おかえりなさい
カウンター越しに見知った後ろ姿が見えたとき、思わず立ち上がっていた。
「室長、エドモンドさん――!」
声を張り上げた自分に、まわりの職員たちがちらりと視線を向ける。けれど気にしていられなかった。思ったよりずっと、帰りが遅かったから。不安で、資料を読むふりをしながら何度時計を見たかわからない。
「おかえりなさい。無事で、よかった……!」
その言葉に、カイル室長はわずかに口角を上げただけだった。けれど、そのほんのわずかな笑みが胸の奥を温かくする。
エドモンドさんは「ただいま戻りました」と穏やかに微笑んだ。
少しだけ服が土埃にまみれている。戦闘があったのかもしれない。けれど無事に帰ってきてくれた。それが何よりだった。
リンジー副室長が立ち上がり、書類を手にカイル室長の前へと進み出た。
「ご報告を。ご指示いただいていた“養鶏場”の件、地域管轄課へ正式に封鎖を要請済みです。手続きもすでに完了しています」
「早いな」
「個別にご指示いただいておりましたので」
さすが副室長、隙がない。事前に言われていたんだ。私はその内容を知らされていなかったけど――少しだけ、悔しいような、でもそれ以上に、心強かった。
「助かる」
短く告げて、カイル室長はリンジー副室長から書類を受け取る。
それをそのままデスクに丁寧に置くと、手早くコートを脱ぎ、腕を組んでこちらを見た。
「……アリア」
ビクリ、と肩が跳ねた。何か怒られることしたっけ? いや、でも室長の声はいつも通り――たぶん。
「――少しは、知識を蓄えられたか?」
思わず「はいっ」と答えていた。何も聞かれていないのに、返事だけが先に出た。
するとカイル室長は、ほんの少しだけ、満足そうに目を細めた気がした。
……え、今、笑ってた? 気のせい?
ああもう、ずるい。そんな顔されたらまた頑張りたくなってしまうじゃない。
そのとき、背後で誰かがぼそりとつぶやいた。
「……あれが、笑顔に見えるようになったら末期だな」
リンジー副室長が無表情で「口に出すから末期なんですよ」と返すのが聞こえたけれど、私の耳にはもう入ってこなかった。
それから数日後、ゴルドリバー領主、クァナーマの名が、逮捕者一覧の一番上に記載されている報告書を見た。
「一家もろとも……」
思わず口の中でつぶやいていた。
それだけの大規模な不正だったということ。癒着、横領、そして住民の生活インフラに関わる重大な背任行為――文官の立場から見ても、これは到底見過ごせる話じゃない。
それにしても、あの歯が浮くようなセリフを吐いていたジークの顔が思い浮かんで、少しだけ背筋が寒くなる。
けれど、同時に心のどこかがほっとしていた。
逃げ切られなかった。正当な手続きで裁かれた。それだけで、この国の仕組みがまだちゃんと機能していると信じられる。
「ゴルドリバー領は、当面王国直轄地か……」
リンジー副室長から報告を受けたとき、私は自然とメモを取りながら、心の中で頷いた。代わりの貴族が見つからないのも当然かもしれない。あんな不正の後始末を引き受ける人間なんて、そうそういないだろうし、万一にもまた利権目当ての誰かが座ってしまったら、目も当てられない。
だからこそ、文官の出番なのだ。
少なくとも今の王国には、カイル室長やリンジー副室長のように骨のある人たちがいる。だから、少しだけ未来に希望が持てる。
「ブッセー建設商会も、潰れたか……」
その一報を受け取ったとき、エドモンドさんが静かに「しゃあないことですな」と呟いていた。
代わりに、前からやっていたメイシュン設備組合が、上下水道の設備管理をもう一度引き受けることになったという。
――そして今朝届いた報告書。
『主要部、下水パイプ全交換済。調査に基づき、強度の高い素材へと改修完了』。
その一文に、私は机の上でふぅと息を吐き、背もたれに身を預けた。
「よかった……これで、一つの懸念は潰せた……」
まだ見習いの私でも、あのゴルドリバーで感じた危機感は本物だった。
あのまま何もせずに見過ごしていたら、またいつか、もっと大きな事故や被害が出ていたかもしれない。
だけど。
――まだ、もう一つ残っている。
「養鶏場……」
もう一つの懸念。
それは今も、どこかで静かに進行しているかもしれない。ウイルスは、人に届くころにはもう手遅れになっていることが多い。だからこそ、早めに潰しておきたい。
私は報告書を閉じ、次の資料へと手を伸ばした。まだできることがあるはず。
この国のどこかにある“予兆”を見逃さないように――。




