少しだけ、違う今日。
久しぶりに、夢を見た。
君は笑い、僕は泣いていた。
なぜだろう、分からない。
彼女の夢を見る時は、決まってそこは春だった。
僕は手を伸ばす。
けれど、それを嘲笑うかのように、彼女は消えていく。
霧となって、春風へと溶けていく。
目が覚めた時、枕は湿っていた。
それが夢のせいなのか、ただの汗なのか、よく分からなかった。
「……あつ」
日常によく馴染んだその言葉が、いつものように漏れ出る。
昨日と同じ、暑さの中。
昨日と同じ、動いていない扇風機。
昨日と同じ、やることのない夏休み。
でも。
今日は少しだけ、違うことをしてみようと思った。
意味なんてなくたっていい。
動けば、何かが変わる気がした。
僕は淡くも、そう信じている。
今日は、出かけてみることにした。
歯を磨く。
洗面所の鏡に映る自分の姿が、少しだけ他人に見えた。
いつもと違う服に、着替えてみる。
僕はゆっくりと、服を脱ぐ。
色あせたTシャツ。
かつては、鮮やかな空色だった、彼女との思い出の、ひとかけらのような。
Tシャツを丸めて、洗濯機に放り込む。
柔らかくて、どこか重たくて。
僕は新しいシャツを手に取る。
買ったのはたしか、去年の秋頃……だったっけ。
白くて、まだどこにも記憶が染み付いてない、真新しい布。
着るのは多分、初めて。
支度を終えて、玄関に立つ。
床が軋み、どこか落ち着かない音をたてる。
蝉の声が、熱気に溶けて運ばれてくる。
まるで、僕が来るのを待っているかのように。
鏡に映る自分の姿は、やっぱりどこか見慣れない。
でも、悪くない。
そんな気がした。
「……行ってきます」
そう言っても、誰にも届かない。
でも僕は、僕に言い聞かせるようにそう言った。
ドアを開け放つと、熱気が体を包み込んだ。
「……あつ」
漏れ出た言葉は、朝と同じ。
でもそれは、少し違って響いた。
最近は、暑いらしい。
昨日誰かがそんなこと、言ってたっけ。
足元のアスファルトが、本物の太陽のように、辺りの空気を熱していく。
空はまぶしくて、白っぽくて、見上げると目の奥がジンジンと痛んだ。
影の少ない道を歩く。
いつものコンビニも、図書館も、今日は通り過ぎる。
どこに行くかは、まだ決めていない。
ただ、"いつもと違うところ"に、行きたかった。
遠くで、子どものはしゃぐ声が聞こえる。 風鈴の音が、かすかに混ざる。
歩くたびに、夏がある。
知らない誰かの、僕の夏を彩るような。
感情もなく、ただ歩いた。
誰もいない公園。
どこまでも続く道の、先にある陽炎。
気付けば僕は、こんなにも歩いていた。
目的なんてなかったけれど、それでも、どこかへ向かっていた。
途方もなく続く道のその先に、何かが待っている気がした。
夕陽は沈み、僕は家にいる。
疲れきって、横たわっていた。
何かが、変わったのだろうか。
目を閉じると、今日の白いシャツが、少しだけ肌に張り付く感触がした。
「やっぱ……あつ」
僕はそう呟いて、眠りに落ちる。
今夜もまた、夢を見るだろうか。
君が笑って、僕も笑う。
そんな夢を、見れたらいいな。