ゆっくりと、脆い子供にするみたいに、柔らかく梳いてくれる。
「……え、と」
ナーニャ、さん、と呼びかける。間違っていたらどうしよう。密かにはらはらしていた彼女に向かって、ナーニャはにっこりと微笑んだ。はい、なんでしょう、と優しく。
「……あたしのことは、放っておいても大丈夫、なので」
何しろ押し掛けて欲しいものをふんだくっただけの人間なのだ。こんな風によくしてもらう理由なんてない。今朝も湯を貰ってしまった。
と、ナーニャは哀しそうに眉根を寄せた。
「ご迷惑でした?」
「えっ、そんな、こと!」
「まあ、良かったですわ。それでは次に足を出してくださいませ」
「…………あれ?」
何か今おかしかったような。
あれ? ともう一度首を傾げつつ、アンジェリカは言われるままに足を出してしまった。引っ掻き傷や、裂傷に白くとろりとした薬を塗られる。ひやっとして彼女は首を竦めた。冷たい。
「ごめんなさい、我慢してくださいませね」
ぶんぶんっ、とアンジェリカはナーニャの言葉に大きくかぶりを振った。するとナーニャは微笑して、最後にアンジェリカの傷痕を一撫でした。
「はい、もう大丈夫ですよ。いいこですね、よく我慢できました」
……いいこ。
アンジェリカはとてつもなく微妙な表情になった。この女性は一体自分のことをいくつだと思っているのか。
そんな彼女の心中には全く気付いていないらしい、ナーニャはにこにこと尋ねてきた。
「アンジェリカ様。何か欲しいものはございますか?」
何でも持って参りますよ、と笑う彼女の台詞に、アンジェリカは一瞬息を止めた。まじまじと彼女を見つめる。
「……どうして、知ってるの?」
「お名前のことでございますか? それでしたらシキ様にお聞きしましたので。……とてもお似合いですよ」
猫の目をふんわりと細める彼女は、きっとその前後の話も聞いたのだろう。アンジェリカは心許ないような、どうすれば良いのか分からないような気分になって、ちょっと俯いた。アンジェリカ。あたしの名前。あたしはアンジェリカ。シキに貰った名前。あたしの存在を示すもの。
「アンジェリカ様?」
ナーニャが心配気に覗き込んでくる。その表情で、アンジェリカは一番言わなくちゃいけないことを思い出した。百万の勇気を振り絞って、あ、と声を引き出す。シキの寝台がぎしりと軋んだ。窓のない部屋。上品だけど、暗くて、どこか陰鬱。
その中で、ナーニャだけは柔らかな日溜まりのようだった。
「……あ、り――が、と」
へたくそな感謝だった。だけど言われたナーニャはびっくりしたように目を瞠って、それから至極嬉しそうに笑み崩れた。今までで一番、ほっとしたような顔で。