嵐が来る前に
セシリアさんの瞳が、大きく見開かれた。
「あるんですか……!? アリア様も……?」
……しまった。
口が先に動いた。
「え、ええと……その、夢ってほどはっっきりじゃなくてですね?」
慌てて取り繕おうとしたけど、もう遅い。
セシリアさんは椅子から半分身を乗り出す勢いで、声を潜めた。
「黒い羽が、ゆっくり落ちてきて……甘い匂いがして……それで、誰かが“持って来い 渡せ ”って……」
……あー。
これ、完全一致じゃないですか。
喉の奥がひくりと鳴る。
脳裏に、あのときの光景が、勝手に再生される。
焦点の合わない自分の視界。
扉の取っ手に伸ばしかけた手。
――そして、突然、強く引き戻された感触。
(……ヴィーさん、それから、室長)
あの腕の力。
あの低く、必死に抑えた声。
『大丈夫、落ち着け』
……夢じゃない。
あれは、現実だった。
「……アリアさん?」
セシリアさんの声で、私は現実に引き戻された。
どうやら、少し黙り込みすぎたらしい。
「……あります。似たようなもの、見た覚えあります」
そう答えると、セシリアさんは、ほっとしたように息を吐いた。
その反応が、逆に胸に刺さる。
――ああ、この子、ずっと一人で抱えてたんだ。
「でも」
と、私は続けた。
「“囁かれた”って感覚は、私にはありませんでした。……たぶん」
たぶん、という曖昧さに、いろんな意味を込める。
室長のほうを見ると、カイル室長はいつの間にか腕を組み、私たちをじっと見ていた。
あの目だ。
全部を把握しようとしているときの目。
「セシリア嬢」
低く、落ち着いた声が室内に響く。
「君は、その事件が“いつ”“どこで”“どう始まる”かまで、覚えているのか?」
セシリアさんは一瞬だけ唇を噛み、それから、はっきりと頷いた。
「はい。完全ではないですけど……少なくとも、“内部から広がる”ってことは」
……内部。
その言葉に、室長の視線が、ほんのわずか鋭くなる。私は思わず口を挟んだ。
「第三情報室、第二情報室、魔術課……どこからでも、入り込めます」
私がが苦しそうに言葉を紡いだその瞬間。
室長が、すっと私に視線を向けた。
――やめて。
今、その目で見られると、思い出すから。
案の定、胸の奥が、じわりと冷える。
「……アリア」
「はい」
「以前、機密資料の扱いについて、ヴィーから指導を受けたことがあったな」
……うわああああああああ。
思い出したくなかったやつ!
胃が、きゅっと縮む。
「……あります」
「理由は?」
理由。
理由、ね。
私は、少しだけ言葉を選んでから答えた。
「……自分でも、なぜあんなことをしようとしたのか、分からなかったんです。ただ、“そうしなきゃいけない”って思って……」
室内が、しんと静まった。
セシリアさんが、震える声で言う。
「……それ、同じです」
その一言で、全部が繋がった。
赤い瞳。
黒い羽。
甘い匂い。
理由のない衝動。
そして――
内部の人間が無自覚のまま、行動を起こすという構図。
室長は、ゆっくりと息を吐いた。
「……なるほどな」
その声には、怒りも動揺もなかった。
ただ、覚悟だけがあった。
「セシリア嬢。この話は、当面、第三情報室内でのみ扱う。君の“前世”についてもだ」
「はい」
「そして、アリア」
……来た。
「君は、これ以上一人で抱え込むな。あの時、君を止めたのはヴィーだが」
一瞬、言葉が止まる。
「――異変に最初に気づいたのは、私だ」
……やっぱり。
やっぱり、そうだったんだ。
「パヴェラム・シュガーの件も含めて、これは偶然じゃない。君たちは、もう“関係者”だ」
関係者。
その言葉の重さが、静かに胸に落ちる。
私は、そっとセシリアさんを見た。
彼女も、こちらを見て、小さく頷いた。
……もう、戻れないな。
でも、不思議と怖くはなかった。
だって。
少なくとも今度は、
一人じゃないって、分かってしまったから。
そう思った瞬間、胸の奥で、微かに何かが軋んだ。
始まり、という言葉はいつも、後から振り返ってようやく意味を持つものだ。
その渦中にいるときは、たいてい、ただの違和感や、胸騒ぎに過ぎない。
「……アリアさん」
セシリアさんが、遠慮がちに私の名前を呼ぶ。
その声は震えているのに、どこか決意めいた響きも混じっていた。
「私、正直……自分が信じられなかったんです」
彼女は、自嘲するように笑う。
「だって、理由もなく、誰かの言葉を“正しい”って思ってしまうなんて……情報室の人間として、失格じゃないですか」
その言葉に、私はすぐ返事ができなかった。
代わりに、室長が静かに首を横に振る。
「いいや。むしろ、優秀すぎたんだ」
「……え?」
「君は“違和感”を覚えた。だからここにいる。それだけで十分だ」
室長の言葉は、慰めではなく、評価だった。
それが分かった瞬間、セシリアさんの肩から、ふっと力が抜ける。
「……ありがとうございます」
短いその一言に、どれほどの感情が詰まっているのか。
私は、なんとなく分かってしまって、胸が痛くなった。
――ああ、本当に似ている。
思考の癖も、怖がり方も、
「自分が壊れているのではないか」と疑ってしまうところまで。
「嵐が来ます」
不意に、室長がそう言った。
窓の外は、まだ穏やかな午後の光に包まれている。
風もない。雲も薄い。
けれど、室長の声には、確信があった。
「見えないところで、もう風は回り始めている。
甘い匂いは、その前触れだ」
私は、無意識に指先を握りしめていた。
あの匂い。
思考が溶けるような、心地よさと恐怖が混ざった感覚。
「だから」
室長は、私たち二人を交互に見て、言った。
「君たちは、互いを“錨”にしろ。
一人で判断するな。一人で抱えるな」
錨。
嵐の中で、船を繋ぎ止めるためのもの。
「……はい」
セシリアさんが答え、
少し遅れて、私も頷いた。
その瞬間、胸の奥の冷えが、わずかに和らいだ気がした。
怖くないわけじゃない。
むしろ、これから起きることを思えば、怖いに決まっている。
それでも。
一人で嵐に放り出されるのと、
誰かと同じ船に乗っているのとでは、意味が違う。
私は、心の中で小さく息を吸った。
――大丈夫。
今度は、流されない。
嵐が来るなら、
その中心に、立ってみせる。




