七
空はあの日と同じように真っ青だった。家にいると何かをする気分にはならない。ミドリは退屈しのぎに窓際を掃除していたが、毎日やっていると汚れが完全に落ちてしまい、再びすることがなくなった。
「退屈、暇、億劫…あとなんかあったっけ」
今の自分を表す言葉をぼけっと探しながら、部屋を眺める。と、ミドリの目に花瓶が映った。かすかに動く水面を見て、ふと、郷のことを思い出す。
水を扱う、いや、操る。後からヤネに聞いたが、特別な力を持つのは中央の人間が多いらしい。それにヤドがかつて言っていた中央の秘密兵器。六年前、傷だらけで倒れていて、漠然とした恐怖心が残る郷。もしかしたら郷は…。
そこまで考えてミドリは考えるのをやめる。今、郷は幸せなんだ。彼女の過去のことに俺が踏み込むべきじゃない。
他のことを考えようとまた部屋を見渡す。やたらきれいな窓際とは異なり、全体的に埃被っている。窓から入り込んだ光が辺りを舞っている埃を映し出していた。
「掃除でもするか。ヤネさん喜ぶし」
腕を捲り、窓のそばに置いてある雑巾をとってこようと歩いたミドリは、窓の外で人がしゃがみ込んでいるのに気づいた。
「な、大丈夫か」
外出禁止と言われたことも忘れて、ミドリは家から飛び出す。陽射しが差し込む外でかがんでいたのは見覚えのない男であった。ミドリは男に視線を合わせて、
「あの、大丈夫ですか」
あわあわしながら男に尋ねる。周りには人がいない。体調が悪いなら俺がどうにかしないといけない。男は顔を上げなかったが、どこか落ち着いた口調で、
「ああ、平気。ただ、暑さにやられたようだ。すまない、どこか休む場所はないか?」
「じ、じゃあ、こっち来てください」
男を連れてミドリは家に入る。部屋の椅子に座らせた後、慌ててコップいっぱいに水を入れ、彼に渡す。男は軽く礼を言って水を飲んで、一息ついた。
「実は道に迷ってしまってな。外も暑いし、困っていたんだ」
「それは…大変でしたね」
「ありがとうな。本当に助かった。感謝している」
そう顔を上げた男の顔を見て、ミドリはぎょっとする。真珠色の髪、漆黒の瞳。真正面から見た彼はおよそ人とは思えぬほどの美しい容姿をしていた。ミドリはたじろぎながら、
「いえ、当たり前のことをしただけなので…」
「当たり前じゃないさ。みんなが君と同じことをするわけではない」
穏やかな表情で男は述べる。彼の持つコップに入っているのは水のはずなのに、もう少し神秘的な液体に見える。コップを置いた男はどこか遠くを眺めながら、
「人によって当たり前と言えるものは違う。人を傷つけることを何とも思わぬ者もいる。自身の保身のために、人は時に残酷になることもある」
男は何が言いたいのだろう。ミドリには分からなかった。ここではないどこか遠くを見ていた男の目は一瞬、光を失ったようだった。が、ミドリの方を向いた彼は透き通るような瞳で、
「それでも人間には君のように暖かいものもいる。誰かに与えた優しさを当たり前と言える時点で君は素晴らしい人間だ」
「そう…かな。嬉しいな」
「そうだ、自信を持て。ただもう少し危機感は持ってほしいが」
と、突然、男は立ち上がりミドリに近づく。大きな男に視界が塞がれ、ミドリは戸惑った。え、何。そう思った瞬間、
「お前、何の用だ」
低く、冷たい声が身体の芯に響く。後ろに引っ張られたミドリはよろけながら前を向くと、ヤドが目の前に立っていた。苛立ちを隠そうともしない彼は、男を睨みつける。それを何とも思わぬようで、男は笑いながら、
「水を頂いていただけだ。そこの親切な少年から」
男に同意を求められ、ミドリはうんうんと首を振る。それでもなお、ヤドは冷たい視線を男に向け、ミドリを守るように立ちふさがる。
「あんた、この辺の人間じゃないだろ。どこから来た」
「別にどこからでもいいだろう。なんだ、この村ではそんなことを問題にするのか」
「怪しい人間は疑う。今の時世、そんなことは普通だ」
挑発するような男の口調に、いたって冷静にヤドは受け応える。その様子を少し離れた場所でハラハラとミドリは見つめていた。ヤドは何を神経質になっているのか。声をかけようとしたが、何となくピリついた彼には何を言っても無駄なような気がする。
「あんた、何者だ」
「ヤド、この人は道に迷ったって…」
「そういうことじゃない。あんた、普通の人間じゃないだろ」
彼の白銀の瞳はまっすぐに男を見据えていた。当惑したミドリが男の方を向くと、彼はちょっと笑って、
「へぇ、さすが、あいつの息子だけはあるな」
そう言って男が扉の方を向いた瞬間、ヤネが慌てた様子でやってきた。後ろには郷もいる。走ってきたのか、少し息を切らしながら、
「ヤド、落ち着け。こいつは危ないやつじゃない。私の勘違いだった」
二人の間に入ったヤネは、なだめるような口調をしていた。勘違いとは何だろう。疑問符がミドリには浮かんだが、何となくそれを今聞ける状態ではないことも理解しているので黙って目の前の三人を見つめる。男はヤネの方を向いて、
「ヤネ、久しぶりだな」
「急に何しに来たんだ。こんな村に。お前のような奴が来る場所ではないが」
「ああ、別に俺はこの村に用はない。閃に会いに来ただけだ」
そう言った男はミドリに顔を向ける。と、同時に他の三人もこっちを見る。視線を一斉に集めたミドリはどこかキョトンとして、
「え、もしかして俺のこと?」
「ふざけている…わけじゃなさそうだな」
「いや、だって俺…」
どこか困惑したようにミドリは口をもごもごさせる。記憶がないのに分かるわけもない。そんなこと男は知らないんだろうけど。でも、センっていうのどこかで聞いたことがあるような…。ぐるぐる一人でミドリが考えていると、ヤネが、
「ミドリは記憶がないんだ」
「やっぱりそうか。道理で林で逃げられたわけだ」
男の言葉に目を見開いたミドリは思わず郷と顔を見合わせる。あの日、聞こえた声。低くて威厳のある、あの声。
”閃、待ってくれ、閃!”
戸惑いつつ、男の方を向く。真珠色の髪、漆黒の瞳。そうだ、あの獣と同じ色。だけど、本当に…?微かに声を震わせながら、ミドリは、
「君は、林にいた獣か…?」
男は少し笑ったようだった。そして、突然、眩く光った。光にミドリと郷は困惑していたが、どこか落ち着いた様子でヤドとヤネはそれを見守る。次第に光が落ち着くと、そこから大きな獣が現れた。あの日、林で会った、その彼だった。首を絶え間なく動かしながら、ミドリは獣に、
「君は、いったい何なんだ。え、獣が本物?何で人になれたの。ていうか、俺のこと知っているの?」
「落ち着け。これから一つずつ説明してやる」
「落ち着けるか!聞きたいことが山ほどあるんだよ俺は」
「あー、うるさいな。記憶がないからもう少し大人しくなると思っていたのだが、残念だな」
「どーいう意味だそれ!お前、絶対褒めてないだろ!」
ギャンギャン叫んでいるミドリは、自らが得体のしれないような目で見られていることに気づいた。獣を除いた三人は、男が獣になった時よりも驚いたような顔をしている。ちょっと当惑しながらミドリは、
「あの、どうしたの。何か、えっと、どうしたの」
三人を順に眺める。郷は目を丸く、ヤネは何か考えるような態勢をとっている。黙っていたヤドは信じられぬような瞳であった。そうして、獣を指さしながら、
「ミドリ、お前もしかしてそいつと話をしているのか」
すみません。編集してしまいました。