悪友と攻略対象者
「待ってください、ちょっと……待って……!」
長い脚で颯爽と歩くカイル室長の背中を追いながら、私は自分の体力のなさを本気で呪っていた。
息、上がる。足、重い。心、折れそう。
日頃の運動不足がここにきて全力で牙を剥いている……!
彼の背中は容赦なく遠ざかっていくのに、私のスカートの裾だけがやたら翻って、まるで空回りしてるみたい。
ほんと、お願いですからもうちょっとだけ速度を……!
そして、ようやくたどり着いた気象天文課。そんなに距離はないはずなのに息切れてるんですが。ちょっと時間もらえませんか?
一息つくと周りが見えてきた。
そこは、他の課とは少し違って、天井が高く窓が多くて、壁には雲の動きを記した不思議な地図がずらり。まるで理科室と天文台が合体したような雰囲気だった。
……うわぁ、ここ絶対頭のいい人しかいない場所じゃん。
カイル室長は、なんのためらいもなく――というかノックすらせずに――いきなりドアを開けた。
「……っ!」
中にいた気象天文課の皆さんが、一斉にこちらを向いて固まる。
いや、そりゃそうですよね!?
仕事中にいきなりドアが開いて、その先から現れたのが例のカイル室長とか、ちょっとしたホラーですもん!
そして、一足先に表情を戻した人物が、呆れたような声で言った。
「いきなり来て何だ、カイル」
……ん?
この方、赤みがかった茶色の髪と瞳。そしてやたら落ち着きのない目つきと砕けた口調。
「ああ、うるさい。この先二週間の王都周辺の天気予報をくれ」
カイル室長、いきなり本題!?
いやまあ、目的はそれなんですけど……って、王都周辺ってことは、やっぱりゴルドリバーも含まれてるんですね。隣町ですもんね。なるほど。
しかし、予想外の返事が返ってきた。
「嫌だ」
え、即答!? しかも即・拒否!?
カイル室長が、ジト目で睨むように返す。
「ほう? 俺の要請に拒否できるとでも?」
「嫌なもんは嫌だ」
……子どもですか!?いや、駄々っ子ですか!?この人座ってる位置からおそらく部門長ですよね!?
でも……なんとなく、予想はしてた。
この距離感と、明らかにお互い容赦のない感じ……あ、間違いなく“悪友”だ。
「よくもまあ、そんな口が聞けたもんだ。昔のお前はよく――」
「――あーーーっ!!わーーーっ!!言うな!それ以上言うな!」
わわっ!いきなり大声出さないでください!
耳がキーンとするじゃないですか!
「しかもそれ十年くらい前の話だろ!?いい加減忘れろ!」
「手札は多い方がいい」
「なんか違わないか、それ……!」
何このテンポ……。
なんなのこの会話……。
これ、もしかして漫才……?
いや、ツッコミ待ち……?
思わず私はぽつりとつぶやいていた。
「……仲良いんですね……」
カイル室長は思い出したように言った。
「悪い、紹介しよう」
カイル室長が面倒そうに肩をすくめてる。
「こいつはここの部門長、ジェイル・セイフラワー」
カイル室長にポンポンと言い放っていた人がよろしくとばかりに手を上げた。
「よろしくな。この腹黒が辛くなったらウチに来たらいい」
「そんなことはさせない」
「へいへい」
……軽いな、この人たち……。
いやでも、なぜだろう。なんか安心するテンポだ。
っていうかこの人、やっぱり部門長じゃん!
私、カイル室長がさっきからかなり無礼な振る舞いしてるなって思ったんですけど!?
いや、初日に私に対して「礼儀をわきまえろ」って言ってきたのに!?え、いいんですか?
「部門長でしたか……カイル室長、いいんですか? 割と無礼な所作でしたけど?」
「いい」
即答。
「オレの扱いひどいな、おい」
ジェイルさんが軽く笑う。
「で、見せてくれないのか」
「一応あるが、精度は落ちるぞ。気象予報は難しいんだからな」
「わかってる」
やりとりだけ見てると喧嘩してるようで、実はすごく信頼してるんだろうなって、なんとなくわかる。
ああ、こういう関係、いいなあ。
ちょっと憧れる。腹の探り合いじゃなくて、真正面からぶつかり合ってる感じ。
「おい、スタンリー!王都の気象予報の資料持ってきてくれ!」
……え?
今、なんと?
スタンリー!?
もしかしてスタンリー・イオンゲイシーですか!?
っていうか、まさかこのタイミングでその名前を聞くことになるなんて――!
気象天文課の空気が、わずかに――ほんのわずかに変わった気がした。
カイル室長とジェイル部門長の「漫才」が一段落したそのとき、部屋の奥からやってきた青年が、控えめな声で告げた。
「お、お持ちしました」
その声に、反応したのはジェイル部門長。
「ああ、ありがとう。ついでに紹介しよう。コイツはスタンリー・イオンゲイシー。コイツは結構できるやつだぞ?」
その瞬間。
わたしの頭に警鐘が鳴った。
スタンリー・イオンゲイシー。
間違いない。乙女ゲーム原作で、気象天文課ルートの攻略対象者。
真面目で不器用で、ちょっとどもりがちな優しい天才。
静かで穏やかで、プレイヤー人気第3位(公式調べ)!
……うん、今はその情報いらないよね、うん。
「知っている」
ぶっきらぼうに言ったのはカイル室長。
うん、さすがだ。
知ってるよね、そりゃ。職歴私より長いもんね。きっと、ジェイルさんに紹介されてるよね。
「お前に言ってんじゃねぇ。そこのお嬢さんにだ」
あ、そういう流れなんですね。はい。
……って、カイル室長が紹介してくれないから、自分で言うしかないじゃないですか。
というわけで、わたしは一歩前に出て、小さくお辞儀をしながら言った。
「アリア・アマーデューです。よろしくお願いします」
するとカイル室長が、例によって例のごとく即・茶々を入れてきた。
「やめとけ、減る」
減る……?
は? え、なにが!?
名前の価値!?わたしの礼儀!?それとも、乙女心!?
どこのスパダリムーブですかそれ!!!
読者人気第1位か!!!
思わず頭の中で全力ツッコミを入れたけれど、ジェイルさんもスタンリーさんもその発言にはあえて触れず、無視を決め込んだ。
いや、正しいですけども!
そんな空気の中、スタンリーさんがわたしのほうにそっと手を差し出してきた。
「す、スタンリー・イオンゲイシー、です。よろしくお、お願いします」
その仕草は、ぎこちなくて、それでも真剣で。
彼のまじめさと、人の目を真っすぐ見ようとする努力が、その一挙手一投足ににじみ出ていた。
ああ、これだ。
この“ぎこちない誠実さ”こそ、スタンリーさんの魅力だ。
彼は少しどもる。
それが原因で、周囲とうまくいかないこともある。
でも、それを理解して、そっと寄り添ってあげられる女性――それが彼の“理想の恋人”だったはず。
よし、ならば――ここは決めるしかない!
いけ、わたし!
必殺の――!
「こちらこそ、よろしくお願いしますね」
必殺の! 淑女スマイル!!!
背筋を正し、優雅な笑みを浮かべてみせる。
好感度の上がりやすい角度は心得済みだ。訓練済みだ。
だてに前世で10周もプレイしていない。
……あ、いや、殺してどうする、私。
「必殺」はまずい。「炸裂」くらいにしておこう。
でも――でも、その効果は抜群だった。
スタンリーさんの表情が、目に見えて――ほんとに、漫画みたいにわかりやすく――赤く染まった。
え、ええと……もしかして、効いてる?
っていうか、攻略対象者って攻略されやすくできてるんだっけ……?
そんなことを考えながら、わたしはそっと手を引っ込める。やらかしてしまった感じですか、これ。
気を取り直して、スタンリーさんが差し出した資料を、私はおそるおそる覗き込んだ。
……と、たん、いち、で、視界がチカチカした。
なにこの文字と記号の羅列!?
「降水量分布傾向図」?「気圧波の遷移図」?「地上シアラインの接触予測」!?
ページめくるたびに目の焦点が合わなくなるんですが!!
これはあれだ、文官試験の時に出た“専門科目(物理)”のトラウマ再来。
そんな私の様子を知ってか知らずか、カイル室長がさくっと資料を手に取った。
「借りるぞ」
でもすぐに、ジェイル部門長があっさり阻止した。
「課外秘だ」
「……軍事的なこともあるしな。しょうがない、そこの席を借りる」
カイル室長が部屋の片隅、資料閲覧用のテーブルと椅子を指差して言う。
あ、そうだった。
この国では“天候”が軍事情報とみなされることがあるんだった。
たしか――ええと、晴れの日は敵軍が攻め込みやすくて、雨だと兵站が難しくなるから不利?
いや、逆? どっちだっけ……。
っていうか、そもそも今の周辺国にそんな気配はなかったはずだけど……。
ま、念には念をってやつかな。
「専門用語が多いからな。スタンリーをつけよう」
ジェイル部門長が、当然のようにそう言って、スタンリーさんの背中をぽんぽんと叩いた。
「悪いな」とカイル室長が短く言うと、
「オトモダチのためならお安い御用!だからあのことは忘れろ!」
「さあ、どうだかな」
「腹立つな、おい」
はい、また始まりました。カイル室長とジェイル部門長の掛け合い劇場。
音響照明があれば舞台化できるレベル。
そろそろこの会話にBGMをつけたい。
やっとそれが終わって、私は空いている椅子にそっと腰を下ろした。
「えっと……私、こっちに座らせてもらいますね」
と思ったら、カイル室長が、なんと……私の隣の椅子に座ってきた。
えっ、ちょ、近くないですか!?
わたし、心臓の音が耳に響いてるんですけど!!
……いや、いやいや、落ち着け私。
対面にスタンリーさんが座るからだよね。
説明受けやすくするためだよね。そうだよね。
うん、合理的。カイル室長ってそういう人だし。うん。うん。
……でもちょっとだけ近くない!?(再確認)
スタンリーさんは、そんなことお構いなしに、資料を広げながら穏やかに解説を始めた。
「えっと、ここが今週末の予測で……こ、この線が低気圧の動きで、こっちが……」
説明、すっごく丁寧!
何を言っているかちゃんと分かるし、専門用語の意味もちゃんと補足してくれる!
やさしい……この人、絶対、気象学の先生とか向いてる……。
「スタンリーさん、すごく説明が上手です! このまま先生できちゃいますよ!」
思わずそう言うと、スタンリーさんの顔がパッと赤くなった。
え、え、そんなに照れる?
彼は視線を泳がせながら、口元を指で触り、挙動不審な感じで答えた。
「あ、いえ、あの……こ、ここが好きなので……」
その様子があまりに可愛らしくて、わたしの中の乙女ゲープレイヤー魂がうずいた。
かわいいなこの人!!
けど、フラグは立てたくない!!
心の葛藤がすごい!!!
「いい加減戻ろう」
……って、室長!?
今いいところだったのに、なんで話をスパッと切るんですか!!
今、スタンリーさんともう少し交流深めたら、情報も聞きやすくなりそうなのに……
やっぱりカイル室長って天然スパダリ系腹黒なんですか!?
とはいえ、肝心の情報はちゃんと手に入った。
この2週間、王都周辺では――雨は降るが、通常の範囲内。
大雨や嵐などの異常気象は今のところ発生しない見込みだって。
よしっ。
大丈夫、まだ時間の余裕はある。
次の一手を打つ準備ができる――そう思ったら、少しだけ、胸の重みが軽くなった気がした。