忘れないように。
1年と少し前、暖かい春の日だった。
ーーさようなら。
そんな残像を残して、君は消えた。
桜が、静かに舞っていた。
花びらが風に溶けていく。
まるで、君の言葉みたいだった。
あっけなくて、でも、やけに静かで。
あの日から、季節が巡る度、僕は思い出す。
君の声。
君の背中。
そして、届かなかった僕の手。
もう君はいない。
でも、どこかでまだ、春風に紛れて、 君の声が聞こえる気がするんだ。
「暑い……。」
今年も7月に入った。
もう春の面影はなく、夏の日差しが容赦なく照りつける。
エアコンの効いた部屋で、僕はぼんやりと天井を見上げている。
窓の外からは蝉の声がかすかに聞こえてきた。
最近はずっとこんな調子だ。
何をするわけでもなく、ただ時間だけが過ぎていく。
僕は立ち上がり、少し離れた冷蔵庫まで歩く。
気力がないからか、どこか遠く感じる。
グラスに水を注ぎ、それから氷を取り出す。
氷がカランと音を立てるのが、今の僕の唯一の刺激だった。
街の喧騒をよそに、1口水を飲む。 僕はそっと息をついた。
スマホの画面をなんとなく眺めて、SNSの通知を確認する。
特に大したことはなかった。
友達が七夕祭りの話をしていたくらい。
でも、行こうとは思わなかった。
「最近、外出てないしなぁ……。」
だからこそ、行かなくてはいけないのでは。
そう思ったが、それは心の内にそっと閉まった。
"多分、七夕祭りは行かない。"
友達にそう返事をした数日後、僕は七夕祭りに来ていた。
理由はないし、心変わりした訳でもなかった。
色とりどりな屋台が所狭しと並んでいる。
僕はそこを、あてもなく歩いた。
着いた場所は、人混みから少し離れた場所にあるベンチだった。
僕は静かに腰を下ろして、風鈴の音に耳を傾ける。
どこかの屋台から流れてくる音楽と、子供たちの笑い声。
そのどれもが、遠く感じた。
「……なんで来たんだろうな。」
独り言のように呟いてみても、返事は返ってこない。
ふと、風が吹いた。
短冊が揺れて、笹の葉がささやくように擦れる。
目の前の広場に、ひときわ目立つ大きな笹飾りがあった。
それは数え切れないほどの願いを、優しく包み込んでいた。
何気なく立ち上がって、その中へと足を向ける。
目で追うように、短冊を眺めていた。
ふいに、目線が止まる。
それはひとつだけ、やけに古びていた願い事だった。
色も少しくすんでいて、今年のものじゃないかもしれない。
"また、会えますように"
そこにはたった一言、そう書かれていた。
胸の奥が、わずかに締め付けられる。
それは、ありふれた願いのはずなのに、どこか、懐かしかった。
僕は手を伸ばしかけて、やめた。
代わりにそっと目を閉じて、風の音に、祭りの喧騒に、耳を澄ます。
ーー君だったら、どんな願いを書いただろう。
あの春の日、何も言わずに去っていった君のことを、僕はまだちゃんと知らないままだ。
目を開けると、夕暮れが空を紅く染めていた。
僕は短冊をひとつ、手に取った。
そして、ペンを走らせる。
"いつか君に、届きますように"
スマホを取り出し、カメラを起動する。
僕はその願いに、そっとピントを合わせた。
ーーカシャ。
誰に見せる訳でもなく、ただ、忘れないように。
辺りはだんだんと、夜の帳に包まれていく。
遠くで花火が上がり始めた。
一瞬、また一瞬と色とりどりの光が夜空を照らす。
夏の匂いと風の煙が、風に乗って運ばれてくる。
僕の胸の中の静かな痛みも、風に溶けていくようだった。
僕は願いを胸にしまって、歩き出した。
何も変わらないまま、静かに夜が過ぎていく。