まだ、間に合う気がして。
窓から、光が差し込む。
目を覚ました瞬間、久しぶりに、心地良さがあった。
今日は、夢を見なかったのだろう。
心地よいはずなのに、どこか寂しかった。
起き上がると、昨日の歩き疲れが、まだ体に残っていた。
軽く伸びをしても、どこか重たくて、だるい。
今日も、変わらない。
洗面所までの廊下が、ほんの少しだけ、長く感じた。
ふと目の前の鏡を覗き込むと、そこに映る自分は、少し日に焼けていた。
そこには、夏の光の痕跡が、かすかに残っている。
顔を洗い、タオルで拭く。
水の冷たさに、ようやく意識がはっきりとしてくる。
『何かが、変わったのだろうか。』
昨日と、同じ疑問。
昨日よりも、祈るような疑問。
「……かわれたんだろうな」
自分でも驚くほどに、掠れた声だった。
その声は静かに、夏の空気に掻き消えた。
ーーカタン。
僕を包み込む、焦りと、落ち着きと。
それを遮るように、色のない音が部屋に響く。
ふいに目線が、音の在処を探す。
郵便受けに、ひとつ、小さな白い封筒が、静かに届いていた。
その白さは、まるで今朝の光を吸い込んだかのように、柔らかくて、眩しかった。
僕は数秒だけためらってから、郵便受けへと足を運んだ。
静かに、封筒へと手を伸ばす。
手触りは、思ったよりもしっかりしていた。
それは、わけも分からず、どこか懐かしかった。
宛名はなかった。
差出人もなく、無地のまま。
裏返すと、封は丁寧に閉じられていて、そこにはただひとつだけ、金色の小さな丸いシールが貼られていた。
その封を破ることを、少しだけ躊躇した。
中には、綺麗に折りたたまれた1枚の便箋。
僕はゆっくりと、中を覗き込んだ。
そして、文字を見た途端、世界の時間が、少しだけ止まった。
見覚えのある、いや、ーー。
『久しぶりだね。』
忘れるはずのない、彼女の字だった。
『あの春の日、私がいなくなってから、あなたがどんな時間を過ごしていたのか、私は知らない。
でも、あなたはきっと、ずっと私を覚えていてくれたんだと思う。
本当は、もっと一緒にいたかった。
もっと夏を、秋を、冬を、春を――いくつも重ねて、あなたの隣にいたかった。
でも、どうしても越えられない季節があって。
私の時間はもう、長くなかった。
伝える勇気がなかった。
あなたの隣で、それを語ることが、どうしてもできなかった。
怖かったんだ。
いなくなることも、でもそれ以上に、あなたの前で弱っていく自分を見せることが。
もし、私の存在が、あなたのどこかにまだ残っているなら。
それだけで、嬉しいんだ。
ありがとう。
きっとどこかでまた、会えるよね。』
読んでる最中、何度も手紙を落としそうになった。
僕はしばらく、動けなかった。
街の喧騒も、消し忘れたテレビの音も、うだるような夏の暑さも。
それら全てが、遠ざかっていった。
悲しさと、悔しさと、でもどこか、温かさと。
僕はただ、その場で立ち尽くすしかなかった。
それでも僕は、もう一度だけ、その手紙を読み返した。
一文字ずつ、丁寧になぞるように。
まるで、その言葉が本当にそこにあることを、確かめるみたいに。
陽はいつの間にか、落ちていた。
カーテンの隙間から除く空は、群青色に染まりかけている。
部屋の灯りをつけることもなく、机の上に置かれた手紙を、ただ見つめていた。
風が、窓の隙間から忍び込んでくる。
カーテンの向こうに、どこか遠くの誰かの笑い声が聞こえた。
静けさの中に、現実の輪郭だけが取り残されている。
手紙を手に取り、彼女の字を、もう一度なぞる。
そこに込められた想いが、彼女がひとりで 背負っていたものが、時間を超えて、ようやく僕に届いた気がした。
「……ずっと、遅すぎたんだ」
ぽつりと呟いた声が、少し冷めた夏に、溶けていく。
でも、それでも。
それでも、まだ間に合う気がした。
届かなくたっていい。
ただ、自分の足で、自分の目で、自分の耳で。
彼女の残した季節を、もう一度辿ってみたい。
手紙を胸にしまい、僕は静かに立ち上がる。
風が優しく、頬を撫でる。
「……彼女に、会いに行こう。」
小さな、でも確かな決意が、心に灯る。
僕は、歩き出した。
彼女は、どこにいるのだろうか。
僕には、わからない。
でも、歩き出したその先に、彼女がいる気がした。