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第4話「心の揺籠」

翌朝


美咲は重いまぶたをゆっくりと開けた。薄暗い部屋に朝の光がぼんやりと差し込んでいる。目を閉じると、頭の中で何かがざわつく。ズキズキと響く頭痛。昨夜の出来事がぼんやりと浮かび上がっては消え、まるで夢の中の出来事のように曖昧だった。


「……あれ、何だったんだろう……」美咲は枕元で目を擦りながら、体を起こした。少しずつ頭が冴えてくると、のどの渇きに気づき、冷たい炭酸水を飲みたくなった。


ふらふらとベッドから起き上がり、軽く着替えて外へ出ると、まだ静かな朝の空気が彼女の体を包む。コンビニまでの道のりは短く、ぼんやりとしたまま炭酸水を手にレジへ向かい、会計を済ませた。


帰り道、ふと気持ちが少し晴れたような気がした。昨夜のことを思い返しながらも、頭の中はまだはっきりとはしない。何があったのか、何を感じたのか。記憶が断片的で、何か大事なことを忘れているような気がしていた。


マンションに戻り、エントランスを通り過ぎると、ふとポストに目が留まった。ポストを開けると、中には一枚のメモが無造作に差し込まれていた。


「……何これ?」美咲は軽い疑問を抱きながらそのメモを取り出す。達筆な文字がそこに書かれていた。それは、由紀の電話番号と、たった一言の署名だけだった。


高瀬


その二文字を目にした瞬間、美咲の胸に昨夜の出来事が一気に押し寄せてきた。家まで送ってくれた由紀の姿、彼女の冷静で優しい目、そして自分の弱々しい姿――すべてが一気に蘇った。昨夜の会話、由紀の触れた手の温かさ、その全てが現実であったことを、このメモが証明していた。


「……どうしてこんなものを?」由紀の電話番号を目にしながら、美咲の心は混乱し始めた。どうして自分に連絡先を渡したのか。


ただ一つ、はっきりと分かるのは、由紀がこのメモを残したという事実。美咲の心臓は、その事実だけで鼓動を早めていた。

「かけるべきなのかな。」

美咲は部屋に戻るとスマートフォンを手に取り、由紀の番号を入力し始めた。指先は微かに震え、心臓は胸の奥で激しく鼓動している。一つ一つの数字を押すたびに、全身に緊張が走った。

通話ボタンに指を触れる。そこから先に進む勇気が、どうしても出ない。美咲は瞳を閉じ、ゆっくりと深呼吸をした。

「怖い。でも....話したい。」

彼女は恐怖と期待が入り混じったこの感覚が、過去の傷から来ていることをうっすらと感じていた。決して認めたくない叔父の影が由紀と重なることで感じる恐怖。


「なんて話せばいいんだろう……」彼女の頭の中で、言葉が混乱していく。由紀に伝えたいことがあるのか、自分でもよく分からない。ただ、彼女の存在が心の中に痛みをもたらしていて、その痛みから逃れたいという衝動に駆られていた。


「……」呼び出し音が静かな部屋に響き渡るたびに、美咲の心はさらに乱れていく。時間が止まったかのように長い数秒が過ぎていく。


やがて、電話の向こうから自動音声が響いた。「おかけになった電話番号は……」由紀は電話に出られなかった。


「仕事中なのかな」美咲は、ほっとしたような、それでいて強く落胆した気持ちでスマートフォンを下ろした。由紀が出られないのは当然のこと。彼女には自分とは違う世界がある。仕事に忙しく、自分とは異なる大人の生活を送っているのだ。


それでも、美咲の心にはぽっかりと穴が空いたような寂しさが残った。まるで昨夜の出来事が、ほんの一瞬の夢に過ぎなかったかのような感覚が彼女を覆い始める。


---


その頃、由紀はオフィスのデスクに向かっていた。編集者としての一日が始まると、彼女はすぐに仕事に没頭し始める。しかし、ふとした瞬間に美咲のことが頭をよぎる。


「本当に、大丈夫かしら……あの子」彼女はパソコンの画面から目を離し、ふとデスクに置かれたスマートフォンに視線を落とした。そして、そこで見知らぬ番号からの着信履歴に気づく。


「誰から?」着信履歴を見つめるうちに、由紀の胸に小さな直感が生まれた。この番号は、美咲からのものではないか――そんな考えが頭をよぎったのだ。


「電話を、かけてきたのね……」彼女は、少しずつ美咲の繊細さが見えてきたような気がして、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。美咲が自分に頼ろうとしてくれた、その気持ちを想像すると、由紀の心には優しさが芽生えていく。

「また明日にでも掛け直すわ」


---

美咲は立ち上がり、少し冷たくなった床を裸足で歩いて浴室へ向かった。シャワーを浴びながら、由紀の声を思い出そうとする。しかし、実際に由紀と話せなかった現実が、思い出を曖昧にしていくような気がして、心がざわついた。

浴槽に湯を溜め、ゆっくりと体を沈める。熱い湯が全身を包み込み、少しだけ緊張が解けた気がした。

湯船から上がると、美咲は髪を乾かしながら鏡を見つめた。「今日は顔が少し浮腫んでる......」

髪を乾かし終わり、部屋に戻るとベッドに大の字になりながら横になった。

ベッドに横たわりながら、天井をじっと見つめる。その視線は虚空をさまよい、心の中に渦巻く感情は整理できないまま、ふと視線を横に向けると部屋の隅に置かれたビニール袋が目に入る。昨夜、衝動的に買い込んだ大量のお菓子。チョコレート、クッキー、ポテトチップス……それらはまだ封を切らないまま袋の中に収まっているが、その存在が美咲の胸を刺した。「……私、何やってるんだろう……」小さな声が部屋に溶ける。

思い出すのは、昨夜の自分。酔った勢いで店を出て、コンビニでこれでもかとお菓子を詰め込んだカゴ。それをただ見つめる今の自分。過食が未遂で済んだことには安心したが、無力感と自己嫌悪が重なり合い、どうしようもない感情が押し寄せてくる。


部屋の中を見渡すと、自分の幼さを象徴するかのようなピンクの小物が目に飛び込んでくる。小さなうさぎのぬいぐるみ、ハート形のクッション、可愛らしい装飾のフレームに収まった家族写真。そしてドレッサーの鏡には、小さな十字架のペンダントがぶら下がっていた。


その十字架を見た瞬間、幼い頃を思い出した。子供の頃、亡き父親から贈られたもので、「神様がいつも見守ってくれているからね」と微笑んだ父の姿が思い浮かぶ。あの頃は無邪気に信じていた。神がいるなら、きっと全てが守られると。

しかし、今の自分はどうだろう? その存在に問いかけても返事はなく、むしろ背を向けるような日々を過ごしている。未成年からの飲酒、喫煙、軽率な行動――誰にも言えない行いを重ねるたび、心の奥には小さな罪悪感が降り積もっていく。表面上は完璧を装っても、自分だけが知る「真実」に、いつも押しつぶされそうになっている。

十字架を見つめながら、美咲は考えていた。父が信じていた神の存在、そして、それを信じるふりをやめた自分――それらすべてが、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。そして気づけば、思考は自然と由紀の方へと向かっていた。

「……由紀さんは、叔父と似ている。」

ふいに美咲は、声にならない真実を呟いた。由紀の鋭い目、冷静な声と触れられた感覚――そのどれもが、あの忌まわしい記憶と交差する。叔父が見せた支配的な視線、冷たく乾いた声。それを思い出すたび、美咲の中には恐怖と混乱が湧き上がった。

「でも……」

美咲は小さく目を閉じた。涙が一筋、静かに頬を伝う。由紀に感じる恐怖と同時に、それ以上に彼女への憧れが心を埋め尽くしている。由紀は叔父とは違う――そう信じたい自分がいる一方で、過去の記憶が繰り返し囁く。「同じなのではないか」と。

由紀を思うたび、美咲の中には切なさ、過去の傷と今の自分、恐怖と憧れ。それらが複雑に絡み合い、どこにも逃げ場を与えない。

夜になり、時計が0時を指した。美咲は大学の課題を終わらせるとゆっくりと眠りについた。由紀からの折り返し電話が来るのを期待して。

---

翌日


由紀は、いつもと同じように仕事に取り組んでいた。編集者としての責任は大きく、次々と舞い込む連絡や会議に追われる。しかし、その合間にふと美咲のことを思い出してしまう。彼女が昨日の朝、電話をかけてきたことがずっと心に引っかかっていた。


「ちゃんと、電話を折り返さないと……」由紀は、昼休みの少しの時間を利用して、美咲のことをもう一度自分の中で整理しようと決めた。彼女はデスクの上に置かれたメモを見つめ、心の中に浮かぶ感情に向き合おうとした。


「あの子は…純粋で、繊細で、危うい。」

美咲の不安定な姿が、由紀の心に焼き付いて離れない。彼女が一人で抱え込んでいる何かが、由紀の心を強く揺さぶっていた。


由紀は、スマートフォンを手に取り、昨日美咲からかかってきた番号を見つめた。彼女が電話をかけてきたということは、何かを伝えたかった、あるいは何かを求めていたのだろう。由紀は、美咲がどんな気持ちで電話をかけてきたのかを考えると、胸にほんの少しの切なさが広がった。


「……彼女が私に頼ってくれるなら、少しでも力になりたい。」

昼休みの時間を利用して由紀は美咲の番号に折り返しの電話をかけた。数回の呼び出し音の後、「もしもし……高瀬さん?」と緊張した声が応える。その声に、由紀は自然と微笑みが浮かんだ。


「ええ、美咲さん。昨日は電話に出れなくてごめんなさい。どうしたの?」由紀は柔らかな口調で問いかけた。彼女の心の中には、美咲を安心させてあげたいという強い思いがあった。電話を通じて伝わる美咲の緊張感を感じながら、由紀は優しく彼女を包み込むような気持ちで話しかけた。


「……あの、先日はありがとうございました。それと……」美咲の声は小さく、震えている。その声を聞いて、由紀は彼女が何かに強く揺さぶられていることを感じた。彼女が何を伝えたいのか、何を求めているのかはまだわからない。しかし、由紀には美咲の心に寄り添うことができる気がした。


「うん、気にしなくていいのよ。でも、何かあったらいつでも連絡してね。」由紀は優しく言った。その言葉には、美咲に対する母性と、彼女を守りたいという純粋な思いが込められていた。


「……それと、また……お会いできたらなって……思って……」美咲の声は震えていた。その言葉に、由紀は少しだけ微笑んだ。美咲が自分にまた会いたいと思っていることがわかり、安心すると同時に、彼女の心がどれだけ不安定であるかも感じ取れた。


「そうね……」由紀は少し間を置いてから答えた。「それは……また、どこかで考えておくわ。」彼女の中にあるのは、美咲が一人で苦しむことなく、安心できる場所を持ってほしいという願いだけだった。彼女に寄り添いたい、支えてあげたい、そんな思いで返事をした。


「……はい……ありがとうございます。」美咲の声は、少し安堵したように聞こえた。その声を聞いて、由紀の胸にもほのかな温かさが広がった。美咲にとって、自分の存在が少しでも心の支えになっているのなら、それでいいと思った。



「それじゃあ、私はこれから少し休むから。また何かあれば連絡して。」由紀は、できるだけ柔らかくそう伝えた。彼女にとっては、美咲が頼りたいときに頼れる存在であり続けることが重要だった。


「……はい。また……ご迷惑でなければ」美咲の遠慮がちな言葉に、由紀は少し微笑みながら答えた。


「大丈夫よ。じゃあね。」そう言って電話を切ると、由紀はスマートフォンを手に、静かに視線を落とした。音のない部屋の中で、微かに聞こえる時計の針の音だけが、彼女の思考を刻むように響く。

「由紀先輩〜!一緒にランチ行きませんか?」軽やかな声が後ろから聞こえ、振り返る前に後輩の香織が近づいてきた。


「あれ、何かしてました?」香織が微かに首を傾げて、由紀の顔を覗き込む。「邪魔しちゃったならごめんなさい。」


由紀はふっと表情を緩めて、小さく首を振った。「ううん、気にしないで。お昼にしよっか。」


少しぼんやりしていた思考を切り替えるように立ち上がり、香織に歩調を合わせる。香織の明るい声が空気を変えるのを感じながら、由紀はわずかに微笑んだ。


食堂にて香織はサラダをいじりながら、小声で切り出した。「由紀先輩、ちょっと聞いてもいいですか?」


「どうしたの?」由紀はフォークを置き、穏やかな笑顔で香織の方に向き直った。


「この前の合コンで知り合った人なんですけど、3回デートに行ったのに、全然会話が広がらなくて……」香織は箸でミニトマトを転がしながら、少し顔を赤らめた。「美術館に行ったときも、『これ、どう思う?』って聞いたら『うん、いいね』しか返ってこなくて。それ以上何も話さないんですよ。」

由紀はナプキンを整えながら微笑んだ。「それ、もしかしたら相手がただ緊張してるだけかもしれないわよ。相手が無理に話題を振るより、香織がリードしてみるのもいいかもしれない。」

「リード……かぁ。先輩、そういうの得意そうですね!」香織は憧れたように言った。

由紀は軽く肩をすくめながら、「どうかな……恋愛って、考えすぎるとうまくいかないものよ。無理をして疲れるようなら、立ち止まるのも大事。」

香織は頷きながら、「なるほど、ちょっと私も考えすぎてたかも……もう少し様子を見てみます!」と、少し明るい表情を取り戻した。


「香織もまだ若いんだから、30歳になる前にいろんな恋愛を楽しんでおきなさい」と、由紀は軽く笑いながら言った。


すると香織はすぐさま反応した。「先輩だってまだ若いじゃないですか!たったの6歳差ですよ?」笑い声を含ませながら、少しだけからかうように付け加えた。


由紀はフォークを手に取りながら、少し目を細めて香織を見た。「6歳差って言うけど、26歳と32歳じゃ扱いが違うのよ。20代なんて、あっという間よ。」


「そんなこと言わないでくださいよ!私だって焦るじゃないですか」と香織は笑顔のまま頬を膨らませた。


由紀は軽い調子で続けた。「焦らなくても大丈夫。26歳は一番輝いてる時期よ。恋も仕事も、思いっきり楽しむべき時。あと、失敗だって若いうちの特権なんだから、恐れずに進みなさい。」


香織は少し感心したような顔で頷いた。「さすが先輩……でも、由紀先輩だってその余裕がある感じ、絶対恋愛うまくやってますよね?」


由紀は微笑みを浮かべながら、軽く首を振った。「どうかしらね……恋愛よりも、今はもっと優先すべきことがあるのかも。」


「えー、そんなのつまらないですよ!由紀先輩の恋愛話も聞いてみたいのに……」香織はおどけたように言いながらも、その視線は少しだけ由紀を探るようだった。


「さ、それよりご飯が冷めちゃうわよ。あと午後も頑張らないといけないんだから、エネルギー補充しないとね。」


香織は少し不満げに口を尖らせながらも、「はいはい、分かりましたよ~」とスプーンを手に取った。ランチタイムはまた軽快な会話で埋め尽くされていった。

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