第18話「あなたを傷つけないために」
「由紀さん……」
美咲の声が震えていた。
すがるような目。
必死に何かを伝えようとしているのがわかる。
けれど、由紀はその視線を正面から受け止めることができなかった。
「……美咲さん。」
わずかに低い声で名前を呼ぶ。
それでも、美咲の指は離れない。
「どうして避けるんですか……?」
「……避けてなんか——」
「避けてるじゃないですか。」
美咲の声が、ほんのわずか怒りを帯びる。
「私が何かしたなら、言ってください。でも、何も言わずにそんなふうに突き放されるのは……」
喉の奥が詰まり、最後の言葉は声にならなかった。
由紀は、美咲の手をほどこうとする。
だが、その瞬間、美咲の目がふいに強張るのを見た。
——やめて。
声にならない叫びが、美咲の瞳の奥で揺れる。
その怯えた表情が、由紀の胸に深く突き刺さる。
(……どうして、そんな目で見るの。)
「由紀さんが冷たいと、胸が痛くて……どうしても、苦しくて……」
美咲はまるで息をすることさえ辛いかのように、言葉を絞り出す。
「嫌わないでください。」
その一言で、由紀は胸の奥がかすかに揺らぐのを感じた。
(こんなふうに私を求めてくれる人が、これまでにいた?)
それを受け入れてしまったら、美咲はきっともっと私に縋ってしまう。
この子は、何かにすがらなければ自分を保てないのかもしれない。
「……美咲さん。」
由紀は一歩、ゆっくりと後ろに下がった。
「お願い、手を離して。」
静かな声だった。
けれど、美咲はその言葉に息を飲み、躊躇うように指を緩める。
「私は……これ以上、美咲さんに近づくべきじゃないと思うの。」
「……どうして?」
「あなたを傷つけたくないから。」
美咲の瞳が大きく揺れる。
「傷つけるって、どういうことですか?」
「私は、美咲さんに必要な人間じゃない。」
その言葉に、美咲の表情が凍りついた。
「そんな……」
「私が優しくすればするほど、あなたは私を求めてしまう。でも、私は……あなたの痛みを消してあげられる人間じゃないの。」
ゆっくりと、けれどはっきりと告げる。
「だから、距離を置くわ。」
突き放すように。
逃げるように。
由紀は、美咲の手が完全に離れた瞬間、静かに背を向けた。
「おやすみなさい、美咲さん。」
冷たく響いた言葉を残し、ドアの向こうへ消える。
美咲はその場に立ち尽くしたまま、何も言えなかった。
そして、由紀はドアの内側で静かに目を閉じた。
深く息を吸い込みながら、震えそうになる指先を握りしめる。
(これでいい……これで。)
—
美咲は、自分の中で何かが崩壊するのを感じた。
涙が止まらなかった。
由紀がなぜ突然冷たくなったのかもわからない。
部屋に戻ると、笑いが止まらなくなった。
泣いているのか、笑っているのか、自分でもわからない。
胸がひどく痛む。
まるで、人生そのものが崩れ落ちていくような感覚だった。
「なんで……?」
自分の声が震えていた。
言葉にしても、何も変わらないのに、それでも声にせずにはいられなかった。
どうしようもなく苦しくて、どうしても耐えられなくて——
次の瞬間、美咲は衝動的に部屋の中の物を掴んでは投げつけていた。
ガラスのコップが床に落ち、鈍い音を立てて砕ける。
机の上の化粧品が散らばり、香水瓶が転がる。
視界が滲み、何も見えない。
ただ、心の奥から溢れ出す痛みに突き動かされるように、次々と物を壊し続けた。
「なんでなの!!」
崩れ落ちるように床に座り込み、肩を抱く。
震えが止まらない。
部屋の中に響くのは、自分の荒い息と、壊れたガラスの破片が床を滑る音だけだった。
ふと、シャワーを浴びたくなった。
冷たい水で、このどうしようもない感情を洗い流せる気がした。
浴室に入り、無言のままシャワーをひねる。
お湯が肌を打つ感覚すら、ぼんやりとしていた。
どこか遠くにいるみたいだった。
だけど、涙は流れ続ける。
鏡を見る。
マスカラが滲み、黒い筋が頬を伝っていた。
髪は濡れて額に張りつき、瞳には絶望しか映っていない。
「そばにいるって言ってくれたじゃん!!
ずっと私の味方だって!」
かすれた声で呟いた瞬間、また涙が溢れた。
視界が歪む。
どうしようもなく、壊れそうだった。
——いいえ、もう壊れている。
震える手で鏡に触れる。
冷たく濡れたガラスの感触が、心の奥まで染み込んでいくようだった。
「どうして……」
誰に向けた言葉なのかもわからない。
由紀に? それとも、自分自身に?
だけど、ひとつだけわかることがあった。
(由紀さんを失うのは、耐えられない。)
その想いだけが、胸の奥に鋭く突き刺さっていた。
シャワーの音が遠くに響く。
美咲は壁に背を預け、ゆっくりと目を閉じた。
熱いお湯が肌を滑り落ちる感触はあるのに、体の芯はどこまでも冷えていた。
瞼の裏に浮かぶのは、今はもう届かない、由紀との記憶。
「ねえ、由紀さん!私、やったよ!」
大学のレポートの結果が返ってきた日。
予想以上の高評価に、美咲は思わず弾けるように駆け出していた。
誰よりも真っ先に報告したい相手——
それが由紀だった。
由紀の元へ駆け寄り、その勢いのまま抱きついてしまった。
「すごいわね。」
そう言いながら、由紀は驚いた様子もなく、自然に美咲の背中に手を添えてくれた。
「ほら、やればできるって言ったでしょ?」
そう言って、美咲の背中を優しく叩く。
鼓動が、耳の奥でドクドクと響いていた。
今思えば、あの瞬間からもう、自分は由紀の手のひらの中にいたのかもしれない。
そして、何より忘れられないのは、
あの香り。
由紀のそばにいると、いつも感じる香水の匂い。
爽やかで、それなのにどこか濃密な香り。
冷たくもあり、熱も感じさせる。
心を落ち着かせるはずなのに、逆に鼓動を速くさせる香りだった。
由紀が近づくたびに、ふわりと鼻先を掠めた。
心を掻き乱すように、その香りはまとわりついて離れなかった。
あの夜もそうだった。
あの視線で、あの香りで、美咲は狂わされた。
由紀が見つめるだけで、
呼吸の仕方さえ忘れそうになるほど、
怖くて、けれど、たまらなく惹かれていた。
そして、今は何もない。
どれだけ手を伸ばしても、もうあの人はここにはいない。
思い出ばかりが、鮮明に、残酷に美咲を縛りつける。
「……由紀さん。」
シャワーの水が流れ落ちる中、
美咲は震える唇でその名前を呼んだ。
—
数週間が経ち、クリスマスイブの夜が訪れた。街はキラキラと輝くイルミネーションと楽しげな笑い声で満たされ、寒さを忘れさせるような華やかな雰囲気が漂っている。美咲の部屋も、少しばかりのクリスマス飾りが置かれているだけで、静かなものだった。
美咲は机の引き出しをそっと開け、中に眠る一通の手紙を取り出した。心を込めて丁寧に書いたその手紙には、由紀に会いたいという切実な想いと、心配をかけてしまったことへの謝罪が綴られていた。書き終えたのは一週間前だが、何度も読み返しては、渡す勇気を持てずにしまい込んでいた。
「今渡しても、迷惑だよね……」彼女の心には、そんな葛藤が渦巻いていた。手紙を通して自分の気持ちを伝えたい。しかし、それが由紀の負担になるかもしれないと考えると、どうしても渡すことができなかった。
「由紀さんに会いたい……」美咲は小さく呟き、手紙を再び引き出しの中にしまった。だけど、その想いは胸の中で押し殺せるものではなかった。気づけばコートを羽織り、部屋を飛び出していた。冷たい風が頬を切り、美咲の頭を少しだけ冷静に戻す。しかし、その足は迷うことなく、由紀の住む部屋へ向かっていた。
—
やがて、由紀の部屋の前に立ったとき、美咲の心臓は激しく鼓動していた。手の先がかじかむほどの寒さにも関わらず、全身が熱くなり、鼓動が全身に響いているようだった。ドアをノックするかどうか、ためらいの気持ちが胸をよぎる。
「こんなこと、していいの……?」彼女の頭の中には、様々な感情が渦巻いていた。会いたいという想いと、迷惑をかけたくないという理性がせめぎ合う中、気づけば彼女の指はインターフォンを押していた。
数秒後、玄関のドアが静かに開き、由紀が現れた。彼女の顔は一瞬、驚きに染まった。しかし、その表情はすぐに冷静なものに戻り、いつもの落ち着いた雰囲気をまとった。
「美咲さん……どうしたの?」由紀の声には微かな緊張が混じっていた。美咲はうつむき、言葉を絞り出すように答えた。
「あの……少しだけ、お話ししたくて……」声が震え、由紀の顔をまともに見ることができない。由紀もまた、彼女の様子を見て緊張が伝わってくるのを感じていた。美咲が自分に何を伝えたいのか、由紀にはうっすらと予感があった。
「……そう、入って。」由紀はドアを開け、彼女を部屋に招き入れた。美咲はおずおずと部屋に入り、温かい空気に包まれると、少しだけ緊張が解けた気がした。由紀は彼女の手に触れ、少しだけ微笑みを浮かべてそっと部屋の中へと誘った。
リビングには柔らかな照明が灯り、静かで落ち着いた空間が広がっていた。いつも通りの由紀の部屋。それでも、今日はどこか違う空気が漂っているように感じる。美咲はどうしていいのかわからず、部屋の片隅に立ち尽くしていた。由紀もまた、どう言葉をかけていいのかわからず、美咲の姿を見つめていた。
「座って。」由紀はソファを指し、促したが、その声には少し硬さが感じられた。美咲は小さく頷き、ソファに腰掛けたものの、手元を見つめるだけで視線を合わせようとしない。二人の間に沈黙が訪れ、空気は緊張で張り詰めた。
「美咲さん……」由紀が口を開いたとき、美咲の肩が小さく震えた。お互いの視線が合いそうになるたびに、どちらも目を伏せてしまう。何かを話したいけれど、何も言えない。そんな空気が二人を包み込んでいた。
「私……その……」美咲は言葉を選びながら口を開いた。心の中に溢れる感情を伝えたいと思う一方で、それを言ってしまえば全てが壊れてしまうかもしれないという恐怖に押しつぶされそうだった。胸の中に溜まった想いが、言葉として出てくるのを美咲は抑えきれなくなっていた。
「……ごめんなさい、こんなときに突然来て……」ようやく絞り出した言葉は、謝罪だった。けれど、本当の気持ちはその言葉では表せない。由紀に会いたかった、彼女の声を聞きたかったという気持ちが、胸の中で叫んでいた。
由紀は美咲の言葉を静かに聞きながら、彼女の気持ちに寄り添おうと努めていた。美咲の想いを知っているがゆえに、どう接するべきかを迷っていた。
「大丈夫よ。」由紀は静かに言った。その声には優しさがあったが、どこか距離を保つような響きもあった。「あなたが気に病むことじゃないわ。」
その言葉に、美咲の胸は締め付けられるように痛んだ。由紀の優しさが、どこか遠く感じられた。自分はやはり彼女にとって、ただの子供でしかないのだろうか。そう思うと、涙があふれそうになり、必死に顔を背けた。
「私、由紀さんに会いたかったんです……」美咲の声は震えていた。由紀はその言葉に驚き、彼女の顔を見ようとしたが、美咲は俯いたまま何も言わない。空気が張り詰め、二人の緊張はますます高まっていく。
—
しばらくの間、リビングには重い沈黙が流れた。二人の胸の中で揺れる感情が言葉にならないまま、ぶつかり合っていた。何をどう言えばいいのか分からず、ただ時間だけが過ぎていく。
由紀はゆっくりと美咲の隣に腰を下ろし、そっと手を伸ばした。彼女の肩に触れようとしたが、その手は途中で止まり、静かに下ろした。「あなたの気持ちは、分かっているつもりよ。でも……」言葉の続きが見つからない。美咲の想いを受け止めることがどれほど難しいかを、由紀は痛感していた。
美咲は由紀の言葉にますます自分の無力さを感じた。由紀に対するこの想いが、彼女にとってどれだけの重荷になるのかを考えると、涙が止まらなかった。
「そうですよね……」美咲は小さな声で呟き、立ち上がろうとした。自分の気持ちを伝えるべきではなかったと、来たことを激しく後悔し始めていた。由紀にとって、自分はただの面倒な存在なのだと感じてしまったのだ。
由紀は美咲の動きに気づき、彼女の背中から伝わる痛みと苦しみを感じていた。美咲をこのまま放っておくことなどできない。彼女の心に寄り添いたいという気持ちが、由紀の中で渦巻いていた。
「待って、美咲さん。」由紀は立ち上がり、美咲の肩にそっと手をかけた。自分の想いがどれだけ美咲を傷つけてしまうのかを知っているからこそ、どうにかして彼女に安心感を与えたかった。
美咲は一瞬立ち止まり、振り返るのをためらった。由紀の言葉にどう答えるべきなのか、そして自分の感情をどう処理していいのか分からず、胸が締め付けられるような思いに押しつぶされそうだった。それでも、由紀の優しい声に導かれるようにゆっくりと振り返り、その瞳に向き合った。
「私、引っ越そうと思うの。最後にあのマザーリーフをあげたくてね。これからも大事に育ててね。」
由紀の言葉が、美咲の心を深く切り裂いた。
一瞬、理解が追いつかなかった。
頭の中で何度もその言葉を繰り返す。
「……引っ越す?」
声が震えるのを止められなかった。
まるで全身の血が引いていくように、指先が冷たくなっていく。
「……いつ、ですか?」
そう尋ねるのが精一杯だった。
由紀の表情は、少し申し訳なさそうに見えた。
でも、その瞳には迷いのない決意が宿っていた。
「……3月には出て行こうと思うわ。」
——心臓が、ぎゅっと締め付けられた。
3月。
あとたったの数ヶ月。
由紀はもう、この場所からいなくなる。
もう二度と会えなくなるかもしれない。
「……嘘。」
美咲は思わず呟いた。
けれど、それは誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。
嘘であってほしかった。
冗談だと笑ってほしかった。
「……どうして?」
喉の奥が詰まって、うまく声が出せない。
けれど、聞かずにはいられなかった。
「由紀さん……どうして、そんなこと……?」
もう美咲は、まともに立っていることさえ苦しくなっていた。
胸が押しつぶされそうで、視界が揺れる。
何かにすがりつかなければ、このまま崩れ落ちてしまいそうだった。
「どうしてって……ずっと考えていたことよ。」
由紀の声は静かだった。
まるで遠い場所から響いているような、感情を抑えた声。
「この街を離れて、新しい環境に行こうと思っていたの。でも、いろいろ迷っていたのよ。でも……やっぱり決めたわ。」
その「決めた」の意味が、美咲には痛いほど分かってしまった。
由紀は、自分の存在ごと消し去ろうとしている。
この場所から離れ、由紀は新しい人生を歩むつもりなのだ。
そこに美咲の居場所はない。
「……私のせい?」
ついに、美咲は口にしてしまった。
「私が……由紀さんを困らせたから?迷惑をかけたから?」
涙が溢れそうになるのを必死に堪える。
唇を噛みしめて、それでも声が震えるのを抑えられない。
「違うわ。」
由紀は即座に否定した。
だけど、どこか曖昧な口調だった。
「美咲さんのせいじゃない。ただ……」
一瞬、由紀の目が揺れる。
でも、その言葉の続きはなかった。
それが、何よりも苦しかった。
本当に関係ないのなら、もっとはっきりと言えるはずだ。
でも、由紀は言葉を濁した。
——それが答えだった。
「……結局、私は邪魔だったんですね。」
美咲はかすれた声で呟いた。
力が抜けて、足元がふらつく。
由紀が何か言おうと口を開いた。
でも、美咲はもう聞きたくなかった。
「ごめんなさい。」
美咲はそう言って、後ずさるように一歩引いた。
今すぐここから逃げ出したかった。
「私、帰ります。」
そう言い残して、美咲はドアの方へと向かおうとした。
「美咲さん...!」
由紀の声が聞こえた。
でも、もう振り向けなかった。
振り向いたら、何かが崩れてしまいそうだった。
「さようなら、由紀さん。」
そう言った瞬間、涙が零れた。
ドアを開け、冷たい夜風が肌を刺した。
それでも美咲は止まらなかった。
足元がふらついても、まっすぐ前を見て歩き続けた。
後ろを振り向けば、もう戻れなくなる気がして。
街のイルミネーションが眩しく光っているのに、美咲の視界は滲んで何も見えなかった。
由紀がいなくなる。その事実だけが、美咲の胸を切り裂くように痛かった。
—
静まり返った部屋の中で、由紀はじっとスマートフォンを握りしめていた。
もう、美咲は戻ってこない。
そう思えば思うほど、胸の奥に得体の知れない痛みが広がっていく。
彼女の最後の言葉
「さようなら、由紀さん」
それがまるで刃のように心を切り裂いていた。
これでよかったはずなのに。
これ以上、美咲を傷つけるくらいなら、最初から手を伸ばさなければよかった。
由紀は無意識に額に手を当て、指先で軽くこめかみを押さえた。
(……こんなときに、誰かに頼るなんて。)
そう思うのに、指は勝手にスマホを操作していた。
そして、ある名前で止まる。
——匠。
長いこと連絡を取っていなかった。
けれど、今夜だけは、彼の声が聞きたかった。
呼び出し音が鳴る。
ためらいが喉を締め付ける。
けれど、それを振り払うように、コールが途切れる瞬間、声が響いた。
「……お前から連絡なんて、珍しいな。」
低く落ち着いた声。
「少しだけ話せる?」
「俺がダメって言うと思うか?」
軽く笑う声がした。
懐かしくて、苦い記憶が蘇る。
「何かあったんだな。」
匠はそう言った。
由紀の沈黙を、すぐに察して。
「……匠、私……」
自分でも驚くほど、声が掠れていた。
「……今、どうしていいのか分からないの。」
「……そっか。」
匠はすぐに答えず、少し間を置いた。
彼が真剣に聞いてくれていることが分かる、その静けさだった。
「美咲、か?」
「……ええ。」
匠は深く息を吐いた気配がした。
「お前、あの子に本気で向き合うつもり、あるのか?」
「……私は、彼女を傷つけたくないのよ。」
「でも、お前が取った行動は、あの子を傷つけたよな?」
鋭い指摘に、由紀は言葉を失った。
「俺にはよくわかるよ。」
匠の声が静かに響く。
「お前は、相手のためって言いながら、自分が傷つかない道を選ぼうとする。」
「……違うわ。」
「違わねえよ。俺と別れた時も、そうだったろ。」
その言葉に、由紀の指先が強張る。
「……あれは。」
「由紀、お前はいつもそうだ。相手のことを考えてるようで、本当は自分がどうしたいのか分かってない。」
由紀は歯を食いしばった。
「私は、美咲のために距離を取るべきなのよ。」
「それ、本当に美咲のためか?」
匠の声が少し低くなる。
「お前が、怖いだけなんじゃないのか?」
「……何を。」
「また、誰かと本気で向き合うのが怖いんじゃないのか?」
——心臓が跳ねた。
「違う。」
「由紀。」
匠の声が優しくなる。
「お前、あの子のことが大切なんだろ?」
由紀は目を閉じる。
返事をしようとして、喉が詰まった。
「俺の時とは、違うんだろ?」
——その通り。
匠の時とは、全く違う。
でも、それを認めたら、最後の一線を超えてしまう気がした。
「私は……」
言葉が出ない。
「由紀、もし本当に手を引くなら、ちゃんと向き合って、理由を伝えろ。」
「……。」
「ただ逃げるだけなら、それは『彼女のため』じゃない。」
由紀はそっと、指で眉間を押さえた。
「……もう遅いわ。」
「遅くない。」
匠の言葉が、迷いを断ち切るように響く。
「お前が『どうしたいか』をちゃんと決めたら、まだ間に合う。」
由紀は、天井を見上げる。
「……考えてみるわ。」
そう言うのが、精一杯だった。
「それでいい。」
匠の声が、少しだけ優しくなった。
「何かあったら、また連絡しろよ。」
「……ありがとう。」
通話が切れると、由紀はスマホをそっとテーブルに置き、両手で顔を庇った。
——私は、美咲に何ができる?
——私がそばにいることで、彼女を救えるの?
そんなはずはない。
私は、あの子のすべてを受け止めることなんてできない。
美咲が抱えている痛みも、過去の傷も、私は知らない。
知ったとしても、どうすることもできない。
それなら——。
「距離を置くのが正解でしょう。」
自分に言い聞かせるように呟く。
それなのに、どうして胸がこんなに苦しくなるのか。
——本当に、それが美咲のため?
頭の中に浮かんだ問いを、由紀は慌てて振り払った。
大切だからこそ、関わるべきじゃない。
中途半端に踏み込んで、彼女をこれ以上傷つけたくない。
「……なのに。」
美咲の涙が、瞳が、声が、離れない。
あの夜、私のコートの裾を掴んで泣いていた美咲の姿が、まぶたの裏に焼き付いている。
「由紀さん……嫌わないでください。」
かすかに震えた声。
すがるような眼差し。
由紀は、そっと目を閉じた。
胸の奥に広がるのは、苦しさと、どうしようもない罪悪感。




