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想憶の砂  作者: 凡
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「あ、え、あ」

「ミドリくん、落ち着いて」

 突然現れた大きな獣に冷静になれという方が無理である。柔らかそうな毛でありながら、その顔には威厳があるようで、どうにも恐ろしさ以外の感情なんて出てきやしないのだ。

 何もいえないミドリは動くこともできず、口をパクパクさせているだけだった。真珠色がだんだんと近づいてくる。寒気がして、全身に鳥肌が立つ。や、やばい。思わず目を閉じた…。

「ミドリくん、行くよ」

 落ち着き払った声が聞こえたと思うと、ミドリは強く引っ張られる。目を開けると郷が手を掴んで走っていた。獣は、とミドリが振り返ると、なぜだか大きな氷が道を塞いでくれていた。

「郷、あれ…」

「振り向かないで走って。説明はあと」

 いつもと異なる郷の様子にも戸惑いながら、ミドリはただ走る。と、また、大きな揺れが地面越しに伝わってくる。ちょっと振り向いた郷は、突然、手に持っていた筒の水を獣の方へとかけた。そんなことしたらかえって怒らせるんじゃ、とミドリが焦ると、水は急激にその量を増やして、一瞬で氷の壁を作った。

「は、え、何…」

「だから説明はあと。ミドリくん、私にしっかり掴まって」

 今度は自分たちの前に郷が水を流すと、氷の道が出来上がる。何が何やら分からないミドリはおかしくなりそうだった。

「え、何、ここ滑るの?」

「大丈夫、水で滑れば多分逃げ切れる」

 いや、違う、俺が今怖いのは郷だなんて言えるはずもない。背後からはまた獣が近づいている音がする。ミドリが郷の手を強く握ると、郷は勢いよく氷の道を滑る。林の傾斜で速度が異常に出ていてミドリは泣きそうになった。これはおてんばなんてもんじゃない。

「あー、あー!」

 絶叫しながら落ちていく。ともに落ちる水はキラキラと輝いているのに、全く心地よくない。滝の水ってこんな感じだろうか。はは、怖い。どこか開き直ったような気持ちだった。そうして地面が近づいたその時、

せん、待ってくれ、閃!」

 声が聞こえた気がした。低くて、威厳のある声。それでもどこか慌てているような。ミドリは思わず振り返る。林の中にいる獣の瞳がまっすぐと自分を捉えていたー気がした。


 うざったいくらいに眩しい太陽が窓から差し込んでくる。今日はなかなかのいい天気。それを家の中から眺めていたミドリは手持ち無沙汰であった。

「はー、退屈だ。雨でも降んねーかな」

 外はこれでもかというほどの快晴で、窓から見える空はどこまでも青かった。ミドリはふと、獣にあった日のことを思い出す。


「…何がどうなったらこんな快晴の日に濡れて帰ってくることがあるんだ」

 帰ってくるなりずぶ濡れの二人に、ヤドの母であるヤネは呆れた顔をした。この村の長で五二歳にも関わらず、墨色の髪に白銀の瞳でいまだに美しい顔をした彼女は、やれやれと言わんばかりのため息を吐いた。

「まあいいさ。とにかく風邪をひく前に体を温めないとな。二人とも家に入りなさい」

 そうして二人を家に入れるなり、ヤネはテキパキと風呂を沸かし、温かい飲み物まで淹れてくれた。順番に風呂に入った後、細かい事情は郷が説明した。話を聞いたヤネは神妙そうな顔をしていたが、

「とにかくしばらくは林に行かないように村には私から伝える。二人はとにかく体を冷やさないようにだけしてくれ」

 それだけ告げてヤネは部屋を後にする。二人だけになった部屋でミドリはじっと郷を見つめ、

「で、郷、説明」

「だよね…」

 あははと苦笑いを浮かべながら、郷は息を吐く。そうして、机に置いてあった花瓶をそっと動かして、

「今からちゃんと説明する。だけど一つお願いがあるの。これを知ってるのはヤドとヤネさんだけだから、ミドリくんも他の人には言わないでほしい」

「うん、分かった、約束する。だから説明してくれ。俺はもう何が何だか…」

 すがるようにミドリが告げるので、郷は少し笑う。そして、突然、水の入った花瓶を傾けた。傾きのまま水が流れこぼれそうになったその瞬間、郷が手を振るのと同時に水が浮き上がった。ミドリはごくりと息を呑む。水を浮かべたまま郷は、

「私はね、水を扱えるの」

「扱う?」

「うん。水を動かしたり、量を増やしたり、あとは質を変えたりできる」

 浮かべた水を大きくしたり凍らせたり郷はしている。ミドリは口をあんぐりと開けた。夢かと思うような出来事が、それでも現実に起こっていることに戸惑ってしまう。

「何でそんなことできるんだ」

「それは分からないなぁ。でも中央にはそういう人がいるってヤネさんが言ってたよ。もしかしたら私はそっちの方の人間なのかもしれないね」

「なるほど…」

 考えるような姿勢をとってミドリは呟く。ちらりと横を見ると凍った水の中に光の筋が通っていた。花瓶に入っていた濁った水とは異なる、透き通るような美しさ。なるほど、郷が言う水の質とはこのように変わるのか。にわかには信じられない話だが実際この目で見ている以上、事実であることは疑いようもない。

「じゃあさっき獣の前にあった氷も郷が作ったってことで間違いないんだな?」

「そう、そういうこと」

 軽く返事をして郷は氷を溶かし、花瓶へと戻す。戻された水は透明で、後ろの景色を映している。水面が揺れるのを二人で眺めながら、ミドリは、

「それで、その力を他の奴に言うなって言ったのはヤドだろ」

「よく分かったね」

「そりゃ、あの心配性だったらそのくらい言うでしょ」

 確かにねと郷もうなずく。ミドリも自分が同じ立場ならきっと同じようなことを言うのであろうと思う。なぜだか分からないけれど、そうしなければ郷が危ない目に合うかもしれないという感があった。特別な力を有する者にはそれだけの危険もある。特に郷は外部から来た人間だ。村から排除される可能性もないわけではない。

「まあ今回は緊急事態だったし俺も助かったけど、あんまり他の人には言わない方がいいな。俺も絶対言わないから、郷も気をつけて」

「うん…。はあ」

「ん?どうした」

「話したのヤドに言ったらまた怒られるかなぁって思って」

 珍しく不安げな郷は両手で頭を覆う。彼女の話だと、かつてもヤネに話してしまったことをこっぴどく叱られたらしい。

「何考えてるんだ馬鹿、って。私ヤドに初めて怒られたよ。実の母に話すこともそんなに怒るんだから、ミドリくんに話したこと言ったら…」

「うーん、でも今回は緊急事態だし」

「そうなんだけどさ、私普段から結構わがまま言ったりしてるから、うざがられてるかなって」

 そんなわけないとミドリは思うのだが、当の本人は気づかない。怒られることよりも嫌われることを恐れているらしい。しょぼくれている郷を眺めてミドリはため息を吐いた。なんだ、この子もヤドが大好きなのか。恋人同士のすれ違いに巻き込まれたような気分だった。ポンっと郷の頭を叩くとミドリは、

「あのな、ヤドが郷のこと嫌うわけないだろー。あいつは郷のこと大好きなんだから」

「大好きは言いすぎだよ」

「いや、言い足りないくらいだ。ヤドは郷といるとき表情がゆるんゆるんなんだから。こんな感じで」

「そうかなぁ」

 両手で頬を伸ばしたりしながら説明するミドリに、郷は小首を傾げる。ミドリは子供に諭すように、

「郷、こういうのは第三者の方が冷静な判断ができるんだぞ。特に俺みたいに普段から冷静な奴から見てだな…」

「お前に冷静さなんてあるのか。獣を見て動けなかったらしいじゃないか」

 突然、後ろから聞こえた声にギクリと肩をこわばらせる。ミドリが恐る恐る振り向くとヤドがじっと見降ろしていた。

「や、ヤド。お前いつからそこに」

「別にいつでもいいだろう。なんだ、俺の悪口でも言っていたのか」

「そういうわけではないんですけど…」

 訝し気にヤドはミドリを見つめるが、それ以上は特に何も言わなかった。ミドリは心の中で安堵する。馬鹿にするつもりなどさらさらないが、先ほどの変形した顔は茶化していると取られてもおかしくない。そうしたら結構怒られる、気がする。

 安心したようなミドリを不思議に思いながら、ヤドは郷の方を向く。郷はなぜだか表情をこわばらせていたので、ヤドは優しい声で、

「郷、母さんから聞いた。ミドリにはもう話したのか」

「あ、うん。ごめんね。約束破って」

「謝るな。俺は怒ってない。むしろミドリを助けてくれて感謝してる。ありがとうな」

 柔らかな笑顔で、暖かい声で、ヤドは告げる。先ほどミドリに向けていたのとは大違いの慈愛に満ちた笑みである。郷は郷で少し目を逸らしながら微かに笑う。二人のいる辺りだけ桃花色の空気が漂っているように見えた。ほうらやっぱり、お前らお互いのこと大好きだろ。ちょっとニヤつきながらミドリは一人でうんうんと頷く。

「ミドリ、何をニヤニヤしている。気持ち悪いぞ」

「ひでーな、おい。はいはい、お邪魔虫はどっか別のところへ行きますよー」

 そう言ってミドリが立ち上がろうとすると、ヤドがそれを止める。

「何だよ。もう話はヤネさんにしたし、ヤドも知ってんだろ?」

「母さんからの伝言。ミドリ、お前しばらく家から出るな。外出禁止だ」

「はあ?何で?え、家からもダメなの?」

「とにかく村長命令だ。しばらく出るな。それから、郷もあの林には行くな。外出はしていいが」

 何で俺はダメで郷はいいんだ、と文句を言うが、ヤドは村長命令と述べるだけでそれ以上のことは何も言わなかった。その顔がいつになく真剣だったので、ミドリはそれ以上文句を言うのをやめる。そして、ため息を思いきり出しながら、

「分かった、分かったよ。家にいりゃいいんだろ。その代わり家では好きなことさせてもらうよ」

「ああ、そうしてくれ」

 ほっとしたようでどこか苦い顔をしているヤドに疑問を感じながら、ミドリは部屋を後にした。


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