傷跡と雨上がり
かんなが退院して、ひと月が経った頃だった。
家の周囲をパトカーが巡回している。静かな住宅街に、ひとつだけ異物のように赤と青のランプが明滅していた。
理由は単純だ。
——元家族のひとりが、保釈された。
誰が保釈金を払ったのかは不明。
接近禁止命令は出ているものの、警察は“危険の可能性”を否定できず、パトロールを続けているという。
けれど、事件というものは、そうした「対策」や「警戒」の隙間を縫うようにして起こるのだと、俺はこのとき、まだ知らなかった。
その夜、夕食の買い出しに出た俺は、近くのスーパーで背後に強い衝撃を受けた。
刃物が腹部を貫いたと直感するよりも先に、意識がすっと遠のいていく。倒れ込んだ床に映ったのは、血の海。
そして、見知らぬ誰かの姿。
家族じゃない。
けれど……どこかで、見たことがある気がした。
近くにいた人が警察と救急車を呼んでくれ、命はどうにか繋ぎ止められた。
意識が戻ったのは三週間後だった。
目覚めると、かんなが泣きながら抱きついてきた。
震える彼女の体温が、胸に痛いほど染みた。
事件の犯人は、やはり元家族ではなかった。
防犯カメラの映像から判明したのは、中学時代の同級生だった。
彼は、あの家出の日、俺の居場所を親に密告した張本人。
当時は理由が分からなかった。けれど今なら思い出せる。
……あいつは昔から、人の幸せを憎んでいた。
入院中、思いがけない人物たちが見舞いに来た。中学時代のクラスメートたちだ。
彼らの話によれば、犯人は俺を刺した後、逃走して行方不明になっているという。
見つかっていない。
警察も動いているが、かんなの身にも危険が及ばないかと、不安が消えなかった。
——それから間もなく、退院が決まった。
思ったよりも傷は浅く、医師から「外での無理さえしなければ大丈夫」と許可が出た。
病院の出口でかんなが待ってくれていて、俺は久々の陽の光を感じながら、一緒に歩き出す。
そのときだった。
背後に、足音。
最初は小さく、徐々に速く、そして激しくなる。
振り向くと、そこに——あいつがいた。
手には刃物。目には狂気。
彼女の方へと向かって、包丁が振りかぶられる——
「かんなッ!!」
反射的に、俺は彼女を突き飛ばした。
次の瞬間、視界が真っ黒に塗りつぶされた。
——次に意識を取り戻したとき、俺はまた病室にいた。
今度の傷は腹ではなく、胸。
医師の話では、あと数ミリずれていたら心臓に達していたらしい。
輸血が必要だった。
だが、俺の血液型は特殊で、Rh陰性だった。日本人にはきわめて少ない型だ。
この病院には適合する血液がなく、時間との勝負になった。
そのとき、かんなが医師に言った。
——「私、彼と同じRh陰性です。……使ってください、私の血を。」
拒否されるかと思ったが、あっさりと同意された。
すぐに採血が行われ、輸血、そして緊急手術。
そして、目を覚ました。
カーテンの隙間から差す陽光の中で、かんなが泣いていた。
俺も気づけば泣いていた。
言葉なんか、もういらなかった。
涙だけが、胸の奥にある言葉の代わりだった。
後日、看護師から聞いた話では、あの男はその場で警察に取り押さえられたという。
過去の前科と今回の事件を合わせて、無期懲役が確定したらしい。
けれど、それでも心の傷は消えない。
また、かんなを傷つけかけたこと。
俺の「過去」が、彼女の「今」を脅かしたこと。
それだけは、どうしても許せなかった。
けれど、かんなはこう言った。
「もう逃げなくていいよ。だって、これからはずっと一緒に“雨宿り”できるんだから。」
その言葉に、俺は初めて“許されている”気がした。
針のような雨が、ようやく止み始めた——そんな気がした。