はつかねずみの小説家
1
はつかねずみの小説家は、広いれんげの森の中にぽつりと立った、赤い屋根の小さな家に住んでいる。壁は真っ白な漆喰、ドアや窓は屋根と同じ赤。上から見るとただの赤い四角に見えるシンプルな形の家は、彼女の城だ。
彼女は小さくて真っ白な体にくすんだ茶色のワンピースを着て、机に向かって書き物をしていた。もうぼろぼろの、使い込んだらしい木の机だ。その上に、紙の山ができている。彼女はペンで書き物をしては、次々と紙を積み上げていく。
一枚、また一枚。スピードが速まっていく。彼女は真っ黒な瞳を紙の上に向けたまま動かさない。しかし、最後に、「了」の一文字を書くと、ペンはとまり、彼女は息をついた。
彼女は冒険小説家だ。出来上がった原稿の山は、全てねずみたちの幻想的な冒険譚。彼女は小説を書きながら、様々な人物になりきった。女盗賊。船乗り。魔法使い。誰になっても楽しかった。そう、今までは。
彼女はすっきりした気分だった。小説が完成した。だからわたしはもう小説を書かなくていいのだわ。そう思っていた。彼女の名前は桜の木ピイ。ピイは晴れ晴れとした顔で机から離れた。
部屋の奥にある鏡台に向かう。紫檀の上品なそれの上には花の模様が描かれたかわいらしい宝石箱。開くと、中には様々なアクセサリーが入っている。
ピイはすみれの形をした大きな耳飾りを両耳につけ、ルビーのついた首飾りをかけた。鏡の中の自分を見る。首をかしげて、ため息をつく。つけたものを全部はずしてしまう。
今度は茶色い服を脱いで、クロゼットの奥にしまわれていた真っ白でレース飾りのついたワンピースを頭からかぶり、薄紫の靴をはく。それからさっきつけていたアクセサリーを元通りにしてみる。また鏡を見る。ため息。
鏡台の引き出しを開いて、ピンク色の液体が入った小瓶を取り出す。蓋を開いて、液体をじぶんの長いひげに丁寧に塗りつける。目は真剣そのものだ。
ようやく全てのひげをピンク色に染め上げると、ピイはつぶやいた。
「わたし、きれいかしら?」
鏡をのぞく。じっと見つめる。段々、ピイは泣きそうになる。
全然似合ってない。
ピイは部屋の隅のベッドに走り寄り、布団に顔をうつぶせた。全然似合ってない。わたしにはこんなもの似合わない。
「ピイ」
突然、柔らかな低い声が聞こえた。ピイはぱっと顔を上げ、赤い出窓を見る。黒ねずみのシムリがこちらを覗いていた。ピイはどきどきしながら窓に駆け寄り、開いて顔を出した。
「どうしたの? シムリ。仕事は?」
声が少しだけ甲高くなる。
「もう終わったよ」
シムリはにっこりと笑った。そして、使い古した鞄の中から本を取り出した。だいぶ読み込んでいるようだ。あちこちが擦り切れている。表紙にはかすれたような風合いの、迷宮の絵。
「これ、何度も読んだよ。ピイの新刊。続きはまだ?」
ピイは少し胸が騒いだ。理由のないざわめき。
「もう書いたわ。今仕上げたの」
するとシムリが目を輝かせる。
「本当? 今書いてたの? 読みたいなあ」
「駄目よ。本になってからね」
「そうなの?」
シムリは残念そうに首をかしげる。ピイは黙り込む。するとシムリがピイの顔をじっと見て、更に首をかしげた。
「ひげに何つけてるの?」
ピイは顔が熱くなって、小さな声で、
「これ、お化粧よ」
と答えた。
「ふうん」
「似合ってる?」
はにかんで、小さな声で訊いてみる。しかしシムリは平気な顔で、
「ねえ、それじゃあ細い道を通り過ぎるときに、ひげのアンテナがきかないんじゃないの?」
と尋ねた。ピイはがっかりして、泣きそうになってきた。
「そうかしら」
「うん。ひげの機能が落ちちゃうよ」
シムリはピイの気持ちも知らずに無邪気に笑っている。ピイはシムリに合わせて微笑んでいたが、気持ちはどんどん沈んでいった。
「でも、君、今日はずいぶんおめかししてるね。すごくきれいだよ」
シムリがさらりと言うと、ピイは一瞬何を言われたかわからなかった。わかった途端、顔が熱くなるのを感じた。
「ありがとう」
小さく、つぶやく。シムリはにこにこしている。ピイは嬉しくてたまらない。うきうきと自分の格好を気にして、服や耳飾を触ってみたりする。しかしシムリはそれには気づかずに、何かを思い出したような顔になる。
「ねえ、ナリーは? 最近見かけないんだ。どうしてるんだろう」
ナリーはピイの小説の挿絵画家だ。歳は離れているけれど、二人はナリーととても親しい。ピイは困った顔になる。
「最近ね、ナリー、手紙に返事をくれないの」
「そうなの? それは変だね」
シムリは右手をあごに当てて考える顔になる。
「ねえ、今から一緒にナリーのところに行かない?」
「一緒に?」
「うん」
「行く」
ピイは少し嬉しくなって、家を飛び出した。シムリと一緒にどこかに行くのは、いつでもわくわくする。
「今日は親方にこってりしぼられたんだ」
ピイとシムリが石畳の道を歩き出したとき、シムリは顔をしかめてそう言った。
シムリは見習いの家具職人だ。有名な家具職人に弟子入りして、毎日毎日家具を作る修行をしている。鞄に入っているのは様々な工具類。これで家に帰っても何かしら作っていることを、ピイは知っている。
シムリの師匠であるグイルは、天才家具職人として有名だ。柔らかな曲線と直線が成す、革新的な家具たち。それでいてとても使いやすく、肌に馴染むと評判だ。
親方の作る椅子は最高に美しいんだ、とシムリはよく自慢げに話す。彼はグイルを尊敬しているのだ。
ピイもいくつかグイルの作品を見たことがある。奇抜なのに優しい印象を与える、椅子、机、箪笥、鏡台。実はピイの鏡台はグイルの作品だ。とても優雅で、ピイは気に入っている。
「ぼくが作った引き出しが下品だって。ぼくとしては最高の出来栄えのつもりだったんだ。まさかあんなこと言われるなんて」
「災難だったわね」
ピイはシムリの顔を見て、口を尖らせる。シムリは力強くうなずいた。
「そうなんだ。だから気分がくさくさして、ピイのところに遊びに来たんだよ」
「気晴らしになるといいけど」
ピイが自信なさげにつぶやくと、シムリは、
「もうなったよ」
と笑った。
ピイはまた顔が熱くなる。シムリはこうしていつもピイを喜ばせることばかり言う。どうしてだろう、と考えるけれど、答えは出ない。ただ、これだけは言える。ピイはシムリといると、幸せな気分になる。これだけは変わらない事実だ。
二人で歩くれんげの森は、どこまでもピンク色で、どこまでも広がっていた。ピイはそれに励まされるようにして、尋ねてみる。
「ねえ、シムリ。わたし、今日みたいな格好をしたほうがいいのかしら」
シムリは真剣な顔でぐいっとうなずいた。
「そうだよ。いつもそうしていればいいのに」
「そう?」
ピイの顔がほころぶ。
「君はいつも地味な服を着て、机の上で一所懸命冒険小説を書いてくれる。それはぼくのようなファンにとっては嬉しいことだ。でも、たまにはそうやってきれいな服を着て、首飾りや耳飾をつけて、化粧をして外に出かけるべきだよ」
そう熱弁したあと、シムリはピイの顔をまじまじと見つめ、
「うん、そのほうがいい」
とうなずいた。
ピイはうつむきながら、思う。これはただ正直にものを言っただけだと。シムリは真っ直ぐな少年なのだ。だから、それだけだ。
考え事をするピイの顔を、シムリが覗きこむ。
「何考えてるの? 小説のこと?」
「うん」
どぎまぎしながら嘘を言う。これが何なのか、わからない。嬉しくなったり、泣きそうになったりすることが、どうして起こるのか全くわからない。
ナリーに訊いてみよう。ナリーならわかるわ。
ピイはシムリと歩きながら、ふわふわと雲の上を行くようだった。
れんげの森を抜け、菜の花の林を抜けると、賑やかな駅が見えてきた。木で出来た、がっしりとした大きな建物だ。くすんだ緑色の、細い瓦を葺いた屋根の下には、大勢のねずみたちがいる。その間に何本かの線路が通っていて、木組みの列車が停まっているホームもある。
ピイがきょろきょろしていると、オレンジと水色の、色違いでおそろいのワンピースを着て、かわいいリボンのついた帽子をかぶった二人の少女たちがこちらを振り向いた。賑やかにおしゃべりをしていた二人は途端に黙り込み、目を輝かせ、華やかに笑いながら駆け寄ってきた。
「きゃあ、シムリ。こんにちは」
オレンジ色の少女がシムリに飛びつく。
「どこに行くの?」
水色の少女がシムリの顔を潤んだ瞳で見つめる。
この二人は双子だ。どこもかしこも似ている。二人とも、シムリに夢中だ。
おそろいの茶ぶち模様がとてもかわいらしいこの双子を見ると、ピイはとても惨めな気分になる。
「やあ、マリイにミリイ。ぼくはピイと一緒にナリーのところに行くんだよ」
シムリがにっこりとそう話すと、双子はふうん、とピイを見て、またシムリに目を移した。
「それよりシムリ、わたしたちと一緒に森に行きましょうよ。あの隠れ家で、野いちごをおなか一杯食べるの」
オレンジ色のマリイがピイをちらりと見ながらシムリの腕を引いた。ピイは隠れ家のことなど知らない。マリイはピイをのけ者にして、シムリから遠ざけようとしている。
「そうよ。ナリーは最近誰も家に寄せ付けないって話よ。行ってもしようがないわ」
水色のミリイがもう片方の腕を引っ張る。
「ねえ、シムリ」
「ねえ、わたしたちと一緒に」
「ごめん、二人とも。ナリーが人を寄せ付けないっていうんなら、なおさら行かなきゃ」
シムリは困った顔で双子を見る。二人は不満顔だ。
「ピイとも約束してるし」
双子がピイをにらんだ。ピイは控えめに目を伏せて、二人の苛立ちがなるべく早く治まるよう祈った。
「行こうか、ピイ。ほら、列車が来たよ」
シムリの声に顔を上げ、その指差す方向を見ると、確かにがたごとと木組みの列車がやって来ていた。目の前にゆっくりと停まる。
「じゃあね、マリイ、ミリイ。また今度、ピイと一緒に行くよ」
シムリはピイの背中を一つのコンパートメントに優しく押し込みながら、双子に手を振る。シムリと共に、檜の香りのする車内の柔らかい椅子に座ってから窓の外を見ると、双子はじっと窓際のピイを見ていた。不意にマリイが大きな声を出す。
「彼女、お化粧なんかしてたわよ」
ミリイがくすくす笑いながら大声で返す。
「急に色気づいちゃって」
「いつもは茶色いさえない服を着てるくせにね」
「そうそう。白い服なんか着ちゃって」
「シムリと一緒だから気取ってるのよ」
「ふん。シムリが彼女に興味があるのは、彼が彼女の小説の」
続きは車輪のぎいぎいという騒がしい音で聞こえなかった。列車は動き始めていた。ピイは泣きそうになるのをこらえていた。
そうだわ。人気者のシムリがわたしを相手にしてくれるのは、彼がわたしの小説のファンだからに過ぎないわ。
ピイは涙が粒になって落ちそうになるのを慌てて手で押さえた。
「泣かないで、ピイ」
ピイの頭に温かいてのひらが置かれる。シムリのてのひらだった。
「あの子たち、ちょっとたちの悪いところがあるんだ。普段は陽気で楽しい子たちなんだけど。許してやってよ」
シムリはピイの頭を、優しくなでてくれた。ピイは泣きそうになっていたのがすっと治まっていくのを感じた。やっと、微笑む。
「ええ、ごめんなさい、泣いちゃって」
「ひどいよね。あとで言っておくから」
シムリはそっと手を離して、笑った。
そんなこと、してくれなくていいのに。
ピイはシムリの優しさが嬉しくて、また泣きそうになる。気持ちが高ぶって、秘密にしていたことを言いたくなってしまう。
「シムリ、あのね」
「何?」
シムリがまた心配そうにピイの顔を覗きこむ。
「わたし、小説家をやめようと思うの」
がたごとという車輪の回る音がピイの耳に響く。シムリは真顔で黙り込んでいた。
「わたし、毎日お化粧をして、きれいな服を着て、マリイやミリイみたいになりたいの。だから小説はもうやめにしようと思うの」
シムリが目を伏せる。
「どうしてもなの?」
「ええ。わたしはもう充分書いてきたでしょう? もう十二冊も。やめてもいいと思うの」
シムリは沈んだ顔で考え事をしている。ピイはどきどきしながらそれを見る。重たげに、口は開いた。
「そのことは、ナリーには?」
「それは、今から。だって、大事な話があるって手紙を出したのに、返事がないのよ」
「そうか」
シムリはそれだけ言うと、黙り込んでしまった。
列車は揺れる。窓の外の景色は、明るい草花の林から暗い湿った森へと移り変わっていく。ピイは沈黙に押しつぶされそうになる。
お願い、シムリ。何か言って。
しかし、シムリはナリーの住む「沼の前」に列車がたどり着くまで、何も言わなかった。ピイは後悔した。言わなければよかったと。しかし、こうも思う。自分の決心だ、遅かれ早かれ伝えなければならないのだと。
「『沼の前』に到着いたしました。お降りの方は、段差や隙間にご注意ください。次は『水晶水仙博物館前』」
小さなコンパートメントに車掌の声が響く。お決まりの文句を唱えながら、車掌の衣装を着た灰色ねずみが、マイクを持って歩いていく。車掌は、じっと動かない一組の男女をちらと見て、そのまま次のコンパートメントに移った。
「降りようか」
何年も使っていないようなさび付いた声で、シムリが言った。ピイはうなずくことも、ええ、と一言答えることもできず、立ち上がったシムリに慌てて付いていった。
2
檜の涼しげな香りは、列車から鼻を出した途端に吹き飛んだ。湿った、かび臭い匂い。ナリーはこんなところに好んで住んでいる。ピイは駅舎の改札口の向こうに見えるつたの森を見て、ほう、とため息をついた。
「相変わらずのところだよね。ナリーも物好きだよ」
シムリは、先に降りたあと、優しくピイの手を取って引っ張ってくれた。笑っている。
シムリ、わたしに言いたいことがあるはずなのに。
ピイは心臓をぎゅっとつかまれたような気がした。苦しい。後悔の気持ちなのだろうか、と思う。
わたしは小説家をやめたくないのかしら?
ピイはシムリに手を引かれながら、ぼんやりと、苔むす、不潔な感じのする駅舎を通り抜ける。シムリはピイの乗車券を取って、自分の分とまとめて駅員に渡した。よれよれの制服を着た若い駅員は、面倒くさそうにそれを箱にしまって、「どうぞ」と言った。他にねずみはいなかった。列車から降りるものも、列車を待つ者も。
寂しい駅の石段を降りながら、ピイは考えにふけっていた。
わたしは、やめるの。小説家をやめるしか、ないの。
この罪悪感は、ファンであるシムリをがっかりさせたから。最終巻はきっちり仕上げているし、シムリは満足してくれる。きっとそう。
石段を降りて、地面に生い茂る苔を踏んだ。ピイの絹の靴の中に、冷たい水が滲みて、ピイは思わず悲鳴を上げた。
「どうしたの?」
シムリが驚いた顔でピイを見る。ピイの視線をたどって、シムリは、ああ、と後悔したような声を上げた。
「気づかなかった。ごめんね」
「わたし、忘れてたわ。ナリーの家に行くときはブーツをはかなきゃいけないってこと」
苔は道になっている。水を含んだ深緑の道の脇に、シダ類が生い茂っている。辺りに家はない。蛙の鳴き声と、この水気の多い冷たい空気だけが、ここにいるときに感じるものだ。
「靴、このまんまじゃ大変だね」
不意にシムリが目の前にやって来て、汚れた水が滲みたピイの靴に触れた。そのときピイは初めて気づいた。シムリとずっと手をつないでいたことに。
顔が、体中が熱くなる。どうして、シムリは列車を降りたあとも手をつないでいてくれたのだろう。
シムリは右手をあごに添えて、ピイの足元で何か考え込んでいる。その右手は、さっきまでピイの左手とつながれていたのだ。ぬくもりと急激に冷えていく手の感覚がそう言っている。
どうして?
「ぼくの靴、はく? 貸してあげる。ぼくは駅で適当なブーツを借りてくる」
混乱するピイを置いて、シムリは走って行ってしまった。ピイは一人になった。
わたしは、どうして小説家をやめたいんだっけ。マリイやミリイが羨ましくて? そんな、つまらない理由だったかしら。
マリイやミリイに劣等感を抱いていた。彼女たちがとても華やかに見えて、自分がとても惨めに思えて。
それだけ? わたしは小説を書くことがとても好きだったのに。小説への情熱が、終わってしまった? 本当に?
ピイはじわじわと靴に滲みてくる水が足の毛に染み込んでいくのを感じていた。そのとき、ぴしゃぴしゃという、水のはねる足音が聞こえてきた。
「ピイ、靴、借りられたよ」
シムリが笑って穴だらけの擦り切れた革靴をピイに見せた。
「ごめんなさい。わたし、このままでもよかったんだけど、言いそびれちゃって」
「何言ってるの。せっかくきれいな格好してるのに。これ、どうぞ」
差し出されたのはシムリのぴかぴかのブーツだった。シムリは片方脱いで、その足にぼろぼろの靴をかぶせる。ピイは驚いて大声を上げた。
「わたし、いいのに。そっちでいい」
シムリは一向に平気でもう片方を脱ぐ。
「何言ってるの。この革靴、汚いよ。ぼくのも大して違わないかもしれないけど、清潔だよ。どうぞ」
シムリは靴をはき終えると、脱いだブーツを持って、ピイの足元に置いた。
「さあ、脱いで。ああ、白い毛が水に滲みて台無し。早く。はいて」
ピイは言われるがままにシムリのブーツをはいた。温かくて広いブーツの底にたどり着いたとき、無性に泣きたくなった。わかってしまった。小説をやめたい理由も、シムリといると嬉しくなる理由も。
シムリのことが好きなのだ。好きだから小説家をやめたくなったのだ。普通の少女のように、きれいに着飾って、何物にもとらわれないでいれば、シムリに愛されると思っていたのだ。
わたしは、とても愚かだった。
「行こう」
シムリが、またピイの手を握った。優しい、いつもの目をしている。ピイはにっこりと笑顔を作った。
「ええ。わたしはナリーに言わなければならないことがあるから」
3
ナリーの家は、じめついた沼のそばにある。辺りに同じねずみの気配はない。
大きなヒキガエルが三匹、ナリーの家の前でひそひそと話をしている。けれど、ナリーは気にしない。たかがヒキガエルの言うこと。第一何て言っているのかわかりはしない。
ナリーは泥と絵の具にまみれた、ただでさえ厄介な模様の体を手入れしたりしない。三毛ぶち模様の地図模様。さらにひどく汚れているその姿は、どこか不気味だ。
だが、ナリーは不思議に人望がある。この訪れにくい沼のそばの家、土壁にシダ葺きの屋根の狭苦しい家にねずみたちが訪ねてくるのは、ナリーが頼れる人物だからだろう。
ナリーに何か相談すると、必ず不思議な返事がある。占い師のように不確かな、抽象的な言葉。しかし何故かねずみたちはそれに納得をし、自分の決意を後押しされたかのように感じるのだ。
小説家のピイが小説家になったのも、ナリーの予言めいた言葉のお陰だ。ピイはそれによって何もないところから小説家の道を見つけた。
頼りなかった、内気な子供のピイが。
ナリーはすみれ煙草をふかした。香りだけで、中毒性も安らぎもない。ただ何となくふかしているだけだ。ナリーはそういう意味の無いことを好んでやる。
ピイは来るだろうか。多分来るだろう。ピイに何を話そう。
ナリーはこげたすみれの煙を吐き出し、空中に振りまいた。
いいもやだ。おれのしっちゃかめっちゃかなこのアトリエを、うまいことぼかしている。いい絵になる。
ナリーはスケッチブックをがさごそ取り出した。このアトリエも、ナリーと同じで汚れている。絵の具に泥、食べ物のカス。油絵も水彩画も、あちこちに雑然と置いてある。ナリーはスケッチブックをめくる。
あと二、三ページしかない。また新しいのを買わなけりゃあ。
樫の、がっしりとした椅子に横着に座り込む。水彩絵の具を無造作にパレットに出す。水はきれいなままだ。もう三日もこのままなのだが。
ナリーは、アトリエの戸口の付近を描き始めた。煙がドアの下に吸い込まれていく様子が面白い。何か小さなものがドアの下をくぐって入ってきた。シダの枯れた先端だ。それを青い一点として絵に描く。
久しぶりだな。こんなに絵がはかどるなんて。
ドアの横の窓枠は黒だ。ところどころに油絵の具が付いていて、模様じみている。
おや、窓ガラスの向こうに誰かが見えた。新しく描き込まねば。
白いねずみと黒いねずみ。服装からして男女だ。若いな。絵になる。
こちらに近づいてきた。二股の苔の道の、こちら側を選んで。また新しく、大きく描き込まねば。
ああ、ドアの覗き窓に黒く光る少年が。また描こう。
そのとき、ノックの音がした。
「入れ! シムリにピイ」
ナリーは怒鳴った。ドアが軽そうに開く。
「ナリー、こんにちは。お邪魔するよ」
「こんにちは、シムリ」
「こんにちは、ナリー。久しぶりね」
「こんにちは、久しぶり、ピイ」
ナリーはぶっきらぼうに挨拶した。絵筆の動きはとまらない。
「よくわかったね。ぼくらだって」
シムリが不思議そうに首をかしげる。ナリーが口の端を上げて笑う。
「当たり前だ。さっきから窓の外にいるお前たちを描いていた」
まだ絵の具がみずみずしいスケッチブックを二人に向ける。ふたりはきょとんとそれを見た。
その一枚の絵には、窓の外にいる二人がこの家へと歩いてくる一瞬一瞬の姿がいくつも描かれていた。顔を見合わせ話す小さな二人。覗き窓を覗くシムリの瞳。そしてこの部屋でにっこり微笑み挨拶をするシムリと、おずおずと部屋に入ってきたピイ。シダが風で点々と移動する様子も描かれている。
「見事だな! 速くて正確な筆。君は相変わらずだ」
シムリが褒めると、ナリーは不満そうに口をゆがめる。
「未完成だ。その上落書きだよ。褒めるほどのもんじゃない」
「そうかな」
「そうさ」
シムリはナリーの絵を眺めた。ナリーは無気力にすみれ煙草の煙を吐く。
「あの」
二人の不毛なやりとりに終止符を打ったのはピイだ。シムリはきょとんと、ナリーは口をへの字にしてピイを見た。
「ナリー、とても心配してたのよ。どうして音沙汰なしだったの? それに、マールは? 見かけないけど」
ピイは首飾りのルビーを弄びながら首をかしげた。
「さあてね」
ナリーは体を起こして、吐き捨てるようにして煙草を床に落とした。
「危ないよ」
シムリが煙草を足で踏みにじる。それを無視するかのように、ナリーはそばのテーブルの上の巻紙と、枯れたすみれの花の入った皿を引き寄せた。枯れ草色の紙を取ると、細い指を動かし、思いがけない素早さで上手くすみれを巻き込み、マッチを擦って、新しい煙を吸い込んだ。
「おれはお前のほうが心配だったよ、ピイ。最後の小説の挿絵なんか描きたくもない」
シムリとピイが息を呑んだ。ナリーは知っていたのだ。
「お前の小説が大好きだったよ。風船の国、珊瑚の城、土の下で歌う吟遊詩人、待ち針で戦う女勇者。絵にするのが楽しかった。おれは悲しいよ。とても悲しい」
ナリーの鼻がぐずぐず鳴り出し、ピイはびっくりしてその顔を覗きこんだ。泣いている。
「悲しいことばっかりだ。お前はおれに挿絵を描かせてくれなくなるし、マールは死んでしまうし」
「マールが?」
シムリとピイは言葉を失った。ナリーの妻が死んだ。それを今まで知らなかった。しかしそれでやっと説明がつく。
「だから連絡がつかなかったのね」
ピイは、ほう、とため息をつく。同時に涙が溢れ出す。
死んだんだ。
マールは明るくて親切な女性で、お菓子を焼いたりレースの敷物をプレゼントしてくれたりして、ピイをよく元気付けてくれた。ナリーがピイの家に来るときはいつも一緒で、二人はとても仲のいい夫婦だった。ピイは無造作に置いてある中に、一つだけナリーが眺めた痕跡のある油絵を見つけた。マールの肖像画。痩せ型の茶色ねずみは、優しげに微笑んでいる。
「マールは、どうして」
シムリは痛ましげに尋ねる。ナリーは鼻水で煙草をしけらせながらつぶやいた。
「流行り病で、溶けて死んだ」
「水風船病か」
水風船病とは、最近流行っている謎の病気だ。いきなり体が水になり、破られた水風船のように地面に散る。
「あんな残酷な死に方はない。体は地面に溶け込んでしまうし、ひげ一本すら残らないんだ」
「お気の毒に」
「もう絵が描けない。マールがお茶を淹れてくれないんだ。だから描けない」
ナリーが陰気につぶやく。
「ピイはおれのより所だったよ。お前の小説はとても優しくて、おれを受け入れてくれる。だから絵も描ける。なのに、『お話があります』だなんて」
「それはね、ナリー、そのことなんだけど」
「でもわかってるんだよ、もう。だから平気だ」
シムリは怪訝そうにナリーを見る。
「シムリは素直なようで素直じゃない」
「なんだい、それ」
「ピイは紙風船のように潰れやすい。だけど本当は芯があるんだ」
「ナリー」
ナリーはいつもの占い師じみた奇妙な落ち着き方をしていた。
「いいか。おれはマールを失った。おれはこんなに突然に彼女を失うとは思わなかった。あれやこれや考えた。マールが死ぬ前のこと、一瞬で地面に染み込んでしまったマールの姿。マールは本当に存在したのか。夢ではなかったのか。でも、確かにいたんだ。存在したんだよ。おれを守ってくれた。おれの絵を愛してくれた。だからおれは画家でい続けられた。いいか。マールはおれを正しい方向に進ませてくれたんだ」
シムリは黙り込んでいる。ピイは静かにナリーの言葉を聞きながら、口にしたいことを秘めたままたたずんでいた。ナリーが今度は優しく話し出した。白い煙と共に、言葉は吐き出される。
「お前らは水風船のようにいきなり消えてしまう大切なものを、守らなくちゃいけないよ」
「わけがわからない」
シムリがつぶやく。
「わたしは少しだけわかった」
ピイが夕暮れのシダの森を眺めながら笑った。
「ぼくに言ってたのかな」
シムリが汚いブーツをびちゃびちゃと鳴らす。
「そうみたい」
ピイはシムリの新品のブーツで湿った苔を踏む。
「君にも言ってたよね」
シムリは目をきらきらさせながらピイを見つめた。ピイは顔を背ける。
「そうね」
シダの森は薄暗くて何か恐ろしいものが出そうだ。かび臭くて、蛙がうるさくて、ここはろくな場所ではない。
ピイは、ああ、ナリーに言いそびれてしまった、と考えていた。夜は近いし、もうここは帰り道。機会は逃してしまった。
「しばらく待ってほしいんだ」
シムリが唐突に、喉から声を絞り出すようにして言った。
「何を?」
ピイはぎくりとしてシムリを見た。シムリは恥ずかしそうに笑っている。薄暗い葉陰の下、シムリの目だけが輝いている。
「ずっとやろうと頑張ってたんだ。でもうまく行かなくて。今日だって親方に叱られて」
ピイは目をぱちぱちとしばたかせる。
「何だかね、全然わからなかったけど、ナリーの言葉でやる気が出たんだ。待ってて。頼むよ」
シムリは目を細めてにっこりと笑う。ピイはわけがわからなかった。けれど笑い返した。
「ええ、待つわ」
4
しばらくして、手紙が来た。
『こんにちは、ピイ。約束のものができたよ。うちの工房においでよ』
ピイはシムリの手紙の不器用な字を眺めて、首をかしげた。
「親方がシムリの腕を認めてくれたのかしら」
そうつぶやくと、嬉しくなって笑みがこぼれた。それをわざわざ真っ先に自分に見せてくれることも嬉しかった。
わたしもシムリに伝えなきゃいけない。
ピイは慌てて身支度を整え、赤いドアから飛び出した。
れんげの森を抜け、しろつめくさの林に入る。細かい道が大通りから伸びて、そこには小さな家々が立ち並ぶ。
背の高い草むらの森で、草の途中に編まれた丸い家の中で、ピイの腕ほどに小さいかやねずみの赤ん坊が、小柄な母親の腕の中で泣いていた。
上空の家から母親がピイに笑いかける。ピイがうっとりとそれを見ていると、父親が帰ってきた。見覚えのある編み靴職人だ。
「ピイちゃん」
編み靴職人はピイに気づいて手を振った。ピイはあまり会ったことのない彼に、これほど親しげに声をかけられることに驚いた。
「シムリが素晴らしい家具を仕上げたよ。親方も文句が言えなくて、口をもごもごさせてた」
「まあ、本当? やっぱりそうなんですね」
ピイは嬉しくなって手を合わせた。
「何だ。知ってるのか」
「いえ、シムリからお手紙が来て。詳しくは書いてないんですけど」
小さな職人はにいっと笑った。
「早く行きなよ。おれ、見て感動したんだ。見なきゃ後悔するよ」
職人は驚いたような目で彼を見る妻から赤ん坊を取り上げてあやした。
「シムリは本当に素直だな」
何が何だかわからない。ピイは職人にお礼を言い、不思議そうな彼の妻に笑顔を向けて、トンネルのような草むらを抜けていった。上空にはいくつものかやねずみの草の家がある。
シムリの師匠グイルの工房がある職人街はその先にある。ピイは足を速める。草むらは抜けた。
大きな木が目の前にそびえる。広い、広い湖もある。そこには水車があり、舟があり、様々で不可解な道具を作る職人で一杯だ。
「グイルさんの工房はどこかしら」
ぐるりと辺りを見回す。ここはどこもかしこも職人の職場だから、見た目よりも探しびとを見つけるのは難しい。なんせ、地下にも職人街がある。石の敷き詰められた地面のところどころに、ドアのついた小さな建物があるが、これは地下街の出入り口なのだ。陰気なねずみたちがときどきそこから出てくる。
「地下街じゃなかったわよね」
地下街は主に貯蔵庫や研究室に使われる。
「お嬢ちゃん、何やってんの」
そばにいた荷物係の大きな灰色ねずみが声をかけてきた。大柄でたくましいのに、どうやら女性らしい。
「あの、グイルさんの」
「グイルは三人いるよ。釣竿職人、水車番、博士」
灰色ねずみは驚くほど早く答えを返した。ここのテンポはそれが当たり前らしい。一人で小説を書いているのんびり屋のピイはまごまごしてしまう。灰色ねずみはお嬢さんじみた大人しいピイを珍しそうにじろじろ見た。
「これだけだよ。誰に会いたいの?」
「えっ? 家具職人のグイルさんは」
「ああ、家具職人の。職人の木の七階にいるよ」
ピイと灰色ねずみは広場の中央にある大きな木を見上げた。窓やら階段やらが木に取り付けてあり、のんびりなどありえない職人の仕事がどの部屋にも見える。
「弟子が何かやらかしたらしいね。ギールがぎゃあぎゃあ言ってたよ。あ、ギールっていうのは奴のあだ名。たくさんのグイルの中でも奴は特別で変わってるからねえ」
灰色ねずみが豪快に笑う。ピイは目を丸くした。
「弟子って」
「シムリ。あいつ強情なとこがあるね。びっくりしたよ」
「教えてくれてありがとう」
ピイは困惑しながら湖を去った。
かやねずみはシムリを素直だと言った。灰色ねずみは強情だと言った。グイルは怒っている。わからない。シムリは何をしたのだろう。
職人の木の観音開きのドアは、もう目の前にあった。ピイはびくびくしながらそれを引こうとした。
「やだ、ピイじゃない」
後ろから嫌な二重唱が聞こえてきた。
「こんにちは」
ピイが振り返って微笑むと、おそろいのつばの広い帽子をかぶったマリイとミリイはひっそりと笑った。
「行きましょうよ」
マリイはピイへの挨拶もなしに、ピイが触れているドアノブを奪い取った。
「今日はシムリが一人前と認められた日なのよね」
ミリイもマリイに肩を並べた。
「シムリに最初に会うのはわたしたちよ、ピイ」
マリイは先だけ赤くしたひげをぴんと立てて、ピイをにらんだ。ミリイも同じだ。
「おどおど屋」
「それに地味で」
「なあに、その赤い服」
「そうね、似合わないわ」
双子は次々とピイにひどい言葉を投げつけた。ピイはそれにじっと耐える。と、突然マリイがピイの持つピンク色の鞄を指差した。
「それになあに、鞄に入っているものは」
「シムリへのプレゼント? 手紙?」
ミリイが怪訝な声でつぶやくと、マリイが恐ろしい剣幕で突っかかってきた。
「やだ、嘘でしょ! 見せなさいよ! あんたなんか、シムリに優しくされる権利なんかないのに」
ピイは鞄をしっかり抱いた。
「どうしてよ。わたしはシムリの友達よ。優しくし合うのが友達でしょ」
「何が友達よ!」
ミリイが鞄に飛びついた。生地がもみくちゃにされる。
「下心があるんでしょ。シムリが優しいのを利用してるくせに」
「離して」
マリイも鞄の取っ手を引っ張り始めた。鞄がめりめりと鳴る。
「シムリはあんたなんか好きじゃないわよ! プレゼントをあげたって、ラブレターをあげたって、シムリはあんたを友達にしかしないわよ。それどころか、退屈なあんたは友達ですらないわよ!」
ピイは初めて激しい怒りを覚えた。
「友達よ!」
ピイが叫んだ途端、鞄が破れた。ピイと双子が悲鳴を上げて転ぶ。鞄の中からは、大きな包みと小さな四角い箱が出てきて地面に転がった。
「痛いじゃないの!」
ミリイが金切り声を上げる。ピイはうつむいて座り込んでいる。
「あら、やっぱり!」
マリイが転がる荷物を指差した。
「プレゼントよ! 二つも!」
マリイとミリイはしばらくそれをじっと見下ろしていた。ピイは湿った石の地面にぺたりと座ったきり、動かなかった。やがて、マリイが口を開けた。
「やだ。貢物みたい」
くすくすと、笑う。
「物でシムリを釣ろうってわけ」
ミリイがピイに顔を近づけてあざけったあと、大きな包みを蹴った。
「浅ましい」
「浅ましいのは君たちだ」
双子がはっと顔を上げる。ドアの前にはにはシムリが厳しい顔をして立っていた。
「シムリ」
「上から見てた。急いで降りてきたよ。ピイの鞄を引っ張ってたみたいだけど」
マリイが唇をかんで黙り込む。ミリイは違った。にっこりと作り笑いを浮かべて、
「遊んでただけよ。ピイがシムリにプレゼントを持ってきたって言うから見たくって。だから冗談で」
「冗談で鞄が裂けるまで引っ張ったのか?」
シムリの声は低かった。ミリイはやっと口をつぐむ。
「貢物だって? ぼくへの?」
「冗談よ。ただ、いくらシムリの出世祝いだからって、こんなにたくさんプレゼントなんかいらないんじゃないのって」
ミリイの声は弱弱しかった。シムリはため息をつき、大きな布包みを手にとって開いた。
「この間貸したぼくのブーツ。きれいにしてくれたんだね」
シムリは打って変わって優しい声でピイに声をかけた。シムリの手には、ぴかぴかになったブーツが握られている。ピイはうなずかなかったが、マリイとミリイは驚いた顔をしてお互いを見た。
「ナリーのところに行ったとき、ブーツを貸したんだ。汚れてるからきれいにして返すってピイは言ってた」
しんとした。辺りで働いていた職人たちも、立ち止まってこの騒ぎを見ている。
「でも、その箱」
マリイが落ちている箱を指差した。
「君たち知らないの? それはピイの」
「わたしの小説よ!」
ピイはうつむいたまま叫んで、顔を上げた。その目は怒りに燃えていた。
「わたしは小説家よ。一所懸命シムリみたいな読者のために楽しい小説を書くの。わたしはこの仕事が誇りなの。大好きよ。わたしはさえないし、おどおど屋だけど、その誇りのために恥ずかしくない暮らしをしてるの。あなたたちみたいに人の悪口を言ったりしないわ。読者にがっかりされたくないから。あなたたちみたいにつまらないことで騒いだりしないわ。読者に馬鹿だと思われたくないから。わたしは小説家よ。苦しみながら頑張ってるの。人を苦しめて楽しんでいるあなたたちとは違うわ!」
ピイがこぶしを握ってぶるぶると震えていると、周りにいた職人たちがぱちぱち手を叩いた。
「あんたが正しいよ、ピイさん!」
「おれはあんたに大賛成!」
汚れた格好の職人たちがにっこり笑って拍手をし、指笛を鳴らした。ピイは我に返ってそれを見ると、途端に顔を熱くした。
「怒ってわめくのも、小説家としてのタブーだったんだけど」
「いいじゃない。ファンは何一つがっかりしてないよ。尊敬する小説家の桜の木ピイが、想像通り誇り高い人だとわかって嬉しいだけだ」
シムリはぴかぴかのブーツを抱き、本と鞄の残骸を大切に持っていた。にっこり笑っている。
「あ、桜の木ピイってあれか? 『百年の旅』書いてる」
職人の木を通りかかった肌色ねずみが目を輝かせてピイを見た。シムリがにやりと笑う。
「そうだよ。風船の国やあぶくの街や」
「迷路谷のなぞなぞねずみ! おれ大ファン!」
「前に言っただろ? 友達なんだ」
「本当だったのか」
肌色ねずみはごしごしとてのひらを服で拭いた。その手をそろそろとピイに差し出す。
「すみません、握手していただけますか?」
男はとても緊張している様子だった。ピイは微笑んで、その手を包んだ。
「わたしの本の読者の方が、シムリ以外にもこんなに近くにいたなんて」
「君はなかなか人気だよ。職人たちは君の書く物語が好きみたい。無骨で、創造的な話ばかりだからね」
シムリがそう言うと、ピイは嬉しそうに笑った。職人たちは次々と握手を求めてきた。ピイはその全てを受け止める。とても幸せなときだった。
マリイとミリイはことの成り行きを不満そうに眺めていた。目立ちたがり屋の二人は、他人がちやほやされるのは大嫌いだった。
「ピイの小説のどこがいいの」
ミリイがぽつりとつぶやくと、辺りは静まり返った。
「結局は無学な職人にしか好かれない、マイナーな小説なんでしょ? わたし、本屋で一度もピイの小説なんて見たことないもの。お父様はもっとまともなものをくださるわ」
マリイはぎくりとしてミリイをつついた。だが、もう遅い。職人街中の職人たちが双子をにらんでいた。
「無学?」
シムリが小さくつぶやいた。マリイがあわてる。
「いえ、あなたは違うわ。とてもユーモアがあって、上品だし、ハンサムだし」
ミリイは周りの男たちを馬鹿にしたように見回した。途端に飛び上がる。シムリが怒鳴ったのだ。
「職人たちはぼくの仲間だ! 馬鹿にする奴は許さない」
「シムリ」
マリイがおろおろと近寄ろうとする。シムリはそれを振り払った。
「ごめんなさい、シムリ、お願い」
ミリイはすでに涙を浮かべている。シムリは冷たく言い放った。
「もう君たちには会わない。ピイにも近寄らないでくれ」
「そんな。言ったのはミリイだけよ」
マリイが泣きじゃくって訴えると、ミリイがぱしん、とマリイの頬を打った。
「何するのよ!」
「うるさいわね! あんただって散々似たようなことやったでしょ!」
「ミリイはもっとひどくやったのよ。わたしの罪はミリイより軽いわ」
「何ですって!」
双子がいがみ合っているところに、シムリはうんざりと一言言い放った。
「帰ってくれ」
ミリイとマリイはそのときやっと、自分たちが職人街全体から鋭い目を向けられていることに気づいた。街は静まり返っている。水車のからからと回る音だけが、聞こえる。
「そもそも君たちを招待した覚えはないんだ。ぼくが初めて仕上げたあの家具は、ピイのために作ったんだから」
シムリの言葉にピイは驚いた。ミリイは涙を浮かべて歩き出し、マリイはすでに泣きながら走り出していた。つられてミリイも泣き喚き、帽子を飛ばして走り去った。
「やれやれ」
職人の一人がため息をついた。すると街全体がわれに返ったかのように動き出した。
「すごかったなあ」
「女は怖い」
「やっぱ金持ちのお嬢さんはなあ」
がやがやとした普段の活気を取り戻した街をあとに、ピイはシムリに手を引かれて職人の木の螺旋階段を上った。
木の匂いがする。何かを削る音がする。踊り場ごとに、ドーナツ型らしい工房のドアがある。五階、チミンの針金燈篭工房、六階、グアニンのねじ工房、七階、グイルの家具工房。
「さあ、入って」
開かれた、家具職人の工房らしからぬ素朴なドアの奥には、美しい家具がたくさん並んでいた。ベッド、飾り戸棚、椅子。一つだけ、他と雰囲気の違うものがある。
「あれを君にあげたいんだ」
ピイは言葉を失って立ち尽くす。それは机だった。広くて、引き出しに優雅なれんげの模様の彫りがなされたかわいらしい机だった。
「わたしのため?」
「うん、ほら、ここ見てよ」
白く光る机の裏に回ると、そこには「シムリ」という整った署名があった。その下には「ピイのために」という文字が彫られている。
「どうして?」
「単純に言うとね」
シムリは陽気に笑った。
「ナリーが素直になれって言うからその通りにしただけなんだ。ほら、君が小説家をやめるなんて言うから、とめたくて。これを贈ったらまた書いてくれるんじゃないかと思ったんだ」
ピイは目を伏せる。少し恥ずかしかった。
「ありがとう。わたし、本当に間違ってた。マリイやミリイみたいになりたいだなんて、つまらない憧れだったのよ。わたしは小説家だわ」
「うん。君は小説家だよ。君が一番好きなのは小説を書くことで、君が輝いてるのは小説を書いているからだとわかる」
「輝いてなんか、ないわ」
ピイが目をぱちぱちさせると、シムリがにっこり笑った。
「でも君が下で言ってることを聞いたら、もうすでに決心はついてるみたいだったから、無駄なことをしたのかな、って思ったよ」
「無駄なんかじゃない! とても嬉しいわ。こんな素敵なプレゼント。最初の作品なのに」
シムリがにっと笑った。ピイも涙を浮かべて微笑んだ。
「じゃあ、交換」
シムリがてのひらを出した。ピイが照れくさそうに、箱に入った本を差し出す。シムリはそれをそっと開く。
「やっぱり、ナリーの絵は最高だ」
表紙には二人のねずみの男女がいた。少年はかなづちを手にし、少女は本を読んで、れんげの森に座っていた。
「これは、ぼくらだ」
「最終巻にするのはやめたの。今回は家具職人の男の子とからくり時計の話なんだけど、ナリーが勝手に」
ピイは顔を熱くした。
「ぼくはうれしいよ。その家具職人のモデルはぼく?」
「ええ」
「やっぱり、すごく嬉しいよ」
シムリはページを開いた。一文字一文字を指でなぞり、ピイに笑いかける。しかし、すぐに小説の世界に入り込んでいった。
ピイはその間、シムリが作った机に触れていた。滑らかで、白くて、体に合わせて作ってあるような心地よさがあった。ピイは椅子を持ってきて机に寄りかかると、いつしか眠ってしまった。
「お嬢ちゃん」
突然、しわがれた声が夢の世界に飛び込んできた。はっと顔を起こして振り返ると、そこにはあちこちの毛がはげてしまったまだらねずみが立っていた。
「グイルさん!」
それは有名な家具職人でありシムリの師匠であるグイルだった。顔はしわでゆがみ、厳しそうだというよりは、恐ろしいという印象だった。
「この子か、シムリ」
グイルが振り向く。そこにはシムリが緊張した面持ちで立っている。今まで見たことのない真剣な顔だ。
「はい」
「見覚えがある。わたしの作った鏡台を買っただろう」
「ええ」
「ふうん」
グイルは考え込んだ。それからすぐに、シムリを振り向いた。
「まあいい。今回は許す。来年は言うとおりにしろよ」
グイルは冷たい目でシムリを見て、そのまま部屋の奥に消えていった。ピイは呆然としている。一体、何が何だかわからない。
「グイルさんは何を?」
シムリが頭を掻いて、苦笑いをした。
「いやね、親方、この机を品評会に出せって言うんだよ。なんせ初めて親方が認めたぼくの家具だからね」
「なら、出せばいいじゃない!」
ピイは悲鳴を上げた。この机がシムリの将来のためにそれほど重要なものだとは思ってもみなかった。だが、シムリはあっけらかんとしていた。
「品評会に出すと、『皆のもの』になっちゃうだろ? ぼくはそれが嫌でさ。だってこれは君のために作った机だ。君だけに持っていてほしい」
シムリの言葉の最後に、ピイは目を潤ませた。そして。うなずく。
「親方とも散々もめたけどね、この彫り込んだ『ピイのために』の人物しだいで許すって、そういう取り決めだったんだ」
「わたし、寝てるところをグイルさんに見られてしまったわ! どうしよう」
ピイが手で顔を覆って後悔していると、シムリがからから笑う声が聞こえてきた。
「いいってさっき言ってたろう」
「でも、ちょっと見ただけよ」
「見ただけで気に入ったんだろう。君は素敵なひとだから」
シムリがあっさりとそんな台詞を言うので、ピイは目を白黒させた。本当に、このひとはどうして平気でこんなことを言えるのだろう。
職人の木を降りる。下を覗くと螺旋が暗闇に吸い込まれていくように見える。
帰りはシムリが送ってくれることになった。破れた鞄は鞄職人に託して、シムリと並んで歩く。
今日は騒がしい日だった。でもその代わり、とても幸せな日だった。やっぱりシムリは素敵な友達で、ピイの天職は小説家だ。それがわかっただけでも満足だ。シムリへの気持ちは、封印してしまおう。友達でいられるだけでも幸福なのだから。
最後の階段を降りて、職人の木のドアを開く。細くて弱い夕方の光がピイの顔をまぶしく照らしたとき、シムリが唐突に言った。
「あの机を作っていて思ったんだけど、ぼくはピイのことが好きみたいだよ」
ピイはぽかんとシムリを見た。シムリは照れもせず、にこにこと笑っている。
「ああ、あと、今日の格好はとてもかわいいね。赤のワンピースなんて珍しいな。でもすごく似合ってる」
ピイは涙が溢れそうになった。顔が熱くてたまらない。
何故シムリは、こんなにもあっけらかんとこういうことを言えるのだろう?
《了》