第8話「シャネルN5の記憶」
翌日、美咲は講義の始まる少し前に大学に到着し、紗英の隣に座った。美咲はペンをいじりながら、そっと隣の紗英に声をかけた。
「ねえ、紗英……」美咲は少し迷いながらも口を開く。「由紀さんと初めて会ったのって、いつだったの?」
紗英はペンを置いて考え込むような表情を浮かべた。「由紀さん? そうね……2年前くらいかな。私が20歳のときに、初めて銀座のあのバーに行ったときだった気がする。」
「2年前……」美咲は驚いたように聞き返す。
「そう。たまたま隣に座ってたのが由紀さんだったの。それで、最初は軽い挨拶から話が始まって……気づけば、いろんなことを話してた。」紗英は思い出すように笑みを浮かべた。
「どんな話を?」美咲は興味津々に前のめりになる。
紗英は少し得意げな表情で話し始めた。「意外なことがいくつかあったんだよね。たとえば、あの人、かわいいキャラクターが好きなの。」
「由紀さんが?」美咲は驚いて目を丸くした。
「そう。最初の会話も、私のカクテルについてた小さなフルーツピックの動物マスコットに由紀さんが反応して、『それ、かわいいね』って声をかけてきたのがきっかけだったの。」
美咲はその話に笑いながら、「なんだか意外すぎる……」と、ぽつりと漏らした。
「でも、それだけじゃないの。」紗英は身を乗り出してさらに話を続ける。「由紀さん、UFOキャッチャーが得意なのよ。」
「えっ……?」美咲は思わず聞き返した。「あの由紀さんが……?」
「そう、驚くよね。」紗英はクスクスと笑いながら、「しかも、めちゃくちゃ真剣にやるの。クールな顔して、目の前のぬいぐるみをじっと睨みながら、何度もプレイする。で、絶対に取るまで諦めないんだって。」と楽しそうに話す。
「由紀さんが、UFOキャッチャー……」美咲の脳内には、冷静で知的な雰囲気の由紀が、アームの動きを真剣に見つめ、慎重にボタンを押す姿が浮かんだ。なんだか妙にリアルに想像できてしまい、思わず口元を手で覆ってしまう。
「それだけじゃないよ。」紗英はさらに続けた。「前に誰かが『クレーンゲームって運ゲーだよね』って言ったとき、『違うわ。コツがあるのよ』って、真顔で解説し始めたの。『最初の動きでアームの力を見極めるのが大事』とか、『景品の重心を考えながら狙うのがポイント』とか、めちゃくちゃ理論派で……。」
「え、めっちゃ本気じゃん……!」美咲は思わず吹き出した。
「でしょ?」紗英は頷きながら、「しかも、取れたときは一瞬だけすごく嬉しそうなの。で、『よし』とか小さく呟いて、取ったぬいぐるみを何食わぬ顔で袋に入れるの。でも、隣で見てた人はみんな気づいてるんだよね。由紀さん、絶対に心の中でめちゃくちゃガッツポーズしてるって。」と笑った。
美咲はその光景を想像しながら、さらに笑いがこみ上げてきた。由紀が静かにぬいぐるみを袋にしまう姿。そして、その内心では密かに勝利を噛みしめている――そんなギャップに、胸の奥がくすぐられるような気持ちになった。
「……なんか、かわいいね。」美咲は小さく呟いた。
「でしょ?でも、それが由紀さんらしいんだと思うよ。」紗英は微笑んだ。「でもね、由紀さんって本当に何を考えてるのか読めないところがある。優しいんだけど、たまに距離を感じるというか……」
美咲はその言葉に頷きながらも、ますます由紀に対する興味が深まっていくのを感じた。
—
由紀の職場にて
編集部の昼下がり。窓から差し込む柔らかな日差しがオフィスを明るく照らしている。由紀は机に向かい、赤ペンを手に静かにゲラをチェックしていた。彼女の表情は穏やかで、作業に没頭しながらもどこかリラックスした雰囲気を漂わせている。
そこに、香織が軽い足取りで近づいてきた。手にはコーヒーカップが2つ。彼女は明るい声で話しかける。
「由紀先輩、お疲れさまです!ずっと机に向かってるから、ちょっと休憩してくださいよ~。コーヒー淹れてきました!」
由紀は手元の赤ペンを置いて、顔を上げた。柔らかい笑顔が香織を迎える。
「ありがとう、香織。気が利くわね。」由紀はそう言って、香織からコーヒーカップを受け取る。
「由紀先輩、今日はなんだか機嫌がいいですね!」香織は由紀の微笑みに気づき、からかうような口調で言った。「何かいいことでもありました?」
由紀はカップを持ったまま、少し視線を落とす。そして、ほんのり照れたように小さな笑みを浮かべた。
「ええ……新しい友達ができたの。」
香織はその言葉に驚き、大きく目を見開いた。「えっ、新しい友達……!?」
由紀は少し困ったように笑い、「そんなに意外だった?」と肩をすくめた。
香織はその場で身を乗り出し、「だって、由紀先輩っていつも仕事一筋で、あんまりプライベートの話をしないじゃないですか。だからちょっと意外で……どんな人なんですか?」
由紀はカップを口元に運び、一口飲む。言葉を選ぶように、しばらく考えてから静かに答えた。
「どんな人って……まだお互いをよく知っているわけじゃないけど……」由紀は少し言葉に詰まり、珍しく顔を赤らめる。「若くて、繊細で可愛らしいの。見守ってあげたくなる感じよ。」
香織は驚きと興味が混じった表情で、「へー!いいなぁ。由紀先輩がそんな風に笑えるなんて……きっと素敵な人なんですね!」と嬉しそうに言った。
「そうね。」由紀は目を細めて微笑む。「香織、あなたにもそのうち紹介できるかもしれないわ。」
「ほんとですか!?楽しみです!」香織は目を輝かせて頷いた。
由紀はその反応に小さく笑い、再びゲラを手に取る。「さて、休憩はこれくらいにして、もう少しだけ頑張るわ。」
「そうですね!」香織は元気よく返事をして、自分の席に戻っていった。
—
その日の仕事を終え、オフィスを出ると、蒸し暑い夜風が肌にまとわりついた。7月の東京は、昼間の熱気をそのまま抱え込んだまま、夜になっても涼しくなる気配はない。高層ビルの隙間から見える空には、かすかに霞んだ月が浮かんでいた。
「お疲れ様でした。」
同僚に軽く声をかけ、由紀は静かに職場を後にする。バッグの中から車のキーを探しながら、ふと時計を見ると、まだそこまで遅い時間ではない。夕飯を作るには十分な余裕がある。冷たいビールと、何かさっぱりしたものが食べたい。スーパーに寄って、夏野菜でも買おうか。
駐車場で車に乗り込み、エンジンをかけると、カーステレオが自動で再生を始めた。スピーカーから流れてきたのは、幼い頃によく聴いていたCDの一曲目だった。イントロの懐かしい旋律が、車内の空気を静かに震わせる。
赤信号で停まると、由紀はハンドルに指を添えたまま、ぼんやりと前を見つめた。フロントガラス越しに、熱帯夜特有の霞んだ街の灯りが揺れている。ビルの屋上に掲げられたネオンサインが、じんわりと滲んで、どこか夢の中の光景のように見えた。
小さい頃、夏休みの夜によく母と車で出かけた。助手席に座り、窓を少し開けると、むわっとした夜風が入り込んできた。CDプレーヤーから流れるこの曲を聴きながら、街の灯りをぼんやりと眺めていると、不思議と心が落ち着いた。
「この曲を聴くと、なんだか夏が来たって感じがするわね。」
ハンドルを握る母が微笑みながらそう言ったのを、今でも鮮明に覚えている。
信号が青に変わる。由紀は軽くアクセルを踏み、流れるように車を走らせた。だが、胸の奥に滲んだ感傷は、エアコンの冷気と混ざり合いながら、まだそこに残っていた。
—
スーパーでの買い物を終え、由紀は車を駐車場に停めると、静かにマンションのエントランスへと足を踏み入れた。外の湿った空気とは対照的に、建物内はひんやりとしており、一気に肩の力が抜ける気がした。
ガラス張りのエントランス越しに、マンションのラウンジが見える。間接照明の柔らかな光が落ち着いた空間を作り出し、ソファに腰掛けている人のシルエットをぼんやりと浮かび上がらせていた。ふと、その中のひとつに見覚えのある姿を見つけ、由紀は無意識に足を止める。
美咲だった。
深くソファに沈み込むように座り、スマートフォンの画面を見つめているが、指はほとんど動いていない。ただそこにいるだけのようにも見えた。由紀がその場を通り過ぎようとした瞬間、美咲は顔を上げ、由紀と目が合った。
一瞬の沈黙。
美咲は軽く会釈をし、それと同時に視線を逸らした。由紀も静かに会釈を返す。しかし、美咲はすぐに立ち上がり、戸惑うような仕草でこちらへと歩み寄ってきた。
何か言いたげな表情を浮かべたまま、数歩ずつ近づいてくる美咲。彼女の細い指がぎゅっとスマートフォンを握りしめるのが見えた。由紀はその様子を静かに見つめながら、ほんのわずかに息を止める。
「由紀さん……」
美咲が小さな声で名を呼んだ。その声音は、どこか迷いを含んでいる。由紀は荷物を片手に持ち直し、穏やかに問いかけた。
「どうしたの?」
美咲は唇を噛み、何かを決意するように息を整える。ラウンジの静けさの中で、彼女の鼓動の音さえ聞こえてきそうな気がした。
「少しだけ、お話ししてもいいですか?」
夜の静寂に溶けるような、かすかな声。由紀はそんな美咲を見つめながら、ほんの少しだけ微笑んだ。
「ええ、いいわよ。」
そう答えた直後、由紀はふと手元の買い物袋に目を落とし、思い出したように口を開いた。
「でも……先に野菜を冷蔵庫に入れてきてもいいかしら?」
柔らかく微笑みながら、荷物を軽く持ち上げて見せる。袋の中には、トマトやレタス、ナスにきゅうりなど、夏野菜が彩りよく詰められていた。買ったばかりのそれらが、このまま放置すればすぐに室温で傷んでしまうかもしれない。
美咲は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに「あ、もちろんです!」と頷いた。「待ってますので……」と小さく付け加えながら、少し気まずそうに指先をいじる。
由紀はそんな美咲の様子をちらりと見やり、「ありがとう。すぐ戻るから、待っていてくれる?」と優しく言った。
美咲は再び頷き、ぎこちなく笑みを浮かべた。
由紀はそのまま軽やかにエントランスの奥へと向かい、エレベーターに乗り込む。扉が閉まる直前、美咲の姿が視界の端に映った。彼女はスマートフォンを握りしめたまま、どこか落ち着かない様子で立ち尽くしている。
ラウンジに残された美咲は、ソファの端に座りながら、小さく息を吐いた。
「何を話そうとしたんだろう、私……」
自分の中にある「由紀のことをもっと知りたい」という気持ちは確かにあった。でも、それをどう言葉にすればいいのか分からなかった。
知りたい、でも、聞く勇気がない。
少し前に由紀とカフェで過ごした時間を思い出す。
彼女は落ち着いていて、優しくて、でも、どこか遠い。
「由紀さんって、本当はどんな人なんだろう……」
過去のこと、好きなもの、苦手なこと。
美咲は、今まで誰かに対してこんなふうに「知りたい」と思ったことはなかった。
けれど、由紀のことは、もっと知りたい。
自分の中にあるその気持ちが、まるで手探りのように揺らいでいた。
—
ほどなくして、エレベーターの扉が開いた。
由紀が戻ってくると、美咲は少し背筋を伸ばし、緊張した面持ちで彼女を迎えた。「待たせたわね。」由紀は柔らかく微笑みながら、ソファの向かいに座った。「それで、話って?」
美咲は、少し指を組みながら視線を落とした。
(どうしよう、何か聞かなきゃ。でも……何を……)
一度視線を泳がせたあと、ふと彼女のカーディガンの袖に目が留まった。そこには、小さく刺繍された花の模様があった。
「……由紀さん、その刺繍、可愛いですね。」
由紀は少し驚いたように目を細め、それから袖を眺めた。
「これ?ああ、そうね。気に入ってるの。」
「……お好きなんですか?そういうデザインのもの。」
由紀は微笑みながら、「ええ、意外?」と問い返した。美咲は少し頷いた。「……はい。由紀さんって、落ち着いていて……どちらかというとシンプルなものが好きなのかなって思ってました。」
由紀はふっと笑った。「たしかに、そう思われがちかもしれないわね。でも、可愛いものも好きよ。」美咲はその言葉に、思わず少しだけ口元を緩めた。
「……そうなんですね。」
静寂が満ちるエントランスラウンジ。外の街灯が窓越しに揺らめき、由紀の横顔を淡く照らしていた。
「最近は暴飲暴食とかしてない? 大丈夫?」
由紀の落ち着いた声が、柔らかく美咲の耳に届く。
「……はい、最近はコントロールできてます。」
ぎこちなく微笑みながら、美咲は言葉を紡いだ。
「音楽を聴いたりして……気を紛らわせてます。」
「そう……それは安心したわ。」
由紀は微かに目を細める。その仕草に、美咲の心臓は跳ねた。
(まただ……この目……)
ふと、意識が過去に引き戻される。
視線を逸らさなければ。そう思うのに、身体は動かなかった。
由紀の視線に触れた途端、記憶の奥底に封じ込めていたものが疼く。
幼い頃、暗い部屋の中で感じた冷たい視線。逃げ場のない恐怖。言葉を発しようとするたびに、喉の奥が塞がれ、震えるしかなかった自分――。
(やめて……思い出したくない……)
指先がこわばるのを感じながら、美咲は唇を噛んだ。
「……由紀さん。」
意を決して声を出す。しかし、その先の言葉が続かない。
彼女の目を見ていると、言葉が喉の奥で絡まる。
話したい。だけど、話してしまったら、どうなる?
この感情を伝えたら、由紀はどう思う?
「……あの。」
言いかけた瞬間、由紀の視線が微かに動く。
その僅かな変化だけで、美咲の心臓はさらに跳ねた。
怖い。けれど、嫌じゃない――その矛盾した感情が、美咲を追い詰める。
由紀は何も言わずに、美咲の顔を静かに見つめていた。
まるで、すべてを待っているように。
「……えっと。」
耐えられなくなり、美咲は慌てて言葉を探す。
「由紀さんの目……私の知人と、とてもよく似ていて……」
美咲の声は、震え混じりの囁きだった。
由紀は微かに目を見開き、美咲の言葉の真意を探るように視線を向けた。
「そうなのね」
由紀は小さく息を吐き、口元に微かな笑みを浮かべた。
「嬉しく思っていいのかしら。」
そう言いながらも、彼女の表情はどこか探るような色を帯びていた。
美咲の視線はまっすぐに由紀を捉えたまま、揺らぐことがない。
まるで、その目の奥にあるものを探ろうとするかのように。
「それが……時々……」
声が細く、掠れる。言葉を継ごうとするが、喉がつかえて、なかなか出てこない。
それでも、美咲は意を決して続きを言おうとしたその瞬間。
ぐぅぅぅ……
由紀のお腹が、静寂を破るように鳴った。
空気が一瞬で変わる。
美咲は目を見開いたまま、言葉を止めた。
由紀は驚いたように自分の腹に手を当てると、すぐに顔を赤らめ、小さく笑った。
「……ごめんなさい。お腹空いてて、つい……」
気まずそうに苦笑する由紀の仕草が、妙に可愛らしくて、美咲は思わず口元を覆った。
「……ふふっ。」
張り詰めていた空気が、ふっとほどける。
美咲は、言いかけた言葉の続きを考えながら、それでももう一度話す勇気を奮い立たせることができずにいた。由紀は美咲の様子を見つめながらも、何も追及しなかった。
—
「もうこんな時間……話せてよかったわ。そろそろ戻るね。」
由紀が腕時計を見て、ゆっくりと立ち上がる。
美咲もそれに倣い、ぎこちなく身を起こした。
「そうですね……お時間、ありがとうございました!」
「またね。」
由紀は微笑みながら、美咲に軽く手を振る。
美咲はほんの一瞬、躊躇した。
けれど、このまま何も言わずに別れるのが惜しくて、「私もそろそろ戻ります」と小さく呟いた。
「じゃあ、一緒にエレベーターまで行きましょうか。」
由紀が軽く微笑みながら言うと、美咲はうなずいた。
2人は並んで歩き、エレベーターホールへ向かった。
周囲には誰もいない。
ピンと張り詰めた静寂が漂い、床に響くヒールの音だけがやけに鮮明に聞こえる。
エレベーターのボタンを押すと、すぐに扉が開いた。
2人は無言のまま乗り込む。
由紀が「13」と書かれたボタンを、美咲は「25」と書かれたボタンを押す。
静かに扉が閉まり、エレベーターが動き出すと、密室特有の静けさが2人を包み込んだ。
「えっと……今日の香水、いいですね。」
由紀は、少し意外そうに目を細めた。
「あら、気づいた?」
「はい……その……なんとなく。」
由紀は軽く口角を上げた。「シャネルのN5。 ずっと使っているの。」
「……ずっと?」
「ええ、昔からお気に入りでね。」
美咲は、ごくりと喉を鳴らした。
(やっぱり……あの夜と同じ……。)
美咲の時間が止まる。
記憶の奥から、あの夜、銀座のバーで感じたのと同じ香りが蘇る。
胸がざわめき、手のひらにじっとりと汗が滲む。
記憶の奥に染みついた香りが、目の前の現実と重なる。
エレベーターが「13」の表示で止まり、扉が開いた。
由紀が一歩、前へ進む。
「じゃあ、またね。」振り返った由紀が微笑む。その香水の香りが、ふわりと漂った。
—
部屋に戻った美咲は、バッグをソファの横に置き、ふっと息を吐いた。エアコンのスイッチを入れると、ひんやりとした空気がじわじわと部屋に広がる。さっきまでの緊張感が少しずつ溶けていくのを感じながら、美咲はスマートフォンを手に取った。
「今日はありがとうございました。お話できて嬉しかったです。」
短いメッセージを打ち込み、送信ボタンを押す。指先に残るわずかな余韻を感じながら、しばらく画面を見つめていた。
数分後、スマートフォンが小さく震えた。
「こちらこそ。美咲さんと話せて楽しかったわ。おやすみなさい。」
由紀からの返信だった。
その短い言葉に、自然と微笑みがこぼれる。
だけど、その直後、もう一通の通知が届いた。
不思議に思いながら開くと、それも由紀からだった。
「紅茶が好きなら、ここがおすすめよ。」
そう添えられたメッセージとともに、カフェの名前と地図のリンクが貼られていた。
「時間がある時に、ぜひ行ってみてね。」
その優しい気遣いに、美咲の胸がふわりと温かくなる。
(紅茶の話なんてしてないのに……)
由紀が、さりげなく美咲のことを気にかけてくれているのが伝わる。
何気ないやり取りのはずなのに、彼女の言葉はどこか心に残る。
美咲は、由紀のメッセージをもう一度見つめた。
そして、そっと返信を打ち込む。
「ありがとうございます。今度行ってみますね。」
送信ボタンを押した後、スマートフォンの画面を胸に抱くようにして、美咲はベッドに横になった。
部屋の静寂の中に、さっきエレベーターで感じたシャネルN°5の香りがふっと蘇る。




