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第16話「衝動」

11月の冷たい風が、街を滲ませる季節。

あの出版社の見学会から、1ヶ月が過ぎていた。

美咲は期待していた。もしかしたら、何かの拍子に、由紀から連絡が来るかもしれない——そんな淡い期待を抱いていた。

でも、それはただの幻想だった。

由紀は相変わらず、遠い。いや、それ以上に手が届かない。

忙しいと言われたあの日から、彼女とまともに言葉を交わす機会はなかった。メッセージも送れず、マンションで偶然会うこともなく、ただ時が過ぎるだけ。

美咲にとって日々の大学の講義はただの時間の消費でしかなく、ノートを取る手もどこか機械的。何を食べても味がなく、口に運ぶたびに無意味さを感じる。友人たちが楽しげに恋人の話をしていると、胸が苦しくなった。カップルたちが寄り添いながら歩く姿を見れば、切なさで押しつぶされそうになる。

気持ちを紛らわせるように、スマホをスクロールする。でも、由紀のSNSはほとんど更新されないし、会社の情報を検索しても、彼女の姿はどこにもない。

「……つまんない。」

美咲は呟きながら、スマホを握りしめた。

由紀の職場にて

デスクの上に積まれた原稿の束をめくりながら、由紀は深く息をついた。連日続く締め切りと、次々と舞い込む修正依頼。編集部はいつも慌ただしいが、最近は特に忙しさが増していた。

パソコンの画面に目を向ける。著者からの最新の原稿が届いている。メールを開いて確認しようとしたとき、ふと頭の片隅に小さな影がよぎった。

(あの子、元気にしてるかしら。)

美咲。

由紀は軽くペンを回しながら、1ヶ月前の見学会を思い出していた。

(最近、顔を合わせていないわね。)

いつも偶然のようにエレベーターで会ったり、マンションの入り口で見かけたりしていたのに、ここ最近はぱったりと姿を見ない。もともと頻繁に連絡を取る間柄ではなかったが、それでも何となく——距離ができたような気がした。

(まあ、彼女も大学が忙しいのかもしれないし。)

そう自分に言い聞かせるように、由紀はまた画面に目を戻した。

夜の冷たい空気が、マンションのエントランスに静かに満ちていた。

美咲は郵便受けを開け、ちらっと中身を確認すると、ため息混じりに封筒を引き抜いた。

ゆっくりとエレベーター方面へと向かった。

「……っ」

目の前、エレベーターの前に立つ由紀の姿が目に入った。

一瞬、足が止まる。

由紀はスマホを片手に、静かにエレベーターを待っていた。

(……どうしよう。)

エレベーターが到着するまで、このまま待ってやり過ごそうか。

いや、でも——

その瞬間、心が勝手に動いた。

足を踏み出し、エレベーターへ向かう。

「……由紀さん。」

呼びかけた声が、思ったよりも自然だった。

由紀が顔を上げ、ゆっくりと美咲に視線を向ける。

「美咲さん?」

驚いたような瞳。

(やっぱり、会いたかった。)

それに気づいた瞬間、もう逃げられなかった。

「お久しぶりです。」

「ええ、久しぶりね。」

由紀は少し微笑んだ。その微笑みが、思ったよりも柔らかく感じられた。

エレベーターが開く。

二人は無言のまま、中へと足を踏み入れた。

扉が閉まり、狭い空間に二人きりになる。

沈黙が落ちる。

だけど、不思議と居心地は悪くなかった。

「……この間は見学会に来てくれたみたいだね。」

由紀が静かに口を開いた。

「会えなくて、ごめんね。」

「いえ……私こそ、勝手にお邪魔してすみませんでした。」

「そんなことないわ。嬉しかったよ。」

「せっかく来てくれたのに、ちゃんと話せなかったわね。」

そう言って、由紀は美咲を見つめる。

その目があまりにも真っ直ぐで、美咲は思わず視線を逸らしそうになった。

けれど

(今、逃げたらダメだ。)

美咲はゆっくりと、息を整えながら口を開いた。

「……あの、また……お願いがあるんです。」

「お願い?」

「レポートの添削……また、お願いできませんか?」

由紀の瞳が、少しだけ瞬いた。

「……もちろん、いいわよ。」

「本当ですか?」

「ええ。」

由紀は少しだけ首を傾げ、美咲を見つめた。

「……由紀さんに見てもらうと、安心するんです。」

「そう?」

「はい。」

美咲は少し笑ってみせた。

「前も、すごく丁寧に見てくださって……。それに、由紀さんのアドバイス、すごく的確で勉強になるんです。」

「ふふ……ありがとう。」

エレベーターが目的の階に着く。

由紀は先に降りながら、美咲を振り返った。

「じゃあ、また時間があるときに見せてちょうだい。」

「はい!」

美咲の中で、またひとつ火が灯るのを感じた。

数日が経過し、美咲は手にしたレポートを何度も確認しながら、由紀の部屋の前に立った。彼女のレポートは、17世紀の作家たちの作品における孤独の表現を比較論じたものだった。

息を吐き出し、インターホンを押す。やがてドアが開き、由紀が現れる。

「こんにちは、美咲さん。入って。」

由紀の部屋はいつ来ても整然としていて、どこか落ち着く。美咲は緊張を隠しながら中へと足を踏み入れた。

「今日はどんなレポート?」由紀が尋ねる。

「ええ、17世紀の作家二人の作品を取り上げて、孤独がどのように表現されているかを比較しました。」

「....興味深いテーマね。どの作家を選んだの?」

「ジョン・ダンとパスカルです。二人とも、孤独に異なる視点を持っています。ダンは孤独を人間の普遍的な状態として描きながらも、共感とつながりを求める姿勢を示していて、パスカルは孤独が人間を内省に導き、精神的な成長を促すものと捉えています。」

由紀は興味深そうに頷きながら、美咲が持ってきたレポートの紙束を受け取る。

二人はソファに腰を下ろし、由紀がページをめくり始めた。彼女は真剣な眼差しで一行一行を読み進め、時折、ペンでポイントをマーキングしていく。

「あなたの分析は鋭いわね。ただ、ここの部分、もう少し具体的な引用を加えると、論点がより明確になると思うわ。」

「そうですね、もっと具体的な例を出すべきでした。」

由紀はページをめくりながら、さらに指摘を続けた。

「そして、ここ、ダンの詩のこの部分を引用するといいわ。彼の言葉には、孤独を乗り越えようとする強い意志が込められているから、あなたの主張を支持するのに効果的よ。」

「ありがとうございます、それは見落としていました。」

美咲はメモを取りながら、由紀からのフィードバックに真剣に耳を傾ける。

「由紀さん、こんなに丁寧に見ていただいて、本当に感謝しています。」

「いいのよ。あなたのレポートはいつも興味深いから、私も新しいことを考える刺激になるわ。」

美咲は由紀に向かって微笑みながら、ふとした思いつきのように問いかけた。

「そういえば、由紀さんの初恋はいつでしたか?」

由紀は少し驚いたようにまばたきをしたが、すぐに穏やかな表情を浮かべ、過去を振り返るように天井を見上げた。

「16歳のときかな。あの頃はすべてが新鮮で、純粋で.....」

彼女の声には、どこか懐かしさと切なさが滲んでいた。

「それで……どうなったんですか?」

美咲がそっと尋ねると、由紀はほんの少し目を伏せた。

「……裏切られたの。すごく傷ついたし、そこから立ち直るのに何年もかかったわ。」

淡々と語るその声の奥に、微かな震えがあった。

「でも、もう過去のことだから。」

由紀はふっと微笑み、美咲に目を向ける。

美咲は頷くことしかできなかった。

由紀の言葉は軽やかだったが、その奥にある傷跡が、美咲の胸を締めつけるように感じられた。

繊細な何かを守るように、美咲はそっと由紀を見つめた。

由紀は美咲のレポートの添削を終えると、そっとカップを差し出した。

美咲は嬉しそうに手を伸ばし、カップを受け取った。

「ありがとうございます!」

由紀は微笑みながら、ふと窓の外を見た。

「最近、気温の差が激しいから、風邪を引かないように気をつけてね。」

「由紀さんも、気をつけてください!」

美咲はカップを両手で包み込みながら、にっこりと笑った。

その言葉を聞いて、由紀はふと思い出したかのようにベランダへと足を向けた。小さな鉢植えのそばにしゃがみ、葉の一枚を丁寧に摘み取る。そして、それを小皿に乗せて美咲の前へと戻ってきた。

「そういえば、美咲さん一緒にこれを育ててみない?」

突然の申し出に、美咲はキョトンと目を丸くする。

「……え?」

由紀は小皿をそっと美咲の前に置いた。そこには、一枚の瑞々しい葉っぱがあった。

「これは何ですか?」

美咲は不思議そうに葉を見つめながら、クスッと笑う。

「これはね、マザーリーフっていうの。」

由紀は優しく説明する。

「葉の縁から小さな芽が出てきて、立派な植物へと育つのよ。」

美咲はじっと葉を見つめた。何気なく触れた指先に、生命の温もりのようなものを感じる。

「へぇ……そんな植物があるんですね。」

「ええ。この葉っぱもね、そのうち芽を出して、また新しい命を繋いでいくわ。」

由紀の穏やかな声が、どこか優しく響いた。

美咲はそっと葉を指先で撫でながら、小さく頷いた。

「……なんだか、素敵ですね。」

「でしょ?」

由紀は微笑んだ。

「だから、もしよかったら……美咲さんも一緒に育ててみない?」

美咲はその言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

「……はい、育ててみたいです。」

美咲がそっと微笑むと、由紀の目も柔らかく細められた。

「ここに置きましょうか。」

そう言って、由紀は部屋のドアの横に、マザーリーフをそっと置いた。

「ここなら、美咲さんも水やりがしやすいでしょ?」

美咲はぱっと表情を明るくしながら、「あっ、確かに!」と頷いた。

「美咲さんが週に4回程度、水やりをお願いするわ。」

「わかりました!」美咲は嬉しそうに答え、目を輝かせる。

「すごく嬉しいです!」

美咲は思わず、素直な気持ちを口にしてしまった。由紀と何かを一緒に育てる、それだけで心が温かくなった。

由紀はそんな美咲を見つめながら、ふっと微笑んだ。そして、少しだけ優しい声で言った。

「最近、会えないもんね。」

その言葉に、美咲の心臓が跳ねた。

ふいに感じた由紀の距離の近さに、美咲は頬が熱くなるのを感じた。

由紀の部屋を出て、自分の部屋へと戻るまでの時間が、妙に長く感じられた。

エレベーターのドアが閉まり、一人きりになると、美咲はゆっくりと息を吐いた。

——抱きしめたかった。

その衝動がまだ、肌の内側に残っていた。

由紀の、どこか遠くを見るような伏せ目。

淡々と語る声の奥に滲む、過去の傷。

美咲は、由紀が自分の初恋について語るときの表情を思い返した。

ただ、じっと由紀の横顔を見つめることしかできなかった。

由紀の部屋を訪れたあの日以来、美咲の心は少しだけ軽くなった。

由紀が忙しい合間を縫って、自分のレポートを見てくれたこと。一緒に植物を育てられること。

それだけで、数日間は幸福に包まれ、世界がまるで色を取り戻したようだった。

(もっと、由紀さんに認めてもらいたい。)

(もっと、あの笑顔が見たい。)

そう思うたび、美咲はマザーリーフの鉢へと足を運んだ。

由紀の部屋のドアの横に置かれた小さな葉。最初はただの一枚だったが、数週間が経つと、その縁から小さな芽がいくつも顔を出し始めた。

美咲はその変化を愛おしく思いながら、慎重に水を与えた。

「大きくなってる……」

美咲は小さな芽を指先でそっとなぞりながら、微笑んだ。

ある日、いつものように水をやろうとしたとき、鉢の横に目をやり、美咲はふと気づいた。

以前はなかった、少し大きめの植木鉢がそっと添えられている。

「……これ、もしかして……」

美咲が驚いて眺めていると、ふいに後ろから声がした。

「順調に育ってるわね。」

振り向くと、由紀が立っていた。

「由紀さん……これ……?」

「もう少ししたら、ここに植え替えたほうがいいかと思ってね。」

由紀は小さな笑みを浮かべながら、新しい鉢を軽く指で示した。

「わざわざ、用意してくれたんですか?」

「ええ。美咲さんが、ちゃんとお世話してくれてるみたいだから。」

「……!」

何か言いたかったけれど、上手く言葉が出てこなかった。

すると、由紀はそっと葉に触れながら、柔らかく微笑んだ。

「いい成長具合ね。このままいけば、立派な植物になりそう。」

美咲は、その言葉を聞きながら、こっそりと由紀の横顔を盗み見た。

—-

12月

ある日の夕方。

スマホが振動し、画面には「母」の名前が表示される。

躊躇しながらも、美咲は通話ボタンを押す。

「もしもし。」

「美咲? 来週の日曜、親戚が集まることになったの。お祖母ちゃんの喜寿のお祝いよ。美咲も来なさい。」

(……親戚が集まる?)

胸がざわつく。

もちろん、祖母のことは大切に思っている。けれど、それはつまり——叔父もそこにいる、ということ。

「……私は行かなくてもいいんじゃない?」

「何言ってるの。みんな集まるのよ? 久しぶりに顔を見せなさい。」

母の声はあくまで淡々としていて、美咲の動揺には気づいていない。

美咲は何か言い返そうとしたが、うまく言葉が出てこなかった。

(断れない。)

結局、美咲は「……わかった」と小さく答えるしかなかった。

電話を切った瞬間、胸の奥に冷たい鉛のような重さが広がる。

日曜の昼、親戚の集まりの場に向かう美咲。

格式ばった料亭の個室に案内されると、すでに何人かの親戚が談笑していた。

母が美咲を見つけて手を振る。

「こっちよ、美咲。」

ぎこちなく歩み寄ると、その場に——叔父がいた。

美咲の体が瞬間的に硬直する。

「あら、美咲ちゃん、大きくなったわね。」

叔母が笑顔で声をかけるが、美咲は返事ができない。

視線は叔父のほうに吸い寄せられ、動けなくなる。

叔父は、余裕のある笑みを浮かべながら、美咲をじっと見ていた。

「久しぶりだなぁ、美咲。」

その声。その目。その存在——。

美咲の鼓動が、異常なほど速くなる。

(息ができない——。)

叔父の視線がまるで舐めるようにこちらを見ているような気がする。

あの頃の記憶が、瞬時にフラッシュバックする。

美咲は無意識にテーブルの端を握りしめ、爪が食い込むほど力を入れていた。

「……っ」

逃げたい。でも、逃げられない。

周囲の親戚たちは何も知らずに会話を続けている。

普通に接することを強いられるこの状況に、美咲の心は追い詰められていく。

叔父は何もなかったかのように、にこやかに微笑んでいる。

「元気そうでよかったよ。」

その言葉が、最悪に不快だった。

美咲は必死に息を整えながら、目の前の料理に手を伸ばすふりをする。

(何も感じていないフリをしなきゃ。)

けれど、手が震えてしまい、箸を落としてしまう。

カチャン——。

「大丈夫?」と母が尋ねるが、美咲は「うん」とだけ答え、無理やり笑みを作った。

でも、叔父はその様子を見て、薄く笑ったまま、美咲の隣の席に腰を下ろした。

「もっと近くで話そうか、美咲。」

(やめて。)

彼の声が、耳の奥にこびりついて離れない。

夜の冷たい風が、肌を切るように感じられた。

美咲は駅からマンションへ向かう道を早足で歩いた。

涙が止まらない。

(最低……私、本当に最低だ。)

叔父の目、声、態度——すべてが頭から離れない。

親戚たちは何も知らずに笑っていた。

母も、気づいていない。

一人で耐えるしかない。

マンションのエントランスに入り、エレベーターのボタンを押す。

鏡に映る自分の顔は赤く腫れ、目は涙で滲んでいた。

(こんな顔……誰にも見られたくない。)

扉が開くと、すぐに部屋へと駆け込んだ。

マザーリーフの様子を見に行こうかとも思ったが、そんな余裕はなかった。

靴を脱ぎ捨てるようにしてリビングへ向かい、冷蔵庫を開ける。

目に入ったのは、缶ハイボール。

今は何も考えたくない。

思考を止めたい。


缶を開けると、すぐに喉へと流し込んだ。

冷たいアルコールが胃に落ちる感覚。

少しだけ、心が麻痺していく。

テーブルに腰を下ろし、二本目の缶を開ける。

一気に飲み干すと、ぼんやりとした酔いが回ってきた。

それでも、手を止めることができなかった。

飲まなければ、叔父の言葉や視線が脳裏に焼きついて離れない。

(もう、どうでもいいや。)

夜が更け、静寂が美咲の部屋を覆い尽くしていた。窓の外では冷たい風が木々を揺らし、かすかな音だけが虚空に響く。

部屋の中は暖房が効いているはずなのに、どこか冷たい空気が漂っていた。美咲はベッドの端に腰掛け、手元のスマートフォンを握りしめていた。

近くのテーブルには、空になった4缶のハイボールが転がっている。そのアルコールの残り香が、部屋の中にじんわりと漂っていた。

美咲の頬は赤く染まり、瞳はぼんやりとした光を帯びている。酔いが回ったせいか、胸の奥に押し込めていた感情が、じわじわと浮かび上がってきた。

高瀬由紀。

その名前を思い浮かべるたび、美咲の心には不安定な波紋が広がる。

彼女に感じる不可思議な魅力、彼女の視線が突き刺さるようなあの感覚。避けようとするほど深く引き寄せられる矛盾。

「由紀さん、今、どうしていますか?なんだかとても寂しくて……」

そのメッセージを書き終えた瞬間、美咲の心臓が激しく鼓動した。送るべきじゃないと頭では分かっていた。けれど、その思いに逆らえず、彼女は送信ボタンを押してしまった。画面に表示された「送信済み」の文字を見た途端、後悔の波が押し寄せた。

「……なんで、こんなこと送っちゃったんだろう。」

美咲は手で顔を覆い、うつむいた。自分の感情に振り回される無力感が、胸の奥を締め付けてくる。

「やだ、最悪……。」

アルコールに任せて送ったメッセージ。

それが由紀にどう思われるのか、美咲には分からなかった。

今すぐ取り消したい。でも、もう遅い。

胸が締め付けられるような不安と、どこかで期待している自分。

その二つの感情が、美咲の中でせめぎ合っていた。

そのとき

スマホの通知音が鳴った。

「えっ……?」

一気に心臓が跳ね上がる。

画面を見つめると、そこには——

「今、部屋にいる?」

由紀からの返信だった。

美咲は、思わず息を呑んだ。

(……え?)

思っていたよりも早い返信。

それどころか、こんな時間に……。

美咲は震える指で、「います」とだけ返信した。

そして、数秒後——

コンコン。

部屋のドアをノックする音が聞こえた。

美咲は、凍りついたように動けなくなる。

(……由紀さん!?)

まさか、本当に来るなんて思っていなかった。

慌てて立ち上がると、足元がふらつく。

アルコールのせいで、少し体がふわふわしている。

もう一度、小さくノックが鳴る。

美咲は、ゆっくりとドアを開けた。

そこには——

仕事帰りの由紀が立っていた。

「……飲んでたの?」

由紀は、ふわりと香るアルコールの匂いに気づいたのか、少しだけ眉を寄せた。

「……うん。」

美咲は視線を逸らしながら、曖昧に頷く。

「メッセージ、送ってきたでしょう?」

「っ……」

由紀の低い声に、美咲は耳まで赤くなる。

「ごめんなさい、忘れてください……。」

「本当に大丈夫?安全な飲み方じゃないわ」

由紀は小さくため息をつきながら、ドアの外で腕を組んだ。

「美咲さん、何かあったの?」

その言葉が、優しくて、温かくて。

美咲は、気づけば涙が溢れそうになっていた。

(違う、こんなつもりじゃなかったのに……。)

由紀を落とすつもりだった。

でも今の自分は、ただの子供みたいに、甘えているだけ。

(由紀さん、どうしてこんなに優しいの?)

しかし、美咲は言葉を紡げず、ただドアを開けたまま立ち尽くしているだけだった。

その沈黙が気になったのか、由紀は軽く首を傾げ、美咲の部屋の中をちらりと覗き込んだ。

そこには、乱雑に散らかったテーブルがあり、大量の空のお菓子の袋や、食べかけのアイスクリームのカップが無造作に置かれていた。

由紀の視線がそれを捉えた瞬間、美咲は慌てたように由紀の前に立ちはだかり、テーブルを隠すような仕草をした。

「……あの、これ……違うんです、ただ……」

言葉にならない弁解を試みる美咲の声が震えている。その瞳には羞恥と自己嫌悪が浮かんでいた。

由紀は少し驚いたように目を見開いて、穏やかに口を開いた。

「美咲さん……これ、全部一人で?」

美咲は何も答えられなかった。ただ黙って俯き、肩を小さく震わせている。

その姿を見て、由紀の心に胸が締め付けられるような感覚が広がった。

由紀の声は優しく、しかしどこか心配の色がにじんでいた。「大丈夫?お腹、痛くなってない?」

美咲は顔を上げず、小さく首を振る。

「……食べても、止まらなくて……こんなの、見られたくなかった……」

その言葉を聞いた由紀は、静かに深呼吸をしてから美咲に近づいた。そっと彼女の肩に手を置き、もう片方の手でテーブルに置かれた食べかけのアイスクリームのカップを手に取る。

「美咲さん……」由紀は、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。「こんな風に一人で抱え込まないで。食べたくなるのは、きっと何か理由があるはずよ。無理に我慢するのも辛いけど……体を大事にしてほしいわ。」

美咲は由紀の言葉に反応するように顔を上げた。その瞳には、涙が浮かび、今にもこぼれ落ちそうだった。「……自分でもわからないんです。止めなきゃって思っても、気づいたら食べてて……」

由紀はそっと微笑みながら、アイスクリームのカップをテーブルに戻した。「人間って、辛いことがあると、どうしても何かに頼りたくなるものよ。それが美咲さんにとって食べ物だったのかもしれない。でも、それだけじゃないはず。」

美咲は、由紀の手の温かさに触れながら、小さな声で呟いた。「……由紀さんには、全部見透かされてるみたい。」

美咲の頬に涙が一筋伝い落ちる。その瞬間、由紀の眉がわずかに動き、彼女は美咲の涙を拭おうと手を伸ばした。しかし、その仕草を見た美咲の中で抑えていた感情が一気に崩れた。

「由紀さん……」美咲は震える声で名前を呼んだ。

涙がこぼれ、胸が張り裂けそうな気持ちを抱えたまま、由紀の顔を見つめる。その瞬間、理性は完全に崩壊した。

(今この瞬間、由紀さんの温かさにすがりたくて、もう何も考えられなかった。)

美咲は一気に距離を詰め、由紀の唇に強引に自分の唇を重ねた。

そのキスは単なる接触ではなく、長い間押し殺していた感情と欲望が詰まった情熱的なものだった。

美咲の指は由紀の首筋に触れ、熱を帯びた吐息が二人の間に広がった。

由紀は驚いて目を見開いたまま動けなかった。

突然の美咲の情熱的な行動に、一瞬何が起こっているのか理解できず、心臓が早鐘のように鳴り響いていた。

美咲の力強いキスに押され、彼女はその場に固まってしまった。

「美咲さん……!」

ようやく我に返った由紀は、少し強引に美咲を引き離した。彼女の胸は激しく高鳴っていたが、同時に動揺と戸惑いが溢れていた。

「ごめんなさい……」

美咲は一瞬の出来事に自分でも驚き、言葉にできないほどの後悔が一気に押し寄せてきた。

「私……由紀さん、そんなつもりじゃ……」

彼女は涙をこらえながら言葉を続けたが、すでに自分の行動をどう説明していいのか分からなかった。

由紀の目を見つめることができず、美咲は顔を覆ってうずくまった。

「飲みすぎちゃって….寂しくて……」

自分の行動が衝動的だったことを言い訳しようとしたが、その言葉さえも空しく響いた。


「大丈夫、大丈夫だから……」


由紀は落ち着いた声で美咲をなだめる。美咲は涙でぼやけた視界の中で、由紀の顔を見上げる。その優しさに触れた瞬間、彼女は思わず由紀に抱きつこうと手を伸ばした。


しかし、由紀はその動きを察知して、美咲をそっとソファに座らせた。


優しく彼女の肩を押さえ、「少し落ち着こう、水を飲もうね」と囁く。由紀の声は柔らかく、しかしどこか冷静で美咲の感情を抑えつけるようでもあった。


---


美咲は涙を拭きながら、由紀から差し出された水を受け取った。手が震え、グラスを口に運ぶのも精一杯だった。冷たい水が喉を通り過ぎるたびに、少しだけ気持ちが落ち着いていく。


「コンビニ行くけど....何か欲しいもの、ある?」


由紀は静かに尋ねる。美咲は彼女のその言葉に、一瞬戸惑った。欲しいもの?

本当は由紀の愛情が欲しい。


でもそれを言えるわけもなく、頭に浮かんだのは一つの答えだった。


「ギリシャヨーグルト……」


美咲は小さな声で答えた。その一言に、由紀はわずかに微笑み、頷いた。「わかった、少しの間待っていてね。すぐ戻るから」と言って、コートを羽織り直し、外に出ていった。

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