結婚式で彼氏はみんなの前で私が「野種」を宿したと罵った。でもあの妊娠検査票は妹のものだった
桐生蓮司と付き合って、八年になる。
そのうち三年を費やして、私は彼のために一本の舞台脚本を書いた。『月影茶屋』というその作品は、汐ヶ浦市の百席にも満たない小劇場で燻っていた蓮司を、テレビドラマや映画の世界へ連れ出した。
いつか彼が俳優として賞を取り、その隣に私がいる。
そんな未来を、疑ったことはなかった。
けれど、花とカメラに囲まれた蓮司の隣に立っていたのは、私ではなく妹の藤崎美羽だった。
披露宴では、私のことを面白半分に囁く声があちこちから聞こえた。蓮司は一度も止めなかった。それどころか、私が身に覚えのない妊娠をした女だと、自分の口で話した。
きっかけは四か月前だった。
地方での仕事を終えて帰ってきた蓮司が、鍵をかけていた私の引き出しから一枚の産婦人科の検査結果を見つけた。
名前は、藤崎千景。
妊娠反応は陽性。
あの紙が、全部の始まりだった。
八年の恋も、美羽も、紗和の死も、そのあと私に起きたことも、気づかないうちに一つの場所へ追い込まれていった。
ただ、蓮司まであそこまで壊れることになるなんて、その頃の私はまだ知らなかった。
1
披露宴の最中、仕事用のスマートフォンにメールが届いた。
差出人は、新作ドラマ『ノルシアで、また会おう』のプロデューサーだった。翌月一日、脚本チームは汐ヶ浦国際空港から北欧のノルシアへ入り、北部の町ヴァルネで一年間、脚本開発と現地取材を行うことになっている。
星映プロダクションと海外チームが共同で進めている大型企画で、私にとっても大きな仕事だった。
メールの最後には、少しくだけた一文が添えられていた。
「秋月先生、一年も日本を離れたら、お相手の方が寂しがりませんか?」
秋月詩乃は、私が脚本を書くときに使っている名前だ。
返信画面を開き、披露宴会場の中央へ目をやった。黒いタキシード姿の蓮司が、柔らかな照明の下に立っている。周囲にはプロデューサーや監督、芸能事務所の幹部、スポンサー関係者までいた。
半年前まで、彼は小劇場を中心に活動する無名に近い俳優だった。
私は短く返信した。
「その人なら、今日は別の人と結婚式を挙げています。私のことまで気にしている暇はないと思います」
送信して、スマートフォンを伏せる。
披露宴では、司会に促されて二人が改めて誓いの言葉を交わしていた。
「桐生蓮司さん。これから先、藤崎美羽さんを人生の伴侶として尊重し、支え合って歩んでいくことを誓いますか」
「誓います」
迷いのない声だった。
答えているあいだも、蓮司の目は美羽だけを見ていた。
あの目を、私は八年間知っていた。
少し離れたテーブルから、抑えた声が聞こえてくる。
「後ろにいる人、新婦のお姉さんじゃない?」
「そうみたい。桐生さんの元カノなんだって」
「八年も付き合ってたんでしょ?」
別の女性がこちらをちらりと見た。
「でも、お姉さんのほうに問題があったって聞いたよ。桐生さんが地方に行ってる間に妊娠したとか」
「え、相手は?」
「それもはっきりしないらしいよ。病院の検査結果まで出てきたって」
呆れたような笑い声が混じる。
「それなら、美羽さんと結婚しても仕方ないんじゃない?」
私は水を一口飲んだ。
脚本を書いていると、他人の噂話に夢中になる登場人物を「こんな人、本当にいるのかな」と思うことがある。
いるのだ。
しかも、思っていたよりずっと近くに。
披露宴は、二人が各テーブルへ挨拶に回る時間になった。
美羽は白いドレスから、深い赤のカラードレスへ着替えていた。
その姿を見た瞬間、グラスを持つ手が止まった。
水野紗和が、私のために残したドレスだった。
紗和は親友で、同じ脚本家でもあった。
二年前、病気がかなり進んでいた頃には髪もほとんど抜け、指もひどく細くなっていた。それでも生地を選び、デザインに口を出し、自分でできるところは針まで持った。
病室の窓際で、完成したドレスを眺めながら笑っていた。
「千景の結婚式まで生きていられるか分からないから、先に作っとく。せっかくなら会場で一番きれいな格好しなよ。じゃないと、向こうで文句言うから」
結局、紗和は私の結婚式を見ることなく亡くなった。
ドレスはそれからずっと、自宅にしまってあった。
後になって知ったのだが、蓮司が荷物を運び出した際、あのドレスまで持っていっていたらしい。
誰が作ったものなのかも、何のために作られたのかも、蓮司は知っていた。
私はバッグを取り、席を立とうとした。
その前に、美羽がこちらへ来た。
「お姉ちゃん、もう帰るの?」
昔から変わらない、心配そうな顔だった。
美羽がこんなふうに目を伏せると、事情を知らない人はたいてい、先に彼女の味方になる。
「ちょっと胃が重いだけ。外の空気を吸ってくる」
立ち上がったところで、蓮司も追いついてきた。
「美羽」
自然な仕草で腰に手を回す。
「一人で先に行くなって言っただろ」
「だって、お姉ちゃんが具合悪いって」
そこで初めて、蓮司が私を見た。
「藤崎さん、体調が悪いなら早めに帰ったほうがいいんじゃないですか」
元恋人に向けるには、よくできた他人行儀な声だった。
少し間を置いて、口元だけで笑う。
「今日は、お子さんの父親は来てないんですね」
周囲の空気が止まった。
「それとも、誰を呼べばいいのか分からない?」
どこかで笑い声が漏れた。
私は蓮司の顔を見た。
半年前まで、この人は青灯劇場で、ほつれた衣装を着て舞台に立っていた。客席が十人にも満たない日だってあった。
その蓮司が世間に知られるきっかけになったのが、『月影茶屋』だった。
三年かけて書いた。
役の話し方も、癖も、立ち位置も、感情が一番映える間の取り方まで、蓮司に合わせた。
「桐生さんのおっしゃるとおりですね」
私は笑った。
「今日は制作会社やテレビ局、芸能事務所の方もたくさんいらっしゃいますし。体調が悪いくらいで邪魔をするのはよくないですよね」
蓮司の眉がかすかに動いた。
「『月影茶屋』でようやく小劇場から出られたんですから、せっかくこれだけ業界の方が集まっている機会、大事にしないと」
テーブルの周りが静まり返った。
少し離れた場所で、誰かが小さく呟いた。
「『月影茶屋』って、秋月詩乃の……?」
別の人がこちらを見る。
「藤崎千景って、秋月詩乃なの?」
さっきまでとは違うざわめきが広がっていった。
「あの役、桐生蓮司のために書かれたみたいだって言われてたよね」
「じゃあ、本当に彼女が……?」
「妊娠の話も、何か違うんじゃない?」
美羽の顔から血の気が引いていく。
蓮司はすぐに表情を戻した。
私はもう、どちらにも興味がなかった。
「安心して。ここで騒ぐつもりはないから」
バッグを肩に掛ける。
「まだ回ってないテーブル、たくさんあるでしょ。結婚おめでとう」
そのまま会場を出た。
ノルシアへ行くまで、あと一か月もない。
長い冬と雪原と、夜空いっぱいのオーロラが待っている。
こんな二人を眺めているより、防寒着を買いに行くほうがよほど有意義だった。
2
ホテルを出たあと、そのまま買い物を済ませた。
いくつか紙袋を提げて自宅へ戻った頃には、外はすっかり暗くなっていた。玄関の鍵に異常はなかったが、扉を開けた瞬間、部屋に誰かいると分かった。
背後から腕が回ってくる。
雪松の香りがした。
昔は好きだった。
今は、反射的に体がこわばる。
「千景」
蓮司だった。
「披露宴で言ったこと、少し言いすぎた。怒ってる?」
肘で強く押し返し、腕の中から抜ける。
「桐生さん、今日、結婚式だったよね」
その呼び方が気に入らなかったらしい。
顔から笑みが消えた。
「俺が美羽と結婚するのを見て、どうだった?」
後ろへ下がると、背中が壁に当たった。
蓮司が手首をつかむ。
「大勢の前で自分が秋月詩乃だって明かしたのも、俺に恥をかかせたかったからだろ。まだ気にしてるんじゃないのか」
顔が近づく。
酒の匂いがした。
「放して」
蓮司は手を緩めなかった。
もう片方の手がスカートの裾へ伸びてくる。
「蓮司。これ以上触ったら、警察を呼ぶ」
ようやく動きが止まった。
数秒後、蓮司は鼻で笑った。
「そういえば、おまえ今、妊婦だったな」
私の顔を覗き込む。
「父親には捨てられた?」
頬を打った。
乾いた音が部屋に響く。
蓮司は顔を横に向けたまま、しばらく動かなかった。
「今日は美羽との結婚式だったでしょ」
私は手首をさすりながら言った。
「その日に元カノの家へ来て、こんなことをしてる。これが記事になったら、せっかく作ったイメージも全部なくなるんじゃない?」
蓮司がこちらを向く。
「もう一つだけ覚えておいて。私はあなたと、もう何の関係もない」
目の奥に怒りが滲んだ。
「藤崎千景。そんな誰の子かも分からないもの抱えて、二度と俺の前に出てくるな」
そう吐き捨てて、蓮司は出ていった。
扉が激しく閉まる。
しばらく壁にもたれていた。
指の震えが収まってから、管理会社へ連絡して鍵の交換を頼んだ。この部屋は以前、蓮司と一緒に暮らしていた場所で、彼はまだ合鍵を持っていた。
今夜で、それも終わりにする。
照明を消し、窓際に座った。
あの妊娠検査の紙が出てきてから、全部がおかしくなった。
四か月前、蓮司は音楽映画の役作りのため、地方で生活しながら取材や練習をすることになった。なぜか美羽も、そのチームに同行した。
二人が戻ってきてから、空気が変わった。
以前の蓮司は、美羽の泣き落としや大げさな被害者ぶりを嫌っていた。
子どもの頃、美羽は階段から自分で転げ落ちて私のせいにしたことがある。私の犬をしつこく刺激して吠えられたあと、「お姉ちゃんが犬をけしかけた」と泣いたこともあった。
似たようなことはいくつもあった。
それでも私は、なるべく許してきた。
両親から、美羽は幼い頃に一度家族と離れ、長いあいだ苦労した子だと聞かされていたからだ。両親が亡くなってからは、姉である自分が支えなければと思っていた。
蓮司は昔、そんな私を「甘やかしすぎだ」と言っていた。
その蓮司が、地方から戻ってきた頃には、美羽を守る側に回っていた。
その時期、『月影茶屋』が大きく話題になり、私にも次々と新しい仕事が入っていた。
蓮司もいつか冷静になるだろう。
そんなふうに考えていた。
帰宅した翌日、彼は私の机の引き出しを開けた。
鍵は壊されていなかった。
鍵自体も、ずっと私が持っていた。
なのに、そこには私の名前が書かれた産婦人科の検査結果が入っていた。
しかもその少し前、胃腸炎と過労で体調を崩していた私は、産婦人科と内科が入った医療ビルへ行っている。
建物を出たところを、蓮司と美羽に見られた。
検査結果。
病院。
何日か続いていた吐き気。
それだけで、蓮司の中では答えができあがったらしい。
どうしたのかと聞かれることもなかった。
「八年間、俺を騙してたんだな」
そう言われた。
説明する気力をなくして黙った私を、彼は罪を認めたのだと思った。
今日の披露宴は、八年に区切りをつけるために出席しただけだった。
いずれにしても、私は汐ヶ浦を離れる。
星映プロダクションから正式な契約の話も来ている。『ノルシアで、また会おう』は、その最初の仕事になる。
紗和はよく言っていた。
「自分を苦しめる人に、時間を使いすぎないほうがいいよ」
昔は、少し冷たい考え方だと思っていた。
今は、その意味がよく分かる。
3
数日後、私は配信サービスStreamOneが主催する年間コンテンツアワードへ出席した。
新人脚本家の代表として、短いスピーチをする予定だった。
控室で原稿を確認していると、若いスタッフがやってきた。
「秋月先生、ドレスの背中が少し緩いみたいで。今、衣装さんが調整しています」
「分かりました」
イベント現場で衣装の修正が入ることは珍しくない。
そのまま原稿へ視線を戻した。
少しして、白いスタッフジャケットを着た女性が控室の前を横切った。
マスクをしていたが、ピンクブラウンの髪が目についた。
どこかで見た気がした。
けれど、思い出せないまま本番が始まった。
会場へ入ると、スタッフが星映プロダクション社長の佐伯美智子さんのところまで案内してくれた。
五十代半ばの彼女は、業界では知らない人のほうが少ないプロデューサーだ。
「秋月先生、思っていたよりずっとお若いのね」
笑いながら私を見る。
「星映に来たら、いい作品をたくさん書いてくださいね」
「期待を裏切らないように頑張ります」
短く話したあと、自分の席へ戻った。
いくつかの賞とステージが終わり、スタッフから出番が近いと告げられる。
ライブ配信も入っている。
報道関係者も多い。
さすがに緊張した。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面には三宅直人の名前が出ていた。
直人は幼い頃からの友人で、今は青浜市の大学附属研究機関で法医学と毒物分析に関わっている。
紗和が亡くなってから、どうしても病気の経過に納得できなかった私は、帰国した直人に当時のことを調べてもらっていた。
届いたメッセージは長かった。
「千景、紗和の件、たぶん普通の病気じゃない。昔飲んでいたビタミン剤から、特殊な植物毒の残留成分が出た。少量を長く摂取すると、神経や免疫系の病気と似た症状が出るらしい」
続けて、もう一通。
「昔の防犯映像も一部見つかった。紗和が青浜で一人暮らししてた時期、美羽が少なくとも二回、部屋に入ってる」
指先が冷たくなった。
紗和は二年前、珍しい全身性の疾患だと診断されて亡くなった。
治療の途中では慢性中毒を疑う医師もいたが、原因になるものは見つからなかった。
青浜で一人、脚本を書いていた頃。
紗和は美羽と激しく揉めている。
昔から二人は相性が悪かった。
紗和は何度も言っていた。
「美羽って、泣くのが上手いんじゃないんだよ。先に人を殴っておいて、自分のほうが殴られた顔をするのが上手いの」
学校のイベントで、美羽と言い争いになったこともある。
あの頃は、ただ互いに嫌いなのだと思っていた。
「それでは続いて、新人脚本家代表、秋月詩乃さん――藤崎千景さんです」
名前を呼ばれた。
佐伯さんが心配そうにこちらを見る。
「大丈夫?」
「はい」
スマートフォンをしまい、席を立った。
舞台袖へ向かう途中、背後から誰かにぶつかられた。
直後、背中が軽くなる。
ドレスを固定していた留め具が外れ、上半身の布がずり落ちた。
慌てて胸元を押さえる。
配信カメラはすでにこちらを向いていた。
映像はすぐに別のカメラへ切り替わったが、客席では何台ものスマートフォンが持ち上がっていた。
後ろへ下がった拍子に裾を踏み、舞台の端で転ぶ。
スタッフが駆け寄ってくるより早く、一人の女性が通路から飛び出してきた。
手にはバケツを持っていた。
「この泥棒猫!」
悪臭のする液体が頭からかかる。
「人の夫に手を出して、妊娠までして離婚させようなんて!」
消毒薬と汚物が混じったような匂いが鼻を突いた。
女性は私の髪をつかみ、頬を叩いた。
「よく見て! こんな女が脚本家代表だって!」
警備員が近づく。
女性はバッグからカッターナイフを取り出した。
「来ないで! 近づいたら、この女も一緒に刺すから!」
腕を引かれ、足元がよろける。
その肩越しに、舞台袖が見えた。
美羽が立っていた。
一瞬だけ、女性と目が合う。
そこで思い出した。
さっき衣装室の近くで見た、ピンクブラウンの髪。
美羽が大学時代、よく一緒にいた友人だった。
ドレスの留め具は、偶然外れたわけではない。
4
「黒川さん。そこまでにしたほうがいい」
聞き慣れた声がした。
蓮司が歩いてくる。
最近、StreamOne出資のドラマに何本か出演していたから、今日のイベントにも招かれていた。
姿を見た瞬間、私はほんの少し期待した。
どれだけ関係が壊れていても、八年間は消えない。
まず助けてくれる。
そう思ってしまった。
蓮司は私の前まで来た。
そして、そのまま横を通り過ぎた。
向かったのは美羽のところだった。
自分のジャケットを脱ぎ、彼女の肩へ掛ける。
ずぶ濡れになり、ドレスもまともに着られていないのは私なのに。
蓮司はこちらを確認すらしなかった。
「黒川さん、こんな女のためにあなたまで警察沙汰になる必要はないですよ」
落ち着いた声だった。
「今日はStreamOneのイベントです。これ以上、会場を荒らすのはやめましょう」
そこで、胸の奥に残っていたものが切れた。
女性の注意が蓮司へ向いた隙に、警備員が腕を取り押さえた。
スタッフが厚手のコートを持ってくる。
配信は中断され、会場の進行も止まった。
その騒ぎの中で、蓮司の視線が私の腰へ落ちた。
そこには、大きな傷痕がある。
七年前。
まだ蓮司が小劇場にいた頃、終演後に酔った客が割れた瓶を持って彼へ向かってきた。
私は反射的に前へ出た。
ガラス片は腰に深く刺さった。
病院で目を覚ましたとき、蓮司はベッドの横に膝をついて泣いていた。
「千景。俺の命、おまえにもらったようなもんだから」
今も傷だけは残っている。
蓮司の表情がわずかに揺れた。
けれど、それだけだった。
助理から別のロングコートを受け取り、私の近くへ置く。
「それ、着れば」
もう一度、黒川夫人のほうを向いた。
「黒川社長と奥さんは長いあいだ一緒に会社を支えてきたんです。奥さんがここまで怒ったのも、自分の家庭を壊されると思ったからでしょう」
美羽も目を潤ませながらしゃがみ込む。
「お姉ちゃん、どうして人の家庭にまで入っていくの?」
私は美羽を見た。
直人から届いたメッセージが、まだスマートフォンの中に残っている。
紗和の薬から出た毒物。
美羽が部屋へ出入りしていた映像。
さっき、黒川夫人と交わした目。
もう、姉として庇う理由は見つからなかった。
警察と救急が到着し、イベントは一度中断された。
私のスピーチは中止になり、処置を受けるため控室へ戻された。
舞台袖を通ったとき、美羽はすでに次の出演用の衣装に着替えていた。
首には特注のネックレスをつけている。
蓮司が結婚式前にデザイナーへ注文したものだと聞いていた。羽をモチーフに、美羽の名前からデザインしたらしい。
ほどなくして、美羽がステージへ出た。
「先ほどはお騒がせして申し訳ありませんでした。新人の私を支えてくださる皆さんに、心から感謝しています。これからもっと頑張ります」
深く頭を下げる。
カメラが彼女を映したあと、客席の蓮司へ切り替わった。
画面の中だけ見れば、騒動に巻き込まれながらも支え合う新婚夫婦そのものだった。
私は借りたコートを着たまま、裏口から会場を出た。
外の風に当たったとき、付き合い始めた頃のことを思い出した。
二人で古い城跡を見に行ったことがある。
蓮司は風に吹かれながら言った。
「派手な人生じゃなくていいんだよ。俺は好きな人をちゃんと大事にできれば、それでいい」
当時の私は、そういうところが好きだった。
今となっては、ずいぶん昔の声に聞こえる。
5
翌朝には、私の名前が複数のニュースサイトとXのトレンドに上がっていた。
「不倫」「妊娠」「イベント騒動」。
配信そのものは途中で切られていたが、客席から撮影された動画はすでに広まっていた。
体にはぼかしが入っている。
顔はそのままだった。
しかも拡散された動画の多くは、ドレスが落ちた場面と黒川夫人が駆け込んでくる場面だけをつなげていた。
いつの間にか、「妻が愛人の服を引きずり下ろした」という話にまで変わっている。
黒川社長は東都芸能の幹部だ。
以前、仕事の交流会で一度会った。
私に少し踏み込んだ誘い方をしてきたことはあったが、話を逸らして断った。
それきりだった。
美羽は、そのことをどこかで知ったのだろう。
黒川夫人が夫の女性関係に敏感なことまで。
コメント欄には好き勝手な言葉が並んでいた。
「こんな人が純愛ドラマ書くの?」
「父親不明の子を妊娠して、今度は既婚者?」
「星映、この人と契約するの?」
『ノルシアで、また会おう』の公式アカウントにも、脚本家を変更してほしいという投稿が増えていった。
制作委員会が無視できる規模ではなかった。
午後、海外滞在の延期を知らせるメールが届いた。
文章は丁寧だった。
現在の報道状況を考慮し、第一陣への参加を一度見送る。
それだけだ。
責められもしなかった代わりに、事情を聞こうとする人もいなかった。
大学時代のグループチャットでも、私のニュースが話題になっていた。
「どうやったら金持ちの男を二人も引っかけられるの?」
わざわざ私をタグ付けする人までいた。
そのままグループを抜けた。
今は、そんなことに構っている場合ではない。
直人と連絡が取れなくなっていた。
最後に話したとき、紗和の毒物についてもう少し調べると言っていた。
私は荷物をまとめ、青浜行きの便を取った。
空港へ着くと、入り口にはすでに記者が待っていた。
「藤崎千景さん、黒川社長との関係について説明していただけますか?」
「『ノルシアで、また会おう』の海外参加が延期になったのは、制作側の判断ですか?」
次々とマイクが向けられる。
「ネットで出回っている妊娠検査の画像には、加工の痕跡がないという話もあります。妊娠そのものは事実だったんでしょうか?」
前へ進めなくなった。
周りには、立ち止まってスマートフォンを向ける人まで増えていく。
そこへ大柄な男が割って入った。
「ここ空港ですよ。取材するなら、人が通れるくらいの場所は空けてください」
大庭圭吾だった。
蓮司とは昔からの知り合いで、売れ始めてからは運転や現場の付き添いもしている。
記者を押しのけるようにして、私を駐車場の裏手へ連れていった。
カメラが見えなくなると、圭吾は距離を取った。
「藤崎さん、奥へどうぞ」
足を止める。
「誰がいるの?」
「蓮司」
踵を返した。
その瞬間、近くの車のドアが開いた。
伸びてきた手に腕をつかまれ、そのまま車内へ引き込まれた。
6
「助け――」
声を出し切る前に、蓮司が唇を塞いだ。
肩を押し、顔をそむける。
「やめて!」
後部座席へ押しつけられたまま、必死に距離を取る。
蓮司の呼吸は荒かった。
「千景。会いたかった」
額を私の肩に押しつける。
しばらくして顔を上げた。
「子どものことは、もういい」
何を言っているのか分からず、黙って見た。
「病院で堕ろしてきてくれ。そこまでしたら、今までのことは俺も忘れる」
私の顔をまっすぐ見る。
「前みたいに戻ればいい」
あまりにも当然のことのように言うので、一瞬言葉が出なかった。
力が少し緩んだ隙にバッグへ手を入れ、防犯スプレーを取り出した。
蓮司の目元へ噴射する。
「っ……!」
手が離れた。
私はすぐ車の端へ移動した。
「蓮司、どこからそんな話になるの?」
ドアを引く。
ロックされていた。
「美羽と結婚式までしておいて、今度は私に戻れって? 私を何だと思ってるの」
蓮司は濡れたティッシュで目元を拭いた。
「青浜に行くんだろ」
赤くなった目でこちらを見る。
「記者が何日も空港に張ってるって話は、もう業界中に回ってた。おまえが今日出るって聞いたから、圭吾を行かせただけだ」
私は黙った。
蓮司は背もたれへ寄りかかる。
「俺さ、ずっとおまえのこと憎んでるんだと思ってた」
少し息を整える。
「でも、こんなふうに全部なくしていくの見てたら……そのうち俺のところに戻ってくるんじゃないかって思った」
私は何も言わなかった。
「美羽とはもう式までやってる。今さらすぐ別れるなんてできない。世間だってあるだろ」
目を合わせる。
「仕事も、もういいじゃん。子どものことを片づけて、俺が面倒見るから」
「どうやって?」
蓮司は答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「愛人になれってこと?」
眉をひそめる。
「そんな言い方するなよ」
「じゃあ、何て言えばいい?」
思わず笑った。
「結婚した元彼が、こっそり養ってくれるって?」
車内で揉み合った拍子に旅行バッグが床へ落ちた。
服や資料、菓子が散らばる。
洋酒入りのチョコレートが、蓮司の足元へ転がった。
彼が拾い上げた。
「何でこんなの持ってるんだ」
「何が?」
「妊娠してるのに、酒入りのチョコなんて食べるなよ」
何秒か、蓮司の顔を見た。
もう怒る気力すら湧かなかった。
7
あの検査結果を見つけられる少し前、私は確かに何日か体調を崩していた。
吐き気、めまい、食欲不振。
地方にいた蓮司へ、電話で愚痴をこぼしたこともある。
診察の結果は、胃腸炎と過労だった。
けれど蓮司が戻ってきた頃には、私の名前が入った妊娠検査の紙が用意され、美羽が横で意味深なことを言っていた。
八年も一緒にいた。
せめて私がどんな人間かくらい、知っていると思っていた。
期待しすぎていたらしい。
床に散らばったものをバッグへ戻す。
「大学時代の知り合いに産婦人科の医者、いたよね。私が本当に妊娠してたかどうかなんて、本気で調べる気があれば分かったはずだよ」
蓮司は何も言わない。
「もう、証明する気もないけど」
ファスナーを閉めた。
「鍵のかかった引き出しに突然出てきた紙のほうを、八年一緒にいた私より信じた。それで十分」
顔が強張っていく。
「一つだけ聞いていい?」
「何だよ」
「今さら私に戻れって言うのは、藤崎千景が必要だから?」
そこで言葉を切る。
「それとも、秋月詩乃が必要だから?」
蓮司の目が揺れた。
答えを聞くまでもなかった。
「最近、仕事は増えたよね。でも、評判のいい作品はそんなに多くない」
蓮司は黙っている。
「『月影茶屋』がどうして蓮司に合ったのか、分かってるでしょ」
顔を上げるのを待ってから続けた。
「私は、あなたの得意な表情も、台詞のテンポも、どんな役なら欠点が目立たないかも知ってる。だから、秋月詩乃が欲しいんだよね」
指がゆっくり握られていく。
「これからも、自分のために書いてほしいんでしょう?」
否定はなかった。
ドアロックを解除する。
「だったら、話すことないよ」
降りる前に振り返った。
「StreamOneのイベントで、私のドレスは誰かに細工されてた。黒川さんが来たのも偶然じゃない」
蓮司の顔が険しくなる。
「それに、紗和のことも調べてる。美羽と関係があるかもしれない」
「また美羽のせいにするのか?」
「調べるって言っただけ」
車を降りた。
「千景!」
足を止める。
「黒川社長と何もないことくらい、俺は分かってる」
思わず振り返った。
「分かってたのに、あの日何も言わなかったんだ」
蓮司は答えなかった。
それで十分だった。
歩き出そうとすると、もう一度声が飛んできた。
「紗和は病気で死んだんだろ。美羽がそんなことするわけない」
少し間を置いて、早口になる。
「それに、俺と美羽は婚姻届を出してない。式をやっただけだ。法律上は夫婦じゃない」
何かを期待するような目だった。
「そう」
私はバッグを持ち直した。
「それも、もう私には関係ないよ」
そのまま空港へ戻った。
8
青浜に着くと、私はそのまま大学病院へ向かった。
搭乗直前に届いた直人の最後のメッセージには、一週間意識を失っていたと書かれていた。
病室へ入ると、体のあちこちに固定具と包帯が巻かれている。
「千景のほうが入院患者みたいな顔してる」
直人が苦笑した。
「誰にやられたの?」
笑みが消える。
紗和が亡くなったあと、青浜で借りていた部屋はすでに片づけられていた。まともな資料はほとんど残っていなかったらしい。
それでも直人は何度か現地を調べ、古いカーペットの隙間から、湿気たビタミン剤のカプセルを一つ見つけた。
分析すると、珍しい植物由来のアルカロイドが検出された。
急性毒性は強くないが、少量を長期間摂取すると神経系や免疫系へ障害が出る。
紗和の症状と一致していた。
「原料になる植物は嶺森の山にある。研究機関なら扱うこともあるけど、普通に買えるものじゃない」
「買った人まで追える?」
「そこを調べてた」
直人は一度、水を飲んだ。
「防犯カメラも残ってた。紗和が一人で青浜にいた時期、美羽が二回、部屋に入ってる」
そのあと、毒物の専門家や研究者へ確認を取った。
さらに原料の流通を調べ始めたところで、直人は帰宅途中に襲われた。
「意識なくなる前、誰かが電話してた」
「何て?」
「『頼まれたことは終わった』って」
私は何も言えなくなった。
紗和は最期の数か月、ずっと痛みに耐えていた。
それでも病室で、私の仕事の心配をしていた。
もし、美羽と揉めた原因が私だったのなら。
今さら怒りに任せて動くわけにはいかない。
「今ある資料、全部コピーして」
直人がこちらを見る。
「千景、自分で危ないことするなよ」
「分かってる」
資料を受け取った。
それから半月ほど、私は青浜に残った。
直人の回復を待ちながら、正式な調査業者へ毒物の流通経路を追ってもらった。
嶺森周辺では、以前から希少植物の違法採取が問題になっている。
取引件数そのものは多くない。
だからこそ、記録が見つかれば追いやすい。
少しずつ手がかりが集まってきた。
直人も歩けるようになった頃だった。
病室の外から、怒鳴り声が聞こえた。
「おまえ、千景とどういう関係なんだよ」
扉を開ける。
蓮司が、直人の病衣の胸元をつかんでいた。
9
直人はまだ完全には回復していない。
強く引かれた拍子に咳き込んだ。
私は二人の間に入った。
「何してるの?」
蓮司は私を見ず、直人を睨んでいた。
「何日もいなくなって、ずっとこいつのところにいたのか?」
直人が言い返そうとする。
腕を押さえた。
「直人、いいから」
それから蓮司を見る。
「いつまで続けるつもり?」
「一緒に住んでるのか?」
「直人は入院してる。私は青浜に残ってただけ」
「同じだろ」
その言葉を聞いて、逆に頭が冷えた。
「全然違うよ」
直人の呼吸が落ち着くのを待つ。
「それより、私が誰と会おうが、どこにいようが、蓮司には関係ない。美羽と結婚式までして、私を裏切り者扱いしたのも自分でしょ」
蓮司の表情が歪んだ。
「今になって、私が誰といるかを聞きに来るほうがおかしいよ」
直人がベッドへ腰を下ろした。
私は少し距離を取る。
「こういう蓮司を見てると、昔どうして八年も一緒にいられたのか、自分でも分からなくなる」
顔から血の気が引いた。
「昔はそんな言い方しなかった」
「昔?」
「俺の味方だっただろ」
声が低くなる。
「何があっても最後は分かってくれた。ずっと好きだって言ったじゃないか」
過去の自分がしてきた我慢が、急にひどく滑稽に思えた。
この人はたぶん、本気で信じている。
どんなことをしても、私は最後には戻ってくると。
「昔の話だよ」
蓮司が手を伸ばす。
一歩下がった。
「触らないで。次は警備を呼ぶ」
手が止まる。
私はスマートフォンを取り出した。
「ちょうど見せたいものがある」
調査会社が見つけた、数か月前の防犯映像だった。
妊娠検査の紙に記載されていた日、美羽が帽子とマスクをつけて、該当するクリニックの入った建物へ入っている。
数時間後、産婦人科のある階から降りてきた姿も残っていた。
その後の日付にも、同じ建物へ出入りしている。
蓮司が画面を見つめる。
少しずつ顔色が変わっていった。
「これ……何だよ」
「検査結果に書かれていた名前は藤崎千景」
スマートフォンを引く。
「でも、病院へ行っていたのは美羽だった」
口がわずかに動く。
「どうして……」
「本人に聞けば」
直人の腕を支えた。
「検査行こう」
病室を出た。
「千景!」
廊下まで追ってくる。
「俺、美羽とは婚姻届出してないから!」
周りの患者や看護師が振り返った。
警備員もこちらへ向かってくる。
蓮司はそこでようやく、自分が人目のある場所にいることを思い出したようにマスクを上げた。
私は振り返らなかった。
人からどう見られるかを誰より気にするくせに、やることだけは毎回、一番目立っている。
10
三日後、美羽の名前が芸能ニュースを賑わせた。
発端は、数か月前に撮影されたホテルの共用部の防犯映像だった。
大手制作会社や芸能事務所、スポンサー向けの企画説明会が開かれていた夜、美羽は複数の関係者が宿泊するフロアを歩き、何人かの部屋を訪ねていた。
最後に一つの部屋へ入り、かなり時間が経ってから出てきたところまで残っていた。
それだけで十分だった。
清純派として作られていたイメージは、一気に崩れた。
女性タレントの中からも、仕事を得るための私的な関係を「努力」や「処世術」として持ち上げることに否定的な声が出た。
いくつかの番組と広告も、すぐに起用見合わせを発表した。
映像を週刊誌へ渡したのは、黒川社長だった。
後日会ったとき、隠す気はなさそうだった。
「この前の件、妻が完全に思い込まされていた」
コーヒーを置く。
「あなたとのやり取りを切り取った画像や、行動予定、妊娠の話まで送られてきたらしい」
「美羽が?」
「そこまで追って、ようやく分かった」
黒川社長は不機嫌そうに息を吐いた。
「妻を利用されて、うちの会社まで騒ぎに巻き込まれた。放っておく理由はない」
蓮司が売れ始めれば、自分にも自然と仕事が来る。
美羽はそう思っていたらしい。
けれど蓮司は、ようやく名前が知られ始めた俳優でしかない。
役や仕事を自由に動かせるほどの力はなかった。
美羽は待てなくなった。
そこで、別の道を探した。
その頃、もう一つの事実も知ることになった。
美羽は、私の実の妹ではなかった。
幼い頃に亡くなった実妹がいて、両親はその後、美羽を養子として迎えていた。
私にはずっと、「幼い頃に家族と離れ、後になって戻ってきた子」だと説明していた。
母が亡くなる直前、初めて本当のことを聞いた。
「血がつながってなくても、一緒に暮らし始めた日から、あの子はうちの子だから」
そう言っていた。
私も、同じつもりだった。
学校のことも、生活費も、服も、習い事も。
両親がいなくなったあとも、できることはしてきた。
だから今さら、姉として何かが足りなかったのではないかと考える気はなかった。
調査会社からは、嶺森周辺で行われた不審な取引の記録も届いた。
偽名が使われていたが、配送記録や決済に使われたアカウント、連絡先の一部が、美羽が以前使っていた情報とつながっていた。
直人が毒物分析の資料をまとめる。
私たちは、それまで集めたものを警察へ提出した。
そこから先は、もう個人で踏み込む領域ではない。
11
警察が紗和の死亡について改めて調べ始めると、手がかりは次々に出てきた。
美羽が以前使っていた端末のバックアップには、毒物の代謝時間や、長期間摂取した場合の症状について調べた履歴が残っていたという。
違法な原料の売り手とやり取りした記録も、一部復元された。
StreamOneのイベントで起きた衣装トラブルや、黒川夫人へ情報を渡した経緯についても、美羽とあのピンクブラウンの髪の女性との連絡履歴から調査が進んだ。
さらに、警察が蓮司と美羽の使っていた部屋を調べた際、鍵のかかった一室が見つかったと聞いた。
家具はほとんどない。
代わりに、壁一面に私の写真が貼られていた。
蓮司との昔の写真。
雑誌やネットに出た仕事中の写真。
遠くから撮ったとしか思えないものまであったらしい。
担当者から見せられた画像を見ても、美羽が私を憎んでいたのか、それともずっと私と競い続けていたのか、最後まで分からなかった。
ただ、どちらでもよかった。
紗和が受けた苦しみまで消えるわけではない。
世間の反応も変わっていった。
私を罵っていた投稿は次々に消え、一部の人は謝罪した。
何も言わず、最初から無関係だったような顔をする人もいた。
もう確認しなかった。
私は警察の事情聴取のため、汐ヶ浦へ戻った。
その頃、美羽はネット上で住所を突き止められ、押しかけてきた人たちとの騒ぎで怪我をし、入院していた。
数日後。
美羽が病院から警察へ移される予定だというニュースが流れた。
その日の午後、宿泊先のテレビをつけると、病院前からの中継映像が繰り返し流れていた。
帽子とマスクをつけた男が、規制線の外から飛び出す。
蓮司だった。
警察官と職員に付き添われて出てきた美羽へ、一気に詰め寄る。
止められるより早く、両手が美羽の首にかかった。
「おまえだ」
中継映像の音声にも、声が入っていた。
「おまえが千景を追い出した!」
警察官が二人を引き離す。
蓮司は外套から折りたたみ式の刃物を取り出した。
「刃物を捨ててください!」
何度も警告する声が響く。
蓮司は従わなかった。
もう一度、美羽へ向かおうとする。
前に立った警察官へも刃物を振った。
次の瞬間、乾いた音がした。
蓮司の体が地面に崩れる。
映像はそこで切り替わった。
その日の夜、搬送先の病院で死亡したと報道された。
翌日から、テレビではいろいろな人が蓮司について語っていた。
後悔で壊れたのだと言う人。
自分の選択の結果だと言う人。
私には、どちらでもよかった。
取材は断った。
病院にも行かなかった。
少し前、佐伯美智子さんから連絡をもらっていた。
StreamOneのバックヤード映像には、私のドレスが置かれていた場所へ不審な人物が入る様子が残っていた。星映プロダクションも、黒川社長との噂を事実だとは考えていなかったという。
『ノルシアで、また会おう』の海外取材も、中止ではなかった。
日程が少し後ろへずれただけだった。
数日後、新しい航空券が届いた。
出発の日、汐ヶ浦には朝まで雨が降っていた。
空港の大きな窓から見える滑走路が、陽の光を反射している。
直人からメッセージが来た。
「ノルシアから戻っても、もう汐ヶ浦には住まないの?」
私は短く返した。
「うん」
この街には、あまりにも多くのものが残っている。
八年の時間。
両親と暮らした家。
紗和のことも、美羽のことも、蓮司のことも。
忘れるつもりはない。
だからといって、もう一度ここで答えを探すつもりもなかった。
搭乗案内が流れる。
スマートフォンをしまい、キャリーケースを引いてゲートへ向かった。
ヴァルネは、ノルシアのいちばん北にある町だ。
冬は長く、雪原は地平線まで続く。
晴れた夜には、木造の家の外からでもオーロラが見えるらしい。
窓の向こうで、一機の飛行機がゆっくり滑走路へ進んでいく。
私はその先にある、まだ見たことのない夜空を思い浮かべながら歩いた。




