明日は、少しだけはやく。
朝、蝉の声で目が覚めた。
「……あつ。」
天井を見上げる。
扇風機の首振りが止まっていて、部屋の空気がじっとりと重い。
昨夜、寝る前にタイマーをかけたことを思い出しながら、もう一度ため息をついた。
七夕祭りから、数日が経った。
あの夜の風や音や色は、すぐに日常へと溶けて薄くなっていった。
夢みたいだった。
でも、夢じゃなかった。
スマホのアルバムには、あの短冊の写真が残っている。
「……おはよう。」
部屋には誰もいないのに、つい口に出してしまう。
自分の声が、少しだけ間抜けに響いた。
キッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。
相変わらず足取りは重く、遠く感じる。冷たい水をグラスに注ぎ、氷を一つ、落とす。
カラン、という音が静かに響く。
昔、君は「この音好き」って言ってた気がする。
記憶はまるであいまいで、でも、それだけがやけにリアルだった。
一口、喉を潤してから、スマホを手に取る。
通知はほとんど来ていない。
日課のようにSNSを開いてみるけど、特に変わったことはなかった。
スクロールしていると、誰かが撮った祭りの写真が流れてきて、指が止まる。
光と笑顔と、願い事の山。
あの時の夜と同じ景色なのに、自分だけ別の時間を歩いていた気がする。
指を止めたまま、しばらく画面を見つめていた。
昼を過ぎても、やることはなかった。
夏休み。
こんなに長かったっけ、と思う。
家にいるのが息苦しくて、少し外に出てみることにした。
久しぶりで、忘れていた。
玄関のドアを開けた瞬間、熱気が肌にまとわりついてくる。
「うわ……」
思わず引き返しそうになったけれど、なんとか足を前に出す。
目指すのはコンビニ。
ただ、それだけ。
目的がないと、外に出る理由を作れない。
だから、飲み物を買いに行く。
たったそれだけのことに、意味をつける。
蝉の声が、頭の中まで染み込んできそうだった。
コンビニに着く。
最寄りではなく、少し離れたところまで。 特に理由なんてなかった。
公園の横を通ると、子供たちが走り回っていた。
日差しが眩しくて、少しだけ目を細める。
見覚えのある風景が、広がる。
数日前、願いを置いてきた夜。
風鈴の音が、聞こえた場所。
足が自然と、あの日のベンチへと向かう。
今はもう、誰もいない。
風鈴も、取り外されていた。
だけど、その静けさが妙に心地よかった。
僕はそこに座って、さっき買った麦茶を飲む。
目を閉じて、風の気配を感じる。
頭の中に、君の声で、ふと蘇った。
"また、会えますように。"
誰が書いたかわからない、あの短冊の願い。
だけど、どうしてだろう。
あれからずっと、胸の奥に残ってる。
届かなかった言葉。
届かなかった想い。
その全部が、今も僕の中で続いている。
「……バカみたいだな。」
そう言って、笑ってみる。
だけど、少しだけ胸が軽くなった気がした。
日が沈んだ。
シャワーを浴びて、Tシャツのままベッドに寝転がる。
窓を開けると、遠くで花火の音が聞こえた。
視界には入らない。
音だけ。
でも、確かに夏はそこにある。
君は、花火が好きだったっけ。
それとも、うるさいって言ってたっけ。
思い出せそうで、思い出せない。
記憶は、まるで水の中の光みたいに揺れている。
スマホを手に取って、あの写真をもう一度見る。
"いつか君に、届きますように"
思い出じゃない。
まだ、手放せないんだ。
でも、この気持ちがずっと重たいままじゃ、君だって困るだろうなって。
少しだけ、そう思った。
だから、明日は少しだけ早く起きてみよう。
何かを始めるわけじゃなくていい。
ただ、少しずつ、少しずつでいい。
今はまだ、蝉の声がうるさくて、 氷の音が唯一の慰めで。
でも、たぶん、 それでも生きてるってことなんだ。
静かに、また夜が過ぎていく。