九
薄青の球体は、砂というよりかは泥だんごのようだったが、少し輝いていた。ミドリは手の中にあるこの謎の物体をころころ転がしている。見た目のわりに手触りが良く、不思議なものだった。
私にも触らせてと郷が言うので、ミドリは彼女に渡す。白い手の中で球体は行ったり来たりする。近づいてきたヤネもまじまじとそれを見つめた。
「想憶の砂。記憶戻しの砂…だったか」
「何だヤネ、お前は知っているのか」
「少し聞いたことがあるだけだ。具体的なことは何も知らない」
想憶の砂。とある人間によって作られた記憶戻しの砂。効果、副作用、製造方法などは不明。存在すらほとんど確認されていない。実際使用した人間はごくわずかであり、一種の伝説とされる。
「で、そんなものをなぜだかお前が持っているんだな」
「伊達に二千年は生きてない。生きていればそんなこともあるものだ」
二千年も生きてるの?嘘でしょ。サラッとカラが言った言葉にミドリは驚愕した。でも、確かに、彼の声は威厳があるし納得はできる。神獣はやっぱり普通じゃないのだろう。それに、
”自身の保身のために、人は時に残酷になることもある”
彼の言葉をふと、思い出す。きっとその漆黒の瞳でたくさんのものを見てきたのだ。いいことも悪いことも。ちらりとミドリが顔を覗くと、カラは不思議そうな顔をする。そうして郷から砂を受け取ると、
「閃、お前は記憶がないけど、これさえあれば元に戻せるんだ」
「本当に…?」
「ああ。ただ…どこまで戻るかは分からないが」
少し口をもごもごさせたカラに、すかさずヤドは、
「分からないってどういうことだ。あんたはそんなものをミドリに使わせる気か」
神獣の中でも特別な、五神獣の一員であるカラですらその作用が分からないことがあるのか。何の変哲もないその物体がヤドには薄気味悪く思われた。そんなものをミドリに使って万一のことがあったらと思うと、それを使わせる気にはなれなかった。
ヤネに口調を諭されながらヤドはじっとカラを見る。そんな彼にカラは真剣なまなざしで、
「この砂は使用例が少ない。故にこの量の砂でどのくらい記憶が戻るのか分からない」
「まあ、それはそうだな」
ミドリは頷きながら呟く。例が限られているのなら細かいことは分からないだろう。伝説とまでされるものなのだ。現物があるだけでもかなり凄いことだ。
「俺が見た限りではこれ自体に危険性はないと思う。だが、使うか使わないかは閃に決めてほしい。もし不安があるなら無理に使う必要はない」
決定権を委ねられ、ミドリは少し考える。確かに使用例は少ないが、仮にも土の神獣であるカラが安全というのであれば平気だと思う。それにこの砂、なんだか不思議な感じがする。普通のものじゃないけど、でも嫌な感覚はなくてむしろ心地よさすらあった。真っすぐ俺を見ていたカラに、
「俺、使いたいよ、これ。どんくらい戻るか分からないけど、使ってみたい」
「…了解。そこの少年もいいか?」
顔を向けてヤドの方を向く。彼は軽くため息を吐いて、
「俺が口出しすることじゃないだろう。ミドリがいいならいい」
「さっき口出したじゃん」
ミドリが言うとヤドは頭をこつんと叩く。うるさい、余計なこと言うな。何も言わなかったが彼の心の声が聞こえた気がした。小突かれたところを両手で押さえながら、ミドリはカラへ視線を送る。
「で、俺はどうすればいいんだ」
真昼の太陽が窓越しに熱を送る。部屋の扉を開けた瞬間、籠った空気が一気に身体を包んだ。渋い顔をしながらミドリは部屋の中へ入っていく。ついで、ヤド、郷、カラの順に入る。
いつも寝ている布団の上にミドリは寝ころぶ。横になってくれとカラに言われたからだった。ミドリはわざわざ布団のある部屋に行く必要はないと思っていたが、カラがどうしてもと言うので移動してきたのである。ヤネは外の人たちに呼ばれ、席を外していた。
近くにいる郷はどこか祈るように、両手を合わせて強く手を握っている。眉間によったヤドのしわは、深く刻み込まれていた。二人の顔を見ながら閃は苦笑する。もう少し気楽にしてほしいんだがな。そんな顔されると俺が不安になる。
カラに促されミドリはゆっくりと瞼をおろす。目を閉じたミドリの前に近づくと、カラはミドリの額に手を当てた。ピクっと少し瞼が動いたが、しだいに寝息が聞こえてくる。郷は口をあんぐり開けて、
「何今の」
「心配するな。ちょっと眠ってもらっただけだ」
ふー、と息を吐いてカラは砂をミドリの上半身に落とし始めた。砂はさらさらと彼の手から流れ、ミドリの肌に触れると吸い込まれていった。最後の粒がミドリの身体の中へ消えていき、カラはヤドたちの方を見る。
「これで終わりだ。目を覚ましたら、多分、記憶が戻っているはずだ」
「思ったよりあっけないな。本当に大丈夫か」
そう言うヤドの表情はかたい。静かな寝息をたてていたミドリの表情が少しずつ曇っている。額の汗が徐々に増えていくのを郷が布切れで拭う。どこか苦しそうなミドリをヤドは見ていられなかった。カラは近くの椅子に腰かける。
「多少辛いかもしれないな。失った数年の記憶をこの短時間で取り戻すのに身体はなかなか耐えられない」
「ミドリ…」
キュッと唇を噛んで、ヤドは苦しむミドリを見守る。代わってやれるのなら代わってやりたい。カラはそんなヤドを見て、なんてこともないように、
「そんなに暗い顔をするな。別に死ぬわけじゃない」
「っ!そういう問題じゃないだろ!」
思わず激昂する。郷は驚いたようにビクッと肩を震わせた。感情を制御できないままヤドはカラを睨みつける。
「あんた何とかできないのかよ。寝かせたって苦しそうじゃないか。あんたが持ってきたものでミドリは苦しんでいるんだ。こんなに辛そうなのに何も、何も感じないのかよ」
「ヤド、やめて」
手を掴んで郷が止めるが、ヤドには届かない。痛みや苦しみは残ったりするんだ。死ななければそれでいいなんて、そんなわけないんだ。なのにこいつは、何でそんなに平気そうなんだ。言葉に詰まりながらヤドは、
「あんたは神獣だから…だから、あんたなんかにこっちの気持ちなんて何も分からないのかもしれないけどな…」
「やめなさい。それ以上言ったら許さないよ」
掴む手が強くなり、ヤドは振り返る。冷ややかな怒りが彼女の瞳から真っすぐ自らに差しているような感覚。熱くなっていた感情が一気に冷え込んだような気がした。ここまで怒る郷をヤドは見たことがない。郷は手を離すと、カラの方を向き、
「すみません、カラさん。感情的になってしまって」
静かにお辞儀をした。そうして、カラのそばまで歩いて、そっと彼の手を持つ。その時初めてヤドは、カラの手から血が溢れていることに気づいた。彼の長い爪の中にまで血は入り込んでいて、地面にポタポタと音を立てて落ちている。
何も言わないカラの髪がふわりと揺れる。真珠の髪は外からの陽光でキラキラと反射していたが、浮かない彼の表情とはあまりにもアンバランスだった。郷は部屋にある救急箱でカラの手当てをしている。そうして、黙ってしまったヤドに、
「ヤド、カラさんは私たちよりもミドリくんのこと知っているんだよ。わざわざミドリくんの記憶が戻るようにここまで来てくれたんだよ。それなのに…何も感じないわけないでしょ」
ああ、そうだ。何も思わないわけないんだとヤドは気づく。ミドリに本当は自分のこと思い出してほしいだろうに、怖いならこの砂を使わなくていいとも言った。今、本当は自分だって不安なのに、それでも俺を気遣おうとした。へたくそだったけど。そんな彼が、
「何も思わないわけなかったのに俺は…」
ひどいことを言った。本当に、最低だ。相手が傷つくかもしれないなんて想像できたはずなのに。怒りで周りを見ることもできなかった自分が情けなくて、ヤドはちぎれそうなくらい唇を噛みしめる。
「本当に、本当にすまなかった。ひどいことを言った。」
深く、深く頭を下げた。郷も同様にお辞儀をする。それを眺めながらカラは微かに笑いかける。
すみません。編集した関係で中途半端なところで終わってしまって。続きます。