第21話「境界線」
由紀はドアを静かに閉めると、美咲を部屋の中へと迎え入れた。
いつもより暗い照明のせいか、室内には沈んだ空気が漂っている。
「美咲さん……」
由紀はそっと美咲を見つめた。
「もう、泣かないで」
優しく諭すように言うが、美咲の涙は止まらなかった。
むしろ、由紀のその言葉が余計に彼女の心を締め付ける。
「由紀さん……」
美咲は、立っていることすら辛そうに小さく震えながら、ゆっくりと俯いた。
そして、次の瞬間——由紀の足元に崩れるように膝をついた。
「どうして……」
震える声が床に落ちる。
「どうして急にこんなことになったの……」
顔を伏せたまま、肩が小さく上下に揺れる。
「どうして……私を避ける理由を言わないの……」
由紀の喉の奥が、ひどく詰まる。
目の前で崩れていく美咲を、どうすることもできない。
(私が傷つけたんだ——)
痛いほどに分かっていた。
けれど、それでも——
「……言えないのよ。」
低く、けれどはっきりとした声でそう告げる。
美咲は顔を上げた。
涙に濡れた瞳が、ひどく絶望的な光を宿している。
「どうして……?」
声が震えていた。
「私、何かしたの?」
「違うわ。」
「じゃあ、どうして!?」
美咲は床に置いていた手を強く握りしめ、叫ぶように問い詰めた。
「私があなたを好きだから?迷惑だから?」
由紀は息を呑む。
その言葉に、無意識に視線を逸らしてしまった。
——その反応だけで、美咲には十分すぎる答えだった。
「……そうなんだ。」
美咲は小さく笑った。
「結局……私は、迷惑なんだね。」
喉の奥から嗚咽が漏れる。
「違うわ。」
由紀は静かに、けれど確かに言った。
「私は——」
言葉を探す。
けれど、それが何かは分からなかった。
美咲はふらりと立ち上がり、由紀の腕を掴んだ。
「じゃあ、どうして?」
今にも壊れそうな表情で、美咲は由紀の顔を見上げる。
「由紀さん、お願い……」
涙で濡れた頬が、淡い光の下で儚げに揺れる。
「私を突き放さないで……」
近い。
呼吸が絡み合いそうなほどに。
このまま抱きしめたら、どれほど楽だろう。
どれほど美咲を安心させられるだろう。
けれど、その瞬間、紗英の言葉が由紀の頭をよぎる。
「美咲はあなたに執着してるんじゃない。無意識に救いを求めてるの。」
「……だめよ。」
由紀は掴まれた腕をそっと解こうとする。
「美咲さん、あなたは……私がいないと生きていけないわけじゃないのよ。」
「違う!」
美咲は声を荒げた。
「違う!違う!!」
感情が溢れ、由紀の肩を掴む。
「由紀さんしかいないの!」
痛いほどに必死な瞳。
嗚咽をこらえるかのように、肩が小さく震えている。
「あなたがいないと、私は……私は……」
言葉が詰まる。
そして次の瞬間——
「私は生きてる意味がなくなる……」
由紀の心臓が、跳ねた。
「……美咲さん。」
その言葉の重さが、由紀の胸を深く抉る。
ただの恋愛感情ではない。
ただの執着でもない。
美咲は、本当に「生きる意味」として由紀を求めていた。
(……こんなもの、簡単に受け止められるわけがない。)
「お願い……行かないで……」
美咲の声は、壊れたように震えていた。
由紀の心は、決断を迫られる。
このまま美咲を抱きしめれば、彼女は救われるかもしれない。
けれど、それは一時的なものに過ぎない。
この関係が続けば続くほど、美咲はますます由紀を必要としてしまう。
それが、美咲のためになるのか?
「……ごめんなさい。」
由紀は、美咲の手をそっと引き剥がした。
「私は……これ以上、あなたのそばにいられない。」
美咲の表情が凍りつく。
「……嘘……」
目を見開き、足がすくんで動けなくなる。
「嘘でしょ……」
呟くように、美咲が震える。
「由紀さん……そんなの、酷いよ……」
「美咲さん。」
由紀の声は静かだった。
「あなたのためよ。」
「違う!!」
美咲は絶叫した。
「違う!!そんなの私のためなんかじゃない!!」
涙はもう止まらなかった。
「お願いだから……」
「もう、やめて。」
由紀の声は、少し震えていた。
「美咲さんは……本当は、私じゃない誰かを必要としているのよ。」
美咲は、由紀をじっと見つめた。
「そんなの、嘘。」
消えそうな声。
「私は……由紀さんだけが必要なの。」
その一言が、由紀の胸を抉る。
(……どうすればいい?)
答えが見えないまま、
ただ、お互いの息遣いだけが部屋の中に響いていた。
美咲は涙を拭おうともせず、由紀を見上げた。
彼女の瞳は怒りと絶望で燃えていた。
「……結局、逃げるのね。」
低く、静かな声だった。
由紀の指が、かすかに震えた。
「向き合うなんてこと、由紀さんにはできないもんね。」
美咲は嗤うように言った。
その声には、怒りよりも深い諦めが滲んでいた。
「そうよね……全部そうだった。最初から由紀さんは私のことなんて、大して気にしてなかった。」
「美咲さん……」
「ただ、ちょっと気まぐれで優しくして、ちょっと気まぐれで距離を詰めて……それで私が本気になったら、今度は“あなたのため”なんて理由をつけて逃げるの?」
由紀の眉がわずかに寄る。
「違うわ。」
「違わない!」
美咲は声を荒げ、拳を強く握りしめた。
「どうして由紀さんはいつも逃げるの!?」
「私は——」
「何?言い訳するの?」
美咲は半ば投げやりに笑った。
「どうせまた綺麗事を並べるんでしょ?違うよ、由紀さん。ただ、どうでもいいんでしょ?」
由紀の喉が詰まる。
「自分の感情に向き合うのが怖いのよ。だから私がどんなに訴えても、逃げて、自分を正当化して、そうやって私を傷つける。」
鋭く、切り裂くような言葉だった。
美咲は涙を流しながらも、強く、由紀の瞳を射抜いた。
「由紀さんは私のこと、大切になんか思ってない。」
静寂が落ちた。
由紀は口を開きかけたが、言葉が出なかった。
何を言っても、美咲の怒りも悲しみも癒せるとは思えなかった。
——でも、否定するべきなのか?
それとも、認めるべきなのか?
由紀の中で、何かが揺らいでいた。
そんな由紀の沈黙を見て、美咲はひどく冷えた笑みを浮かべた。
「やっぱりね。」
「美咲さん....」
「もういいよ。」
美咲は立ち上がる。
「私がどんなに想っても、由紀さんには届かない。だって、由紀さんは……最初から冷めた人間なんだから。」
由紀の胸が締め付けられる。
(違う。)
そう言いたかった。
けれど、言えなかった。
「バカみたい。」
そう呟く美咲の瞳から、また涙がこぼれ落ちた。
「……私が美咲さんを大切に思ってないわけがないでしょう」
次の瞬間、由紀は美咲の手首を掴んでいた。
指先に力がこもる。
美咲は驚きながらも、必死に振り払おうとする。
「嘘よ……」
彼女の声は震えていた。
「そんなの、嘘よ……だったら……証明してよ……」
由紀が何かを言おうとしたその隙に、美咲は衝動的に彼女の首に腕を回し——
強引に唇を奪った。
「んっ……!」
由紀の体が強張る。
突然の出来事に驚き、思わず美咲の肩を押し返す。
「ダメよ……」
由紀は息を切らしながら、困惑した目で美咲を見つめる。
「こんなこと……もう、やめなさい」
けれど、美咲は従わない。
息が乱れたまま、彼女の胸にしがみつくように囁いた。
「やめられるわけない……」
由紀の手が肩に添えられる。
振り払われるのを覚悟した。
けれど、強く拒絶されることはなかった。
美咲はもう一度、ゆっくりと顔を近づけた。
由紀は息を詰まらせながらも、完全には拒めない。
「……美咲さん……また酔ってるの?」
美咲はその隙を見逃さず、もう一度由紀の唇を奪う。
今度はゆっくりと、深く。
「またって.....今年で1番シラフです...」
「.....!!」
由紀は再び抵抗しようとする。
けれど、美咲は彼女の背中に手を回し、密着するように引き寄せた。
(……もう、離さない)
美咲の舌が、恐る恐る由紀の唇をなぞる。
その瞬間、由紀の体がわずかに震えた。
「.....これ以上は......っ....」
由紀は息を切らしながら、美咲の肩を掴む。
けれど、その指先には躊躇いがあった。
彼女の唇が、首筋へと這う。
「お願い、私を拒まないで……」
由紀は、最後の抵抗のように美咲の体を押し返そうとする。
けれど、その動きは次第に弱くなっていく。
「……こんなの、間違ってるわ……」
「……怖いの?」
美咲が囁く。
由紀は目を閉じた。 逃げるべきだと分かっていた。 これは間違いだ。美咲の執着に答えてしまえば、彼女はますます由紀を求めてしまう。 そんなこと、分かりきっていた。
……でも。
美咲の唇が、ゆっくりと首筋に触れた瞬間、由紀の中で何かが崩れた。
「……っ!」
由紀は反射的に彼女の肩を掴み、強く押し返す。 美咲は驚いたように目を見開いた。
「由紀さん……?」
その声には戸惑いと、ほんのわずかな恐れが滲んでいた。 美咲は、ただ求めるだけの存在ではない。 彼女はずっと傷ついてきた。 それを分かっているからこそ、優しくしてはいけない。 甘やかしてはいけない。 このまま彼女の望むままにしてしまえば——本当に、取り返しがつかなくなる。
「いい加減にしなさい」
次の瞬間——由紀は美咲の肩を掴み、強引にベッドの上へ押し倒した。
「——っ!」
美咲の目が見開かれる。
「今のあなたは、ただ駄々をこねる子供よ」
「ちが——」
「違わないわ!」
由紀は美咲の両手首を掴み、頭の上へと固定する。
逃がさない。今ここで、はっきりと分からせる。
「私はあなたの遊び相手じゃないのよ」
「……遊び……?」
美咲の瞳が揺れる。
「そうよ。あなたは私が本気で拒めば、それでも追ってくる。でも、私が優しくすれば、それをいいことにさらに踏み込んでくる」
「……それは……」
「ねぇ、美咲さん。あなたは本当に私が好きなの?」
「……!」
美咲の喉が鳴る。
「それとも、私を求めることで、自分を満たしたいだけ?」
美咲の目が泳ぐ。
由紀は、美咲の顎を軽く掴み、逃げられないようにした。
「あなたが泣こうが、叫ぼうが、私はもう甘やかさないわ」
由紀の目は鋭く、怒りに満ちていた。
「由紀さん……」
美咲の声はかすれていた。
ここまで強く拒絶されたことはなかった。
いつも、どこかで彼女は由紀が優しくしてくれることを期待していた。
でも、今の由紀は違う。
本気で怒っている。
「私は....あなたに支配されるつもりなんてない」
由紀は、美咲の顔のすぐ近くまで唇を寄せる。
美咲の心臓が、激しく跳ねる。
(……キスされる?)
けれど——由紀は唇を落とさなかった。
「……してほしい?」
「……っ!」
美咲の喉が詰まる。
「あなたはいつもそう。私が拒んでも、私の唇を奪おうとするくせに、今度は自分から動かないの?」
「だ、って……」
「逃げてるのはどっちよ。」
由紀は、わざと意地悪く囁いた。
美咲の呼吸が乱れる。
いつもは自分から求めていたのに——今は由紀が優位に立っている。
「美咲さん、私はあなたの思い通りにならないわよ」
「……っ!」
由紀の言葉に、美咲の目が涙で潤む。
「……由紀さん、嫌なの……?」
その言葉に、由紀は一瞬だけ表情を曇らせた。
美咲の手首を抑えたまま、由紀は冷静に続ける。
「私を試すのも、ここまでにしなさい」
「由紀さん……」
美咲は、強く唇を噛み締めた。
悔しさと、寂しさと、由紀の強い拒絶に、心がぐちゃぐちゃになる。
「……ちゃんと考えなさい」
由紀は、美咲の手首をそっと解いた。
「私は、あなたが何を望んでいるのか、ちゃんと理解するまで受け入れるつもりはないわ」
美咲は涙をこぼしながら、悔しそうに由紀を見つめる。
「そんなの……酷い……」
「そう思うなら、もう一度、自分の気持ちを整理しなさい」
由紀はベッドの端に腰掛け、美咲の頭を優しく撫でた。
「本当に私を好きなら……こんな形で求めちゃダメよ」
「……っ……」
美咲は歯を食いしばる。
このままでは終われない。
(——私は、本当に由紀さんを愛しているの?)
美咲の心の中で、新たな問いが生まれ始めていた。
由紀はふと時計に目をやった。
針は午前0時を指していた。
「……もう遅いわ。」
そう言いながら、由紀は静かに息をつく。
部屋の中は、先ほどまでの熱を帯びた空気とは対照的に、ひどく静まり返っていた。
「美咲さん……帰ったほうがいいわ。」
そう言いながら、由紀はゆっくりと立ち上がる。
冷静さを取り戻した瞳で、美咲を見つめた。
美咲は、しばらく動かなかった。
まるで、この場から動けば全てが終わってしまうかのように。
「……はい。」
絞り出すような声だった。
ゆっくりと立ち上がると、美咲は俯いたまま玄関へと向かう。
その背中は、どこか寂しげだった。
由紀は一歩も動かず、美咲の後ろ姿を見送る。
由紀は、美咲を見送った後、部屋の静寂の中で深く息を吐いた。
さっきまでの張り詰めた空気が嘘のように、部屋には静寂だけが残っている。
(……少しやりすぎたかしら。)
そう思った瞬間、胸の奥がズキリと痛む。
美咲の涙に濡れた瞳。
押さえつけた手首の感触。
彼女の震える唇から零れた、懇願するような言葉。
「……こんな形で求めちゃダメよ。」
冷静にそう言い聞かせたつもりだった。
でも——本当に正しかったのだろうか?
(彼女を突き放したかったわけじゃない。)
(ただ、もうこれ以上、美咲の求めに応じるのは危険だと思っただけ。)
ベッドの端に腰を下ろし、乱れたシーツを見つめる。
あの時、美咲は必死だった。
由紀を拒絶することなく、どこまでもすがりついてきた。
まるで、自分が美咲の「最後の希望」であるかのように——
「……私、どうしたかったのかしら。」
自嘲するように、小さく笑う。
正しいことを言ったつもりだった。
彼女を甘やかさないために、しっかりと線引きをした。
でも、美咲の泣き顔を思い出すたび、心がざわつく。
(……あの時の彼女、私を試していたわけじゃない。)
(本気で、私にすがっていた。)
わかっていたはずなのに。
なのに——由紀は彼女を冷たく言い放ってしまった。
「……私は、あなたの思い通りにならないわよ。」
言葉に出してみると、自分でも少し嫌になる。
確かに、美咲の執着には問題がある。
だからこそ、無理に応えるわけにはいかなかった。
でも、それでも——
(……あんな言い方、しなくてもよかったかもしれない。)
ため息をつき、手で顔を覆う。
—
美咲の部屋
ドアを閉め、暗闇に包まれた部屋の中で、美咲はそっと息を吐いた。
まだ心臓が落ち着かない。
由紀さんが……怒った。
今まで何度も彼女と会話をして、時には冷たい態度を取られてきたけれど、
あんなふうに感情を露わにした彼女を見るのは、初めてだった。
「……すごかったな。」
ぽつりと呟いた。
由紀さんが声を荒げるなんて。
あの、いつも冷静で、どこか掴みどころのない人が——
私を力強く押さえつけた。
思い出すと、
思わず笑いそうになる。
あんなふうに怒ることができる人なんだ。
私のことを、本気で止めようとしてくれた。
本気で向き合ってくれた。
それが、嬉しかった。
私が無理に迫ったから、
私が強引だったから、
彼女は本気にならざるを得なかったのだとしても。
「……もっと、見たいな。」
由紀さんの、そんな表情を。
いつも冷静に取り繕っている彼女が、私のせいで取り乱すところを。
(……もう一度、あの顔を見たい。)
布団に潜り込むと、天井を見つめながら静かに目を閉じた。
彼女の表情が脳裏に焼き付いて離れない。
—
1週間後
美咲は、紗英を避け続けていた。
教室に入ると、いつも通り俊樹や裕也、雄太がいた。
しかし、その中に紗英の姿を見つけると、彼女はすぐに別の席へと移動する。
「おい、またかよ。」
俊樹が小声でぼやいた。
裕也は苦笑しながらノートを広げる。
「……美咲、そろそろ紗英と話した方がいいんじゃね?」
「別に、話すことなんてないよ。」
美咲は冷たく言い放ち、教科書に目を落とした。
雄太は何か言いたげだったが、結局口をつぐんだ。
——その様子を、紗英は遠くからじっと見つめていた。
彼女も何度か話しかけようとしたが、美咲はそれを完全に無視する。
廊下ですれ違っても、視線を合わせない。
LINEも未読のまま。
食堂で紗英が近づこうとすれば、美咲は食べ終えたと言って席を立つ。
(……こんなの、いつまで続くの?)
紗英の胸に、焦燥が広がる。
「紗英、なんかあったの?」
裕也がぽつりと尋ねた。
「……ううん。」
「嘘つけよ。美咲、完全に避けてるじゃん。」
「……。」
紗英は何も言わなかった。
何を言っても、言い訳にしかならない気がしていた。
(でも……どうすればいいの?)
美咲の気持ちは分かっている。
けれど、このまま放っておいていいはずがない。
——
その夜、美咲のスマホが振動する。
画面を見ると、紗英からのメッセージが並んでいた。
「美咲、話したい。」
「一度だけでいいから、ちゃんと向き合って。」
「私は、あの時、由紀さんに話したことを後悔していない。」
「でも、美咲が傷ついたことも、ちゃんと分かってる。」
「だから……お願い、避けないで。」
未読のまま、美咲はスマホを伏せた。
まだ、紗英と向き合える自信がなかった。
美咲は、紗英との間にできた溝をどう埋めればいいのか分からず、気まずさを抱えたまま過ごしていた。
そんなある日、俊樹、雄太、裕也と一緒に食事をしていると、俊樹がふと尋ねる。
「なあ、美咲。お前、紗英となんかあったのか?」
美咲はスプーンを握りしめる手に力が入る。
雄太と裕也も、美咲と紗英の微妙な距離感に気づいていた。
「……まあ、ちょっとね。」
「“ちょっと”のわりに、ガチで避けてるじゃん。」
裕也が冗談めかして言うが、美咲は軽く苦笑するだけで答えない。
「で? なんで喧嘩したんだよ。」
俊樹はストレートに尋ねる。
美咲は言葉を選びながら、慎重に話し始める。
「紗英が……私のことを勝手に由紀さんに話したの。それで、私はそれを知らなくて……気づいたら全部伝わってた。」
「“全部”って?」
雄太が静かに聞く。
「いろいろだよ....ほら、病院に運ばれたこととか....。」
その瞬間、テーブルの空気が一気に張り詰めた。
俊樹は眉をひそめ、裕也と雄太も驚きの表情を浮かべる。
「マジかよ……それは……。」
裕也が呆れたように息をつく。
「いや、でも……」
雄太が慎重に言葉を選ぶ。
「紗英も、お前のことを思ってやったんじゃないのか?」
「わかってるよ。でも……勝手にされたのが嫌だった。私の気持ちなんて考えてなかった。」
俊樹は腕を組み、しばらく考え込んでいたが、やがてため息をついた。
「……まあ、確かにお前の気持ちを無視したのは、よくねえな。でも、紗英がそんなことするのって、お前を放っとけなかったからじゃね?」
「そうだよ。」
雄太が続ける。
「美咲、紗英が由紀さんに話したのは、お前が傷つかないようにするためだったんじゃないの?」
「……でも、私は余計に傷ついた。」
その言葉に、3人は黙り込む。
「私は……由紀さんに惨めな姿を見られたくなかったの。それを勝手に知られて……由紀さんにどう思われるのかも分からない。」
「由紀さんは、お前に何か言ったのか?」
俊樹が尋ねる。
「……怒った。でも、それだけだった。」
「それだけ?」
裕也が首をかしげる。
「うん。それ以上は何も……。」
俊樹はふっと笑った。
「お前、それ、“終わった”わけじゃねえじゃん。」
「……え?」
「由紀さん、お前のこと本気で嫌になったわけじゃねえと思うぜ。もしそうなら、怒ることもなく、ただ距離を置いて終わらせてるはずだ。」
美咲は、俊樹の言葉にハッとする。
「……でも、私はどうすればいいの?」
「まず、紗英とはちゃんと話すべきだろ。」
裕也が軽く笑いながら言う。
「……でも、もう顔も見たくない。」
「それが問題だよな。」
俊樹は腕を組み、少し考えたあと、美咲をじっと見た。
「美咲、紗英のこと、本当にもういらないのか?」
美咲は言葉に詰まる。
「……それは……。」
俊樹は笑い、コーラを一口飲んでから言った。
「ま、すぐには無理でも、考えとけよ。紗英は、何だかんだお前のことを心配してるんだからさ。」
美咲は、俊樹の言葉を反芻しながら、黙ってうつむいた。
—
カフェの静かな空間の中、由紀はコーヒーカップをゆっくりと傾けた。
目の前には、やや緊張した面持ちの紗英が座っている。
「……美咲が、私を避けています。」
紗英がそう切り出すと、由紀は静かに視線を上げる。
薄い微笑を浮かべながら、彼女は淡々と言った。
「当然でしょうね。」
その冷静な口調に、紗英の眉がわずかに動く。
それ以上何か言おうとしたが、由紀の表情を見て、言葉を飲み込んだ。
(何かが違う——。)
いつも冷静で、どこか余裕のある由紀の雰囲気が、微かに変わっている気がした。
それは、単なる疲労や仕事のストレスとは違う——
もっと、何か……感情が入り混じったような、微妙な変化。
由紀はカップをソーサーに戻し、視線を窓の外に流した。
美咲のことを話しているのに、彼女の頭の片隅には 先日の夜の記憶 がこびりついていた。
あの時の、美咲の顔。
涙を流しながらも、自分を求める視線。
苦しみと欲望が入り混じった、どうしようもなく切ない顔。
(あの時の美咲……私が知っている彼女とは、まるで別人みたいだった。)
「由紀さん?」
紗英の声に、由紀はふっと我に返る。
「……何?」
「大丈夫ですか? なんだか、少しぼーっとしてました。」
「そう?」
由紀は微笑みながら、何気ない素振りで髪をかき上げた。
「考えごとをしてただけよ。」
「……美咲のこと、ですか?」
紗英が慎重に尋ねる。
由紀は一瞬、目を細めた。
しかし、答えはしなかった。
「それで、どうしたいの?」
話を戻すように、由紀はわざと軽い調子で言った。
紗英は一瞬躊躇ったが、覚悟を決めたように口を開く。
「私は……美咲とちゃんと話したいです。」
「でも、彼女はあなたを避けている。」
「はい。でも、いつかは……。」
「焦らないほうがいいわ。」
由紀は静かに言った。
「今の美咲さんは、あなたの言葉を聞く状態じゃない。無理に追いかけても、余計に溝が深くなるだけよ。」
「……でも。」
「待つのがいいわ。」
紗英は由紀の表情を見つめた。
(……やっぱり、何かが違う。)
由紀の口調は穏やかだけれど、どこか感情が混ざっている気がする。
美咲のことを語る由紀の横顔は、これまでのどんな会話のときよりも、微妙に揺れているように見えた。
由紀はもう一度カップを手に取り、コーヒーを口に運ぶ。
「美咲さんの性格よくわかるでしょう?」
「……はい。」
「なら、彼女が戻ってくるのを待つことね。」
紗英は、しばらくの沈黙のあと、小さく頷いた。
由紀は微笑んだまま、ふと目を伏せる。
カップの中で揺れるコーヒーの黒い表面に、あの夜の美咲の表情がちらついた。
「……そういえば、美咲とその後会いましたか?」
由紀は一瞬、指先を止めた。
「……ええ。ちゃんと話したわ。」
「そうですか。」
紗英は微妙な間を感じ取りながら、由紀の表情を探る。
しかし、由紀はそれ以上何も語らず、コーヒーを静かに飲むだけだった。




