第17話「確信」
由紀は夜の冷たい空気を吸い込みながら、コンビニへと向かった。美咲の様子に触れ、彼女の気持ちに薄々気づいていたが、確信を持つには至っていなかった。しかし、先ほどの美咲の涙やキス、抱きつこうとした動きが、由紀の心に訴えかけていた。
「美咲さん、あなたは……」由紀はつぶやき、コンビニに入る。頼まれたヨーグルトを手に取り、レジへと向かうが、心の中は混乱していた。これからどうすればいいのか、自分が美咲にどう接するべきなのか、答えは見つからない。
部屋に戻り、そっとドアを開けると、美咲はソファで眠っていた。顔には涙の跡が残り、まるで幼子のように穏やかな寝顔だ。由紀はヨーグルトをテーブルに置き、ため息をついた。そしてふと、机の上に視線を向けると、一枚の紙が無造作に置かれているのに気づいた。
「これは……」由紀は恐る恐るその紙を手に取る。それは、美咲が書いた詩だった。
罪深い愛
あなたが日に日に忘れ難い思い出になっていく
あなたの声を思い出したくて、脳内で再生させる
礼拝堂で涙を流し、神に問いかける
あなたを愛することが罪深いのなら
せめてこの瞬間は聖なる存在から遠ざかりたい
詩を読み進めるにつれ、由紀の胸に冷たいものが広がった。美咲の抱く想い、苦しみ、そして自分への愛情が、痛いほど伝わってくる。由紀は目を閉じ、詩を握りしめた。これまで薄々感じていた美咲の気持ちが、今、はっきりと確信へと変わった瞬間だった。
「美咲さん……」由紀は声にならないほど小さく呟いた。目の前にある詩の一節一節が、美咲の痛みと切実な想いをリアルに映し出していた。これ以上、美咲の気持ちを無視することは、由紀にはできなかった。彼女の繊細で傷つきやすい心を感じ取った瞬間、由紀の胸の奥にある何かが強く揺さぶられる。
由紀はそっと詩を机に戻し、美咲の方に目を向けた。ソファに横たわり、微かに寝息を立てる美咲の姿がそこにあった。髪が頬にかかっており、由紀は思わず彼女のそばに座り、その無防備な寝顔をじっと見つめた。
「私は、どうすれば……」由紀は自問した。
答えが見つからない中、由紀の胸の奥には罪悪感が込み上げていた。
由紀はそっと立ち上がり、静かに部屋を後にした。ドアを閉める直前にもう一度美咲の寝顔を見て、心の中でそっと呟いた。
「ごめんなさい、美咲さん……」
美咲の部屋を出た由紀は、静かにドアを閉めた。マンションの廊下はひんやりと冷たく、外の風の音がかすかに響いていた。
エレベーターのボタンを押す。数字がゆっくりと降りてくるのを待つ間、彼女はわずかに目を伏せた。
扉が開く。誰もいない空間に足を踏み入れ、静かに閉じる扉を見つめながら、僅かに息を吐いた。
エレベーターが止まる。扉が開き、長い廊下が続いていた。
ゆっくりと歩を進め、ポケットの中の鍵を指先で探る。扉の前で一度立ち止まり、軽く目を閉じた。
由紀は部屋のドアの鍵を回しながら、ふと視線を横に滑らせた。
マザーリーフ。
葉の縁から、小さな芽がいくつも顔を出している。
美咲が丁寧に水をやってる姿を思い出す。わずかに葉が瑞々しく光り、柔らかな緑が夜の静寂の中で浮かび上がる。
由紀はしばらく無言でそれを見つめた。
指先がふと動く。そっと葉に触れようとして、しかし途中でやめた。
鍵を回し、ドアを開ける。
暗闇の中に足を踏み入れ、静かに扉を閉めた。
靴を脱ぎ、厚手のカーディガンの裾を軽く引く。小さく息を吐きながら、指先で袖口を整えた。
いつもと変わらないはずの部屋。
なのに今夜は妙に広く、冷たく感じる。
由紀はそっと髪をかき上げ、ダイニングテーブルに近づいた。手元の照明をつけると、淡い光が部屋を照らす。
椅子に腰を下ろし、ふと指先を見つめる。
美咲の熱が、まだ残っている気がした。
ゆっくりと目を閉じる。
—
由紀はベッドに沈み込むように横たわり、静かに天井を見つめた。
部屋は闇に包まれ、窓の外からわずかに差し込む街灯の光が、天井に淡い影を揺らしている。
まぶたを閉じれば、すぐに浮かぶ。
美咲の涙に濡れた瞳。熱を帯びた吐息。
そして、触れた唇——。
由紀は喉を鳴らし、ゆっくりと息を吐いた。
指先が無意識にシーツを握る。
(……あの瞬間、私は——。)
戸惑いと衝動が絡み合うように、美咲の熱が押し寄せた刹那、由紀は 一瞬だけ、抗うことを忘れた。
美咲の唇が触れたとき、その甘く切ない感触に、抗おうとする理性が揺らいだ。
彼女の指先が首筋に触れ、由紀の胸元にしがみつくように身を寄せた瞬間——
ほんの一瞬、ほんの一瞬だけ。
由紀の手が、美咲の髪に触れかけた。
指先が、柔らかい黒髪に沈みそうになる。
引き寄せてしまいそうだった。
そのまま受け入れたら、どうなっていただろう。
彼女の唇に応えていたら。
由紀は、強く瞬きをして、その記憶を振り払った。
由紀は寝返りを打った。
眠ろうとしても、眠れない。
「……バカね。」
誰に言ったのかもわからない言葉が、静寂に溶けていく。
由紀はもう一度目を閉じた。
—
翌日
美咲は目覚めた瞬間、頭がぼんやりとしていた。二日酔いとまではいかないが、喉が渇き、体が妙に重い。
「……午後の講義、行かなきゃ。」
まだぼんやりとしたまま身支度を進める。クローゼットを開け、適当に服を選びながら、昨夜の記憶を探ろうとするが、ところどころが曖昧だった。
冷蔵庫を開けた瞬間、目に入ったのはギリシャヨーグルト。
「あれ?こんなの買ったっけ……?」
訝しむが、それを深く考える余裕はなかった。時間が迫っていたし、それよりも、昨日の親戚の集まりで叔父と再会したことの方が、胸の奥に重くのしかかっていた。あの視線、あの笑み。思い出すだけで胃が痛くなる。
美咲は一瞬立ち止まり、拳をぎゅっと握った。
(忘れよう……何もなかった。何も。)
そう自分に言い聞かせながら、鞄を掴み、ドアを開けた。
エレベーターに乗り込み、静かにエントランスへ向かう。降りた瞬間、視線の先にラウンジが映る。
ソファに座り、ノートPCを開いているのは由紀だった。
ラフな私服姿。長い指先で静かにキーボードを叩いている。いつものように落ち着いた雰囲気で、しかしどこか——美咲には「遠い」と感じた。
けれど、それに気づかないふりをして、いつも通り明るく声をかけた。
「由紀さん!おはようございます!」
振り向いた由紀は、一瞬、美咲を見た。
その目が、一瞬だけ揺れたように見えた。
しかし、次の瞬間、由紀はすぐに視線を逸らし、淡々とした声で返す。
「おはよう。」
それだけ。
いつものような柔らかさも、優しさも、微笑みもなかった。
冷たい。
美咲は一瞬、足を止める。
(……え?)
違和感が胸の奥に広がる。
いつもなら、由紀は穏やかに微笑みながら「おはよう、美咲さん」と返してくれるはずなのに。
それが、まるで壁を作るような距離感に変わっていた。
どうして?何かした?
戸惑いを抱えながらも、美咲は無理に笑みを作る。
「今日はお仕事ですか?」
何気なく問いかけてみるが、由紀は「ええ」とだけ答え、再びPCに視線を落とした。
明らかに避けられている。
美咲の胸の奥に、かすかな不安が芽生えた。
—
大学に着く頃には、先ほどの由紀の冷たい態度のことを頭の奥へ押し込めていた。
(考えたって仕方ない。今は普通に過ごさなきゃ。)
そう自分に言い聞かせ、笑顔を作る。
キャンパス内を歩きながらカフェテリアへ向かうと、遠くに見慣れた顔ぶれが見えた。
紗英、俊樹、雄太、裕也
彼らが集まって談笑している。
「美咲ー!」裕也が一番に気づいて手を振る。
「お、ちょうどよかった!今、美咲の話してたんだよ。」俊樹が笑う。
「え、なになに?」美咲は明るく返しながら、いつも通りの調子を装う。
「いや、最近あんまり飲み会とか来てないなって。年末はちゃんと顔出せよ!」裕也が冗談めかして言う。
「あー、それね。最近ちょっとバタバタしててさ。」
本当はただ、人と会うのが億劫だっただけ。だけど、それを悟られないように、軽く笑ってみせる。
紗英が美咲の顔をじっと見て、「……ちゃんと寝てる?」と尋ねた。
一瞬、胸が詰まる。
「え?寝てるよー!」
美咲は即座に笑顔を作る。でも、紗英の瞳はどこか鋭く、美咲の表情を探るようにしていた。
「そろそろ冬休みだね!」美咲は話題を変えるように明るい声を出した。「みんなは何するの?」
「あー、俺はバイトかなー。」雄太が言う。
「俺はスノボ!」俊樹が得意げに言うと、裕也が「また?飽きねえなー!」と突っ込む。
みんなが冬休みの予定を話している中、ふと紗英が思い出したように言った。
「そういえば、そろそろ美咲の誕生日だよね!パーティーしようよ!」
「おお、それいいな!」俊樹がすぐに乗っかる。
「どうせなら同じ講義受けてる子たちも誘おうよ!大勢のほうが楽しいしさ!」
「美咲は大規模の方がいいだろ?」俊樹はにやっと笑いながら言う。
みんなの視線が美咲に集まる。
(……パーティー、か。)
一瞬、答えに詰まった。
由紀の冷たい態度。曖昧な記憶の断片。叔父との再会。胸の奥に絡みついた重い感情が、一瞬、美咲の喉を詰まらせる。
でも——。
「うん!楽しみ!!」
美咲は笑顔を作って答えた。
俊樹が「よっしゃ!決まり!」と大きく手を叩き、裕也と雄太も「じゃあ場所とか決めなきゃな」と盛り上がる。
美咲は笑顔を保ったまま、その様子を眺めた。
—
みんながそれぞれの予定に戻る頃、美咲は紗英と二人きりになった。
カフェテリアの窓際、昼下がりの柔らかい光が差し込むテーブル。
「……ねえ、紗英。」
美咲は少し言葉を選びながら、静かに切り出した。
「由紀さん、今日……すごく冷たかった。たまにクールな時はあるけど、今日は明らかに避けられてるみたいで……悲しかった。」
紗英は美咲の言葉をゆっくりと噛み締めるように、一瞬考え込んだ。
「……あまり気にしない方がいいよ。」
そう言いながら、優しく微笑む。
「そういう性格だから仕方ないよ。きっと切羽詰まってるんじゃない?」
「……うん、そうなのかな。」
納得するように、でもどこか釈然としない気持ちで呟く。
紗英はふと言った。
「そういえば『計画』はどうなったの?」
美咲の手が、一瞬止まる。
「……計画?」
紗英は軽く笑いながら、美咲を見つめた。
「由紀さんを落とすっていうやつ。あれ、もう諦めちゃったの?」
美咲の胸の奥で、ざわつく何かが広がる。
由紀の冷たい態度。思い出せない昨夜の記憶。
「……諦めたわけじゃないよ。」
そう答えながらも、自分の声がどこか不安定なのを感じた。
「でも……なんか、よくわからなくなってきた。」
「よくわからない?」
「うん。昨日までは、すごくはっきりしてた。落としたい、振り向かせたい、私だけを見てほしいって思ってた。」
「でも、今日あの人の態度を見たら……なんか、違う気がしてきたんだよね。」
紗英は興味深そうに顎に手を当て、しばらく黙っていた。
「つまり……本当に落としたいのか、それとも、ただの執着なのか、わからなくなってきたってこと?」
紗英の言葉が、胸の奥に突き刺さる。
執着。
その言葉を飲み込むように、喉が詰まる。
由紀を手に入れたいのは、ただの衝動じゃない。
ずっと求めていたもの、欲しくて仕方なかったもの。
それが、たまたま由紀だっただけ。
自分に言い聞かせるように、美咲は微笑みを作る。
「そんなこと、ないよ。」
しかし、紗英はじっと美咲の目を見つめていた。
まるで、美咲の心を見透かすように。
「そう?」
紗英は微笑む。
「なら、いいけど。」
その言葉は、突き放すでもなく、受け入れるでもなく。
ただ、美咲に考えさせるために投げかけられたように思えた。
—
数日が経った。
由紀は「会わなければいい。関わらなければ、何も考えずに済む。」
そう思っていた。
けれど、意識するなと言い聞かせるほど、美咲の存在は日常の隙間に入り込んでくる。
偶然を装うように、視界の端に映る。
何気ない素振りの中に、どこか切実なものを滲ませながら。
由紀は、廊下の向こうに美咲の姿を捉えた瞬間、ゆっくりと視線を逸らし、まるで考え事をしているように振る舞う。エレベーターのボタンを押しながら、スマホを片手に操作し、まるでタイミングを見計らうかのように別の階で降りる。
美咲がエントランスにいるのを見かけると、そのままソファに腰を下ろし、コーヒーを口に運ぶ。足を組み、まるで何も気にしていないように振る舞いながら、淡々とノートPCを開く。
しかし、視線を少しだけずらせば、ガラス越しに彼女の横顔が映っているのがわかる。
(気にする必要なんてない。)
そんなふうに思うのに——
ほんの数秒前に交わした何気ない会話や、無邪気な声が頭を離れない。
仕事の資料に目を落とす。指がキーボードを打つ。
けれど、一文字ずつ入力しているはずの文章が、次の瞬間には美咲の声に掻き消される。
「由紀さん、お疲れさまです!」
由紀の指が、一瞬だけ止まる。
「お疲れさま。」
ゆっくりと顔を上げると、美咲がそこにいた。
大学帰りのコートの襟元を軽く整えながら、無邪気な笑みを浮かべている。
頬がわずかに紅潮しているのは、冷たい夜風にさらされたせいか。
「お仕事中でした?」
美咲が問いかける。
由紀は、ほんのわずか間を置いて答えた。
「……まあね。」
「邪魔しちゃいました?」
「別に。」
美咲は遠慮することなく、そのまま向かいの席に腰を下ろす。
「今日は講義が長くて、すごく疲れました。」
彼女はそう言いながら、テーブルの上に肘をつき、上半身を少し前に傾けた。
ふわりと、かすかに甘い香りが由紀の鼻先を掠める。
由紀はカップを手に取り、口をつけた。
「ちゃんと授業は聞いてたの?」
「もちろんです!ノートもばっちり!」
「へぇ。意外ね。」
「もー、なんですか、それ!」
美咲が拗ねたように唇を尖らせる。
その仕草が妙に色っぽく見えてしまい、由紀は視線を逸らした。
「お腹、すいてないの?」
「うん……ちょっとだけ。」
「なら、ちゃんと食べてね。」
何気ない会話。
なのに、美咲の瞳がふと揺れるのを見てしまった。
——あの夜、あの瞳は涙に濡れていた。
「……はい。」
小さく呟いた美咲の指が、無意識にテーブルの端を撫でる。
指先が、あの夜、由紀の首筋に触れた感触と重なる。
由紀はPCの画面に視線を戻し、キーボードを叩く。
自分に集中しろ。これはただの会話。
何もなかったかのように過ごせば、それでいい。
「じゃあ、私はそろそろ帰ります。」
美咲が椅子から立ち上がる。
「うん。」
それだけで済ませようとしたのに、美咲は一歩歩き出したところで、ふと振り返った。
「また、明日。」
その言葉とともに、柔らかく微笑む。
由紀の指が、キーの上で止まった。
「……うん。」
低く抑えた声でそう返したときには、もう美咲の背中はラウンジの出口へと向かっていた。
去っていく足音を聞きながら、由紀はそっと指先を見つめる。
—
12月の静かな夜。
廊下の天井灯がぼんやりと光る中、美咲は小さなジョウロを手に、マザーリーフへと水を注いでいた。
葉の縁から伸び始めた小さな芽が、かすかに揺れる。
「……最近、ちょっと乾燥気味だね。」
由紀が忙しくて手をかけられていないのか、それとも。
そう考えた瞬間、足音が近づいてきた。
美咲が顔を上げると、廊下の向こうから、帰宅したばかりの由紀がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
(あ……)
由紀は、こちらに気づいたはずなのに、目を逸らしながら歩き続ける。
「由紀さん……」
美咲は、勇気を出して声をかけた。
けれど、返ってきたのはあまりにも素っ気ない言葉だった。
「お疲れ様。じゃあ、またね。」
たったそれだけ。
由紀は足を止めることなく、すれ違いざまにそう言い残し、部屋へ向かおうとする。
(もう諦めた方がいいのかな...そんなのできない....)
(また、避けられる。)
もう何度こうして、目も合わせてもらえずに背を向けられただろう。
美咲はその冷たさに、もう耐えられなくなった。
次の瞬間、衝動的に手を伸ばしていた。
由紀のコートの裾を、そっと掴む。
「……っ」
由紀の足が止まる。
言葉にならない想いが、指先から伝わるようだった。
由紀は小さく息を呑む。
そして、美咲が自分の裾を掴んでいることに気づくと、まるで逃げるように体を引こうとした。
けれど——
美咲は、離さなかった。
「待ってください。」
かすれそうな声が、静かな廊下に落ちる。
その言葉が由紀を引き止めた。
ゆっくりと振り返る由紀。
その瞬間、ようやく美咲と目が合った。
これが、この数日間で初めての、まともな視線の交わりだった。
けれど、由紀の目を見た瞬間、美咲の心臓が強く跳ねた。
そこに映る冷たさ、戸惑い、突き放そうとする意思。
美咲の意識の奥で、時間が歪んだ。
目の前の視線が、ふいに過去の記憶と重なる。
暗い部屋の中。
カーテンの隙間から差し込む、ぼんやりとした光。
沈黙の中でじっと自分を見つめていた、あの男の目。
由紀の瞳が、美咲の怯えに気づいたのか、微かに揺れる。
その動きに、今度は「違う」と思う。
これは、由紀さんだ。叔父とは違う。
頭ではそう理解しているのに、指先が震えそうになる。
胸が苦しくなる。
美咲は、一度大きく息を吸い込んで、震えそうな声を抑えながら言葉を紡ぐ。
「由紀さん……」
声が掠れた。
それでも、ようやく由紀の目を正面から見つめた。
そこには、過去の悪夢ではなく、戸惑いと微かな痛みが混ざっていた。
美咲の指先が、由紀のコートの裾をぎゅっと握る。
もう逃げられないように。いや、逃げたくないと言うように。
「私……どうしたらいいんですか……?」
美咲の声は、泣き出しそうに震えていた。
「避けないでください。由紀さんが冷たいと、胸が痛くて……どうしても、苦しくて……」
喉の奥が詰まる。
「嫌わないでください。」
最後の一言は、掠れた息と共に零れ落ちた。
由紀は、美咲の言葉を聞いたまま、黙っていた。
部屋の前、廊下の静寂の中で、二人の時間だけが止まる。
掴んだ裾の感触だけが、確かな繋がりだった。




