切望する憎悪
ああ、この部屋は窓がないな、と彼女が気付いた時、重いため息が聞こえてきた。言わずもがな男のものである。
決めてくれたのだろうか。それなら良いのだけど。そう思ってみせて、なのに心臓がひやりとした。自分で言い出したくせに、自分で勝手に怯え始める自身が、吐き気がするほど気持ち悪かった。
「……ともかく。お前は、湯浴みをしろ。傷の手当てをその後してやる。痛みと疲労は取ってやったから動けるはずだ。ついてこい」
…………はあ?
彼女はうっかり素で首を傾げた。何この人。人の話聞いてないんだろうか。
「……ちょっと、あたしの、」
「話は後だ。……面倒臭い」
今面倒臭いって言ったんだけど。
とは言え自分の発言がまともな人間には大分迷惑なものだと自覚してはいるので、彼女はしぶしぶ、さっさと歩き出してしまった男の後を追った。ぽすん、と長椅子から降りる。足がふかふかした。そういえば靴も奪われたので裸足なのだった。
こんな高級そうな敷物の上を、汚れた足で歩いても良いのだろうか。躊躇したが、男が止まらないので彼女はままよとばかりに踏み出し、少しだけ駆け足になった。
男は重そうな扉を開けたまま、彼女がくるのを待っていた。慌てて部屋を抜ける。するとまたさっさと彼は行ってしまう。
廊下はこれまた豪華だった。やはり全体的に薄暗いが、その分重厚な上品さと豪奢な布地や装飾が目立つ。この男は一体どこのお貴族様だ、と彼女はちょっと不安になった。けれどもついと頭を振ってその感情を拭い去る。どうでもいいではないか。もう、何もかも。
自分が一番、どうでもいいのだから。
「ベルダン、ナーニャを呼んでこい」
不意に男が声をあげた。するとすぐに「是」という返答がくる。どこにいるのだろうとあたりを見回しても誰もいない。
(……?)
不思議な屋敷だ。
そんな感想を持っていると、いつの間にか金色の髪の、猫のような目をした綺麗な女性が立っていた。女中のような服を着ている。使用人だろうか。
「お呼びですか」
「この娘に湯浴みをさせてくれ。森に倒れていたせいで土まみれでな」
「……え? ですが、この方は」
「どうも死にたいらしい。まあ、だから、問題はないだろう」
「は?」
はたから聞いていても意味不明な喋り方だ。言われている女性はもっと意味が分からないのだろう、疑問符を浮かべまくった顔で困ったように彼女へ視線を向けてきた。
目が合った。彼女はただどんよりした冷めた目で女性を見た。
「……承知致しました。このナーニャ、完璧にこなしてみせましょう」
「…………湯浴みくらいでそこまで気負わんでくれ」
最もな男の言葉になど見向きもせず、猫の目の女性はそっと彼女の肩を掴んだ。思いがけず優しい手つきだった。
少し驚いて見上げると柔らかい笑みが降ってくる。何故だか無性にやるせないような、いたたまれないような、卑しい気分になって、なのにどこか安堵してしまう。女の人はいいな、と彼女は思った。女の人は柔らかくて、優しくて、怖くない。同じ女の自分とも違って、気持ち悪くもない。いいな、ともう一度、今度は弱い心持ちで思った。
案内された浴場はとても綺麗で、布を挟んだところで、女性が終わるのを待っていてくれた。これ以上この高価そうな屋敷の中を汚れた身でうろつくのは忍びなかったので、丹念に汚れを洗い流す。――――本当の汚れは、洗い流せやしないけど。
髪も洗って浴場を出ると破れかぶれのワンピースは消えていて、白い清潔そうな、だが以前のものと似たワンピースが手渡された。袖を通す。肩より少し先でカットされていて、通気性の良い感じがなんとなく爽やかだった。
ナーニャと呼ばれた女性は嬉しそうに微笑んで手を叩き合わせた。
「ああ、良かった。ぴったりですね。よくお似合いですよ」
言われた途端、途方もない罪悪感が頭をもたげてきた。彼女は俯いて、綺麗なワンピースの裾を掴んで、ぽそぽそと呟く。なんですか? とナーニャが聞き返す。彼女は繰り返した。
「……ごめんなさい……」
ナーニャは凍り付いたように猫の目を見開き、それからどうしてだか哀しげに首を振った。いいえ、謝ることなど何一つないのですよ、と痛そうな声で囁きながら。
***
ナーニャに連れていかれた部屋は先程と少し様相が違っていた。相変わらず暗色だが、いささか小さめで、大きな寝台がひとつ、部屋の中央に座している。男はその寝台に腰掛け、分厚い本をめくっていた。彼女は暫く何も言わず、男が顔を上げるのを待った。少しして紗のような髪の狭間から覗く瞳が緩慢に瞬き、面が上がる。
「……ああ、終わったのか。声をかけろ。気付かなかった」
どこか呆れたような言い方だった。彼女は無言のまま男の方に近付く。ちらりと寝台を見て、唇をそっと噛み締めた。
「言われた通り、洗ってきた」
「……見れば分かるが」
「あんたは決めてくれたの」
男は面倒そうに息をついて、ゆっくりと立ち上がった。長身の彼が立つと彼女は思い切り見上げる姿勢になるのでかなり恰好がつかない。けれどもここで劣勢になるわけにはいかなかった。
「お前を今直ぐ森に捨てるという選択肢もあるんだがな」
表情のない声は、それが一番良いと思っているようにも聞こえた。その可能性は考えないでもなかったから、彼女は男からさりげなく目を逸らして言った。
「それなら痛くなく殺してよ」
「……何故俺がお前の命の責任を負わねばならん。御免被る」
「だってあんたが拾ったんでしょ」
間髪入れずに彼女は噛み付いた。ぎり、と奥歯を噛み締める。男が不可思議そうにするのが目の端に映った。自分でもむちゃくちゃなことを言っていると分かる。この男が拾おうが拾わなかろうが、ともかく明日までくらいは生きていただろう。それでも今、自分がこの世で一番けがらわしいと思う生き物がこうして生き延びているのが、彼のせいに思えてならなかった。――――いや、彼のせいにしてしまいたかったのだ。
最低だな、と自分でも思った。だけども止まらない。あの時、見捨ててくれと言えたなら。いいや、いや。声が出ていたなら。
死なせてって言えたのに。
「あんたが拾ったの。あんたがあたしなんて生き物を生き延びさせたの。だからあたしはあんたに頼んでるの」
だから、もへったくれもなかった。穴だらけの理窟だ。だけど男は思う所があったらしい、諦めたようにまたため息をついてから、長い腕を伸ばしてきた。頬に触れる。びくりと肩が揺れ、彼女は一瞬で青ざめた。
「……お前は。そのような目にあった身で、何故さらに自傷するようなことを望む」
彼女の当初の姿で何があったのか、彼はおぼろげながらも察しているらしい。当然かもしれない。それぐらい、確か、自分は酷い恰好をしていた。
(何故?)
自嘲する。自虐する。
そんなの、決まってんじゃないの。
「この世で一番あたしはあたしがおぞましくてけがらわしくて気持ち悪くてたまらないからよ」
ぐっと両腕で自分の身体を抱きしめ、奥歯を鳴らした。気持ち悪かった。気持ち悪くてたまらなかった。汚れている。穢れ切っている。複数のいやらしい手で指で口で触られ痕をつけられ蹂躙され。無我夢中で逃げてきて。
だけど逃げて残ったのは何だ。このけがらわしい生き物は何だ。
「ぜんぶ、壊れちゃえばいいのに」
もう嫌だ。きらい。男も、自分も、人間も。みんな。
(こわい)
頭が痛い。視界がぐらぐらしてきた。男の目は変わらず陰鬱に彼女を見る。
「分からんな。殺せ、という要求の根底は理解できたが、何故関係を望む。余計、嫌になるのではないのか」
どうして、と言われれば、これもただ自分を痛めつけたいだけに過ぎない。けれども彼を納得させられる理由も、他にあるような気がする。暫しの間考えて、噛み締めるように一音一音はっきり発音する。
「……あたし、知ってる。合意の上ならおかしなことじゃないんでしょ? あんな、踏みにじられるようなことは、違う。だから、塗りつぶすの」
劣勢ではなく優位を。
下位ではなく対等を。
ずたずたにされた精神のまま、男の姿を見ただけで怯えないようになるには、それぐらいの上塗りが必要な気がした。つたないつたない考えだった。けれどもこの時の彼女は相当駄目になっていて、それが最も良いことのように思えたのだ。
男は目を眇め、なるほど、と言った。次の瞬間、緩やかに腰を引かれた。
「ならば望み通りにしよう」
漸く彼は彼女の言葉を受け入れたのだった。