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ゴルドリバーへ

馬車の中、初夏の風が小さな窓をくぐり抜けるたび、車内に埃の匂いがほんのり舞った。


揺れる座席に身を任せながら、エドモンド・ドッディーはどこか悪戯めいた微笑を浮かべて言った。


「ええんですか? アリア嬢置いてきて」


対面に座るカイル・コーシェは目を閉じたまま、揺るぎない口調で答える。


「かまわない。むしろその方が安全だ」


その返答に、エドモンドの目が細くなる。笑みは引き、代わりに皺の奥に潜む鋭さが顔を覗かせた。


「……そんな危険が?」


「おそらくな」


カイルの答えは短く、それ以上の説明はなかった。しかし、それだけで十分だった。

エドモンドの声音が一段階低くなる。目もまた、かつての現場の空気を思い出したかのように、研ぎ澄まされていく。


「資料を見る限りでは見当たりませんが」


彼はかつて、第四情報室に所属していた男だ。そこは主に国外調査や潜入工作を任とする部門で、平和とは程遠い現場を数多く歩んできた。今では腰を痛め、前線を離れているが――その嗅覚は鈍っていない。


「荒事は御遠慮したいんですがね」


「向こうの出方次第だな」


カイルはそれだけ言うと、背もたれに深く体を預け、目を閉じた。

馬車の車輪が舗装の甘い石畳を跳ねる音だけが、静けさを刻んでいた。


ゴルドリバーの街は、先日と変わらず重たい空気を纏っていた。

だが、今回は三男ではなく、無精髭を生やした男――次男のオットー・クァナーマが応対に現れた。


「……こっちっすよ」


やる気の欠片も見せず、背を向けて歩き出す。

その背中を追って歩いていたエドモンドは、横目にいつの間にか同行していた人物を認めた。


ギルバート・ブッセー。

どこか胡散臭い笑みを浮かべたその男は、オットーの影のようにぴったりと付いている。


「そちらは?」と、カイルが振り返る。


「ギルバート・ブッセー。設備工事の手配を請け負ってる。ブッセー建設商会の会頭さ」


エドモンドは、先日言われていた“新しくしたパイプ”へと無言で目を向けた。

ゆっくりと近づき、腰の工具を取り出す。熟練の手つきでナットに触れ、表面を慎重に擦った。


数秒後、彼は声を低くして言った。


「……交換されてませんな。これは上からペンキを塗っただけや」


「そんなはずはない」ギルバートが反論する。「印は変えてある」


エドモンドはじっと睨むようにギルバートを見ると、再びパイプの表面に工具を滑らせた。

次の瞬間、ペリリ……と音を立て、ペンキの皮が一片、捲れ落ちた。


「おや、簡単に剥がれますなぁ。――それが、“ちゃんと換えてない”証拠や」


「そんなわけないだろ! ちゃんと交換したんだ!」


ギルバートが声を荒げる。それに乗じるように、オットーが後ろへ手を振った。


「おい、お前ら、出て来い!」


陰から現れたのは、見るからに素行の悪そうな男たち――名ばかりの従業員、実態は破落戸たちだ。

5人。数だけ見れば小規模だが、いずれも粗野で、武器になりそうな工具を手にしている。


エドモンドがため息をつく。


「荒事は御遠慮したい言うたんやけどなあ……」


「手短に済ませるぞ」カイルの声は冷静だった。


次の瞬間、カイルの足が音もなく動き、破落戸の一人が呻き声を上げて崩れ落ちた。

エドモンドも見た目の歳にそぐわない素早さで工具を持った腕を捻り上げ、相手を地面に叩きつける。


数分と経たず、騒ぎは鎮まった。


5人いた破落戸は全員、地面に転がって呻いている。

カイルは埃を払うように服の裾を直し、ブッセーたちに目を向けた。


「――説明してもらおうか」


ギルバート・ブッセーの胸ぐらを掴んだエドモンドは、なおもにこやかな顔を保ちながら、ぴたりと相手の目を見据えた。


「――パイプは交換毎に、ナットの頭の印を変えるんが約束や。仮にも“会頭”なんですやろ。知らんかった、とは言わせませんで」


その声音は丁寧で、どこか親しげですらあった。

だが――その目だけは、まるで獣のように鋭かった。掴まれたギルバートは、喉の奥からうめき声を漏らす。


「う、ぐっ……ほとんど変えなくてもいいもんじゃねえか……! どうせ悪くなってなんかいねえんだよ!」


苦しい言い訳を吐くギルバートに、追随するようにオットーが叫ぶ。


「そうさ! 変えなくてもいいものに金なんか出せない! もったいないだけだろ!」


「ほう?」

その瞬間、カイルがオットーの腕を後ろへねじ上げ、あっという間に地面に押さえつけた。空気が一変する。


「その“意味のない根拠”は、どこから出てきた?」


オットーが唸るが、カイルはそれを無視してギルバートに目を向ける。


エドモンドが胸ぐら掴んだギルバートごとパイプ近くへ移動した。もう一度、例の物を指で弾くように軽く叩き、くぐもった音を確認する。


「しかもコレ、下水のほうや。放っときゃすぐ詰まる場所や。――余計に問題ですなあ」


「知るか! そんなこと!」

ギルバートの声はもう開き直りに近い怒声だったが、それをエドモンドは静かに受け止めた。


「……ぶん殴ってコイツの口、閉めてもよろしいやろか」


笑顔を崩さぬまま、ほんのりと右拳を上げる。

カイルはオットーを拘束しながら、肩をすくめるように言った。


「やめとけ。後が面倒だ」


エドモンドはしばし考えるふりをした後、ゆっくりとギルバートの襟を離し、スッと手を下ろした。


「お利口になりなはれ。せやないと、その口が災いを呼びますで?いや、もう呼んでしもとるか」


ギルバートはその場に崩れ落ちた。もはや反論する気力すら残っていないようだった。


その後、破落戸どもを縛り上げ、オットーとギルバートを連れたまま、二人は王都駐在の警邏隊へと彼らを引き渡した。公文書を添えて、設備不正、資金流用、情報虚偽報告の容疑を添えて。


王都へ戻る馬車の中、夕日が窓から差し込む中で、カイルは無言で資料の整理をしていた。


対面に座るエドモンドが、ふぅと一息ついて呟いた。


「アリア嬢にゃ、言わん方がええですな。ああいうのは、若いうちに見せるもんやない」


「だな。だが、いずれ知る」


「しゃあないこととはいえ……心苦しいですなあ」


エドモンドは窓の外を眺めながら、どこか懐かしむように目を細めた。


「……しかし、室長さん。あの子、ええ目をしてますわ」


「……そう思うなら、もう少し優しくしてやればどうだ」


「それは室長さんの台詞やないですかい」


二人の間に、くすりと笑いが漏れた。


馬車は夕焼けの中を静かに走り続けていた。

すぐにまた、波風は立つだろう。だが、今は――しばしの静穏だった。


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