第2話 美味しい朝食
異世界十一日目の朝、あたしたちは、いつものように疲れ切った足取りでギルドの食堂に転がり込んだ。
カスランドのギルド拠点に併設された食堂は、朝からそこそこにぎやかだった。
木の長机がずらっと並んで、皿とスプーンの音、肉を焼くじゅうじゅう、どこかのパーティが昨夜の武勇伝を盛ってる笑い声。
その喧噪の中で、あたしは入り口で一度だけ深呼吸してから、宣言した。
「——今日は節約モードでいこう」
言いながら、メニュー板をじーっと睨む。
日替わり朝セット、スープ付きのパンプレート、肉のボリューム盛り。
ついでに、隅っこに書かれた「本日のデザート:カスタードプリン」。
……プリン。
「日替わりセットと、プリ——」
「おい待て節約どこ行った」
横からヒモが、あたしの注文を物理的に塞いできた。
手首をがしっと掴まれて、メニュー板から引きはがされる。
「節約って言った口でデザートまで頼むやついる?」
「デザートは心の栄養であって、家計とはノーカンです」
「この世界、心の栄養もAPで請求くるんだよ?」
ヒモが顎で、カウンター横の小さな札を指した。
《本日のギルド食堂メニュー》
・朝セット(パン+スープ+卵)…… 30AP
・がっつり肉プレート…… 60AP
・追加スープ…… 10AP
・甘味(プリン/ケーキ)…… 15AP
札の端っこには、こっそり書き足された一文もある。
《※生活費は日次決算時に「生活費枠」として自動精算されます》
——つまり、今日頑張って稼いだAPから、食費ぶんが勝手に抜かれてるってことだ。
「……じゃあ朝セットだけで」
「よろしい。俺も朝セット」
「ケチ」
「債務者なんだよ俺たちは」
ヒモはさっさと注文を済ませ、トレイを受け取ると、窓際の空いた席を確保した。
あたしも渋々その後ろをついていく。
周りの視線が、なんとなく痛い。
昨日の夜、決算ウィンドウを食堂で開いたせいだ。
あの瞬間、あたしたちの「でかいマイナス」が、近くにいた冒険者には丸見えだった。
「昨日さ、マイナス一万越えてなかった?」
「見た見た。赤字ペアってウワサのやつらじゃない?」
小声でひそひそやってるのが、耳に入ってくる。
……そうです。赤字ペアですが、何か。
内心で毒づきながら、あたしは朝セットのパンをかじった。
固くも柔らかくもない、すべてが中途半端なギルドパン。
スープは意外とおいしい。腹に染みる。
「なあミノ」
「なに」
「昨日まででさ……ざっくりどんくらい減ったと思う?」
「知らない。数字見ると胃痛くなるから見てない」
「見ろよ。現実見ないと死ぬぞ」
ヒモはそう言って、トレイの端に目線を移した。
半透明の、手のひらサイズの精霊。
ポンポンと丸い体を揺らして、あたしたちを見上げている。
『お呼びでしょうか、滞沢様、沼住様』
——こいつが、あたしたちの「貸MP精霊」、リーボ。
借金の管理も、クエスト報酬の配分も、このちびが全部握っている。
「家計簿。ざっくりでいいから出して」
『承知しました。本日朝時点までの、過去十日分のサマリを表示いたしますね』
リーボがふわっと浮かび上がり、その頭上に淡い光の板が展開される。
透明なウィンドウに、ずらっと数字が並んだ。
——見た瞬間、スープの味が一段階薄くなった気がした。
【過去10日分の家計サマリ】
・総獲得AP…… 2,630AP
・生活費…… 1180AP
・MP返済…… 1350AP
・ステータス強化…… 0AP
・その他雑費…… 100AP
【現在債務残高(参考)】
・滞沢 未納 …… −15,600MP
・沼住 紐介 …… −7,810MP
ウィンドウの中央に、赤字がどーんと乗っている。
「……うわ」
「はい、うわー、ですね」
あたしは思わず、スプーンを握ったまま固まった。
「ねえ、ねえリーボ。あたしたち、こんなに働いてるよね?」
『はい。お二人とも、戦闘行動量だけ見れば優良債務者様かと』
「優良債務者って言葉、どこからどう見ても褒め言葉じゃないのよね」
ヒモが、卵をつつきながら眉をひそめる。
「……生活費とMP回復で、半分以上飛んでるのか」
『はい。お二人の場合、魔法攻撃比率が高いため、MP返済への配分がどうしても多くなります』
「魔法使わなかったら死ぬからなあ」
『そうですね。債務残滓体との戦闘で死亡された場合、債務は基本的に——』
「そこはいい。縁起でもない話は今はいい」
ヒモが即座に遮った。
こういうところだけ反応が早い。
「でもさ」と、あたしは言った。
「ちゃんと返してるんだよね? 毎日ちゃんと、千くらいは返済に回してるわけでしょ?」
『十日間の平均で、一日あたり130AP前後が債務返済に充てられております』
「それでこの残高って、どうなってんの」
『もともとの残高が大きかった、というのもございますが……』
リーボが一瞬だけ言葉を濁した。
『加えまして——利息がまだ「本格加算前」の段階ですので、
現時点では、元金の減少速度がそこまで目立たない形になっております』
「本格加算前ってなに」
『利息計上日の件は、また近いうちに正式なご案内が届きますので』
「そういう大事そうな単語をサラッと流さないで?」
思わずツッコミを入れたけど、リーボはにこにこしたままだ。
『ご安心ください。現時点では、まだ詰みとは判定されておりませんよ』
「まだってつけるあたりが全然安心できないんだけど」
あたしのボヤきに、ヒモが苦笑した。
「でもまあ、数字を見るとさ」
「うん」
「節約モードって、マジでプリン我慢するとかそういうレベルじゃないな」
ヒモはウィンドウの「生活費」の欄を指さす。
「ここ。もし半分にできたら、そのぶん丸ごと返済に回せるんだろ」
『理論上は可能です。栄養状態の悪化や宿泊環境の低下による、
戦闘力の減少・病気のリスク上昇を許容していただければ』
「ほら見ろ」と、あたしはスープをかき混ぜた。
「命削ってプリン我慢して、やっと理論上ちょっとマシって、なにそれ」
「債務者ってそういうもんだろ」
ヒモが妙に達観した声で言うから、余計に腹が立つ。
「そういうもんって、あんたも現世で似たようなことやってたの?」
「いや? 俺は借金の返済なんてほぼしてこなかったから」
「胸張って言うな」
あたしはパンの端っこを噛みながら、ウィンドウを睨んだ。
——数字は正直だ。
ちゃんと返してる。それでも、焼け石に水。
現世の、あのクレカ明細と変わらない。
ただ単位がMPになっただけ。世界が変わっても、あたしの家計は相変わらずだ。
『ところで、お二人』
リーボが、ちょこん、とテーブルの上で姿勢を正した。
『一点だけ、今のうちに確認しておきたいことがございます』
「……嫌な予感しかしないんだけど」
『今後もし、返済に回せるAPがどうしても足りない状況が続いた場合——』
リーボは、ウィンドウの最下段を指し示した。
【担保設定(現状)】
・強制担保:未設定(債務残高により、将来設定予定)
・任意担保:未設定
真っ白な欄に、「未設定」という文字だけが並んでいる。
『この担保の欄に、お二人のステータス——
具体的には「筋力」「魅力」「運」「防御」などを、
一部、差し出していただく形になります』
「ちょっと待って」
あたしはスプーンを置いた。
「担保ってさ。こっちの世界でも、やっぱ差し押さえのアレ?」
『はい。元金の一部に対し、ステータスを紐づけて保証していただく形です』
「わかりやすく言って」
『返せなかった場合、その分だけミノ様の何かが減る、ということですね』
さらっと、とんでもないことを言うな、この精霊。
ヒモが口を挟んだ。
「何かって、どのへんから削られるの?」
『それは、今後の査定次第になりますが……』
「筋力とか?」
『筋力を担保にされる方も多いですね。他には——』
リーボの視線が、一瞬、あたしの顔のあたりで止まった気がした。
『魅力、とか』
「は???」
あたしは思わず、椅子をきぃっと鳴らして立ち上がりかけた。
「ちょっと待って。魅力って、あたしのこの、顔とか雰囲気とかそういうやつでしょ?」
『一般的には、外見や第一印象、声質などを総合した評価値を指します』
「それを差し押さえって、どんなホラー?」
『ご安心ください。魅力担保を設定した場合でも、
すぐに極端な変化が出るわけではありません。
ほとんどの方はなんとなく疲れて見える程度の軽微な——』
「それが一番ヤバいのよ!」
思わずテーブルを叩いた。
隣の席の冒険者が、びくっと肩を揺らす。
「いい? リーボ。筋力はまだいいの。ヒモががんばればどうにかなる」
「おい」
「あたしの魅力★だけは、一ミリも差し押さえさせないからね」
『そのお気持ちは大変よく理解いたしました。
そうおっしゃるお客様には、早期返済プランのご利用を——』
「だからそこに誘導すんなってば!」
声が少し大きくなったのか、通りかかったギルド職員のお姉さんが、苦笑いを浮かべて近づいてきた。
「……あの、お食事中失礼します」
「あ、メリナさん」
ギルドのMP残高相談窓口担当、メリナ・コレット。
いつもの紺色ジャケットに、ぴっちりまとめた髪。
いかにも「しっかり者のお姉さん」って見た目だ。
「先日は冒険者登録とローン契約、お疲れさまでした」
「お疲れさまでした、じゃないですよね、あれ」
「おかげさまで、こちらの案件管理表も少しにぎやかになりました」
笑顔でさらっと怖いことを言う。
「リーボさん、早速、担保のお話までされているんですね」
『はい。将来の可能性として、軽く触れておこうかと』
「そうですね。強制担保ラインの説明は、早めにしておいたほうが……」
メリナさんは卓上に、数枚の紙をぱさっと並べた。
手書きっぽいけど、ところどころに魔法陣みたいな印が押してある。
「こちらが、ステータス担保制度のご案内です。
今すぐにどうこう、という話ではありませんが——」
さらっと言って、紙を指差していく。
「一定ライン以上、延滞や返済不足が続いた場合に、
自動的に強制担保としてステータスの一部が差し押さえられます。
それとは別に、任意担保として、
あらかじめどのステータスをどこまで預けるか、選んでいただくことも可能です」
紙には、項目がずらっと並んでいた。
・筋力:最大値の◯%まで
・防御:最大値の◯%まで
・知力:最大値の◯%まで
・魅力:最大値の◯%まで
・運:最大値の◯%まで
最後の行だけ、赤丸で囲ってある。
「……なんで魅力だけ丸してあるんですか」
「人気ですよ?」
メリナさんは、仕事用の微笑みを崩さない。
「生活に直結しにくい、という理由で。
実際にはかなり影響が出るんですけれど、そのあたりは次回以降のご相談で」
重要なワードほどサラッと流すタイプだ、この人。
「ご安心ください。こちらの担保設定はあくまで任意ですので、
ご署名いただいた時点で自動的に効力が発生いたします」
「最後の一文で全部台無しなんですよね」
あたしが顔をしかめると、ヒモが肩をすくめた。
「まあでもさ。筋力とか防御担保にするよりは、魅力のほうが——」
「そこで魅力がマシみたいな顔すんな」
「いや現実問題、戦闘で使うのは筋力と防御だろ?」
「じゃああんたの運差し出しなよ」
「俺の運はギャンブル用の最後の砦だから……」
「砦を担保に入れたら、そのうち崩れるでしょ」
言い合っていると、メリナさんが咳払いした。
「お二人とも。具体的な担保設定については、
また後日、支店のほうで魅力査定とセットでご案内いたしますので」
「魅力査定って単語も大概頭おかしくないですか」
「評価する側としては、ごく標準的な用語ですので」
あたしが頭を抱えていると、メリナさんは一歩下がり、仕事モードの声に戻った。
「それと、もう一件だけ。
——ギルドの掲示板に、新しい返済プランのご案内を出しました。
お時間あるときに、目を通しておいていただけると」
そう言って、軽く会釈して去っていく。
残された机の上には、家計簿ウィンドウと、ステ担保の紙と、冷めかけたスープ。
胃に悪いものばっかりだ。
◇
朝セットをなんとか腹に押し込み、トレイを返した帰り道。
ギルドのロビーを抜けようとして、あたしは足を止めた。
掲示板の前に、人だかりができている。
「……あれ?」
「新しいクエストか?」
ヒモと顔を見合わせて近づいていくと、掲示板のど真ん中に、
やたらポップな色使いのポスターが貼られていた。
《二人で返せば、もっとラクに!》
《ペア返済プラン・連帯債務カップル募集中♡》
ハートマークつきである。
連帯債務にハートをつける勇気、すごいな中魔信。
「うわ、出たよ。ラクになるって言葉ほど信用できないものはない」
「あー……これか。説明会のやつ、メリナさんが言ってたの」
ポスターには細かい文字で、いろいろ書いてある。
・二人分の債務を一本化!
・金利10%ダウン!
・高ランククエスト参加資格も!
下のほうに、ちっちゃい字で。
・※片方が破綻・死亡・行方不明の場合、残債はもう一方に移管されます。
・※その他詳細は中魔信担当者まで。
「ほら出た。ちっちゃいところに本音書いてる」
「読むやつは読むからセーフ理論だろ」
ヒモが鼻で笑う。
「片方が破綻した場合、もう片方に残債が全部乗るってさ。
自分で読むと頭おかしいってわかるよな?」
「ね。こんなのにサインするやつ、どんな顔してるんだろ」
「恋は盲目だからなあ。……いや、借金もか」
掲示板の前では、ほかの冒険者カップルがひそひそやっている。
「ねえ、これ申し込もうよ。あんたの返済だけ遅れてるし」
「やだよ俺、死んだらお前に全部行くじゃん」
「そういうとこがダメなんだって」
聞こえてきて、背筋がぞわっとした。
「……あたしたちは関係ないよね」
思わず口に出した。
自分で言って、自分で安心したくなるくらいには、ポスターの色使いが不穏だ。
「うん。あれは真面目にやってるけど、あと一歩みたいな人たち向けだろ」
「そのあと一歩を一生かけて踏ませようとしてない?」
「してるかもな」
ヒモは肩をすくめて、ポスターから目をそらした。
「でもまあ、今の俺たちはそれどころじゃない。
まずは今日のクエスト終わらせて、飯代とMP返済分確保しないと」
「……そうだね」
掲示板から離れながら、あたしたちは自然と歩くスピードを早めた。
あのときのあたしは、まだ笑っていた。
「連帯債務カップル」とか、「ペア返済プラン」とか。
全部、自分とは関係ない、どこか遠くの沼だと思っていた。
——まさか、自分から飛び込む日が来るなんて。
そのときは、欠片も想像していなかったのだ。




