第23話「巡る季節」
3年後
大学のキャンパス内、カフェテラス。
美咲は、大学のカフェテラスでカフェラテを飲みながら、向かいの紗英を見つめていた。
「もうすぐ卒業かぁ…信じられないね。」
そう言いながら、美咲は遠くのキャンパスの風景を眺めた。
「ほんとにね。気づけばもう4年生の後期。あっという間だったなぁ。」
紗英も、少し感慨深そうにコーヒーを口にする。
「美咲は、卒業したらどうするの?」
「うん、内定先の研修が始まるまでは、ちょっとゆっくりしようかなって思ってる。4年生の後期は授業も少ないし、ようやくのんびりできるしね。」
「そっか…なんかさ、こうして話してると、本当に変わったなって思う。」
紗英は美咲の顔をじっと見つめる。
「前は、卒業とか将来のことを考える余裕すらなかったでしょ?由紀さんがいなくなってから、しばらくは…すごく危うかったし。」
美咲は苦笑しながら、カフェラテをかき混ぜた。
「そうだね。あの頃は、自分がどこに向かってるのかすら分からなかった。ずっと由紀さんの影を追ってばかりで、前に進むなんて考えられなかった。」
「今は?」
紗英が優しく問いかける。
美咲は少し微笑み、桜の花びらを指先でそっと掴む。
「今はね…由紀さんがいなくても、大丈夫になった。」
「そっか。」
紗英は安心したように頷く。
「前は、会えないことが苦しくて、何をしててもどこかでずっと寂しさを感じてた。でも今は、その寂しさを受け入れられるようになったの。私の人生は、私が作るものだから。」
「強くなったね、美咲。」
「うん。でも、それは紗英がずっとそばにいてくれたからだよ。」
「え、なにそれ、ちょっと照れるじゃん。」
紗英が冗談めかして笑うと、美咲もつられて笑った。
「でも、本当にありがとう。あの頃の私は、紗英がいなかったらどうなってたか分からない。」
「そんなの、分かってるよ。」
紗英はそう言って、美咲のカップに軽く自分のカップをぶつけた。
「それでさ…卒業する前に、もう一回みんなで旅行行かない?」
「いいね、それ。4年生の後期なんてほぼ春休みみたいなもんだしね。」
「だよね!よし、計画しよ!」
二人の会話は、未来へと続いていた。
由紀のいない世界は、確かに最初は寂しかった。でも、美咲はその寂しさを抱えながらも、自分の人生を歩き始めていた。
—
手紙を書くのは、どれくらいぶりだろう。
美咲は机に向かい、白い便箋にそっとペンを走らせた。
---
由紀さんへ
お元気ですか?
こうして手紙を書くのは、随分久しぶりですね。
私も、もう22歳になりました。大学も4年生の後期に入り、卒業が近づいています。
思えば、あの頃は未来のことなんて考えられなかったけれど、今はちゃんと前を向けています。
由紀さんに、今の私を見てほしいなって思うんです。
だから、もしよかったら、久しぶりに会えませんか?
美咲
書き終えた手紙を封筒に入れ、美咲は深く息をついた。
送り先の住所は、由紀が引っ越す前に教えてくれていたもの。
ポストに投函した後は、期待しすぎないようにしようと思った。
もし返事がなくても、それはそれでいい。
でも――
半年後、美咲の元に、一通の封筒が届いた。
送り主の名前を見た瞬間、心臓が跳ねる。
震える指で封を切り、そっと便箋を広げると、そこには由紀の整った字が並んでいた。
—
美咲さんへ
お手紙ありがとう。
もう22歳なんですね。月日の流れの速さに、少し驚いてしまいました。
美咲さんが今、しっかり前を向いて生きていることを知れて、私も嬉しいです。
そして、私も美咲さんに会いたいと思いました。
久しぶりに、会いましょう。
由紀
—
美咲は、手紙を持つ指にぎゅっと力を込めた。
由紀さんに会える。
この3年間、美咲はその日を夢見ていた。
でも、もうあの頃のようにすがることはしない。
今の自分で、もう一度、由紀と向き合うために。
—
約束の日
4年ぶりの再会 - 初秋の銀座にて
澄み渡る青空の下、秋の風がほんのりと肌に心地よい。9月下旬の昼、美咲は銀座の街を歩きながら胸の高鳴りを抑えられなかった。久しぶりに袖を通したのは、由紀と初めて出会った時のお気に入りのワンピース。白地に小花柄があしらわれたその服は、美咲にとって大切な思い出の一枚だ。今日は、そのワンピースで再び由紀と会う。自信を持って、笑顔で向き合える自分を見せたいという思いを込めて。鏡の前で何度も深呼吸を繰り返し、ゆっくりと歩を進めた。
由紀との約束の場所は、銀座の一角にある落ち着いたカフェ。二人がかつてよく通っていた場所だ。モダンなインテリアが印象的で、柔らかな照明が店内を包み込む。美咲は、そのドアを開ける瞬間、かつての記憶が一気に蘇るのを感じた。温かいコーヒーの香り、木製の家具の手触り、静かで穏やかな空気感――すべてが4年前のままだった。
店内には、平日の昼下がりにしては多くの客が訪れていた。にぎやかすぎず、静かすぎない、心地よいざわめきの中で、美咲はすぐに由紀の姿を見つけた。窓際の席に座る由紀は、相変わらずの落ち着いた優雅さをまとい、カップを手に取っていた。4年ぶりの再会に、ふいに胸が締め付けられる。由紀はふと顔を上げ、美咲の姿を見つけると、静かに微笑んで手を振った。
その笑顔を見た瞬間、美咲の中で一気に様々な感情が押し寄せた。喜び、緊張、懐かしさ、そして少しの寂しさ。けれど、そのどれもが心地よい感覚だった。由紀の優しい視線が、今も変わらず自分を見つめてくれていることが、嬉しかったのだ。
「美咲さん、久しぶりね。」由紀の声は、4年前と変わらず、少しハスキーで落ち着いた響きを持っていた。美咲はぎこちなく席に腰を下ろすと、由紀の顔をまっすぐに見た。大人びた顔立ち、気品ある佇まい。4年の時が経っても、その美しさには陰りがなく、むしろより洗練されているように感じた。
「由紀さん……本当に久しぶりです。」美咲は緊張しながらも笑顔で返す。由紀に会いたい、その一心で迎えた今日だったが、やはり4年のブランクが彼女の心に少しの不安を与えていた。由紀は今、自分のことをどう感じているのだろう――その疑問が頭を過ぎる。
「本当に変わったわね。」由紀はしみじみとした眼差しで美咲を見つめた。かつてのあどけなさが消え、どこか大人の女性としての自信を身にまとう美咲。その凛とした姿に、由紀は心を動かされている自分に気づいた。
「うん……あの頃とは、いろいろ変わったと思います。」美咲は微笑みながら由紀の目を見つめた。言葉にはしないまでも、彼女の中には強い覚悟があった。「いろいろあったけど、少しずつ前に進んできました。仕事も始めて、友達も増えて……。」
由紀は美咲の言葉に柔らかく微笑んだ。「それを聞けて、本当に嬉しいわ。美咲さんが元気でいてくれること、それが私にとって一番大切なことだったから。」
その言葉に、美咲は思わず胸が熱くなった。4年という時の流れの中で、自分が由紀から見放されたのではないかと何度も思ったことがある。それでも由紀は、自分のことをずっと気にかけていてくれた――その確信が、今の由紀の言葉から伝わってきた。
「……由紀さん。」美咲は目を伏せ、一度深呼吸をしてから言葉を続けた。「私、あのとき、あなたにすごく執着してしまって……苦しかった。でも、今はもう、あなたに頼るだけの私じゃない。」
由紀は美咲の真剣な眼差しに少し戸惑ったような顔を見せたが、その視線から逃げることなく、しっかりと受け止めた。
「会いたかったのは、由紀さんが私にとって特別だから。でも、今の私はただそれだけじゃない。」美咲は目を見開き、まっすぐに由紀を見つめた。「由紀さんの気持ちを知りたい。……由紀さんにとって、私はどういう存在だったんですか?」
由紀の胸が高鳴り、手にしていたカップがかすかに震えた。
「……美咲さん、あなたは私にとって……大事な存在よ。」由紀は少しずつ言葉を選びながら答えた。「とても特別な、かけがえのない存在。ただ、私があなたにどう思われているのか、それが怖くて……ずっと答えを出せずにいたの。」
美咲はその言葉をじっと受け止めた。由紀が自分をどう思っていたのか、何度も考えたことがある。でも、今初めてその本心を聞けたことで、4年間抱え続けた疑問が少しだけ解けたような気がした。
「それでも、こうしてまた会えたことが……私は本当に嬉しいです。」美咲は微笑みながら言った。由紀の言葉を胸に刻みながら、その目の奥に見える複雑な感情を理解しようと努めていた。由紀が抱えてきた迷い、悩み、そして自分に対する想い――すべてが今、二人の間に浮かび上がっていた。
由紀は、美咲が自分に向ける強い視線に少しだけ動揺していた。かつては守るべき存在だった少女が、今では自分と対等に向き合う大人の女性としてそこにいる。その成長した姿に由紀は胸が熱くなり、思わず視線をそらす。彼女がどれだけ自分にとって大切な存在になっているのか、その重さが心にずしりと響いていた。
「……美咲さん、あなたは本当に……強くなったわね。」由紀はゆっくりとカップを置き、美咲を見つめ直した。「私のことを真っ直ぐに見て、こうして話をしてくれるあなたが、とても誇らしいわ。」
「ありがとうございます、由紀さん。」美咲は顔をほころばせ、静かに頷いた。
カフェの柔らかな照明の中、二人は昔のように笑顔で話を続けていた。けれども、4年前とは違う。互いに歩んできた道のりが、今の二人をさらに深い関係へと導いていた。美咲が変わったように、由紀もまた、この4年で美咲が変わったように、由紀もまた、この4年で自分の気持ちを少しずつ変えてきた。
カフェの静かな空間で、二人の会話は過去の思い出から現在の出来事、そして未来への想いへと自然に移っていった。時間が進むにつれて、初めのぎこちなさが少しずつ和らぎ、まるで昔に戻ったかのような感覚が二人を包んでいく。
由紀は美咲の話に耳を傾けながら、彼女の成長に驚きを感じていた。仕事を始め、周囲との人間関係も広げてきた美咲は、かつての無邪気で真っ直ぐな少女とは違っていた。成熟した美しさと、内面からあふれる自信が彼女を輝かせていた。その姿に、由紀は感心した。
「4年前、あなたと銀座で出会ったあの日を思い出すと、あの時のあなたがこんなに素敵な女性になるなんて、想像もしていなかったわ。」
「私も……由紀さんとこうしてまた会えるなんて、想像もしていなかったです。」美咲は微笑んだ。その笑顔には、かつての少女らしさが残りつつも、今はどこか大人の落ち着きを感じさせた。「でも、またこうしてお話しできるのが本当に嬉しいです。4年間、私が頑張ってきたことが報われたような気がして。」
「頑張ってきたのね……あなたがそう話すと、私も勇気づけられるわ。」由紀は、カップの縁を指でなぞりながら答えた。彼女の目には、かつての美咲への愛おしさと、今の美咲への尊敬が混じっていた。
「実は……今付き合っている人がいるんです。彼とは結婚も考えています。」
「そうなのね。それは……素敵なことだわ。」由紀はかすれそうになる声をなんとか抑え、穏やかに返事をした。
「ありがとうございます。」美咲は恥ずかしそうに頷き、カップを手に取った。「彼とは自然体でいられるんです。だから、将来のことを考えると、安心していられるというか……。」
「あなたがそう感じられる相手に出会えたこと、私もとても嬉しいわ。」
「ありがとうございます、由紀さん。」美咲は照れたように目を伏せた。「私も、由紀さんには幸せでいてほしいんです。」
「私の幸せ、ね……」由紀はぼんやりと窓の外を見つめた。秋の日差しが街路樹を照らし、優しい影を作っている。
美咲は由紀の横顔を見つめ、彼女の胸の奥にある複雑な感情に気づいた。由紀の言葉の裏には、過去の傷があるのだろう――そう感じた。
「でも、美咲さんの恋愛の話を聞けて、なんだか私まで嬉しくなってしまったわ。」由紀は、少し照れたように笑いながら美咲を見つめた。
かつての自分を気にかけ、守ろうとしてくれた由紀の優しさに、美咲は感謝の気持ちでいっぱいだった。
「そういえば、由紀さん。」
由紀がカップを置き、美咲を見つめる。
「マザーリーフ、今も元気に育ってますよ。」
由紀の目が一瞬だけ大きく見開かれた。
「……そう。」
思いがけない言葉に、由紀は少し驚いたように口元に指を添える。そして、すぐに微笑みがこぼれた。
「まだ、大切にしてくれていたのね。」
「もちろんです。」
美咲の声は、どこか誇らしげだった。
「私、由紀さんに会えて、本当によかったです。」美咲は手を伸ばし、由紀の手に触れた。その瞬間、由紀の胸にかすかに電流のようなものが走り、心が大きく揺れた。
「私も……美咲さんに会えて、よかったわ。」由紀は静かに美咲の手を握り返した。かつてのような衝動的な想いではなく、今の美咲を受け止める自分の気持ちが、少しずつ形をなしていくのを感じた。
店内に流れるゆったりとしたジャズの音色が、二人の間に静かな安らぎをもたらす。
「これからも……私たちのペースで繋がっていきましょうね。」美咲の言葉に、由紀はゆっくりと頷いた。
「ええ、もちろんよ。」由紀はそう返すと、窓の外に目をやった。秋の空はどこまでも澄み渡っていて、風が柔らかく街を包んでいる。
二人は銀座のカフェを出て、並んで歩いていた。日が沈みかけた夕暮れの街は、温かなオレンジ色に包まれている。
どちらからともなく、歩みを止めて立ち止まる。由紀は美咲を見つめ、その表情にはどこか安堵と優しさが滲んでいた。美咲はその瞳に、自分への愛情と優しさを感じ取り、胸が温かくなるのを感じた。
しばらくの沈黙の後、美咲は一歩由紀に近づき、少し緊張した面持ちで口を開いた。「由紀さん……」一度言葉を飲み込み、勇気を振り絞るように続けた。「大好きです。」少女が母親に向かって言うような表情だった。
その言葉に由紀の表情が一瞬だけ柔らかく変わる。彼女は美咲を見つめ、ふっと微笑んだ。その笑顔には、言葉では伝えきれないほどの温かさと愛が込められていた。そして、由紀はゆっくりと美咲の手を握り,もう片手を重ねた。
「私も、大好きよ」由紀の声は静かで、けれど確かな響きを持っていた。美咲の胸に、由紀の言葉が優しく染み渡っていく。
(このままずっと、続けばいいのに……)
美咲は心の中でそう願いながら、由紀の強い目力にただただ吸い込まれていった。
---
さらに5年後
季節は秋。少し冷たくなった風が吹く中、美咲は自宅の書斎でペンを置いた。机の上には、ようやく完成したばかりの本、「詩になった貴女」が置かれている。美咲は表紙に指を滑らせ、ほっと微笑んだ。この本は、彼女が5年間抱え続けていた想いと、新たに築いてきた人生の証そのものだった。
「やっと、書けた……」そう呟いて、彼女は由紀の顔を思い浮かべる。5年前、二人が再会してから、連絡を取り合っていたが、お互いの忙しさでその頻度は次第に減っていた。それでも、由紀の存在は美咲の心の中にあり続けていた。
---
数日後、美咲は「詩になった貴女」を一冊、丁寧に梱包し、由紀の住むマンションへと送った。その中には、短い手紙が添えられている。
手紙の内容:
高瀬由紀さんへ
久しぶりです。突然の手紙に驚かせてしまったらごめんなさい。実は、この度、本を出版することになりました。この本には、私の心の奥にずっとあった気持ちと、これまでの経験が詰まっています。そして、この本を貴女にどうしても贈りたかった。貴女がいなければ、この本は生まれなかったから。
詩になった貴女が、この一冊の中にいます。
どうか、手に取ってもらえたら嬉しいです。
遠山美咲より
---
数日後、由紀の元に届いた小包を開けると、そこには「詩になった貴女」というタイトルが目に飛び込んできた。由紀はそのタイトルを見つめ、自然と涙が頬を伝うのを感じた。彼女はそっと本を開き、最初のページに書かれた美咲からの献辞を読む。
---
献辞:
この本を、私が初めて愛した人、そして私に詩を与えてくれた貴女に捧げます。貴女との日々は、私の心に消えない詩を刻みました。どうか、その詩が届きますように。
---
その一文を読んだ瞬間、由紀の心の中に眠っていた美咲との思い出が、一気に溢れ出した。彼女が必死に自分の気持ちを伝えていた姿、銀座のでの再会、そして二人の間に流れていた複雑な感情――すべてが胸に込み上げてくる。
由紀は涙を拭い、深く息をついた。「美咲さん…あなたは、こんなにも強く、さらに立派になったのね……」
その言葉を口に出した瞬間、由紀はふと決心した。美咲に会いに行こう、と。今なら美咲と向き合える――そう思えたのだ。
「……待っててね、美咲さん。」由紀は静かに立ち上がり、クローゼットのドアを開けてコートを手に取った。外の風は冷たいけれど、彼女の心には、再び美咲に会うことで温かさが戻る予感があった。
終わり




