第22話「閉ざされた扉」
大学の昼休み、紗英は久しぶりに美咲へ話しかける。
美咲はまだどこか紗英を避けるような態度を取っていたが、紗英は軽い口調で言う。
「ねえ、美咲。最近ずっと真面目にしてるけどさ……最初の頃みたいにバー行ったり、クラブ行かない?」
美咲は少し考え込む。
もともと気分転換に飲みに行くのは嫌いじゃないし、むしろ楽しかった。
けれど、最近は飲む気になれなかった。
「お酒控えてて……カラオケとか行かない?」
紗英は少し驚いたように目を瞬かせる。
「え? そうなの?」
「うん。なんか……飲む気分じゃなくて。」
「そっか。でもカラオケもいいね。行こっか!」
美咲は、紗英がすぐに受け入れてくれたことに、ほんの少し安心する。
まだ完全に仲直りできたわけじゃない。
でも、少しずつ前に進める気がした。
—
マンションのラウンジ。
夜の静寂に包まれた空間で、美咲はコーヒーを片手に、ぼんやりとテーブルを見つめていた。
(……気まずい。)
ふと顔を上げると、少し離れた席で本を読んでいる由紀の姿が目に入った。
綺麗に揃えられた髪、ゆるく組まれた脚、落ち着いた指先でグラスを持つ仕草。
いつものように洗練されていて、冷静で……でも、なんとなく遠く感じた。
(……あの日以来、まともに顔を合わせてない。)
声をかけようか、どうしようか。
でも、どんな顔をすればいいのかわからない。
美咲はそっと視線を逸らし、コーヒーを一口飲んだ。
そんなとき——
「最近、元気?」
不意に、静かな声が聞こえた。
驚いて顔を上げると、由紀がいつの間にか近くに立っていた。
美咲のテーブルの向かい側に手を添え、軽く身を乗り出している。
「……由紀さん?」
予想外の出来事に、胸が小さく跳ねる。
ずっと冷たくされると思っていたのに、まさか由紀から話しかけてくるなんて——。
「最近、見かけなかったから。」
由紀は淡々とした口調で続ける。
「元気にしてる?」
(……心配、してくれた?)
胸が少しだけ温かくなる。でも——美咲は、素直に嬉しいとは言えなかった。
なぜなら、あの夜の出来事がまだ鮮明に残っていたから。
「……はい、大丈夫です。」
できるだけ何でもないふりをする。
けれど、由紀の瞳はそれを見抜いているようだった。
「本当に?」
「……本当ですよ。」
わずかに微笑みながら言ったつもりだったけれど、自分でもぎこちないのがわかった。
由紀は少しだけ目を細める。
「ならいいわ。」
そう言って、またグラスに口をつける。
何か言いたいことがあるのに、それをぐっと飲み込んでいるような仕草だった。
——少しの沈黙が流れる。
美咲は、視線をテーブルに落としたまま、そっと口を開いた。
「……由紀さんは?」
「私?」
由紀は一瞬、意外そうな顔をした。
けれど、すぐに薄く微笑んで答える。
「……まぁ、それなりに。」
「それなりに、か……。」
何となく、少しだけ切なくなる。
それ以上は、どちらも何も言わなかった。
美咲はふっと息をつく。
すると、その様子をじっと見ていた由紀が、静かに言った。
「無理しないでね。」
その言葉に、美咲の心臓が軽く跳ねた。
「……うん。」
美咲が頷くと、由紀はふっと小さく息を吐き、再び席に戻っていった。
彼女の背中を見つめながら、美咲は心の中で呟く。
(……やっぱり、由紀さんは優しい。)
でも、それがどこか寂しかった。
——彼女は今、どんな気持ちで私に声をかけたのだろう。
そんなことを考えながら、美咲はスマホを取り出し、紗英にメッセージを送った。
「やっぱり、行こう。」
このまま一人でいたら、また由紀のことばかり考えてしまう。
それが怖くて、美咲は静かに席を立った。
–
1ヶ月が経ち3月になった。
部屋の窓から差し込む光が、静かに床を照らしていた。
カーテンは開け放たれ、春の空気がゆっくりと入り込んでくる。
由紀はベッドの上に座り、手元の箱をじっと見つめていた。
衣類、本、使いかけのノート——手放すべきものと、持っていくべきものを分けていく。
それはまるで、自分の過去と未来を整理する作業のようだった。
(数ヶ月間、本当にいろんなことがあったわね。)
美咲と出会い、彼女の執着や涙、激情に晒されてきた。
最初はただの偶然の出会いだったはずが、気づけば彼女は日常の一部になっていた。
けれど——
(これからは、美咲さんには1人で立ち直ってもらわなければならない。)
大人になるというのは、そういうことだ。
他人に頼りすぎることなく、自分自身で歩くことを覚えなければならない。
そして、由紀もまた、美咲を振り切り、自分の人生を進めなければならない。
ふと、スマホの通知が光った。
画面を見ると、美咲からの未読メッセージがいくつか並んでいる。
最後のメッセージは、シンプルな一言だった。
「会いたいです。」
由紀はその言葉を見つめたまま、そっと画面を閉じた。
(……私は、もう美咲さんに会うべきではない。)
今までは、ずっと美咲の想いに振り回されてきた。
彼女を甘やかせば、ますます依存させてしまうだけ。
だから、距離を取ることが彼女のためでもある。
由紀は深く息を吐き、黙々と荷物の整理を続けた。
時間だけが淡々と流れていく。
——そして、3月中旬。
ドアの向こうから、焦ったような足音が近づいてくるのが聞こえた。
次の瞬間——
「由紀さん!!」
美咲の声だった。
由紀は一瞬だけ手を止めた。
けれど、すぐにまた本を箱に詰める作業へと戻る。
「……もう、わがままなんて言わないから……」
美咲の声が震えているのがわかる。
「最後に……最後に顔を見せて……!!」
由紀は、ドアの取っ手に指をかけることができなかった。
代わりに、静かに目を閉じた。
(……開けてはいけない。)
「美咲さん……まだわからないの?」
扉越しに、静かに問いかける。
美咲は、息を呑むような気配を見せた。
「……どうして?」
「……」
「私が大切だというのなら、どうして開けないのです?」
由紀は言葉に詰まった。
(……美咲さん、あなたが大切だからこそ、開けられないのよ。)
けれど、そんな本音を言えるはずもなかった。
由紀は唇を噛み締め、静かに頭を振った。
(この扉の先にあるのは、きっと後悔。)
(でも、今この扉を開けなければ、彼女は……。)
美咲の嗚咽が、微かに聞こえた。
「由紀さん……お願いだから……」
震える声。
張り詰めた空気の中、沈黙が降りる。
由紀は、ドアの内側でそっと拳を握りしめた。
そして、ゆっくりと目を閉じたまま、ただ静かに息を吐く。
——開けるべきではない。
——このまま、時間が過ぎるのを待つしかない。
だけど、美咲の声が今にも消えてしまいそうで。
扉の向こうにいる彼女を、抱きしめたい衝動に駆られそうになる。
(……でも、それじゃ、意味がない。)
由紀は、自分に言い聞かせるように、ドアにそっと背を預けた。
美咲の涙が、扉の向こうで静かに落ちる音がした。
美咲の手は震え、目の前のドアノブに手をかけようとするが、力が入らない。喉がひりつくほど叫びたいのに、声にならない。心臓が痛いほど締めつけられ、足元から崩れ落ちる。
「由紀さん…お願いだから、私を置いていかないで…」
“応えられない”
その言葉が、美咲の胸の奥で反響し続ける。
ドアの向こうにいるはずの由紀の気配は、もう感じられなかった。冷たい現実が、美咲をさらに追い詰める。
—
由紀の引っ越し当日。美咲は待っていた。最後にもう一度だけ、会いたかった。
やがて、由紀が現れた。淡いベージュのトレンチコートを羽織り、相変わらず落ち着いた表情をしている。
「美咲さん…」
由紀の声に、美咲の心臓が跳ねる。でも、泣かないと決めていた。
「これを…渡したくて」
美咲は震える手で、小さな封筒を差し出した。白い封筒の端は、何度も握りしめたせいで少しくしゃっとなっている。
由紀は驚いたように目を瞬かせたが、ゆっくりとそれを受け取った。
「…ありがとう」
「…ちゃんと読んでくださいね」
「もちろん」
由紀は封筒を大切にポケットへしまう。
「じゃあね」
美咲はそう言って微笑もうとした。でも、涙が滲んで、うまく笑えなかった。
由紀は何か言いたげに唇を開いたが、結局、言葉にはしなかった。ただ、静かに微笑み、歩き出す。
美咲はじっと見送った。
春の風が、二人の間をそっと吹き抜けていった。
——そして数日後。由紀は静かな部屋で、美咲の手紙を開く。
涙の跡が滲んだ文字が、柔らかな春の光の下で揺れていた。
「由紀さんへ
この手紙を書いている今も、私はまだあなたのことを考えています。
きっと、これを読んでいるあなたはもう遠くへ行ってしまった後なのでしょうね。
最初にあなたに出会ったとき、私はなぜか強く惹かれました。
その理由が、自分の過去と関係していることに気づいたのは、あなたと過ごす時間の中でした。
私はずっと苦しんでいたんです。過去に縛られて、誰にも言えない痛みを抱えたまま、ずっと。
でも、あなたといるときだけ、その痛みが少しだけ遠のく気がしました。
だから、私はあなたにすがるようにして、求め続けたのかもしれません。
でも、それではいけないとわかっています。
由紀さんがいてくれたから、私は気づけました。
私は私自身の足で、この苦しみを乗り越えなければならないということに。
あなたが私を振り払ったのではなく、私が自分で前を向くために、あなたを見送ります。
それでも、私はあなたに出会えて本当に良かった。
そして、私がちゃんと自分を取り戻せたとき、もしまたどこかであなたに会えたら、そのときはきっと…
もっとまっすぐにあなたと向き合えるようになっていますように。
だから、またいつか、会いましょう。
それまで、どうか元気で。
美咲」
「だから、またいつか、会いましょう。」
その最後の言葉が、胸に深く響いた。
長い沈黙のあと、由紀はそっと目を閉じた。涙が浮かんでいた。
それでも、こぼれることはなかった。
—
4月、美咲は進級した。
新しいクラス、新しい講義、新しい出会い。
由紀が去った後、美咲の世界は音を失った。
彼女のいない日常はあまりにも空虚で、まるで時間が止まってしまったかのようだった。朝起きても、何のためにこの一日が始まるのかわからなかった。大学に行けば講義を受け、誰かと話し、何気なく過ごしているように見えても、心はどこか遠くに置き去りにされていた。
由紀が最後に触れた場所、最後に立っていた駅のホーム、最後に交わした言葉。どこを歩いても、その痕跡を探してしまう。
夜になると、すべてがさらに鮮明になる。
スマホを握りしめ、何度も何度も由紀の連絡先を開いては閉じる。震える指先でメッセージを打っては、送ることができずに消してしまう。
「由紀さん、会いたい…」
その言葉を声に出してしまった瞬間、美咲の喉が詰まり、涙が溢れた。
壊れていく自分
そんな日々の中で、美咲は少しずつ、自分を見失っていった。
食事を摂ることが億劫になり、夜は眠れず、朝になってもベッドから起き上がることができない。自分が何者なのかさえ曖昧になり、ただただ由紀の幻を追い続けるだけの存在になっていく。
春が訪れても、美咲は長袖を手放せなかった。由紀の温もりがもう自分に届かないことを痛感するたびに、その孤独に耐えきれなくなって、冷たい刃先で自分を傷つけた。痛みだけが、現実の輪郭を取り戻す唯一の感覚だった。
「こんなことをしても意味がない」
そう思っても、止めることができなかった。
紗英は、何も言わなかったが、美咲の変化に気づいていた。彼女の視線が、自分の袖口を一瞬だけ見つめ、すぐに逸らしたのを美咲は知っている。
それでも、紗英は無理に問い詰めたりしなかった。美咲が壊れていくのを見ているのは辛かっただろう。でも、彼女はただそばにいてくれた。
「美咲、久しぶりに外に出ない?」
「…ごめん、今日はちょっと…」
何度誘われても、美咲は首を横に振ることしかできなかった。
紗英は深くため息をつき、それ以上何も言わずに帰っていく。
――こんな自分、由紀さんに見せられない。
「これ以上、あの人を困らせたくない。」
そう思った美咲は、もう一度手紙を書くことを決めた。
手紙を書くこと、それが唯一の救い
ペンを握ると、不思議と心が落ち着いた。
「由紀さんへ。
元気にしていますか?
私は、少しずつ前を向こうとしています。」
嘘だった。何も乗り越えられていないし、何も進んでいない。
でも、由紀を困らせたくなかった。あの人を心配させるような手紙は、絶対に書きたくなかった。
だから、美咲は穏やかな言葉で、自分の心を包み隠した。
――でも、本当にこれでいいの?
夜になると、また涙が止まらなくなる。
「会いたい、由紀さん」
そう呟いてしまうたび、胸の奥で何かが軋むように痛んだ。
それでも、美咲は手紙を書き続けた。
会えなくても、届かなくても、書くことでほんの少しだけ心が軽くなる気がした。
そして、美咲は決めた。
このままではいけない。
「またいつか、会いましょう」と手紙に書いたのだから。
その言葉が嘘にならないように、美咲は変わらなければいけない。
由紀がいつか、もう一度自分に会ってくれたときに、「あの頃の私はもういない」と言えるように。
それが、美咲の生きる理由になった。




