第9話「夏の誘い」
蝉の声が響く暖かなキャンパス。大学に礼拝を終えた美咲と紗英は大学のカフェテリアにやってきた。テーブルに広げたノートと教科書を囲み、二人は試験勉強に取り組んでいた。
「ねえ紗英、この詩の意味、どう考えればいいの?」美咲が眉をひそめながら、教科書を指さす。
「それはジョン・ダンの宗教詩。愛とか信仰とかを暗喩的に表現してるのよ。要は、この人にとって『愛』が神とのつながりなの。」紗英がさらりと説明する。
「なるほど……でも、やっぱり難しいなぁ。」美咲は深いため息をつきながら、ペンを回した。
そのとき、カフェテリアの入口からひときわ賑やかな声が聞こえてきた。
「おーい!美咲ー!紗英ー!」俊樹が手を大きく振りながら歩いてくる。その後ろには、少し控えめな笑顔を浮かべる雄太と、軽く肩をすくめている裕也が続いていた。
「おっ、二人でお勉強?真面目だなぁ。」俊樹がテーブルに肘をついて覗き込む。「もしかして、美咲って将来、国連の事務総長でも目指してんの?」
「なんで急に国連?」美咲が呆れたように返すと、紗英がクスリと笑いながら首を振った。
「いやいや、だって美咲ならいけるだろ?俺なんか、いつも平和について考えてるから、推薦してやるよ!」俊樹が得意げに言う。
「嘘つけ、お前が考えてるのは昼飯のメニューだろ。」裕也がすかさずツッコミを入れた。
「おい、俺の知的なイメージを壊すなよ!」俊樹が抗議するように裕也を指さす。
「知的なイメージがそもそもないから大丈夫。」裕也は肩をすくめながら軽く笑った。
「はいはい、それで何の用?」紗英が半ば呆れながらも話を促す。
「おっと、本題な。」俊樹が急に真面目な表情を作り直す。「我々バスケットボールサークルは、来週末に試合を控えておりまして、ぜひ美咲殿と紗英殿に応援に来ていただきたい!」
「またその武士キャラ」美咲が苦笑いしながら突っ込む。
「いや、礼儀正しくお願いしないとね。」俊樹は得意げに言うが、裕也が冷静に一言。
「普通に頼めよ。逆に不安になるから。」
その会話に笑いが起きる中、雄太が一歩前に出て、少し柔らかい声で言った。「美咲、紗英、時間があれば来てほしい。試合、大事なやつだから。」
美咲はその落ち着いたトーンに少し驚きながらも微笑んだ。「うん、行くよ!楽しそうだし、応援したいから。」
「本当?ありがとう。美咲が来てくれたら、頑張れるよ。」雄太は自然な笑顔を浮かべ、軽く手をポケットに入れたまま余裕を見せる。
「おいおい、雄太、それはフラグだぞ。『頑張れる』とか言っといて、当日ヘタ打ったらどうするんだよ。」俊樹が茶化すように肩を叩く。
「お前に言われる筋合いないけどな。」雄太は肩をすくめながら冷静に返した。
「まぁ、俊樹は当日緊張してフリースロー全部外す未来が見えるけどね。」裕也がニヤリと笑いながらフォローする。
「おい、俺をそんなやつにするな!俺はこのチームのエースなんだぞ!」俊樹が大げさに胸を張る。
「そのエースがこの間、ダンクに失敗して着地でコケたよな。」裕也がさらりと暴露すると、美咲と紗英は思わず笑いをこらえきれなくなった。
「うるせえ!俺の話はいいんだよ!」俊樹が赤くなりながら話題を切り替えようと声を上げる。
「でも、試合は本当に見応えがあると思う。美咲たちが来てくれるなら、俺たちもさらに気合いが入るよ。」雄太が落ち着いた口調で言う。
「うん、絶対行くね!」美咲が笑顔で答えると、雄太は満足そうに頷いた。
「じゃあ、当日よろしく。」裕也が手を挙げて締めくくり、3人は次の予定へと向かっていった。
「賑やかな人たちだね。」美咲が笑いながら紗英に言う。
「そうだね。でも、楽しそう。」紗英は微笑みながら再びノートに目を戻した。
紗英と美咲は勉強を終えて、カフェテリアのテーブルに飲み物を片付けながら、ふと由紀の話題に移った。
「最近、由紀さんと連絡取ってる?」紗英が何気なく尋ねた。
「うん。たまにメールでやり取りしてるよ。」美咲は嬉しそうに頬杖をついて答えた。「この前も、由紀さんがいい紅茶のお店を教えてくれて、実際に行ってみたんだけどすごく素敵だったの。」
「へぇ、紅茶のお店ってどこ?」紗英が興味深そうに顔を上げる。
「表参道にある小さなティールームでね、静かで落ち着いてて、ちょっと隠れ家的な場所だった。由紀さん、こういういいお店をよく知ってるんだなぁって感心しちゃった。」美咲は笑顔で話を続ける。「お店に行った後、感想をメールで伝えたら、『次は一緒に行きましょう』って言われたんだ。」
「わぁ、それってすごくいいじゃん!」紗英は目を輝かせて答えた。「由紀さんと本当に親しくなってきてるんだね。」
美咲はその言葉に少し顔を赤らめながら、「そんなことないよ。ただ、由紀さんが私みたいな子を相手にしてくれること自体が、ありがたいなって思ってるだけで……。」と謙遜する。
紗英はそんな美咲の様子を見て、「いいじゃん、そうやってどんどん親しくなっていけばいいのよ!」と元気づけるように言った。
そして二人は、その後の予定を確認しながらカフェテリアを後にした。美咲の胸には、由紀との次の時間を思う期待が膨らんでいた。
—
バスケサークルの試合当日、紗英と美咲は会場の観客席に座り、応援用の小さな旗を持ちながら、友人たちの試合を見守っていた。体育館内は熱気でいっぱいで、プレイヤーたちの真剣なプレーに観客からも自然と大きな拍手と声援が飛び交う。
「俊樹、いい動きしてるね!」紗英が声を上げると、美咲も頷きながら、「裕也もすごく速い!」と感嘆の声を漏らした。
試合は終盤に差し掛かり、俊樹たちのチームはわずかなリードを守り抜こうとしていた。雄太は冷静にボールを運び、裕也との絶妙なコンビネーションでシュートを決める。観客席から歓声が上がり、美咲も思わず立ち上がり「ナイス!」と声を上げてしまう。
そして、ついに試合終了の笛が鳴り響いた。スコアボードには俊樹たちのチームの勝利を告げる数字が光り、チームメイトたちは歓喜の声を上げて抱き合った。
「やったね!優勝だ!」紗英が嬉しそうに拍手をしながら、美咲の肩を叩いた。「俊樹たち、本当に頑張ったね!」
しばらくして、選手たちが観客席の近くまで挨拶にやってくると、俊樹が雄太に腕を組みながら言った。
「ほら、言っただろ?俺たち優勝するって!」俊樹は得意げな表情で雄太の背中をバンバン叩いた。
雄太は苦笑いしながらも、「はいはい、さすがエース様ですよ。」と軽く返した。
裕也が笑いながら加わり、「いやいや、俊樹がエース気取りなのはいいけど、最後のシュートを決めたのは雄太だからな。お前が決めたんじゃないぞ?」
「それ言うなよ!俺がパスしたからあのシュートが生きたんだ!」俊樹は裕也の肩を軽く叩きながら、負けじと主張する。
紗英と美咲はそんな彼らのやりとりを見て、思わず吹き出してしまう。「本当にみんな仲良しだね。」美咲が微笑みながら言うと、紗英も頷いた。
「でも、俊樹たちがあんなに真剣に試合してる姿を見て、なんだか感動しちゃった。」美咲は少し照れながらも本音を口にした。
「でしょ?俺たち、やるときはやるんだよ!」俊樹が自信満々に胸を張ると、雄太が横から小声で「普段はふざけてばっかりだけどな」とツッコミを入れる。
「おい、聞こえてるぞ!」俊樹が雄太を睨むふりをしながら、みんなで笑い合った。
その後、俊樹たちが「打ち上げ行くぞ!」と盛り上がる中、美咲と紗英は「また次の試合も応援するね!」と声をかけながら会場を後にした。
ファミレスでの打ち上げは、笑い声と歓声で溢れていた。バスケサークルのメンバー、マネージャー、そして紗英と美咲は、それぞれのグラスを掲げて「乾杯!」と声を揃えた。紗英はハイボールを、美咲はレモンサワーを頼み、みんなで試合の話やお互いの面白エピソードで盛り上がった。
「いやぁ、今日の雄太のシュート、マジで痺れたよな!」俊樹が声を上げると、雄太は少し照れくさそうに笑いながら「いやいや、みんなのおかげだよ」と返した。
「でも俊樹のパスも良かったよね!」美咲が楽しそうに言うと、俊樹は得意げに胸を張り、「だろ?俺、チームの縁の下の力持ちだからな!」と返す。
その場は終始和やかで、ファミレスの空間は青春の一ページを切り取ったような温かさで満ちていた。だが、時間が経つにつれ、ひとりふたりと帰る人が増え、最後には紗英と美咲だけが残った。
「バイトがあるから、私はタクシーで帰るね。」紗英は軽く笑いながら美咲に言うと、近くでタクシーを拾った。「美咲、気をつけてね!」紗英が手を振りながらタクシーに乗り込むと、美咲は一人になった。
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帰り道を歩き始めた美咲は、打ち上げの余韻に浸りながら、少しほろ酔い気分で夜の空気を吸い込んでいた。その時、後ろから声が聞こえた。
「美咲!」俊樹が手を振りながら駆け寄ってきた。
「俊樹?」美咲は少し驚きながら振り返る。
「まだ時間あるだろ?飲み直さないか?」俊樹はニヤリと笑いながら提案した。
美咲は一瞬考えたが、打ち上げの楽しさがまだ残っていたこともあり、俊樹の無邪気な誘いに、思わず「いいね、行こう!」と答えた。
「よっしゃ、ついてこい!」俊樹は嬉しそうに笑い、美咲を連れて夜の街へと向かった。
美咲が俊樹の部屋に足を踏み入れると、少し無造作で個性的な空間に目を奪われた。散らばった本や服、壁に貼られたポスター、ところどころに置かれた観葉植物。居心地の良さと独特な雰囲気が入り混じった部屋だった。
「適当に座ってていいぞ。」俊樹が冷蔵庫を開け、飲み物を取り出しながら言った。「何か飲むか?」
「ありがとう。お茶とかあったら……」美咲が答えると、俊樹はペットボトルのお茶を手渡し、自分は缶ビールを手にソファに腰を下ろした。
「ほら、乾杯しようぜ。」俊樹は軽く缶を掲げる。
「乾杯。」美咲も小さく笑いながら、お茶を一口飲んだ。
部屋には静かな音楽が流れ始め、二人はしばらく他愛ない話をしていた。俊樹が最近ハマっている音楽の話や、試合中のハプニングについて冗談を交わす。だが、ふと俊樹が立ち上がり、部屋の隅に向かった。
美咲は彼の動きを目で追った。俊樹は何か小さなケースを取り出し、その中から緑色の物体を取り出した。それを手際よく細かく砕き、紙に巻きつけ始める。
美咲は目を細めた。その動作が何を意味しているのか、薄々気づいてはいたが、何も言わず黙って見ていた。
「なんかアートしてるみたいでしょ?」俊樹はおどけた笑みを浮かべながら言った。手に持った紙巻きタバコの端を丁寧にねじると、それを持ってソファに戻ってきた。
「アートって……それ、何?」美咲は軽い調子で聞いたが、その声にはどこか緊張が滲んでいた。
俊樹はニヤリと笑いながら火をつけた。「ただのリラクゼーションアイテムさ。」彼は煙を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。煙が部屋の空気に溶け込み、独特な香りが漂い始めた。
美咲は少し眉をひそめたが、確信が持てず何も言わずその場に座っていた。
俊樹は何事もないような様子でタバコを吸い続け、部屋には音楽と煙がゆっくりと漂っていた。
美咲は彼の顔をそっと伺った。いつもの陽気な俊樹とは少し違う、どこか遠くを見つめているような表情。その横顔には何かを隠しているような影が感じられた。
「こんな夜も悪くないだろ?」俊樹は視線を向けずに言った。
「……そうだね。」美咲は小さく頷きながら答えた。彼が吸っているものについて直接触れることはなかったが、その場の空気が何かを語っているように感じられた。
「俺さ……家に帰るのが嫌いだったんだ。」俊樹は突然、静かな声で言った。
美咲は驚いて彼を見つめた。「俊樹……?」
「親がさ、いつも喧嘩ばっかしててさ。俺が小学生のときなんか、夜中でも大声で言い合ってたんだよ。俺は布団の中で耳塞いで……明日が来るのが怖かった。」俊樹は微笑むような表情を浮かべたが、その目にはどこか遠い記憶が映っていた。
「それから俺、家にいる時間が少なくなった。中学に入った頃には、ほとんど帰らなくなったよ。友達の家や外で遊んで、夜遅くまでぶらぶらしてさ……そうやって自分の居場所を探してたんだと思う。」
美咲は静かに彼の言葉を聞きながら、彼の孤独を感じ取っていた。「俊樹……それで、今も逃げてるって思ってるの?」
俊樹は笑みを浮かべながら、美咲を見た。「ああ、そうだよ。俺はずっと逃げてる。自分がどうしようもない人間だってわかってるけど……でも、逃げることが俺には楽なんだよ。」
「でも、それだけじゃ……」美咲が何か言おうとすると、俊樹は軽く手を挙げて止めた。
「美咲、お前には分かんないよ。」俊樹は少しだけ声を強くしたが、その声はどこか寂しげだった。「俺だって、本当は逃げたくない。でも……前に進む勇気がないんだよ。どうやって進んでいいのかも分からない。」
その言葉に、美咲の胸が痛んだ。俊樹の明るく振る舞う姿の裏に隠された孤独と痛み。それは美咲が抱えていたものと重なる部分があった。
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俊樹の部屋を後にした美咲は、夜の街をゆっくりと歩いていた。夏の夜風が火照った頬を冷やし、街灯の明かりがアスファルトに淡い影を落としている。
彼の言葉が、まだ胸の奥でくすぶっていた。
「俺はずっと逃げてる。どうやって進んでいいのかも分からない。」
俊樹の笑顔の裏に潜む孤独を知ってしまった。
彼の痛みは、どこか自分のそれと似ている気がした。
スマートフォンを取り出すと、ふと、由紀の名前が目に入る。
けれど、何を言えばいいのか分からない。俊樹のことを話していいのか、それとも、ただ何か安心できる言葉が欲しいだけなのか。
結局、何もメッセージを送らないまま、美咲はスマートフォンを握りしめた。
—
翌日、気分を切り替えようと表参道のカフェへ向かった。
由紀が以前紹介してくれた紅茶のお店。あのときはただ「美味しいお店」と思って訪れたが、今はもう少し違う気持ちでここにいる。
ドアを開けて、静かな店内へ足を踏み入れたそのとき
「美咲さん?」
凛とした声が耳に届く。
美咲は驚いて振り向いた。そこには、アイスティーのグラスを片手に持った由紀が座っていた。
彼女はシンプルな白のブラウスに、グレーのパンツ。普段の洗練された雰囲気はそのままに、いつもより少しリラックスしているように見える。
「由紀さん……!偶然ですね。」
「ええ、今日は編集部が休みなの。」由紀は微笑みながら、向かいの席を示す。「よかったら、一緒にどう?」
「はい……!」美咲は少し戸惑いながらも、その席に腰を下ろした。
店内は落ち着いたクラシックが流れ、心地よい紅茶の香りが漂っている。
「ここ、気に入った?」由紀がさりげなく尋ねる。
「すごく素敵な場所ですね。昨日も来ようか迷ったんですけど……。」
「昨日?」由紀は目を細める。
美咲は一瞬迷った。俊樹のことを話すべきか。だけど、昨夜の出来事がまだ整理できていない。
「……ちょっと、考え事をしてて。」
「そう。」由紀は美咲の表情を見つめながら、氷の溶けかけたアイスティーをゆっくりと飲んだ。
「もし話したいことがあるなら、聞くわよ?」
その優しい申し出に、美咲の胸が僅かに揺れる。
「……由紀さんは、『逃げること』について、どう思いますか?」
「逃げること?」由紀はグラスを置き、静かに考えるように視線を落とした。
「……必要なときもあるわ。」
「え?」美咲は思わず顔を上げた。
「無理に立ち向かうことが、いつも正しいわけじゃない。傷が深くなりすぎる前に、距離を取るのも大切よ。」由紀の言葉は穏やかだったが、どこか芯がある。
「でも……逃げ続けていたら、何も変わらないですよね?」
「そうね。でも、『逃げる』と『休む』は違うわ。」由紀はふっと微笑む。「お友達の話かしら?」
美咲は驚いたように由紀を見た。
「……どうして分かったんですか?」
「あなたの表情が、誰かを心配している顔をしていたから。」
美咲は少し視線を伏せる。
「……昨日、友達の俊樹と話してたんです。彼は、『ずっと逃げてる』って言っていて……。とても辛そうで、どうしていいか分からないって。」
由紀は静かに美咲の話を聞いていた。
「私……彼の気持ちが、少し分かる気がしました。でも、私は、逃げたくないって思ってしまって……。」
「美咲さんは強いのね。」
「そんなことないです。」美咲は苦笑する。「むしろ、恐怖や過去に立ち向かおうと思うようになったのは最近で....。」
由紀はそっと手元のグラスを指でなぞったあと、静かに言った。
「人にはそれぞれのタイミングがあるわ。あなたは今、立ち止まることよりも進むことを選びたい。でも、俊樹くんはまだその時じゃないのかもしれない。」
「……タイミング。」
「ええ。だから、あなたが無理に彼を前に進める必要はないわ。ただ、彼が動き出すときに、そばにいてあげればいい。」
その言葉に、美咲ははっとした。
俊樹を変えようとする必要はない。彼が前に進めるときまで、彼のそばにいればいい。
「……ありがとうございます、由紀さん。」美咲は小さく微笑んだ。
「いいのよ。」由紀は穏やかに微笑み、美咲のカップに視線を向ける。「それより、その紅茶、口に合う?」
美咲は慌ててティーカップを持ち上げ、一口飲んだ。
「……すごく美味しいです。」
由紀は満足そうに頷いた。「それならよかった。」
さっきまでざわついていた心が、少しだけ落ち着いていくのを感じる。
夏の午後の陽射しが窓から差し込み、カップの中の紅茶がきらりと輝いた。




