十三
「私、即答すると思ってたんだけどな。ミドリくん、前に話したときはそうだったから」
カラのいなくなった部屋で郷はそんなことを言う。ヤドはまた木を伐りに行った。カラがやってきた日の受け持ち分がまだ終わっていないらしい。それなら今日の朝から行けばいいのに、どうにも閃のことが心配なのか、今日も午前を休暇にしたそうだ。
郷はちらりと閃の方を向く。黙ったままの彼はどこか俯き加減で、いつになく憂いに満ちていた。
「やっぱり不安?」
何も言わなかったが、それが答えのような気がした。うん、分かるよ。多分、私が一番。怖いよね、不安だよね。大切な人が涙を流していなくなってしまうなんて、そんな記憶。その人がどうなったのか知りたくない気持ち。私も全部は分からないけど、きっとどうしようもなく怖いよね。キュッと口を噛んだ郷は精一杯優しい笑顔を浮かべて、
「記憶なんてミドリくんのほんの一部なんだから、無理に探さなくてもいいんだよ。前も言ったけど、私はミドリくんが辛いことはしなくていいって思ってるよ。あなたが、怖くて進めなくても私は…」
「怖いんだ。知ることが。母さんに、向き合うことが」
おもむろに口を開けた閃はちょっと笑いかける。俺は臆病だ。現実から目を背けてしまいたい。あの人の、あの泣き声を、その理由を知ることが怖い。知ってしまったらもうおしまいのような気がする。知らなければ幸せなのかもしれない。母のこともここに居ればきっと忘れられる。
「感情が、もうぐるんぐるんなってるんだ。あの日、母さんの夢を見たときから。答えは決まっているのに、怖くて…」
「ミドリくん…」
「でも、でも俺、知らなきゃいけない気がするんだ。このまま永遠に母さんのこと分からないままじゃ、俺、俺…」
すべての感情を飲み込むようにごくりと唾をのんだ閃は、
「ごめんね、郷。鬱陶しいかもしれないけど、背中押してほしいんだ。一人じゃ、絶対に進めないから」
無理に笑って、絞り出すような、泣き出しそうな声で話す閃は見ているだけで痛々しかった。それでも進もうと、よろめきながら進もうとする彼に、郷は、
「どうして…どうして進もうとするの?逃げてもいいのに、現実は、辛いものかもしれないんだよ」
止まってしまえばいいのに、逃げてしまえばいいのに。傷つく可能性の方が高い。彼の母はもうこの世にはいないのかもしれない。何であなたは真正面から向き合おうとするのだろう。微かに震えた声の郷の言葉に閃は一瞬下を向いて、そうして顔を上げる。
「俺さ、知りたくないけど、知らなきゃだし、知りたい。矛盾してるな。でもしいて言うならそれが理由かな」
微かに笑いかけながら閃は郷の方を向く。
「知りたくないのはほんとだよ。知ろうとしなきゃ辛いこととか知らないままでいいし。母さんがこの世にいるかもって希望を捨てなくてもいい」
知ることは意外と勇気がいるのだろうと閃は思う。知ってしまったら可能性も全部潰れて現実しか見ることができない。だけど、
「でもさ、俺が現実から逃げたとしても、その現実は変わらない。もし母さんがいないならその事実は変えられないんだ。だったら俺はちゃんと向き合いたい。それで母さんに伝えるべき言葉を伝えたいんだ」
自分の意志だけで進めないほど、俺は弱い。それでも今のままじゃ俺は、母さんに何も言えない。ごめんねもありがとうもふざけんなも。母さんがたとえもういないとしても、俺には彼女に言うべき言葉があるはずなのだ。
だから知りたいんだと真っすぐ笑いかける閃は少し眩しかった。あなたはきっと損するなぁ、と郷は思う。見たくないものを見て傷つく。逃げ道があっても、真っすぐ前にしか進まない。それでもそれが、どうしようもなく格好良く感じられた。私には、できないよきっと。
郷は閃の背後に回り込むと、そっと彼の背中に両手を置いた。そうして、柔らかく、困ったように笑いかけて、
「探しに行っておいで。もしかしたら、思い出したくないことを思い出してしまうかもしれない。それでも…いいや、そうしたらまた戻ってきて。あなたが泣いているときは私やヤドがそばにいる。一人じゃないから、辛かったら逃げてもいいから」
ここがあなたの居場所だから。あなたの逃げる場所で、帰る場所だから。だから、真っすぐ進んでいって。私はいつでも待っているから。進んだ先でも、戻った先でも、どんな風にあなたが進んでいったとしても、必ず待っているから。
背中から暖かさを感じる。身体中を包み込むような暖かさ。閃は鼻のあたりがちょっと刺激された気がした。目に堪りそうな水を汗を拭くように手で拭う。そうして、ニッと笑って、
「ありがとう、郷」
部屋に入り込めない風が外で強く吹いている。騒がしい外とは対照的に、部屋では暖かな空気が漂っている気がした。
薄暗い空に星がばらばらに散らばっている。月明りは夕暮れ時よりいっそう明るく空と地を照らしていた。
「そうか、行くか。そうかそうか、それは…」
「さ行ばっかり使うなよ。まぁ、そういうことなのでよろしくお願いします」
記憶を探しに行きたいと伝えるとカラはどこか嬉しそうだった。珍しく上機嫌な彼はにこやかに微笑んでいる。うーん、ちょっと調子狂うな。
「それでいつ出発するか」
「うーん、一応村の人たちにもあいさつしたいから、ちょっと時間が欲しいな。準備もしないといけないし」
「なら一週間後にするか。そのくらいあれば問題ないだろう」
「そうだな。あ、ヤド、ちょうどよかった。ちょっと話が…」
向こうからやってきたヤドは急いでいるからとさっさと通り過ぎてしまった。いつもなら彼の方から話しかけてくるのでそっけない彼の態度には驚いたが、そんなこともあるかと閃は自分を納得させる。
「じゃあ、俺もう寝るわ。カラは今日も俺の部屋でいいか?」
「ああ、俺はヤネの家に泊まるから」
え、と閃は目を丸くする。カラが来てからはずっと閃の部屋で寝ていたのだが、どうして今日に限って向こうに泊まるんだ。首を傾げるが、カラは何も言わない。
ヤネはなぜだか彼女専用の家があり、ヤドとは別の家に暮らしている。ちなみに郷はヤネの家の居候である。初めはヤドの家に泊まっていたが、男と女の二人暮らしにヤネが渋い顔をしたので今は彼女の家で暮らしていた。
「ふーん、まあ分かった。じゃ、おやすみ」
軽く返事をして、反対方向へ歩いていく。窓から外を見ると、月がどこからかやってきた雲に隠されている。一瞬立ち止まったカラはどこか寂しそうな顔をして、そうして、再び歩き出した。
土曜日に投稿することが多いかもしれません。暇だったら読んでください。つまらなかったら読まなくて結構です。




