それから
鬱展開 閲覧注意
それは小さな炎のようだった。最初は誰の目にも留まらないほど、些細で、静かだった。けれど、確かに燃えていた。私たちは、それを見逃さなかった。いや、見逃さなかった——はずだった。
養鶏場周辺一帯の封鎖、地下水や川の水の使用禁止、感染が疑われる人間の隔離。それらはすべて迅速に、万全を期して行われた。カイル室長は昼夜を問わず現地で指揮を執り、コンラッドさんもまた兵を動かし、人々を避難させ、封じ込めのために全力を尽くした。
ロイド・ケイさんは、医療課の中でも数少ない疫学専門家として、あらゆるサンプルを採取し、検査し、危険性を示した。私たち第三情報室も、王都の文官たちも、行政課も、魔術課も、情報を集めては対応策を練り、警告を発した。
けれど——遅かった。まるで、封じ込めようとしたものに意思があるかのようだった。
封鎖の隙間を縫うように、あの病は抜け出した。たった一人。水を、あるいは土を介して。あるいは、風に乗って。あるいは、すでに感染していた誰かが、家族を心配して戻ったのかもしれない。
真実は、わからない。だが、それは確かに外へと漏れた。そして広がった。
最初に倒れたのは、封鎖区域外の農村に暮らす高齢の女性だった。高熱、嘔吐、咳。あれと同じ症状。すぐに医療課が対応したけれど、やがて、その隣家、その向こうの家、その町の市場へと病は広がっていった。
まるで、王国を舐め回すように。誰にも止められないというように、ゆっくりと、けれど確実に広がっていった。
私たちは、もうそれを"対岸の火事"と呼べなかった。火は王都へ、私たちの暮らす場所へとやってきた。
人々は怯えた。けれど、それ以上に"見ようとしなかった"。信じたくなかったのだ。王都には病気など来ない、と。清潔な水と、優れた医療体制と、なにより理性があると。
"見えないもの"は存在しない、と言った人たちがいた。疫病なんて古い言葉だと、噂に過ぎないと、口々に言った。
私たちは訴えた。医療課と連携し、日々報告書を作成し、勧告を繰り返した。第三情報室に所属する者すべてが、自らの限界を超えて働いた。カイル室長も、休むことなく指示を出し続けた。
なのに——
国民の三割が、感染した。老人、子ども、その親たち。貴族も平民も、役人も兵士も関係なかった。誰もが、同じように熱にうなされ、咳き込み、水も受けつけなくなり、床に臥した。
死亡率は決して高くはなかった。大体、千人に一人。それでも、王国全体では数え切れないほどの人が亡くなった。誰かの家族。誰かの友人。誰かの未来。
私たちは、無力だった。
カイル室長は、そのすべてを正面から受け止めた。顔に疲労の色が濃く刻まれ、言葉が少なくなった。決して弱音を吐かない彼が、自分を呪うように小さく言った言葉が今でも胸を刺す。
「……成すべきすべてを成したはずだった。なのに、なぜ……」
アリアである私は、虚無感に打ちひしがれていた。毎日、机に向かい、報告書をまとめ、各課に連絡し、民の不安をなだめる文面を考えた。でも、その一方で問い続けた。
「私の前世の知識は、意味があったの?」
「私は、誰かを救えたの?」
泣きたかった。けれど、泣く暇さえなかった。誰かが倒れ、誰かが助けを求め、誰かが死んだ。その全てを、文官として見届けるしかなかった。
リンジー副室長は、妊婦だったこともあり、早々に産休に入った。けれど、そのときの彼女の表情は、まるで戦場から撤退する兵士のようだった。責任を果たせないことへの悔しさと、命を守らねばならぬという母としての決意。
コンラッドさんも、日に日に顔がやつれ、声が掠れた。エドモンドさんの笑顔も、ついに見られなくなった。他の第三情報室の職員たちも疲れた顔しかしていなかった。
王宮全体が、沈黙に包まれていた。
それでも、私たちは動き続けた。ロイドさんは命を削るようにサンプル検査を繰り返し、魔術課の協力でわずかながらも抗ウイルス薬の研究が始まった。
皮肉にも、疫学、薬学の発展にもつながった。
そうして、やがて——季節が巡った。あの嵐の日から、ちょうど一年。
今日も雨が降っている。あの日と同じ、灰色の空。しとしとと、静かに、まるで全てを悼むように降り続いている。
私は、静かに文机に向かっていた。感染はようやく落ち着いた。水質も回復し、地下水の利用も再開された。養鶏場の周辺はまだ封鎖されたままだが、既に作業員が再整備に入っている。
終わった。
そう言っていいのだろう。
でも、心は終わっていない。私の中の何かが、今もまだ叫んでいる。
「なぜ私は、前世の記憶を思い出したの?」 「もっとうまくやれたはずなのに……!」 「もっと、救えたはずなのに……!!」
私は、誰もいない部屋で泣いた。声を上げて泣いた。喉が枯れても、涙が枯れても泣き続けた。
カイル室長が言ったことがある。
「お前を、必要とするときがきっと来る。それまで知識を蓄えろ」
私はそれを信じた。信じたから、毎日必死に学んだ。でも、今の私にそれを問いたい。
「あのとき、私は必要とされたの?」
答えは、未だわからない。
でも、立ち止まることはできない。ここで止まれば、きっと全てが無駄になる。
あの死者たちの名も、涙も、怒りも。
私は、文机に手を置いた。涙を拭って、顔を上げた。
前を向こう。
ここからもう一度、始めるんだ。
この国の未来を守るために。
そして、あの日のすべてを忘れないために——。




