十一
薄暗い空の下、北風が穴だらけの服から肌に触れて冷たい。真っ暗闇の中に微かな赤がゆらゆらと動いている。人の気配はなく、あたりはしんと静まり返っていた。閃はあたりを見渡す。ここはどこだろう。
「ごめんね、閃。ごめんね」
すすり泣くような女の人の声が聞こえる。瞳にいっぱいの涙をためて、何度もごめんと謝ってくる。その人のことを知らないはずなのに、直感的に閃は分かった。ああ、この人は俺の母さんだ。閃は何かを言おうと思ってもなぜだか言葉にできなかった。
さようなら。突然、口を動かしたかと思ったら、彼女は暗闇に呑まれていく。精一杯手を伸ばしたが、母はつかもうともしない。
「母さん、母さん!」
暗闇の中にもはや母の姿はなかった。彼女のいなくなった場所に、必死に叫ぶ閃の声が悲痛に響き渡っていた。
冷たい頬に何か温かいものが触れ、ミドリは目を覚ました。見慣れた天井。少し明るい。外はいつのまにか夕暮れになっている。
「起こしちゃった?ごめんね」
そばにいた郷がそっとミドリの額の汗をぬぐう。さっきと同じ温かさが再びミドリに触れた。息を整えながら、ミドリは身体を起こす。
「郷、カラとヤドは?」
「代わりばんこでミドリくんのこと見てたの。二人とも別の部屋にいるよ。今、呼んでくるね」
「あ、うん」
郷がいなくなった部屋でミドリはさっき見た夢のことを考える。あれは夢なのだろうか、それとも俺の記憶なのだろうか。
夢だと思いたかったが、暗闇に呑まれた母親の泣き声が、妙に現実的に感じられてミドリは苦しくなる。俺は、俺は何も出来なかったのか。あの人がいなくなったのに俺は見ているだけで、何も出来なかったのか。
呼吸が苦しくなり、息ができない。母の声が頭から離れなかった。なんで謝ってるの母さん、謝るのは俺の方だよ。俺は家族も助けられないで、俺は…。
「閃!大丈夫か」
慌てたようなヤドの声でミドリは正気に戻った。体中から嫌な汗が出ていて、息もしずらい。手がカタカタ震えて、何が何だかわからなかった。
「ほら、水。飲めるか?」
頷いてヤドから渡された飲み物を受け取ろうとしたが、うまくつかめなかった。ヤドは貸せと乱暴に言うと、ミドリに近づいて水を飲ませる。体中から抜けていた水分が少しずつ吸収されていく。郷もそばに来て優しくミドリの背中をさすった。そうしていくうちに、ミドリはだんだん心が落ち着いていくのを感じた。
「ありがとう、もう平気」
二人はまだ心配そうな顔をしていたので、ミドリは笑おうとした。が、顔は引きつってしまってうまく笑うことができなかった。心は平静なはずなのに身体がそれを覚えていて、うまく動かせない。
心配させてる。ちゃんと話さなきゃ。俺は世話になっているんだ。ちゃんとしなきゃ、俺は…。妙な強迫観念が精神から肉体にかけてミドリを覆っているようだった。
「そ、それでさ、ヤド…」
「何も話すな」
何とかして出した言葉をヤドはさえぎる。顔を上げたミドリは、ヤドが今にも泣きだしそうな顔をしているのに気付いた。唇をかんで、泣かないように少し上を向いたりしている。
「何…で…」
お前がそんな顔してんだよ。俺のせいか。泣かないでくれよ、ヤド。お前が優しいのは知っているけど、俺はお前に心配してもらえるような人間じゃないんだよ。だから…。
「だって、ミドリくん泣いてるよ」
郷の言葉でミドリは自分の頬に冷たい感触があることに気づいた。そっと触れるとかすかに濡れていて、塩っぽいにおいがする。濡れた指にミドリは戸惑う。
「あ、あれ…」
気づいた後にも涙が後から後から流れていく。そんなミドリを見て何かを耐えるような顔で、それでも優しく笑いかけて、郷は、
「泣くほどつらいなら話さなくたっていいの。記憶が戻っても戻らなくてもミドリくんはミドリくんなんだから、私もヤドもミドリくんの味方だよ」
そうでしょ、と言った郷にヤドはうなずいて、
「カラには悪いけど、お前が泣くくらいなら俺は記憶なんて戻らなくていいと思ってる。お前が閃だろうがミドリだろうが俺には関係ない」
そう言って、不器用に笑ったヤドを見て、心の奥にあった何かがほどけていくのを感じた。同時に抑えられていたはずの感情が一気に溢れ出る。
ぶっきらぼうにヤドが差し出した布でミドリは涙をふく。郷はにこりと笑って、子供にするように優しく頭をなでた。濃紺の瞳は温かくて母のようにミドリは感じられた。二人の間でミドリは静かに涙を流していた。
「ごめんな、二人とも」
ミドリは頭を下げる。さんざん泣いたおかげでだいぶ落ち着いたようで、目元の赤さを除けばいつも通りの彼だった。
ヤドが彼に近づこうとするので、郷は腕を引っ張った。少し勢いをつけすぎたのか、ヤドが転びそうになっている。
いつもは郷に甘い彼もさすがに強めの口調で、
「何すんだよ、郷」
「ミドリくん元気になったばっかりなんだから、今は休ませてあげてよ」
「いや、わかってるけどさ。だからちょっと体調確認するだけだろ」
「ヤドがやったらちょっとじゃなくなるの」
じっと郷ににらまれて、ヤドはしぶしぶ台に座る。ただ、座ってからも納得していないようで、
「あんなに記憶入れたらどこか痛いんじゃないのか。ああ、もう少し減らして入れてもらえばよかったな」
一人でぶつぶつ言っている。ミドリは珍しく饒舌な彼に驚いたが、それが自分を心配しての言葉だということがうれしかった。
それでもいつまでも話しているので郷は業を煮やしたのか、
「ヤド、そろそろ静かにして」
低い声にミドリは思わず寒気がした。郷は笑ってはいたが、その声色に含まれている怒りが恐ろしい。さすがにまずいと思ったのか、ヤドは急に黙る。ミドリの方を見てにこりと笑った郷を見て、ミドリは引きつった笑みを浮かべた。
「あ、そういえばカラは?」
「向こうの部屋でヤネさんと話してた」
「呼んだか?」
郷の後ろからのそっとカラは現れた。そうしてミドリの近くまで歩いて、彼の顔をじっと見つめる。
「体調は平気か?目のあたりが赤いが」
「うん、だいじょーぶ。落ち着いてきた」
へへと笑ったミドリの頭を軽く叩いて、カラは柔らかく笑う。よかった、安心した空気が彼から溢れていった。
「今日は飯食って寝ろ。詳しい話は明日聞く」
「え、でもずっと待ってたんだろ」
「お前も疲れただろう。休んでくれ。無理はさせたくないんだ。時間が経ってからの方が心も落ち着くだろう」
ああ、カラには何でもお見通しなのかもな。ミドリはちょっと笑いかけて、
「うん、そうだな。俺もまだちょっと戸惑っているというか、ちゃんと話せなさそうだから明日話すよ」
ミドリの言葉に郷とヤドは心配そうに見つめる。無理しなくていいんだぞ。心の中で多分こんなことを思っているのだろう。ミドリは大丈夫と笑って頷いた。迷いのない彼の瞳に安心したのか、二人は気を緩めた。
「じゃあ、とりあえず来い。ヤネがご飯作っているから。二人も一緒に来い」
カラに促され、立ち上がって扉まで歩く。ぼんやり先を歩く三人の背中を見つめながら、ふと母の言葉を思い出す。
「ごめんね…か」
彼女は何を…。一人で考えていると、郷が不思議そうに、
「ミドリくん?大丈夫?」
「うん、大丈夫。夜ご飯何かな」
少し笑いかけたミドリは離れた彼女との距離を埋めるように駆け足で追いかける。窓の外の日はその姿を完全に消し、あたりを暗闇と静寂が包み込んでいた。
すみません。編集してしまいました。




