第4話 落とし物
十三日目――魅力★をひとつ、借金にくれてやった翌日。
あたしは、朝からずっと、顔を触っていた。
「……うん。やっぱり、ちょっとツヤ落ちてない?」
安宿の薄暗い鏡に向かって、ほっぺを押したり引っ張ったりしてみる。
昨日までなら「盛れてるほう」の角度だったはずの角度が、今日はどう見ても普通に可愛いくらいで止まっている気がした。
背後からヒモの声が飛んできた。
「鏡、あと三分で交代な。俺も寝グセチェックしたい」
「寝グセ気にする前に、借金気にしなさいよ。……っていうかさ」
あたしは鏡から目を離さないまま、ぼそっと続けた。
「魅力★を担保に出してまで頑張ってるんだから、今日は軽めのクエストでサクッと稼いで終わりにしない?」
「はいはい。胃に優しい返済狩りね」
ヒモは欠伸をしながら、パーカーのファスナーを上まで引き上げた。
「でもまあ、昨日みたいな精神攻撃食らうよりは、ちょい弱い債獣を数こなすほうがマシか。……腹減ったし」
◇
ギルドの受付カウンターには、朝から人の列ができていた。
決算明けの翌日は、みんな今月こそペースを上げるぞって気合いが入るらしい。
……そのわりには、眠そうな顔とクマだらけだけど。
順番を待ちながら、あたしは受付のお姉さんに声をかけるタイミングをうかがった。
「次の方、どうぞー」
呼ばれたので、勢いで前に出る。
「今日はその、あの、胃に優しいクエストください。昨日の担保でメンタルやられたんで」
「胃に優しい、ですか?」
受付嬢は一瞬だけ目を瞬かせてから、端末を操作した。
「でしたら……こちらの低ランク回収フィールドはいかがでしょう。市外れの廃ビル群に出る小型の債獣討伐です。危険度は低めですが、件数をこなせばそこそこ稼げますよ」
「いいですね、それ。胃に優しそう」
横からヒモがひょいと覗き込む。
「報酬単価は安めだけど、回転率でカバーってやつか。まあ、今日はそれでいっか」
受付の端末に、クエスト内容と注意事項が表示される。
【低ランク回収フィールド:市外れ第3廃棟エリア】
・対象:小型債獣(ランクD〜C)
・想定件数:5〜10体
・報酬:1体あたり30AP+ドロップ品査定
・備考:構造老朽化につき、足元注意
「あ、足元注意って書いてありますけど……」
「廃ビルなんで、床抜けとか階段の崩落にはお気をつけくださいね」
受付のお姉さんは、にこにこと言った。
「債獣そのものより、そっちのほうが危ないかもしれません」
「胃じゃなくて、膝に優しくない系だった……」
思わず漏らしたあたしの愚痴に、後ろの冒険者の誰かがくすっと笑う。
「でもまあ、魅力担保よりはマシだろ」
ヒモが肩をすくめる。
「昨日のあれに比べたら、床抜けくらいどうってことないって。たぶん」
「たぶん、って言うな」
リーボが、いつの間にか肩のあたりにふわりと浮かんでいた。
『本日のクエスト選択、悪くないと思いますよ。低ランク帯は債獣由来APも安定しており、精神的ストレスも比較的少なめです』
「比較的って枕詞がもう怖いんだよね」
そうぼやきながらも、あたしたちはクエスト票を受け取り、ギルドをあとにした。
今日は軽めに稼いで、さっさと寝る。
――それが、この朝の時点での予定だった。
◇
市外れの廃ビル群は、昼間でもなんとなく薄暗かった。
ガラスの割れた窓、剥がれた看板、錆びた鉄骨。
風が吹くたびに、どこかのフロアでガタガタと何かが鳴る。
「うわ、ここ絶対出るタイプじゃん。債獣じゃないやつが」
「やめて、そういうの。心霊現象は契約外」
あたしは足元の割れたタイルを避けながら、片手を空けて、いつでも前に突き出せるように構えた。
リーボが前方に目を向け、声のトーンを切り替えた。
『では、そろそろ反応範囲に入ります。ミノ様、前衛支援はいつも通りでよろしいですか?』
「了解。あんたは壁、あたしは焼き担当」
「役割雑じゃね?」
ヒモが杖――という名の鉄パイプを肩に担ぎながら、あたしより半歩前に出る。
廊下の先、薄暗い踊り場のあたりに、もやもやとした影が浮かび上がった。
人間だった頃の輪郭を無理やり引き伸ばして、そこにカードや紙切れの破片が貼り付いているみたいなシルエット。
目にあたる部分だけが、異様に赤く光っている。
「来た、来た。今日のターゲット」
『小型債獣・ランクD。お二人なら問題なく対処可能です』
リーボの声を合図に、ヒモが一歩前に出た。
「おーい、こっちだって。今日のサンドバッグは俺だぞー」
わざとらしく鉄パイプで床を鳴らし、もやに向かって挑発する。
赤い光がぴくりと揺れて、債獣の顔がヒモのほうを向いた。
次の瞬間、もやの塊が弾かれたみたいな速度で突っ込んでくる。
「うおっ、速っ……!」
ヒモが鉄パイプを横向きに構え、そのまま盾みたいに体の前に押しつけた。
鈍い衝撃音と一緒に、ヒモの靴が床をずりずりと滑る。
「いってぇ……! ほらミノ、今のうち! タンク料高いからな!」
「はいはい、壁さん感謝してまーす!」
あたしはヒモの少し後ろ、債獣と真正面にならない位置に踏ん張る。
胸のあたりに集めた熱を、息と一緒に前へ押し出すイメージ。
掌の先で、空気が一瞬だけきゅっと縮んで――
「……燃えろ」
短くつぶやいたとたん、ヒモの肩越しに、細長い炎が走った。
真っ直ぐ伸びた火の筋が、債獣の胸あたりを貫く。
もやもやした輪郭が、そこからじわじわと崩れた。
「もう一発!」
ヒモの背中がまだ踏ん張れているのを確認して、追い打ちをかける。
今度は面で押しつぶすように、低く広がる炎をぶつけた。
赤い光が一瞬だけ大きく瞬いて、それから一気にしぼむ。
ヒモは鉄パイプを盾みたいに構えたまま、ぐっと踏ん張るだけで、殴りにはいかない。
「……よし、沈んだ」
あたしの声とほぼ同時に、債獣の輪郭は完全に崩れた。
燃え残った欠片が床にぱらぱらと落ち、黒い煙のような何かが天井に吸い込まれていく。
『討伐確認。回収見込みAP、現在のところ一体あたり平均三十AP前後です』
「うん、やっぱり胃に優しい」
「俺の肋骨にはあんまり優しくなかったけどな……単価低いし」
ヒモが肩で息をしながら、鉄パイプをコツンと床に立てかける。
「ほら、次の階行――」
「ちょっと待って」
あたしは、足元に視線を釘付けにされたまま、その場から動けなくなった。
◇
債獣の崩れた跡に、奇妙なものが散らばっていた。
焼け焦げたプラスチックカード。
銀色の縁がかろうじて形を保っている、どこかの銀行っぽいキャッシュカード。
角が溶けて丸くなった社員証。黒焦げだけど、端っこに会社のロゴらしきものが見える。
それから、金具の壊れた小さなフォトホルダー。
中の写真は、半分以上が炭みたいになっていた。
けれど――笑っている誰かの輪郭だけは、ぎりぎり残っている。
「……ねえ、これ」
あたしはしゃがみ込んで、それらを凝視した。
「どう見ても、普通の財布の中身だよね。どっかの世界の」
「たまたまここで死んだ奴の持ち物が残ってただけかも――」
ヒモが、いつもの調子で流そうとする。
でも、あたしには、さっきまで燃やしていたもやもやと、この焦げたカードたちが、一本の線で繋がって見えてしまっていた。
キャッシュカードの名前欄は、煤で一部が欠けている。
読めたのは、名字の一文字だけ。
「田……?」
ありふれた漢字。
だからこそ、誰でもあり得るって感じがして、余計に気持ち悪い。
(さんざん燃やしといて、今さら何言ってんの?)
自分でそう思うのに、目が離せなかった。
フォトホルダーの透明カバー越しに見える、半分炭になった笑顔。
家族か、恋人か。
それとも、ペットだった何かかもしれない。
その全部が、今は黒いシミになっている。
「触らないほうが――」
ヒモが言いかけたとき。
『失礼いたします』
リーボの声が、いつもよりわずかに固くなった。
ふわり、とあたしとカードの間に滑り込むように飛んできて、彼は淡い光を広げた。
光の膜が、カードや写真の残骸をまとめて包み込む。
『回収対象から出た物品は、すべて金融組合の管理下で適切に処理されますので。お手に触れないようお願いいたします、未納様』
「適切に、って……捨てるってこと? それとも、どっかに返すの?」
口から出た声は、自分でも驚くほど乾いていた。
リーボは、いつもの事務的な口調で答える。
『必要な情報はすでにシステムに登録済みですので、物理的な媒体は廃棄または再資源化されます』
「再資源化」
ヒモが、苦笑とも溜息ともつかない声を漏らした。
「まあ、紙とプラだしな。エコだなあ」
「エコの問題じゃないでしょ」
あたしは光に包まれたフォトホルダーを、じっと見つめる。
中の笑顔は、もうどんな表情だったのか判別できない。
それでも、そこに誰かがいたことだけは分かる。
『回収対象の記録データは、債務整理と与信管理のために必要な範囲で保管されます』
リーボは淡々と続けた。
『さきほどの債獣も、過去においては何らかの契約者であった可能性が高いですが、現在は資源として処理されています』
「資源」
あたしはその単語を、心の中で何度もなぞる。
さっきまで暴れてたあれも。
財布の中身も。
フォトホルダーの笑顔も。
全部、資源。
どこかのシステムの中に数字として取り込まれて終わり。
「ほら、ほらな」
ヒモがあたしの肩を軽く叩いた。
「もうデータなんだよ、データ。気にし始めたらキリないからさ。次のフロア行こ?」
「……うん」
うなずいたものの、足は少しだけ重くなった。
気にし始めたらキリがない。
現世で、督促メールの通知をまとめて消すときにも、何度も自分に言い聞かせた言葉だ。
見なければ、少しだけ楽になる。
でも、見なかった分だけ、何かがたまっていく。
ここでも同じなのかもしれない。
◇
クエストを終えてギルドに戻る頃には、夕方のざわめきがフロアに満ちていた。
カウンターで報告を済ませていると、隣の列から会話が耳に入ってくる。
「この前さ、債獣の残骸から指輪出てきたんだよ」
低い男の声だ。話しているのは、革のジャケットを着た先輩冒険者っぽい二人組。
「しかも刻印入り。絶対あれ元人間だって」
「元人間だから何? こっちはこっちで生活かかってんの」
もう一人が、淡々と返す。
「考え始めたら飯食えなくなるだけだぞ」
「まあなー。でもさー、もし自分の指輪が出てきたらどうする?」
「そのときは……お前が俺を燃やしてくれよ。ちゃんと金になるようにさ」
二人は笑いあっている。
冗談半分、本気半分の笑い方。
(知りたくなかったわけじゃない)
あたしは思う。
でも、知ったところで何も変えられないって分かってるから、みんな見ないふりをしてるだけなんだ。
あたしだって、そうだ。
さっきのカードや写真を、いつまでも引きずってても仕方ない。
……仕方ない、んだけど。
◇
夜。安宿近くの路地裏。
いつものように、リーボが宙にウィンドウを展開した。
『では、本日の決算を行いますね』
透明な板に、赤と青の数字が浮かび上がる。
【13日目の決算】
・滞沢 未納:現在債務 −14,050MP(前日比 +250MP)
・沼住 紐介:現在債務 −7,500MP(前日比 +30MP)
・合算参考残債:−21,550MP
・本日の総回収AP:340AP
・配分内訳:
生活費 :80AP
MP回復 :240AP
ステータス強化:20AP(ミノ魅力にちょびっと)
・ステータス変動(抜粋):
滞沢 未納・魅力:★4.2 → ★4.25(表示★4のまま)
・次回利息加算まで:あと1日
・現世帰還達成率(試算):0.4%
「ねえリーボ」
数字を眺めながら、あたしは口を開いた。
「今日倒したあのモンスターにも、こういう画面、前はあったと思う?」
リーボは、一拍おいてから答えた。
『回収対象の詳細な履歴はお客様に開示できませんが……この世界のほとんどの方が、似たような画面を一度はご覧になっていますよ』
「ほとんど、ね」
ヒモが、壁に背を預けて見上げる。
「つまりあれも、どっかの誰かの−◯◯,◯◯◯MPだったってことか」
「かもね」
あたしは、自分の【−14,050MP】の数字を見つめる。
(あたしは、いつか帰るための数字だと思ってこの画面を見ている)
現世に戻る条件。
債務ゼロ。
魅力と運の買い戻し。
それから――よく分からない達成率のゲージ。
全部まとめて、ここに積み重なっている。
(でも、あの残骸の持ち主も、最初はきっとそう思ってたんだろう)
最初は、帰れると思っていた。
最初は、終わらせられると思っていた。
その違いがどこにあるのか。
どこで道が分かれたのか。
今のあたしには、分からない。
『本日の決算は以上です』
リーボの声が、静かに締める。
ウィンドウがふっと消えると、路地裏には夜風の音だけが残った。
あたしはジャケットの前をかき合わせ、肩をすくめる。
「……明日は利息の日か」
「胃に優しいどころか、胃に穴あく日だな」
ヒモが笑う。
あたしもつられて笑った。少しだけ。
笑っていないと、たぶん、さっき見た焦げた写真が頭から離れなくなるから。
十三日目の夜。
あたしは、自分達の【−21,550MP】の数字を思い浮かべながら、ふと現世のことを思い出した。
――そういえば、あたしにも最後の明細を見た日が、あったっけ。
その記憶の入り口まで、指先がようやく届いた気がした。




