第2話「日常への回帰と新たな住人」
クラブで朝まで踊り明かした夜から一週間が経った。あの時の熱気と興奮は、忙しい大学生活の中で次第に薄れていった。美咲は大学の講義に追われ、友人たちと賑やかに過ごす時間が続き、銀座のバーでの出来事も、あの強烈な女性――由紀のことも、次第に心の奥底へと押しやられていった。
しかし、心の奥底に押しやったつもりでも、完全に忘れることはできなかった。美咲は気づかないうちに、あの夜、由紀と目が合った瞬間を何度も思い返していた。彼女の目、鋭くも冷静なその瞳には、どこか見覚えがあった。それは、幼い頃の美咲を恐怖に包み込んだ叔父の目――今も彼女の記憶に刻み込まれている忌まわしい思い出と重なっていた。
その記憶が蘇るのは、よくあることだった。
美咲がまだ幼かった頃、叔父の家によく遊びに行っていた。家族にとっても親しい存在であり、彼女も当時はその家を訪れるのが楽しみだった。大きな家の中には、子供心をくすぐるようなおもちゃやお菓子が溢れていた。しかし、いつからか、その楽しい思い出は恐ろしいものに変わっていった。
ある日、美咲は叔父の部屋で一人遊んでいた。叔父が静かに近づいてくる足音が聞こえた瞬間、彼女の心臓は自然と早鐘を打ち始めた。叔父の視線を感じたとき、まるで蛇に睨まれたように動けなくなった。
「美咲、こっちにおいで」と叔父は優しく声をかけたが、その目は冷たく、彼女を捕らえたままだった。美咲は言われるがままに近づき、逃げることはできなかった。叔父は部屋に鍵をかけて、美咲にさらに近づく。
あの目――冷静で鋭い瞳は、彼女を完全に支配していた。それは、叔父が彼女に向ける愛情の形だと言われたが、幼い美咲には何が正しいのか分からなかった。ただ、その時感じた強烈な恐怖だけが、彼女の心に深く刻み込まれていた。
叔父との辛い出来事は、彼女に心の痛みを残していた。
目を閉じて思い返すと、その時の叔父の目と由紀の目が重なるように感じる瞬間があった。あの視線――美しいけれど、どこか冷たさを感じさせる瞳――それが、どうしても美咲の心に引っかかっていた。胸の中で何かがざわつく感覚があるが、それが何なのか自分でも分からなかった。ただ、由紀を思い出すたびに、そのざわめきが大きくなる。
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「なんだか忙しいとあっという間に時間が過ぎちゃうよね」と、美咲は大学の帰り道、親友の紗英に笑いかけた。彼女の笑顔には、数日前の複雑な感情がまるで存在しなかったかのような無邪気さがあった。しかし、その胸の内には、どうしても拭い去ることのできない棘のような感情が残っていた。由紀の姿を思い出すたびに、彼女の心は何かに囚われるような不安と恐怖が入り混じっていた。
「ほんとね。でも、まあその方が気が紛れるじゃない?」紗英は軽く肩をすくめて答えた。彼女の何気ない一言に、美咲も笑い返しながら大きくうなずいた。
「最近、ようやくこの学科にも慣れてきたよ」と、紗英が微笑んだ。
「私も!転学してからまだ半年くらいだよね?」美咲は少し驚いたように返す。
「うん、前は経済学部で全然違うことを学んでたけど、やっぱり文学が好きで!だから今は文学部で1年生から美咲と一緒に勉強してるってわけ。」
「すごいよね、経済学部から文学部に転学するなんて、勇気いるよ。」美咲は感心しながら言った。
「まあね。でも、自分の好きなことをやりたくてさ。それにしても、大学ってこうして新しい出会いがあるから面白いよね。」紗英は美咲に笑顔を向けた。
その日は、講義と課題の締め切りに追われる日常からほんの少しだけ心が解放された日だった。ふと立ち止まった瞬間、美咲の頭にある考えが浮かんだ。
「ねぇ、今『オペラ座の怪人』のミュージカルやってるんだよね。観に行こうかな」彼女はそうつぶやき、スマートフォンでさっそくチケットを検索し始めた。ミュージカルは、美咲にとって現実の喧騒から離れ、感情を自由に解き放つ特別な時間だった。過去に何度も舞台に救われた経験があり、心の揺れを落ち着かせるために足を運ぶのが彼女の日課だった。
「いいじゃん!行ってきな。」紗英は言った。
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5日後の夜、美咲は期待に胸を高鳴らせながら劇場のシートに身を沈めた。豪華なシャンデリアが天井から吊り下げられ、薄暗い空間に観客のざわめきが静かに響いている。開演のアナウンスが流れると、彼女の心臓は自然と鼓動を速めた。
「やっぱり、この瞬間がたまらない!」美咲は心の中で独り言を言った。カーテンが上がり、舞台に広がる壮大な音楽と華麗な装置に、彼女は一瞬で現実を忘れて物語の世界へと引き込まれていく。
『オペラ座の怪人』の物語が進むにつれ、美咲はクリスティーヌの揺れる心情や、怪人の孤独と切ない愛に強く共感した。彼女の目には、怪人の姿がどこか自分に重なって映る。
「愛することは、美しいけれど、痛みを伴うもの……」怪人がクリスティーヌに想いを伝えるシーンで、美咲の胸は熱くなった。舞台のクライマックスが近づくと、彼女の瞳にうっすらと涙が浮かぶ。自分の感情を表に出すことが苦手な彼女が、舞台の中で表現される愛の形に、自分を投影しているようだった。
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幕が閉じ、劇場内に拍手が響き渡る。美咲はぼんやりと立ち上がり、手を叩きながら心に湧き上がる何かを感じ取っていた。ステージを去る俳優たちを見送るその目には、少しの悲しみと、わずかな希望が混ざり合っていた。
劇場を出た後、美咲は夜風に吹かれながら一人歩いていた。夜の街並みは、彼女にとっていつも特別で、心の中を不思議な気持ちで満たしてくれる。ふと、先日のクラブの夜と、由紀との出会いが脳裏をよぎる。だが、今はその思いに蓋をし、頭の中に浮かぶ言葉を形にしたくて仕方がなかった。
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帰宅すると、美咲はすぐにノートを取り出し、ペンを走らせた。舞台で感じた感情が、彼女の中で形を持って溢れ出す。『オペラ座の怪人』の孤独な愛や葛藤が、彼女自身の心に共鳴していた。
「愛とは、時に私たちを傷つける棘のようだ……」美咲は頭の中を巡る言葉を一つひとつ丁寧に書き留めていく。怪人がクリスティーヌに向ける切ない思い、それはまるで自分自身に対して抱いている複雑な感情のようだった。
ノートのページに、彼女は最後の一文を書き加える。「愛することは、甘美であり、痛みを伴う。私の心には、棘のようにその痛みが刺さり続けている。」
それから数日、美咲はミュージカルの余韻に浸りながら日々を過ごしていた。気持ちを切り替え、講義に集中することで、頭の中から由紀の存在を薄れさせようと努めた。しかし、彼女の記憶の片隅に、あの目力や冷たい笑みが小さな棘のように引っかかっているのを、どうしても無視することができなかった。
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ある朝、マンションのエントランスを出ると、1台のトラックが目に入った。「引っ越し業者か……」と、美咲はいちべつしただけで通り過ぎる。高級住宅街ではよくある光景だったため、特に気に留めることもなかった。
大学から帰宅したその日、美咲はエントランスで新しい住人らしき女性とすれ違った。背筋がすっと伸びた後ろ姿に、どこか見覚えがある気がして、思わず足を止める。
「……気のせいかな?」心の中でつぶやきながらも、彼女の心臓はなぜか高鳴っていた。そのシルエットは、記憶の中に刻まれた由紀の姿に酷似していたのだ。
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そして数日後、マンションの郵便受けに貼られた新しい名前を目にした瞬間、美咲の心は一気にざわめいた。
「……高瀬由紀?」彼女の視線がその名前に吸い寄せられ、思わず目を凝らしてもう一度確かめる。
「嘘でしょ…もしかして…?」頭の中で繰り返される疑問に、答えが見つからない。心臓の鼓動が早まり、手が小さく震え始める。美咲は急いで携帯を取り出し、紗英に連絡した。
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「ねぇ、紗英!聞いて!この間銀座のバーであった由紀さん覚えてる?その方がここのマンションに引っ越してきたのかも!」美咲の言葉は震えながらも、確信に満ちていた。
「マジで?そんな偶然ある?」紗英は驚いた様子で応じる。「でも、それって人違いなんじゃないの?」
「いや…そっくりだったし,名前も一致してたの。」
どうして彼女がここに?銀座のバーでの出来事は、あの瞬間だけのものじゃなかったのか?
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「そうなんだね、すごい...運命のいたずらってやつ?」紗英は軽く笑いながら続けた。「偶然だって。大丈夫だよ。」
「うん…そうだよね……。」美咲はそう答えながらも、心の中ではどうしても納得できなかった。由紀が彼女の生活圏内に入ってきたことが、何か大きな運命のいたずらのように思えてならなかった。
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電話を切った後、美咲はベッドに座り込み、手に持ったスマホを見つめた。紗英の言うように、ただの偶然だと割り切ることができればどんなに楽だろう。けれど、心の奥底では由紀の存在が確実に美咲の心を揺さぶっていた。
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あの夜の銀座のバーでの出来事が鮮明に蘇ってくる。由紀の視線、彼女の放った言葉、そして彼女の持つ謎めいた魅力。それら全てが、今も美咲の心を掻き乱している。
その日から、美咲は自分でも驚くほど由紀のことを気にするようになった。マンションのエントランスを通るたびに、彼女とすれ違うのではないかと心臓が跳ね上がる。エレベーターのドアが開くたび、そこに由紀が立っているのではないかと無意識に緊張する。
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そして、とうとうその瞬間が訪れた。
ある夕暮れ、帰宅途中の美咲はマンションの入り口で、由紀の姿を見つけた。由紀は郵便受けに手を伸ばし、郵便物を取り出していた。その後ろ姿はどこか静かで、上品な空気をまとっている。
美咲の心臓が一気に高鳴る。足元がすくむような感覚に襲われ、声をかけるべきかどうか迷う。彼女に気づかれたくないような、でも気づいてほしいような――矛盾した感情が、彼女の中でせめぎ合っていた。
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しかし、由紀は振り返ることなく、そのままエントランスを後にした。美咲は由紀の背中を見送りながら、胸に残る違和感と虚しさに苛まれた。
「なんだ、私……。こんなに気にしてたなんて、バカみたいじゃない…」美咲は小さく笑い、足早に自分の部屋へと向かった。
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翌日,大学で昼休憩の時間帯,学食はいつものように学生たちで賑わっていた。テーブルには様々な料理が並べられている中、紗英は手作りの弁当を静かに食べていた。美咲は向かいに座りながら、テーブルの上に置いた手をじっと見つめていた。
「食べなくて平気?」紗英はお弁当の蓋を閉じながら、美咲に声をかけた。
「うん、今ファスティング中なの。」美咲は笑顔を作りながら答えたが、その顔はどこか曇っていた。
「それにしても、ファスティングって本当に大丈夫なの?」紗英は心配そうに聞いた。「体調崩さない?」
「大丈夫だよ。もう慣れてるし,昨日の夜食べすぎちゃってさ。」美咲は軽く肩をすくめて答えたが、その目はどこか遠くを見ているようだった。
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「昨日の電話で言ってたけど、由紀さんが同じマンションに引っ越してきたって、やっぱり本当だったんだね。」紗英はお弁当をつつきながら、軽く話題を切り出した。
美咲は小さく頷き、ため息をついた。「そう、まさかあんな偶然があるなんて思ってなかった。たまたまエントランスで見かけたんだけど……由紀さん、私には気づいてなかったみたい。」
「でも、一度見ただけでそんなに気にするって、どうして?」紗英が少し首をかしげながら尋ねた。
美咲はしばらく黙っていたが、ふっと言葉を探すように口を開いた。「実は、最初に銀座のバーで由紀さんを見たときから、何か変な感じがしたんだ。彼女を見た瞬間、心臓がすごく早くなって……普通じゃない感覚だった。何か強烈なものに引き寄せられるような、でも同時にすごく怖い感じがして。」
紗英は美咲の顔をじっと見つめ、ゆっくりと箸を置いた。「それって、どういう意味?」
「それが、よく分からないの…。なんていうか、怖くて仕方がなかったのに、目が離せなかった。由紀さんの目を見た瞬間、心がざわざわして、逃げたくなった。でも、体が動かなかった……まるで捕まえられたみたいな感じで。」
しばらく沈黙が流れた後、美咲がぽつりと口を開いた。「ねぇ、紗英……私、叔父さんに小さい頃、悪戯されてたんだ。」
紗英は弁当をつつく手を止め、美咲の言葉に驚いた表情を見せた。「え……?それ、本当?」
美咲は小さく頷いた。「うん……あまり話したことなかったけど。叔父さん、私にいつも優しくしてくれてたんだけど……あの視線が、それをされた時からか怖くなって、部屋に二人きりになると逃げたくなった。でも、逃げられなかった。」
紗英は少し戸惑いながらも、そっと美咲に寄り添うように言った。「そんなことがあったなんて…」
美咲は一瞬目を伏せ、静かに頷いた。「うん……由紀さんの目が、叔父さんの目とすごく似てて。あの冷たくて、鋭い視線。小さい頃、叔父さんと二人きりになると、あの目で見つめられるたびに体が固まって……どうしても動けなかった。由紀さんを見た瞬間、あの時の感覚が一気に蘇ってきて……」
紗英は息をのんで、美咲の話をじっと聞いていた。「....由紀さんを見るたびに、その時のことを思い出しちゃうんだね……それは辛いよね。」
美咲は小さくうなずいた。「うん……最初は気にしないようにしてたけど、今は彼女が同じマンションに引っ越してきて、いつすれ違うかってことばっかり考えてしまう。彼女を見かけるたびに、あの時のことを思い出して、心臓がドキドキして緊張して……全然安心できないの。」美咲は涙目になっていた。しかしすぐに冷静に戻った。
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紗英はしばらく黙って美咲の言葉を受け止めていたが、やがてゆっくりと口を開いた。「美咲、無理しないでさ、自分のこともっと大事にしなよ。前から思ってたけど、美咲って何でも溜め込む癖あるよね? 落ち込むと暴飲暴食しちゃったりさ、それでまた自分責めちゃうの、見てて心配になるんだよね……。一回くらいさ、誰かに話してみたら? カウンセリングとか行ってみてもいいと思うけど。」
美咲は一瞬驚いたような顔をしたが、紗英の真剣な表情を見て黙り込んだ。
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「辛いことがあったら、誰かに話すだけでも気持ちが軽くなるよ。ずっと我慢してると、心にモヤモヤが溜まってくばっかりでしょ?だからさ、話すことでそのモヤモヤを少しずつ晴らすのが大事だと思う。カウンセリングじゃなくてもいいし、私で良ければ何でも話してよ。溜め込むより、吐き出すことが必要なんだよ。」
美咲は視線を落としながら、少し戸惑っていた。「そうだよね……でも、どうしても自分の中で処理しようとしてしまう。」
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「それならさ、もう一度銀座のバーに行ってみようよ。」紗英は、ふっと微笑んで提案した。
美咲は驚いたように目を見開いた。「銀座のバーに?由紀さんとまた会うかもしれない場所に?」
「そう。もちろん無理にとは言わないけど、もし由紀さんのことが気になっているなら、一度その場所に戻ってみるのもいいんじゃないかと思って。あの夜、何が美咲の心を揺さぶったのか、もう少し整理するためにも。何か新しい気づきがあるかもしれないし、逆に何も変わらないかもしれない。でも、向き合うための小さな一歩になるかもしれないよ。」
美咲は言葉を失っていたが、しばらくしてから口を開いた。「でも、もしまた彼女を見かけたら、どうなるか分からない。私、逃げたくなるかもしれない。」
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紗英は頷きながら、美咲に優しい目を向けた。「それでもいいんだよ。逃げたくなったら、逃げてもいい。でも、由紀さんを見かけた時に感じたことや、どうしてそんなに気になるのかをもう少し考えてみてもいいんじゃないかなって思うの。由紀さんが、美咲にとってまだ乗り越えていない過去の痛みを引き起こしているなら、その感情を整理してみる機会になるかもしれない。」
美咲は紗英の言葉に耳を傾けながら、考え込んだ。「向き合うために、もう一度バーに行ってみる……怖いけど、確かに逃げてばかりじゃ何も変わらないかもしれないね。」
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紗英は微笑みながら、軽く美咲の肩に手を置いた。「そうだよ。私には美咲の痛みが完全に理解できるわけではない。でも、私は美咲のそばにいるから、一人で抱え込む必要はないよ。無理をしない範囲で、少しずつ前に進めばいいんだから。」
美咲は黙っていたが、手のひらの汗が気になり始めていた。手をこすり合わせながら、何かを決断しようとするように紗英を見つめた。彼女が提案していることの意味を考えるたびに、不安と期待が入り混じり、胸がざわめいていた。
「……わかった。行ってみるよ。金曜日、空いてるから……一緒に行こう。」美咲は小さな声で承諾したが、その言葉には自分への覚悟が滲んでいた。
紗英は微笑み、優しく美咲を見つめた。「私がそばにいるから、大丈夫だよ。」
美咲は少し笑い返したが、心の奥ではまだ緊張が解けないままだった。手のひらに汗がにじんでいるのを感じながら、彼女はそっと手を握りしめた。紗英はその反応を見逃さなかった。美咲が抱えているものの大きさ――それが、自分が思っていた以上に深刻であることを紗英は少し感じ取った。
「じゃあ決まりね。金曜日、二人で行こう!」紗英は美咲に明るく言い、二人は学食での時間を終えてそれぞれの講義に戻っていった。




