表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/5

まだ、間に合う気がして。

窓から、光が差し込む。


目を覚ました瞬間、久しぶりに、心地良さがあった。


今日は、夢を見なかったのだろう。


心地よいはずなのに、どこか寂しかった。


起き上がると、昨日の歩き疲れが、まだ体に残っていた。

軽く伸びをしても、どこか重たくて、だるい。


今日も、変わらない。


洗面所までの廊下が、ほんの少しだけ、長く感じた。


ふと目の前の鏡を覗き込むと、そこに映る自分は、少し日に焼けていた。

そこには、夏の光の痕跡が、かすかに残っている。


顔を洗い、タオルで拭く。

水の冷たさに、ようやく意識がはっきりとしてくる。


『何かが、変わったのだろうか。』


昨日と、同じ疑問。

昨日よりも、祈るような疑問。


「……かわれたんだろうな」


自分でも驚くほどに、掠れた声だった。

その声は静かに、夏の空気に掻き消えた。


ーーカタン。


僕を包み込む、焦りと、落ち着きと。

それを遮るように、色のない音が部屋に響く。


ふいに目線が、音の在処を探す。


郵便受けに、ひとつ、小さな白い封筒が、静かに届いていた。


その白さは、まるで今朝の光を吸い込んだかのように、柔らかくて、眩しかった。


僕は数秒だけためらってから、郵便受けへと足を運んだ。


静かに、封筒へと手を伸ばす。


手触りは、思ったよりもしっかりしていた。

それは、わけも分からず、どこか懐かしかった。


宛名はなかった。

差出人もなく、無地のまま。


裏返すと、封は丁寧に閉じられていて、そこにはただひとつだけ、金色の小さな丸いシールが貼られていた。


その封を破ることを、少しだけ躊躇した。


中には、綺麗に折りたたまれた1枚の便箋。


僕はゆっくりと、中を覗き込んだ。

そして、文字を見た途端、世界の時間が、少しだけ止まった。


見覚えのある、いや、ーー。


『久しぶりだね。』


忘れるはずのない、彼女の字だった。


『あの春の日、私がいなくなってから、あなたがどんな時間を過ごしていたのか、私は知らない。

でも、あなたはきっと、ずっと私を覚えていてくれたんだと思う。


本当は、もっと一緒にいたかった。

もっと夏を、秋を、冬を、春を――いくつも重ねて、あなたの隣にいたかった。


でも、どうしても越えられない季節があって。

私の時間はもう、長くなかった。


伝える勇気がなかった。

あなたの隣で、それを語ることが、どうしてもできなかった。


怖かったんだ。

いなくなることも、でもそれ以上に、あなたの前で弱っていく自分を見せることが。


もし、私の存在が、あなたのどこかにまだ残っているなら。

それだけで、嬉しいんだ。


ありがとう。

きっとどこかでまた、会えるよね。』


読んでる最中、何度も手紙を落としそうになった。


僕はしばらく、動けなかった。


街の喧騒も、消し忘れたテレビの音も、うだるような夏の暑さも。

それら全てが、遠ざかっていった。


悲しさと、悔しさと、でもどこか、温かさと。

僕はただ、その場で立ち尽くすしかなかった。


それでも僕は、もう一度だけ、その手紙を読み返した。


一文字ずつ、丁寧になぞるように。

まるで、その言葉が本当にそこにあることを、確かめるみたいに。



陽はいつの間にか、落ちていた。


カーテンの隙間から除く空は、群青色に染まりかけている。


部屋の灯りをつけることもなく、机の上に置かれた手紙を、ただ見つめていた。


風が、窓の隙間から忍び込んでくる。

カーテンの向こうに、どこか遠くの誰かの笑い声が聞こえた。


静けさの中に、現実の輪郭だけが取り残されている。


手紙を手に取り、彼女の字を、もう一度なぞる。


そこに込められた想いが、彼女がひとりで 背負っていたものが、時間を超えて、ようやく僕に届いた気がした。


「……ずっと、遅すぎたんだ」


ぽつりと呟いた声が、少し冷めた夏に、溶けていく。


でも、それでも。


それでも、まだ間に合う気がした。


届かなくたっていい。

ただ、自分の足で、自分の目で、自分の耳で。

彼女の残した季節を、もう一度辿ってみたい。


手紙を胸にしまい、僕は静かに立ち上がる。


風が優しく、頬を撫でる。


「……彼女に、会いに行こう。」


小さな、でも確かな決意が、心に灯る。


僕は、歩き出した。


彼女は、どこにいるのだろうか。

僕には、わからない。


でも、歩き出したその先に、彼女がいる気がした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ