第20話「愛か錯覚か」
年が明けても、由紀の生活は淡々と続いていた。
仕事は通常通りで、編集部の新年の忙しさに追われていた。
とはいえ、ここ最近、何を食べても味がしない。
朝はコーヒーだけで済ませ、昼も軽く何か口にする程度。
「由紀先輩、今日ランチ一緒にどうです?」
後輩の香織にそう声をかけられたが、由紀は軽く微笑みながら首を振った。
「ごめん、食欲がなくて……。」
「そうですか……。お体、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ。」
由紀は静かにコーヒーを口に運びながら、自分の言葉に違和感を覚えた。
(本当に、大丈夫なのかしら。)
そのとき、スマホが振動する。
テーブルの上に置かれた画面を見ると、そこには 「紗英」 の名前が表示されていた。
「由紀さん、急なメールすみません。話したいことがあるので、時間があるときに連絡ください。」
由紀は眉をひそめた。
(紗英? 何の話?)
(美咲のこと?)
そう考えた瞬間、胸の奥に妙な不安が広がった。
少し迷ったが、すぐに返信を送る。
「少し時間を作る。直接会ったほうがいい?」
間もなく、返事が来た。
「ありがとうございます。はい、今夜少しお時間いただけますか?」
「わかったわ。」
由紀はスマホを置き、コーヒーを見つめたまま小さく息を吐いた。
何か、良くない話のような気がした。
———
夜、約束のカフェに到着すると、紗英はすでに席についていた。
店内はそこまで混雑しておらず、静かなピアノのBGMが流れている。
由紀が近づくと、紗英は顔を上げ、少し緊張した面持ちで微笑んだ。
「由紀さん、来てくれてありがとうございます。」
「……話って?」
由紀は席に座り、コートを脱ぐ。
冷たい指先を軽く擦りながら、紗英を見つめる。
紗英は少し口ごもった後、意を決したように話し始めた。
「由紀さん、美咲があの夜、病院に運ばれたことを知っていますか?」
由紀の心臓が一瞬、止まった。
「……病院?」
「……知らなかったんですね。」
紗英はため息をついた。
「美咲は、あの夜一人でお酒を大量に飲み、急性アルコール中毒で救急搬送されました。」
頭が真っ白になった。
「……嘘でしょう?」
「本当です。」
指先がわずかに震える。
そんなこと……聞いていない。
いや、知るはずがなかった。
私は、美咲と距離を置いたのだから。
「幸い、命に別状はありませんでした。でも……」
紗英はそこで言葉を区切り、由紀をじっと見つめた。
「彼女は、限界だったんです。」
由紀の喉が詰まる。
「……でも、どうして……誰も、教えてくれなかったの……?」
「美咲が、由紀さんには知られたくないと言ったからです。」
由紀は言葉を失った。
「彼女、あなたに知られたくなかったんです。惨めな自分を見せたくなかったんだと思います。」
「……そんな……」
由紀はコーヒーカップを持とうとしたが、指に力が入らず、結局手を離した。
「美咲は今、実家に戻っています。でも、あの時の傷は癒えていません。」
「……。」
「由紀さん、美咲はまだ、あなたを待っています。」
待っている?
私を?
(そんなはず、ない。)
私は、美咲を助けたかった。
だから距離を置いた。
彼女が私に依存しないように——それが彼女のためだと信じていた。
でも。
(私は、美咲を救うどころか、壊していた?)
由紀は苦笑し、紗英を見つめた。
「……それで、私に何をしろって言うの?」
紗英は少しだけ目を細めた。
「美咲に会いに行ってください。」
由紀は小さく首を振った。
「それは違うわ。」
「違う?」
「私は、美咲のために距離を取ったの。彼女が私に依存しないように。私は、彼女の心の拠り所にはなれない。だから——」
「だから、突き放した? 彼女を見捨てた?」
由紀の心が冷える。
「……私は、見捨てたつもりはない。」
「でも、美咲はそう感じてた。」
由紀は唇を噛んだ。
「……美咲さんは、なぜそこまで私に執着しているの?」
由紀が静かに問いかけると、紗英は一瞬、言葉を詰まらせた。
それから、深く息を吸い、決意したように口を開く。
「……由紀さん、美咲がなぜあなたに縋るのか、ちゃんと知っていますか?」
紗英の声には、強い意志がこもっていた。
「美咲は……子供の頃、虐待を受けていました。」
由紀の心臓が跳ねる。
「……虐待?」
「彼女が幼い頃、叔父から性的虐待を受けていたんです。」
カフェの静寂が、より深くなる。
由紀の指先がわずかに震えた。
「そんな……。」
「彼女は誰にも言えず、一人で抱え込んでいました。自分が汚れていると思い込んで、ずっとその傷を隠し続けてきたんです。」
由紀は息を飲む。
美咲のことを何も知らなかった。
彼女がどんな過去を生きてきたのかも、どんな痛みを抱えていたのかも。
「それが……私に何の関係があるの?」
自分でも愚かな質問だと思った。
でも、聞かずにはいられなかった。
紗英は、少し声を震わせながら答えた。
「……由紀さんが、その叔父と似ていたんです。」
時間が止まった。
「……え?」
「美咲があなたを初めて見たとき、眠っていたトラウマが刺激されたんです。美咲は、由紀さんの面影を叔父と重ねてしまった....。トラウマのある人間は、それを乗り越えようとする防衛反応として、無意識にその対象に惹かれることがあるんです。恐怖と同時に強い興味や親近感を抱くことで、自分の過去を克服しようとする心理が働く……でもそれは、必ずしも健康的な愛情とは言えないんです。」
由紀の中で、全てが繋がる。
初めて出会った夜、美咲が私をじっと見つめていた理由。
あの異様な視線。
彼女の戸惑い、言葉にできない感情。
そして——
あの執着の理由。
(私が……叔父と似ている……?)
「美咲にとって、あなたはただの憧れの人じゃなかったんです。あなたに惹かれたのは、心の傷が彼女をそうさせたから。でも、それは単なる勘違いじゃない。彼女にとって、あなたは……自分の過去を乗り越えるための存在だったんです。」
「……。」
「だから、美咲があなたに縋るのは、おかしなことじゃない。むしろ、当然のことだったんです。」
当然。
私の存在そのものが、彼女にとっては「乗り越えるべき壁」だったということ?
私が優しくすればするほど、彼女の心は混乱していった。
彼女の中で私は「恐怖」と「憧れ」の両方だった。
「……そんなこと……。」
私は知らなかった。
知るはずもなかった。
でも、だからといって、彼女の苦しみを無視していい理由にはならない。
紗英は、じっと由紀を見つめた。
「由紀さん、あなたは、美咲のことをどう思っていますか?」
「……私は……。」
言葉が出なかった。
何を言えばいいのか、わからなかった。
私は、美咲を大切に思ってるのか?
それとも、ただの罪悪感?
それとも——
「由紀さん。」
紗英が、静かに言う。
「美咲を突き放すのは、自分が傷つきたくないからですか?」
「……違う。」
「本当に?」
心の中で、問いが渦巻く。
私は、美咲を放っておけない。
それが、どんな意味を持つのかはわからない。
でも——
「……考えさせて。」
由紀は、コーヒーカップを握りしめたまま、小さく呟いた。
紗英は、それ以上何も言わなかった。
ただ、深く頷いた。
—
由紀との話を終えた後、紗英は小さく息を吐いた。
冬の冷たい空気が肌を刺し、彼女の体からじわりと力が抜けていく。
(……由紀さん、あれでちゃんと理解してくれたのかな)
心の中にまだ少しの不安が残る。
由紀の反応は冷静だったけれど、決して無関心ではなかった。
むしろ、あの時の表情——何かを深く理解したような、でもそれを受け入れきれないような——そんな複雑な表情が、紗英の脳裏に焼き付いていた。
「……はぁ。」
吐き出した息が白くなって空に溶ける。
手袋の上からスマホを取り出し、美咲の名前を見つけると、迷わず通話ボタンを押した。
コール音が響く。
数回の呼び出しの後、ようやく美咲の声が聞こえた。
「……紗英?」
「美咲!久しぶり。体調どう?」
「体は元気だよ。ありがとう。」
(本当に?)
その言葉をすぐに鵜呑みにできなかった。
でも、美咲がそう言うなら、それを否定するのも違う気がして、紗英はとりあえず話を続けた。
「いつ頃実家から戻るの?」
「来週には戻るよ、心配してくれてありがとうね。」
やっぱりどこか違う。
美咲の声には、以前のような温度がない。
「そっか、それなら良かった。」
言葉に出してしまうと、すごく浅い会話に聞こえる。
でも、どうしても本題を切り出せず、紗英は一瞬言葉を飲み込んだ。
(今、言うべき?……それとも、戻ってきてから?)
由紀と話したこと。
由紀が美咲の抱える「執着」の本当の理由を知らなかったこと。
そして、美咲自身も、自分がなぜここまで由紀に縋ってしまうのかを完全には理解していなかったこと。
(でも……)
一度伝えてしまったら、美咲はどうなるだろう?
自分の感情の根源を知った時、受け止められるのか?
それとも、もっと深く傷ついてしまうのか?
「……紗英?」
「え? あ、ごめん。」
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。」
自分が気を取られていたのを誤魔化すように、少し明るい声を出す。
でも、本当は、何が正解なのか分からなかった。
「美咲、戻ったらさ、ご飯でも行こうよ。」
「……うん。」
返事が遅れた。
(また無理してる。)
美咲は「うん」と言ったけれど、本心は見えなかった。
まるで、何も感じたくないかのように、彼女は感情を押し殺しているように思えた。
「じゃあ、また連絡するね。」
「うん、待ってる。」
電話を切ったあと、紗英はスマホを強く握りしめた。
—
美咲が実家から戻ってきた日、紗英はすぐに彼女の家を訪れた。
ドアが開くと、美咲は少し驚いた表情を見せたが、すぐに微笑んだ。
「紗英、来てくれたんだ。」
「もちろん。久しぶりだし、ちゃんと顔を見たかったからね。」
そう言いながら部屋に入り、ソファに腰を下ろす。
美咲も隣に座り、湯気の立つ紅茶を出してくれた。
最初は軽い世間話だった。
最近の天気、大学の課題、俊樹たちのどうでもいい話。
「俊樹がね、この前バイト先で大失敗したらしくて、めっちゃ落ち込んでたよ。」
「え、何したの?」
「お客さんのオーダーと全然違うものを運んで、そのまま気づかずに『召し上がってください!』ってドヤ顔で言ったらしい。」
「しかも、お客さんがそれを食べちゃった後に気づいたんだって。結局、店長に謝り倒して何とか許してもらったらしいけど、バイト仲間には今でもネタにされてるみたい。」
美咲はクスッと笑った。
こういう馬鹿げた話を聞いていると、少しだけ気持ちが軽くなる気がする。
——だけど、それが長く続くことはなかった。
ふと、紗英の顔つきが変わった。
話の流れが変わると、美咲は無意識に身構えた。
「……美咲。」
「ん?」
「由紀さんに、話した。」
——何を?
瞬間、心臓が凍りついたような感覚がした。
「……何の話?」
「全部。」
たった一言だった。
だけど、それだけで、美咲の中で何かが弾けた。
「……嘘でしょ?」
紗英は黙って頷いた。
その瞬間、美咲はソファから立ち上がり、目を見開いた。
「……どうして?」
「美咲——」
「どうして!?どうして由紀さんに話したの!!」
声が震えているのが自分でも分かった。
「叔父の話も……?私が好きだってことも……?病院に運ばれたことも……?」
「……うん。」
「信じてたのに!!」
涙が溢れそうになる。
でも、それ以上に、怒りが込み上げてくる。
「どうしてそんなことしたの!?由紀さんが私をどう思うか、考えなかったの!?」
「美咲、落ち着いて——」
「落ち着けるわけない!!」
「……美咲、おかしいよ!!」
「おかしいのは紗英だよ!!」
二人の声がぶつかり合う。
「私は由紀さんを誰よりも大切に思ってる!だから、私の苦しみを知ってほしくなかった!!」
「でも、由紀さんは知らなきゃいけなかったの!美咲がどうして執着してるのか、由紀さん自身が知らなきゃ——」
「知らなくてよかった!!」
「違う!!」
紗英の声が、部屋の中に響く。
「美咲、聞いて!あなたが由紀さんに執着する理由は——」
「そんなの関係ない!!」
美咲は叫ぶ。
「紗英のせいで嫌われた!!」
その言葉を言った瞬間、張り詰めていたものがぷつんと切れた。
涙が止まらない。
「もう……終わりだよ……」
泣き崩れる美咲を前に、紗英は拳を握りしめた。
(違う……違うのに……!)
でも、今の美咲には、何を言っても届かない。
美咲の膝が崩れ、床に座り込む。
「私は……由紀さんなしじゃ、生きていけない……」
嗚咽混じりの声はかすれ、震えていた。握りしめた拳が白くなる。
「私は……由紀さんがいないと、何もできない……由紀さんが私を見捨てたら、私、本当に終わっちゃう……」
震える唇から最後の言葉がこぼれる。
「私が生きてる意味なんて、由紀さんしかないのに……」
彼女の世界の中心にあるのは、ただ一人——由紀だけだった。
—
美咲と紗英が衝突した翌日。
由紀はデスクの上に置かれたスマホを眺めていた。
美咲からも、紗英からも何の連絡もない。
昨夜、紗英と話してから何度かスマホを手に取りかけたが、結局メッセージを送ることはなかった。
(……私が今、何を言えるのかしら。)
美咲が自分に対して抱く感情、その根底にあるものを知った。
それが彼女にとってどれほど深刻なものなのかも、紗英から聞かされるまで理解していなかった。
知ったからこそ——慎重にならざるを得ない。
「由紀先輩、今日もランチ行かないんですか?」
後輩の香織がデスクの前に立ち、心配そうな顔をしている。
「食欲がなくてね。ありがとう。」
「先輩、最近ずっとそんな感じですよね。ちゃんと食べないとダメですよ?」
「分かってるわ。ありがとう。」
笑顔を見せるが、香織はまだ不満そうだった。
それでも何も言わず、小さく息をついて自分の席へ戻っていく。
(……食欲がないのは、私の問題。)
食べ物が喉を通らないわけではない。
ただ、何を口にしても味がしない気がする。
美咲のことを考えると、どこか心が締め付けられて、それが食欲すら奪っていく。
(これ以上、彼女に何ができるの?)
そう考えるたび、答えが出ないまま堂々巡りするばかりだった。
—
夜。
帰宅すると、いつものように部屋には静寂が満ちていた。
何か音がほしくて、スマホから音楽を流す。
ジャズのメロディが部屋の空気に溶け込むように広がった。
ワインセラーから赤ワインを一本取り出す。
いつもならグラスに注ぐが、今夜はそのままボトルの口を開けた。
ゆっくりと喉を流れる感覚に、ほんの少しだけ気が緩む。
あの子の世界は、私を中心に回っている。
それがどれほど危ういものかを、今になって痛感している。
(でも、私が彼女に与えられるものは何?)
愛?
優しさ?
距離?
ボトルを傾け、ワインをもう一口飲む。
舌の上に広がる芳醇な香りは、ほんの少しだけ思考を鈍らせてくれた。
(会うべきなのか……?)
会えば、美咲はどうするだろう。
すがるように私を求めてくるのか。
それとも、怒りをぶつけてくるのか。
(……どちらにしても、私は彼女に影響を与えてしまう。)
ワインのボトルをテーブルに置き、深く息を吐いた。
もう少し時間を置こう。
もう少し冷静に考える時間が必要だ。
ワインの余韻が喉の奥に残る中、由紀は静かに目を閉じた。
次の瞬間、 由紀のスマホが振動した。
ワインを片手に持ったまま、彼女はゆっくりとスマホを手に取る。
画面には 「美咲」 の名前が表示されていた。
(……来た。)
心臓がわずかに跳ねる。
このタイミングでの連絡。
予想していたようで、していなかった。
指先がかすかに震えながら、通話ボタンを押した。
「……もしもし。」
すぐに、 美咲の呼吸音 が聞こえた。
言葉を発しようとしない。
ただ、微かに震えた吐息が、スマホ越しに伝わってくる。
「美咲さん?」
由紀がそう呼びかけた瞬間、 美咲の声がかすかに震えながら響いた。
「……今、会えませんか?」
その一言に、由紀の 心臓が強く締めつけられた。
(今……?)
夜遅い時間、しかもあの美咲が、こんな風に頼るように電話をかけてくるなんて——
ただの衝動ではない。
何かが起こっている。
由紀はボトルをテーブルに置き、深く息をついた。
「どこにいるの?」
美咲はしばらく沈黙し、静かに囁くように言った。
「……由紀さんの部屋の前。」
驚きと戸惑い。
すぐに席を立ち、玄関へ向かう。
ドアの向こうに、 美咲がいる。
どんな顔をしているのか。
どんな気持ちでここに来たのか。
由紀の手が、ドアノブに触れた瞬間——
胸の奥で 強く抑え込んでいた何かが、激しく揺さぶられる。
(開けたら、もう後戻りできない——)
そんな予感がした。
それでも——
カチリ
ドアが開く音が、静かな夜に響いた。
そして、そこに立っていたのは——
濡れた瞳で由紀を見つめる美咲だった。




