一
記憶探しの旅の第一話です。
その日、いつもなら行かない林の奥まで行ったのはなぜだったか。いわゆる虫の知らせってやつだったのだろうと今では、思う。
遥か遠くにあるはずの太陽が容赦なく陽差しを降りそそいでいる。ここニ、三日降っていた雨も水溜りにその痕跡だけを残して姿を消した。雨のせいで家にこもっていた郷は、数日ぶりに村の近くの林へと足を踏み入れた。泥水となった足場の感触はあまりいいものではない。それでも郷は気にも留めずに前へと進む。歩くたびに彼女の小さな足が地面に跡をつけていった。
郷の後ろでは、ヤドが警戒しながら歩いている。心配性の彼は、郷が林に来るときは必ず着いてくる。気をつけるから、と言ってはみても、ヤドは絶対に了承してくれない。白銀の瞳に見つめられると郷には断ることができなかった。
湿っぽい空気の中で、心地よい風が体を突き抜けていく。髪がふわりと揺れて、一瞬視界を塞いだが、今度は真正面から吹いた風で視界が開けた。郷は不思議な心地がした。どこまでもいけそうなー。
「…郷、郷!」
大声で呼ばれて郷はハッとする。ヤドは心配そうに郷の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?ぼーっとしてたけど。と言うか、どこまで行くんだ」
ヤドに問われ、郷は周りを確認する。辺りには見覚えのない景色。いつのまにかいつもの場所を通り過ぎていたようだ。
じっと見つめてくるヤドに、郷は誤魔化すように笑って、
「ごめん、大丈夫。でも、もう少し進んでもいい?」
ヤドは軽くため息を吐きながら、仕方がないとでもいうように微笑んだ。
太陽は暖かな木漏れ日へと姿を変えていく。二人は歩いてからしばらくして、少しひらけた場所に出た。一目見て、郷は驚いたらしかった。黄緑色の葉が風に合わせて揺れ動く。雨はここには降らなかったのか、地面はぬかるんだ様子もなく土が静かに構えていた。風と光と土とが鮮やかに木々を映している。幻想的なその景色を二人はしばらく眺めていた。
林の中を歩いていると、郷は遠くの地面に何か輝くものを見た。ヤドに伝え、その場所へと進む。近づくほどに光は一層強くなっていった。
眩しい光の中、一人の少年が倒れていた。
「大丈夫か⁉」
二人は慌てて駆け寄る。年は十四、五歳。深い緑の髪に、青竹色のターバン。意識はないようだが、目立った外傷も見当たらない。
「どうしよう。いったん戻った方がいいよね」
「ああ、俺が背負うから、郷は荷物持ってくれ」
ヤドは荷物を郷に渡して、自分と同い年くらいの少年を背中に乗せ、元来た道を戻る。何となく落ち着かない気持ちのまま郷はヤドを追いかける。林は光を放ったまま、その場に静かに佇んでいた。
外の光に反射して輝く水をヤドは少しずつ入れる。コップいっぱいになった水は、表面をゆらゆらと揺らしていた。
少年を林で発見してから数日が経った。二人は戻ってからすぐ、村の医者に少年を診てもらったが、気を失っているだけだからそのうち意識は回復するということで、ひとまずヤドの家で彼を引き取ることになった。しかし、少年は依然として目を覚まさない。郷はどうにも心配なようで、連日ヤドの家に押しかけては、少年の側でずっと見守っている。
その日も朝から郷はやってきて、すぐに彼が眠る部屋へと直行した。ヤドはなんだか嫉妬めいたモヤついた感情が心に渦巻いた。が、少年が心配なのはヤドも同じなので、いつものように飲み物を入れて彼のいる部屋へと向かっていった。
部屋の中は静かなもので、時折外から小鳥の鳴く音と風のさざめきがかすかに聞こえてくる。眠る少年のそばで、郷はものも言わずにただただ彼の横顔を見つめていた。
扉の開く音がして郷が振り返ると、ヤドは持ってきた飲み物を渡して、
「ほら、なんか飲まないと郷が体調崩すぞ」
「うん。ありがと」
差し出された飲み物を受け取る。ヤドは近くにあった台を取り出して郷の横に座った。彼もまた何一つ言わなかったが、どこか落ち着かないようで少年の顔を覗いたりしていた。
郷は少年の顔を眺めていながらいろいろ考えていた。この村は地理的にも孤立していて隣の村からもかなりの距離がある。そもそも人の出入りはほとんどない。それなのに彼はなぜあの林で倒れていたのか。
眠っている少年はいつまでも返事をくれはしない。君はどこから来たの、何者なの。心の中でそっと問いかける。答えを出さない彼の顔は普通のようで、泣き出しそうにも見えた。郷はため息混じりにヤドから貰った水をそっと飲む。冷たさが身体中に伝っていく。沈黙が広がる部屋の外で再び小鳥がのんびりと鳴き始めた。
陽射しが窓から入り込んで、少年の深緑の髪を輝かせている。細くさらさらとした彼の髪は、少したりとも汚れてはいない。それは、雨が一滴たりとも入り込まなかったあの林と同じで、どこか不思議なものだった。
ずっと座っていた郷はヤドの母に呼ばれて部屋を出ていった。普段は郷についていくことが多いヤドだったが、郷に少年のことを頼まれたのでその場に残ることになった。ヤドにしても少なからず少年には興味があったから快く了承した。
そうして、いつもの郷のようにただぼんやりと少年を見ていると、ヤドは少年が森の精霊のようなものなのではないかとふと思った。普段現実的な彼らしからぬ思想ではあったが、そのように考えるほど少年は異質でありながらもながらも、また神聖さが備わっていた。
先ほどまでそばにいた小鳥はいつのまにか姿を消して外は静かなものだった。陽が動いて、少年の瞼の上に落ちた時、彼の目の辺りがピクッと震えた。ヤドは思わず立ち上がり、
「おい、大丈夫か」
彼が目覚めることに期待したが、しかし、彼はなんら返事をすることもなく、ただ眠っているだけだった。
ヤドは一瞬高揚した自分の胸が、また同じくらいの速さで低落していったのを感じた。俺らしくもない。少し落ち着こう。ヤドは飲み物を飲もうとしたが、すでにそれは空っぽになっていた。頭を少し掻きながら扉の前に進む。そうして、彼が扉を開けるのとほとんど同時に、
「あ…」
今にもかき消えそうな声がした。反射的にヤドは振り返る。目を覚ました少年は光り輝く黄緑色の瞳でじっとヤドを見つめていた。
風の音が聞こえた気がした。そのあと、暖かな感覚が身体中に広がって、なんだか心地よかった。俺が覚えていたのはその感覚だけで、他の大事なことは何一つはっきりとはしなかった。
眩しさに目を覚ますと、見覚えのない天井がまず視界に映った。近くの窓から陽射しがおそらく顔のあたりにあって、暖かく肌に触れていた。
ここはどこだろう。そう思って体を起こすと、誰かが俺に背を向けていた。彼は扉を開けて外に行ってしまいそうだったので、俺は思わず、
「あ…」
と、声を出していた。彼はそれに驚いたのか、素早く振り返って、俺をじっと見た。白銀の瞳は戸惑い揺れているようで、だけど、彼の暗い髪色と相反して、綺麗に輝いていた。
俺はしばらく何も言えなくて、何か言おうとは思ったが、それでも何を言うべきわからなかった。彼もすぐには口も開かなかったが、はっとしたように、
「よかった、ああ、大丈夫か?今、飲み物持ってくるから」
それだけ告げて、出ていってしまった。俺は彼がいなくなってから考えをまとめようとしたが、うまく考えることができなかった。それもそのはずだった。俺は俺が何者かすらわからなかったのだ。
「ほら、水。ずっと寝ていたんだから、ちゃんと飲んでくれ」
礼を告げて彼に渡された水を少し飲む。思った以上に体は渇いていたようで、水分が体中に浸透していった。一息つくと、彼ーヤドは俺が今ここにいるいきさつを教えてくれた。
聞いた途端、俺の心にかすかな絶望感がやってきた気がした。つまりは彼も俺のことを知らないのだ。自分を思い出すきっかけになる何かをヤドの言葉から期待していただけに、彼が自分とは全くの他人であることは、俺の不安を増大させただけだった。
ヤドは俺の気持ちを察してか、特に何も聞かず、とにかく休むようにだけを仕切りに告げた。俺は記憶がなく、目覚める前の事が何もわからないことを彼に伝えた。一瞬驚いたような表情を浮かべたヤドは、
「何も覚えていないのか」
「うん…。名前も、どこから来たのかも俺には分からない」
俺の記憶は真っ白だった。ぼんやりしているとかそういったこともなく、何一つ浮かんではこない。まっさらなものだった。
神妙そうにヤドは黙る。俺も何も言えず、彼の顔を見ることしかできなかった。少ししてヤドは顔を上げると、不器用に笑顔を作って、
「まあ、しばらくはゆっくりしろ。起きたばかりだし、そのうち何か思い出せるかもしれない。何か食べるか?」
「いや、そんなにお腹すいてないから」
じゃあもう少し寝ていろとヤドはぶっきらぼうに言いながら部屋を出ていく。一人にしようとしてくれたのだろう。俺は心の中で彼に感謝する。そうして、考え事をしているうちに再び眠りについた。
すみません。かなり編集して内容も少し変えてしまいました。読みたくなければ読まないでください。