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『希』  作者: 森 神奈
4/5

傷跡と雨上がり

かんなが退院して、ひと月が経った頃だった。

家の周囲をパトカーが巡回している。静かな住宅街に、ひとつだけ異物のように赤と青のランプが明滅していた。

理由は単純だ。

——元家族のひとりが、保釈された。

誰が保釈金を払ったのかは不明。

接近禁止命令は出ているものの、警察は“危険の可能性”を否定できず、パトロールを続けているという。

けれど、事件というものは、そうした「対策」や「警戒」の隙間を縫うようにして起こるのだと、俺はこのとき、まだ知らなかった。

 

その夜、夕食の買い出しに出た俺は、近くのスーパーで背後に強い衝撃を受けた。

刃物が腹部を貫いたと直感するよりも先に、意識がすっと遠のいていく。倒れ込んだ床に映ったのは、血の海。

そして、見知らぬ誰かの姿。

家族じゃない。

けれど……どこかで、見たことがある気がした。

 

近くにいた人が警察と救急車を呼んでくれ、命はどうにか繋ぎ止められた。

意識が戻ったのは三週間後だった。

目覚めると、かんなが泣きながら抱きついてきた。

震える彼女の体温が、胸に痛いほど染みた。

 

事件の犯人は、やはり元家族ではなかった。

防犯カメラの映像から判明したのは、中学時代の同級生だった。

彼は、あの家出の日、俺の居場所を親に密告した張本人。

当時は理由が分からなかった。けれど今なら思い出せる。

……あいつは昔から、人の幸せを憎んでいた。

 

入院中、思いがけない人物たちが見舞いに来た。中学時代のクラスメートたちだ。

彼らの話によれば、犯人は俺を刺した後、逃走して行方不明になっているという。

見つかっていない。

警察も動いているが、かんなの身にも危険が及ばないかと、不安が消えなかった。

 

——それから間もなく、退院が決まった。

思ったよりも傷は浅く、医師から「外での無理さえしなければ大丈夫」と許可が出た。

病院の出口でかんなが待ってくれていて、俺は久々の陽の光を感じながら、一緒に歩き出す。

 

そのときだった。

背後に、足音。

最初は小さく、徐々に速く、そして激しくなる。

振り向くと、そこに——あいつがいた。

手には刃物。目には狂気。

彼女の方へと向かって、包丁が振りかぶられる——

 

「かんなッ!!」

反射的に、俺は彼女を突き飛ばした。

次の瞬間、視界が真っ黒に塗りつぶされた。

 

——次に意識を取り戻したとき、俺はまた病室にいた。

今度の傷は腹ではなく、胸。

医師の話では、あと数ミリずれていたら心臓に達していたらしい。

輸血が必要だった。

だが、俺の血液型は特殊で、Rh陰性だった。日本人にはきわめて少ない型だ。

この病院には適合する血液がなく、時間との勝負になった。

 

そのとき、かんなが医師に言った。

——「私、彼と同じRh陰性です。……使ってください、私の血を。」

拒否されるかと思ったが、あっさりと同意された。

すぐに採血が行われ、輸血、そして緊急手術。

 

そして、目を覚ました。

カーテンの隙間から差す陽光の中で、かんなが泣いていた。

俺も気づけば泣いていた。

言葉なんか、もういらなかった。

涙だけが、胸の奥にある言葉の代わりだった。

 

後日、看護師から聞いた話では、あの男はその場で警察に取り押さえられたという。

過去の前科と今回の事件を合わせて、無期懲役が確定したらしい。

けれど、それでも心の傷は消えない。

また、かんなを傷つけかけたこと。

俺の「過去」が、彼女の「今」を脅かしたこと。

それだけは、どうしても許せなかった。

けれど、かんなはこう言った。

「もう逃げなくていいよ。だって、これからはずっと一緒に“雨宿り”できるんだから。」

その言葉に、俺は初めて“許されている”気がした。

 

針のような雨が、ようやく止み始めた——そんな気がした。


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