私だけの人生
その男性は、お見舞いには来るものの、ひとことふたこと言葉を交わした後は所在なげにベッドサイドでスマホをいじるか退屈そうに座るままで、時間になるとそそくさと帰るだけの人だった。
手術を受けた奥さまの身体をいたわるでも労うでもなく、励ましの言葉もなく。何なら差し入れひとつ持ってくるでもない。
看護師たちの間では「役に立たないダンナの教科書」と揶揄される程に有名だった。
奥さまであるその患者さんにそれとなく尋ねてみると、
「結婚した頃はそうでもなかったんだけど…7年も一緒にいたらこんな感じになるのかしらね。」
と諦めたような表情でため息をついていた。
残念なことに、ご夫婦の間にお子さんを授かる前に子宮頸がんを患ってしまったため、今後は妊娠も出産も望めなくなってしまった。
広汎子宮全摘術を受けた方に良く出現する排尿障害はなく、リンパ節郭清に伴う下肢の浮腫も今のところは見られなかった。
身体は順調に回復しているにも関わらず、彼女の表情が晴れることが少ない理由は、このダンナさんにあると誰の目にも明らかだった。
「そろそろ退院に向けて外泊してみましょうか。」
「外泊、ですか。」
「退院後の生活を想定して、困ったことや大変だったことを洗い出すための…いわば予行演習ですね。」
「そうですか…。わかりました。」
この時、私たちはある確信を持っていた。
喜びや希望といった表情があまり見られない…つまり、この外泊、ひいては退院に不安を強く感じている、と。
外泊前に、ご家族にも注意点を一緒に聞いてもらうのだが…そのダンナさんはあからさまに他人事である、という態度だった。
「これまでと違い、奥さまは体力が落ちていますし長時間の立ち仕事も危険です。休みながら少しずつ、ご家族にも手伝っていただきながら…」
「え?でも普通に歩けるじゃないですか。」
「短時間歩くだけ、と何かをしながら長時間、とは同じと思わないでください。短距離走とマラソンを同じ扱いするようなものですよ。」
「でもさぁ…家事なんて誰でも出来ることなんだし、家から出るんでなければそんなに体力使わないだろ?リハビリだと思って…」
「ダンナさん。開腹手術、舐めてますか?」
「へ?」
「腹かっさばいた後にこの短期間でそんなに色々出来るんなら誰も苦労しませんよ。ご自分で経験もないのにそのように仰るのはどうかと思いますが。」
ついつい本性と本音がこぼれてしまった。
しかし、ここまで無言だった彼女がクスリと笑みをこぼした。
「そうですね…自分の体力と相談しながら今後のことを考えて外泊してきます。」
「そうですね。これからの人生長いんですから、どう過ごしたら楽しめるか考えてきてくださいね!」
二人で微笑みながら交わす会話を面白くなさそうに聞き流すダンナさん。
だが、この時はまだ真のモンスターの存在に気付いていなかった。
彼女が帰院してくる予定の、その日。
突然外来から電話が入った。
『すみません、外来ですけど、そちらの入院患者さんが玄関先で倒れて…!』
「今すぐ迎えに行きます!ストレッチャーですか?車椅子でも…?」
『車椅子…いや、ストレッチャーで。ちょっと色々あるんで…!』
色々ってなんだ…?と訝しみながらもスタッフ二名でストレッチャーを持っていくと。
「なんだい、こんな身体が弱いなんて話が違うじゃないか!だいたい子どもも産めなくなったくせに家事すらまともにこなせないなんて、ホントに不出来な嫁だね!」
「お静かにお願いします!他の患者さんにご迷惑です!」
「アタシはうるさくなんてしてないよ!この出来損ないが悪いんじゃないか!だいたい倒れたのだってどうせ仮病に決まってんだ!そうでなきゃ…」
「はい失礼しまーす患者さんこちらですね!バスタオル敷きますよー、あ、外来の!ありがとうございます、三人ならいけるかな?はい、いち、にー、さん!」
うるさいババ…んんっ、老女に割り込んで、スタッフ三人で彼女を床からストレッチャーへと持ち上げる。
老女はさておき…あんな離れた所にいたな、クソダンナ…もといダンナ。
「これから病棟に上がりますけど、そちらの方と一緒に来るのはご遠慮ください。他の患者さんの迷惑になりますので。」
「えっ、何で」
「わからないなら余計にここでお待ちください。患者さんの状態が落ち着き次第、お話を伺いに参ります。」
「ここまで越させた挙句に待たせるつもり?!」
「あなたに来てくださいとは、こちらは申し上げておりません。なんならお帰りいただいて構いません。」
「なっ!…仕方ない、待ってればいいんだろ!」
「お静かにお待ちくださいね。」
意識はあるのに、ぐっと目を閉じたまま細かく震える彼女に声をかけながらエレベーターへ向かう。
「もう大丈夫です。お部屋に着いたら休みましょうね。落ち着いてから、少しお話ししましょう。」
「……、すみません………。」
か細い声で答える彼女にポンポン、と、背中を軽く叩いた。
彼女が部屋で落ち着いた頃合いに、外来の待合へ向かい、待ちぼうけの二人を面会用の小部屋へ案内した。
「で。こちらは?どちらさまですか。入院中にはおいでになってませんよね?」
「俺の母親です。」
「この子の嫁が不甲斐ないからついてきてやったのにこんなに待たせて…。」
「まず。こちらに何故入院したのか、どういう治療をしたのか、ご存じですか?」
「子宮がんなんだろ、売女がかかる病気だって言うじゃないか!うちの子を騙して勝手に病気になるなんて…」
あー。うん。精神的にぶっちめたい。けどまだまだ我慢。頑張れ私。
「それ、どこ情報ですかね?あなたのような方に病棟に来られると他の患者さんの迷惑になるって申し上げたはずですけど。というか…全患者さんから恨み買いますよ。」
「な。」
「婦人科には同じ病気の方がたくさんおられます。…ダンナさん。あなたのお母さんに何をどんな風に伝えたんですか?」
「え?病気になったことと手術したって言ったけど。」
「それがどうして今のような認識になったのか…これ、ダンナさんも同じ認識だとしたら奥さまがどう思われるでしょうね?」
「良いじゃないか、離婚してやるって言えば良いんだよ!子どもの産めない女なんて欠陥品なんだから…」
「ちょ、母さん!」
あ、一応止めはするんだ。
「とにかく今日はこれでお引き取りください。具合悪くなった原因が、よーくわかりましたので。」
「えっ!何で…!」
「詳しく知りたいのであれば、お一人でいらしてください。あ、そちらの義理のお母様は今後もご足労くださらなくて結構ですから。」
「もう来てやるもんか!こんなところ、こっちから願い下げだよ!」
「ありがとうございます。それではお疲れさまでした、お気を付けて。」
早々に二人を追い返…お引き取り願うと急いで病棟に戻った。
彼女の部屋では、主治医と主任がちょうど外出中の話を聞いていた。
「え、つまり何、あなた、外泊中、ずっと家事やってたの?!」
「あの…家の中、ゴミ屋敷一歩手前で…」
「「あのダンナが既にゴミ…!」」
「横になって休みたくても…その…義母が」
「「ゴミが増えた。」」
「…っ、ふっ、ふふっ!」
途中からそっと加わった私と主任のシンクロに、ようやく彼女の笑顔がこぼれた。
ホッとした拍子に主治医が振り返って言った。
「今回の倒れた原因は明らかだね。退院するにも調整が必要だ。あの家に返したらまた倒れるな。」
「そうですね。ソーシャルワーカーさんに連絡します。」
そう返事すると、主任は部屋を出ていった。
私はベッドサイドによると彼女の手を取った。
「外泊して、色々とおわかりいただけたかと思います。…どうしますか?」
「…私。あの家には帰りません。実家を頼ろうかと思います。」
「思うところはたくさんおありだと思います、でも何よりもご自身を大切になさってください。だって。」
「「せっかく手術したんだもの。」」
二人で目を見合わせると、ふふっ、と笑い合ってしまった。
その後、彼女の実親たちが現れて経過を聞いて激怒し、退院日には彼女をダンナさんの目の前で掻っ攫うように実家へ連れ帰った。
その後のフォロー受診の何度目かでは名字が変わっていたそうで、私たちはこっそりとガッツポーズを取ったのだった。
そして、彼女のケースをきっかけに婦人科での退院指導の内容が少し変更された。
一般的な術後の退院指導においては、たいてい「回復に向けて積極的に動くようにしましょう」といった内容が含まれている。傷の痛みや体力の回復に対する不安から動かずにいるために、体力や関節などの動きが悪くなる人が少なからずいるためだ。
だが、婦人科においては逆の方向へと説明するようになった。
「体力の低下をきちんと把握して、無理なく自分のペースで回復に努めるようにしましょう」
社会は、そして家族の如何によっては、その女性が「体調不良かどうかに関わらず」その役割を果たすことを求めがちである、というのを彼女のケースで嫌というほど見せつけてくれた。
これからは、彼女のように理不尽な状態に置かれることがないように、自分を大切に出来るように、何よりも治療が終わっても笑顔でその後の人生を過ごせるように。
私たちはそのためにここにいるのだから。




