壊れた空
あの家に引っ越してから、もう一年が経った。
小さな庭に花が咲き、ベランダに洗濯物が揺れる。
かんなと暮らす日々は、傷の上に咲いた柔らかい花みたいだった。
だが、平穏には限りがある。
ある日、かんなが帰ってきて、珍しく黙っていた。
「どうしたの?」
問いかけると、かんなは笑って言った。
「なんでもないよ。仕事のこと」
でも、それは嘘だった。
翌日から、かんなの様子は明らかに変わった。
表情が減り、言葉が少なくなった。
食事を残す日が増え、夜になると声を殺して泣いていた。
俺は、かんなの過去をよく知らない。
聞かされていないだけで、抱えてきた痛みがあるのはわかっていた。
その影が、再び襲いかかってきたのだ。
数日後、かんながぽつりと呟いた。
「……会社に、元彼が入ってきたの」
心臓が嫌な音を立てた。
「私が、鬱になった原因。あの人が全部だった。
私の言葉を信じてくれなかった。
仕事でも、プライベートでも、壊されて……
でも、今回は違うって、思いたかったんだ」
かんなはうつむいたまま震えていた。
「でも……また言われたの。“お前は壊れてる”って。“あの事件もヤラセだろ”って」
耐えて、耐えて、かんなは職場に通い続けた。
俺との生活を守るために。
でも、身体は少しずつ蝕まれていた。
それでも、笑ってくれた。
夕食を一緒に作ってくれた。
寝る前に、少しだけ甘えてくれた。
「私、強くなれたと思うんだ。あなたと一緒にいるから」
それが、最後の言葉になるとは思わなかった。
その日も、かんなは出勤していた。
午前11時すぎ、俺のスマホに一本の電話が入った。
「かんなさんが……職場のビルから転落しました!」
何も聞こえなくなった。
耳鳴りだけが響いていた。
現場は3階。
即死には至らなかったが、意識は混濁し、全身を強く打った。
周囲の証言では、彼女は誰かに突き飛ばされたらしい。
俺は震える手で、警察に向かった。
警察署で、かんなの元彼の名前を伝えると、最初は苦笑された。
「君たち、本当に事件に巻き込まれすぎだな」
でも、すぐに表情が変わった。
「ああ……こいつか。実はな、前からマークしてたんだよ。
父親が警察幹部で、やりたい放題だったみたいでな」
捜査は、驚くほど早かった。
過去の女性への暴力事件、証拠隠滅、脅迫、賄賂――
そして、かんなへの傷害。
その父親ごと、逮捕された。
ようやく、ようやく、報われた。
俺たちを壊した人間が、ようやく“罪”を背負ったのだ。
かんなは、長く眠っていた。
病室の天井を見上げて、俺は何度も祈った。
「助けてくれ」なんて、誰に願っているのかわからなかった。
でも、奇跡は起きた。
ある日、かんなのまぶたが震えた。
「……あなた?」
俺は、泣いた。情けないくらい、声を出して。
「大丈夫、大丈夫だよ。俺がいるから」
「……よかった……夢じゃなかった」
彼女は、弱く笑った。
それだけで、すべてが報われた気がした。
かんなが退院したのは、それから3ヶ月後のことだった。
完全な回復ではなかった。
外に出るのが怖い日もある。
突然涙が止まらなくなる夜もある。
だけど それでもいい。
俺は、かんなと一緒にいる。
特別なことなんていらない。
高級な家も、華やかな日々も。
俺たちは、ただ「今日を生きる」ことができれば、それでいい。
「ありがとう。生きてて、よかった」
ある日そう言ったかんなに、俺はただ一言返した。
「俺も、そう思ってるよ」