第15話「見学会」
10月の夜
秋の風がビルの隙間を抜ける夜。街のネオンがぼんやりと滲むカフェのガラス窓に、美咲は頬杖をつきながら外を眺めていた。
目の前のカップの中には、すっかり冷めてしまったカフェラテ。今日は、少しだけ期待していた。
(由紀さん、もしかしたらメールくれるかなって……)
だけど、スマホの通知画面は変わらないままだった。
クールな人だとは知っていた。けれど、一度でもいいから、由紀のほうから連絡がほしい。
そんなことを考えてしまう自分が、少し情けなくも思えた。
—
数日後
大学の講義で、新たな課題が発表された。
「出版業界の現状と未来」
教授の落ち着いた声が教室に響く。
「今、紙の本は減少し、電子書籍が増えています。ですが、編集者の仕事は依然として重要です。皆さんには、出版社の現状を調査し、レポートを書いてもらいます。」
(出版業界か……由紀さんの仕事にも関係してる)
美咲はふと、ある考えが浮かぶ。
「ねぇ、出版社の見学会とかないかな?」
隣に座っていた紗英が興味深そうに顔を上げる。「出版社?」
「うん。課題の調査にもなるし、編集の仕事って実際どんなものなのか知りたくて。」
「いいじゃん、それ。」前の席に座っていた雄太が振り返り、興味深げに言う。「実際に業界の人から話を聞けるなら、いい機会かもしれないな。」
「でも、美咲のことだから、純粋に課題だけが目的じゃなさそうだけど?」俊樹がニヤニヤしながら口を挟む。
「別にそんなことないし!」
美咲は少し顔を赤らめながら、スマホを取り出し「出版社 見学会」と検索した。すると、いくつかの出版社が学生向けのオープン見学会を開催していることを知る。そして、その中に見覚えのあるロゴが目に入った。
(……由紀さんの出版社!?)
思わず鼓動が早まる。
「これ、どうかな?」と、さりげなくスマホの画面を紗英と雄太に見せる。
「へぇ、有名な出版社じゃん。」紗英は画面を覗き込みながら頷く。「私も興味あるな。」
しかし、次の瞬間——紗英の表情が一変する。
「……あれ?」彼女はスマホを指さしながら、美咲をじっと見つめた。「ちょっと待って、美咲。そこ、由紀さんが働いてるところだよね?」
その一言に、美咲の体がピクリと固まる。
「えっ、そうだったっけ?」と、何でもないふりをしようとするが、声がわずかに裏返る。
「やっぱり!」紗英は思わず声を上げる。「だって、由紀さんのインスタで、オフィスの写真見たことあるもん!ロゴ、一緒じゃない?」
美咲は焦りながらスマホを握りしめた。「たまたま!たまたまだよ!」
「ふーん、たまたまねぇ?」紗英は意味ありげに微笑む。「で、美咲はこの見学会に純粋に出版社の仕事を学びに行くと?」
「も、もちろん!」美咲は必死に否定するが、顔の熱さが増していくのを感じた。
「美咲のことだから、最初から狙ってたんじゃないの?」俊樹がニヤニヤと口を挟む。「『出版社の仕事ってどんなものなのか知りたくて』とか言ってたけど、本当の狙いは——」
「違う!」美咲は俊樹の言葉を遮るように叫んだ。
「ほら、やっぱり動揺してるし。」裕也が楽しそうに笑いながら言う。
「うるさい!」美咲は思わず裕也の肩を小突いた。
雄太は微笑しながら腕を組み、静かに見守っていたが、ふと口を開く。
「まあ、どんな理由にせよ、出版社の見学会は面白そうだし、せっかくなら行ってみる価値はあるんじゃないか?」
「そうだよね!」美咲は勢いよく頷く。「別に変な意図はないし、ただ興味があるだけだから!」
「ま、真相はともかく、行くこと自体は悪くないし、私も楽しみ!」紗英はクスクス笑いながら、美咲の肩を軽く叩いた。「でも……由紀さんにバレたらどうするの?」
「えっ……」
想像もしていなかった事態に、美咲は一瞬固まった。
(……確かに、由紀さんに見つかったら、ちょっと気まずいかも?)
「まあ、向こうがこっちを気にするとは限らないし、何も考えずに行けばいいんじゃない?」雄太が落ち着いた声で言う。
「そ、そうだよね!」美咲は何とか笑顔を作った。
「それにしても……」俊樹が笑いながら腕を組む。「由紀さんと偶然バッタリ、なんて展開になったら、面白いなぁ。」
「やめてよ、そんなこと考えたくない……!」美咲は頭を抱えた。
しかし、心のどこかで期待している自分がいるのも確かだった。
こうして、美咲、紗英、雄太、俊樹、裕也の5人は出版社の見学会に申し込むことにした。
(……由紀さんの働いてる場所。どんなところなんだろう。)
美咲はスマホの申し込み画面を見つめながら、胸の奥が高鳴るのを感じていた。
—
見学会当日
オフィス街にそびえ立つ高層ビルの前に立つと、自然と背筋が伸びた。
(ここが、由紀さんが働いてる場所……。)
受付を済ませ、他の学生たちと一緒に会議室に通される。
出版社のスタッフが挨拶し、業界の仕組みについて話し始めた。
「編集の仕事は、単に文章を直すだけではありません。作家の意図を汲み取り、より良い形で読者に届けることが重要です。」
(へぇ……由紀さんも、こんなふうに本を作ってるのか。)
美咲はメモを取りながら、ふと ある思い を抱く。
(私、ちゃんと知らないな。由紀さんの仕事のこと。)
—
出版社の見学会も終盤に差し掛かり、案内を担当する社員が社内の廊下へと学生たちを誘導した。オフィス内は静かで、規則正しく並んだデスクには本や資料が積まれている。控えめな話し声やキーボードのタイピング音が響き、どこか洗練された雰囲気が漂っていた。
そんなことを考えていると、視界の端に、歩く人影が映った。
由紀だった。
一瞬、息が止まる。
由紀はスマートなパンツスーツに身を包み、片手に資料を持ちながら、隣の同僚と何かを話していた。落ち着いた口調で、時折頷きながら相手の意見に耳を傾けている。その横顔は端正で、知的な雰囲気を醸し出していた。
しかし、すぐに美咲の目を引いたのは彼女の隣にいる女性だった。
肩までの髪をすっきりとまとめ、親しげに微笑みながら、由紀に話しかけている。
美咲の中で、何かがざわめいた。
「……あ。」案内役の職員が足を止め、美咲たちに向かって言った。
「あ、ちょうど今歩いていたのが、うちの編集部の高瀬由紀さんですね。」
「えっ?」
思わず声を漏らしたのは、美咲だった。心臓が大きく跳ねる。
「文芸部門を担当していて、詩集や小説の編集を手掛けているんですよ。」職員が説明を続ける。
彼女の言葉の選び方や、話し方の落ち着き——それがただの性格ではなく、日々触れている"言葉"そのものから生まれているのかもしれないと気づいた。
「やっぱり、いたね。」
紗英が美咲の耳元で、小さく囁く。どこか含みのある声だった。
「……いたね。」美咲も息を飲みながら答えた。
「へぇ、あれが美咲がいつも言ってる由紀さんか?」
雄太が静かに言った。彼は美咲の横顔をちらりと見て、その反応を確かめるように微笑んだ。
「気が強そうだな!俺のタイプかも!」
俊樹が興味津々な様子で言い、口笛を吹いた。
「お前、絶対相手にされないって。」裕也が即座にツッコむ。
「えー?俺イケると思うんだけどなぁ?」俊樹は冗談めかして笑うが、目は本気で由紀を観察している。
「無理無理。お前、可愛い系が好きとか言ってただろ。」裕也が呆れたように言う。
「そうだけど、ああいうクールなタイプにも惹かれるんだよなぁ。」俊樹は腕を組み、感心したように頷く。
「何でもアリじゃん。」紗英が呆れた顔をする。
美咲は彼らの軽口を聞きながらも、視線を由紀から離せなかった。
しかし、今の美咲の視線の先には、由紀だけではない。
—— 彼女の隣にいる女性も。
「あの人は?」
美咲は気づかれないように、案内役の職員に尋ねた。
「ああ、香織さんですね。同じく文芸部で、6年目ってところです。」
香織——由紀の後輩。
(……あの人、由紀さんと仲が良さそう。)
「見て、あの二人。話してる感じ、すごく親しげじゃない?」
紗英が美咲の肩を軽く突きながら言った。彼女も何かを察したのか、意味深な微笑みを浮かべている。
由紀と香織は、二人だけの空間を持っているように見えた。言葉を交わすたびに香織は柔らかく笑い、由紀もそれに応えるように微笑んでいる。
その光景に、美咲は胸がざわついた。
(仕事の話をしてるだけだって、分かってるのに。)
(どうしてこんな気持ちになるんだろう。)
そんなことを考えているうちに、由紀と香織がこちらに向かって歩いてきた。
美咲の心臓が、さらに高鳴る。
しかし——
由紀の目は、美咲たちを一瞬だけ横切ったものの、それ以上の興味を示さなかった。まるで、"ただの見学者" としてしか認識していないような、淡々とした視線だった。
「……。」
美咲は、その無関心さに、予想外の痛みを覚えた。
(由紀さん、私に気づかなかったのかな。)
—— どうして、こんなに遠いの?
「……目合った?」俊樹が言う。
「気のせいでしょ。」裕也が笑う。
「……そうかな。」美咲は曖昧に微笑む。
その間にも、由紀と香織は、また仕事の話に戻っていた。
由紀は香織に何かを囁くように話し、香織は笑顔で頷いている。二人の間には、明らかに信頼関係が築かれているようだった。
その光景を目にして、美咲はまた胸が苦しくなるのを感じた。
(私も、あの輪の中に入りたい。)
(私も、由紀さんの世界に触れたい。)
だけど—— それはあまりにも遠すぎる場所に思えた。
「……ああ、悔しいな。」
美咲は、心の奥でそっと呟いた。
—
香織と楽しそうに話す由紀の姿が、何度も脳裏に焼き付く。あの親しげな笑顔を、美咲は一度も向けてもらったことがない。
何か、しなきゃ。
そんな衝動に駆られた。
「紗英……お願いがあるんだけど。」
美咲は昼休憩に入るとすぐ、食堂へ向かおうとしていた紗英の腕を掴んだ。
「ん?何?」
「……由紀さんのところに行ってほしいの。」
その言葉に、紗英は目を丸くする。「え、私が?」
「うん……直接会いに行くのはちょっと……だから、紗英から私も来てるから会わないかって伝えてほしい。」
紗英はじっと美咲の表情を伺ったあと、ふっと微笑んだ。「なるほどね。さっきの由紀さんと香織さんのやり取り、気になった?」
「……っ」美咲は否定できず、唇を噛む。
「まあ、美咲らしいけど。」紗英は肩をすくめながら、「分かった。でも相手は仕事中で、忙しそうなら邪魔はしないからね。」
「ありがとう……!」
「でもさ、美咲、自分で行くのは嫌なの?」
「……嫌っていうか、なんか、怖い。」
「怖い?」
「私、ただの大学生で、向こうは社会人で……こうやって会いに行くこと自体、おかしいのかもって思っちゃうんだよね。」
「そんなことないと思うけど?」紗英はあっさりと言う。
美咲は緊張した面持ちで頷いた。
「……頼んだ。」
「はいはい。」紗英は軽く手を振り、由紀のオフィスのほうへと向かっていった。
—
「てかさ、美咲って由紀さんと同じマンションに住んでるんじゃなかったっけ?」
俊樹が思い出したように言った。フォークを口に運びながら、何気なく美咲を見る。
「えっ……?」美咲は一瞬、動揺する。
「だったら、わざわざこんなとこまで来なくても、家で会えるんじゃないの?」俊樹は無邪気に言う。
「確かに。」裕也が頷く。「エレベーターとかでバッタリ会ったりするんじゃないの?」
美咲はぎこちなく笑いながら、手元のスプーンをいじった。「うん……まあ、何度かね。」
「え、じゃあさ、待ち伏せでもしてればいいんじゃない?」俊樹が軽い口調で言う。「本当にそこまでして会いたいならさ。」
その言葉に、美咲の心臓が跳ねた。
(……もう、それは何度もやった。)
夜、偶然を装ってマンションのエントランスで由紀を待っていたこと。
朝、出勤する時間を見計らってエレベーターの前で待機していたこと。
けれど、さすがに何度もやりすぎて、由紀に怪しまれそうな気配を感じ始めていた。
(だから、別の方法で会いたかった……。)
美咲は顔を赤らめながら、無理に笑ってみせた。
「そ、そんなストーカーみたいなことしないよ!」
「いやいや、してそうだけど?」俊樹がニヤニヤしながら言う。
「してない!」美咲は反射的に叫ぶ。
「はいはい、言い訳ね。」裕也が面白がるように言う。
「……もう、いいから!」美咲は会話を打ち切るようにスプーンを置いた。
雄太はそれを静かに聞いていたが、ふと「……待ち伏せしても、結局会えるとは限らないしな。」とぼそっと呟いた。
その言葉に、美咲は内心ドキッとする。
(……そう、たとえ待っていたとしても、由紀さんが私に気づいてくれるとは限らない。)
(……だから、ちゃんと理由を作らないといけない。)
そのために、今日は紗英に頼んだのだ。
—— そして、数分後。
「行ってきたよ。」
紗英がゆっくりと席に戻ってくる。
「どうだった?」美咲はすぐに身を乗り出した。
「ふふ、気になる?」紗英はいたずらっぽく笑いながら、ゆっくりと椅子に座る。
「早く言って!」美咲が焦るように促す。
「はいはい。まずね、由紀さん、最初はすごく仕事モードだったよ。『紗英さん、見学に来てたのね。』って感じで。」
「……そ、そう。」
「でもね、『美咲も来てます』って言ったら……」紗英は、わざと間を空けて美咲を焦らす。
「言ったら?」
「ちょっと表情が変わった。」
「え?」
「驚いたっていうか……なんか、一瞬だけ間があった。でも、すぐにまたクールな顔に戻って、『それで?』って聞かれたけど。」
美咲は無意識に息を飲んだ。
(私のこと、気にしてくれた……?)
「で、『美咲が会いたがってますけど、お時間ありますか?』って聞いたら……」
「聞いたら?」
「『今は手が離せない』って。」
—— 胸がぎゅっと締めつけられた。
美咲は、無理に微笑みながら頷いた。
「そっか……忙しいよね、そりゃ。」
自分で頼んでおきながら、答えがわかっていたはずなのに、胸の奥が鈍く痛んだ。
(でも、せめて……)
「美咲?」
紗英の声に、思わず顔を上げる。
「まあ、そうは言っても、由紀さんね……最後にこう言ってたよ。」
美咲はごくりと喉を鳴らした。
「『もし急ぎの用件なら、あとでメールしてくれれば確認する』って。」
「……そっか。」
美咲はスマホを取り出して、画面を見つめる。
通知はない。
だけど、こちらから送れば、返事をくれる可能性はある。
「でもさ……」紗英が、美咲の表情をじっと見つめる。「正直、それってどうなの?」
「……え?」
「由紀さんを落とす計画だったんでしょ?」
その一言に、心が冷や水を浴びせられたような感覚が走る。
(そう、私は……)
「これじゃ、遊ばれてるみたいじゃない……。」
呟いた言葉は、自分のものなのに、どこか遠くで誰かが言っているようだった。
高瀬由紀を落とす。
最初は、それだけのつもりだった。
けれど、今はどうだろう?
待っているのは私のほうで、焦がれているのも私のほうで。
「……悔しい。」
美咲は小さく唇を噛んだ。
由紀の隣で微笑んでいた香織の姿が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
あの穏やかなやりとり、由紀の優しげな表情。
(私が、ほしかったものなのに……。)
隣で見守っていた紗英が、ふっとため息をついた。
「ねえ、美咲。こうなったらさ……」
「……?」
「傷が浅いうちに、身を引かない?」
その言葉に、美咲は目を見開いた。
「……身を引く?」
「うん。見ててわかるよ、美咲……このままだと、もっと苦しくなるだけだよ。」
紗英の声は、驚くほど優しかった。
まるで、これ以上傷つかないようにとそっと抱きしめるような響きだった。
「心配だよ。」
美咲は、何も言えずに俯いた。
(わかってる。紗英が正しいってことくらい。)
これ以上追いかけても、報われる保証なんてない。
むしろ、傷つく未来のほうが簡単に想像できる。
「でも……」
声が震えた。
身を引けたら、どれだけ楽だろう。
気持ちを手放せたら、どれだけ心が軽くなるだろう。
「……そんな簡単に、諦められないよ。」
美咲の声は、ひどくかすれていた。
「そっか。」
紗英は、それ以上何も言わなかった。
ただ、美咲の肩をぽんと軽く叩いた。
「……後悔しないようにね。」
その言葉が、静かに心に染みた。
—
由紀はデスクに座り、パソコンの画面を見つめながら、手元の書類に目を走らせていた。周囲では編集者たちが静かに作業を進めている。
「由紀先輩、お疲れ様です。」
隣の席にいた香織が、コーヒーの入った紙コップを手渡してきた。
「ありがとう。」由紀は受け取りながら、ちらりと香織を見た。
「今日の見学会、多くの大学生たちが来てましたね!」
「そうね。」由紀は淡々と答え、書類の束をめくる。
香織は由紀の横顔を見つめながら、ふと微笑んだ。
「由紀先輩、大学生にモテモテでしたね!視線感じませんでした?」
由紀は思わず笑いそうになったが、口元だけをわずかに緩めた。
「ええ、絶対気づいてましたよね?」香織はじっと探るような視線を送る。
「……意識はしてなかったわ。」
由紀はそう言いながらも、視界の端にあの長い黒髪が揺れていたのを思い出していた。
香織は楽しそうに腕を組み、少しだけ前のめりになる。「でも、由紀先輩ってそういうの、気づいてても気づいてないフリしそうですもんね。」
「さあ、どうかしら。」由紀は曖昧に微笑んで、手元の資料に視線を落とす。
「そういえば、さっき来た大学生の子、紗英さんでしたっけ?」
由紀はその名前を聞いた瞬間、さっきのやりとりを思い出す。
「美咲さんが会いたがっています。」
紗英はそう伝えてきた。
書類の上に置いたペンを、無意識に指で回していたことに気づき、由紀はそっとそれを止める。
「由紀先輩にファンがいるんですね!」
香織が興奮気味に言うと、由紀は軽く笑い、肩をすくめた。
「ファンじゃなくて、友達よ。この間話した子、覚えてる?」
「先輩のことずっと見てた子ですよね?黒髪の?」香織はニヤリと笑う。
由紀はコーヒーに口をつけようとしたが、その言葉を聞いた瞬間、ほんの一瞬だけ動きが止まった。
「……そうだったの?」
「そうですよ!」香織は机に身を乗り出す。
「気づいてたんじゃないんですか?」
由紀は静かに瞬きをし、視線をそらす。
「……無意識だったわ。」
その瞬間——小さな音が響いた。
カチン、と、由紀の指先からペンが滑り落ちる。
重力に逆らえずに落ちたそれは、ゆっくりと机を転がり、床へと転がり落ちていく。
香織はじっと由紀の顔を観察するように微笑む。
「……」
由紀は無言でペンを拾い上げ、書類の端に置いた。
「気のせいよ。」
「いやいやいや、明らかに動揺してたじゃないですか!しかも、そのあとカップを持ち直した時、指先がちょっと震えてたし!」
「……香織。」
「はーい?」
「黙って、仕事しなさい。」
珍しく由紀が頬をほんのり染めながら、書類に視線を落とす。その仕草を見た香織は、思わず口元を押さえて吹き出した。
「えー、なにそれ!やだ、先輩可愛い!」
「可愛くないわ。」
由紀は短くそう返したものの、耳の先が微かに赤い。
「そんなに意識してないなら、会いに行けばいいじゃないですか?」
「……今は手が離せない。」
「仕事だから。」
香織はニヤニヤしながら頷き、楽しそうに椅子に深く座り直した。
「先輩がここまで反応するの、ちょっと新鮮かも。」
「....」
「いつも冷静な由紀先輩が、大学生に、こんなに反応してるんですもん。」
由紀は反論しようとしたが、その言葉が思った以上に核心を突いていて、何も言えなくなった。
「先輩、意外と照れ屋ですよね?」
「……」
由紀は小さく咳払いをしながら、書類に視線を戻した。
由紀はカップをゆっくり置き、落ち着いた表情のまま香織をじっと見つめた。
「……香織。」
「はい?」
「さっきから随分と楽しそうね。」
「そりゃあ、先輩が動揺してるのが面白いんですもん。」
香織はまるで悪戯に成功した子供のように、いたずらっぽい笑顔を浮かべていた。
由紀はふっと小さく笑い、指でペンを転がしながら静かに言った。
「そういえば……この前の飲み会での話、思い出したわ。」
香織の表情が一瞬で固まる。
「ま、まさか……」
由紀は目を細め、じっくりと相手を観察するように言葉を続けた。
「香織、かなり酔ってたわよね?それで、勢いで、"私、実は……" って、みんなの前で言いかけたのに……」
「ストーーップ!!!」
香織は顔を真っ赤にしながら、慌てて由紀の腕を掴む。
「ダメ!それは言っちゃダメ!!」
「え?何の話かしら?」
由紀はわざと、とぼけたような表情を浮かべながら、優雅にカップを持ち上げた。
「ねぇ、続きが気になるんだけど……"私、実は……" 何だったのかしら?」
「ちょっと待ってください、本当にやめてください!!」
「香織が"私、実は....が好きなんです……" って、みんなの前で言いかけて、慌てて口を塞いだ話、言っちゃダメ?」
「ダメ!!」
香織は思わず両手で顔を覆い、机に突っ伏した。
「いやいや、気になるわねぇ。」
由紀は悠々と腕を組みながら、ゆっくりと脚を組み替えた。
「そうそう、確かあの時、田辺くんと山下さんが"え!?何!?香織ちゃん何!?言っちゃえよ!"ってめちゃくちゃ煽ってたわよね?」
「やめてぇ!」
香織は顔を真っ赤にしたまま机に突っ伏す。
「なんでそんなこと覚えてるんですか……!!」
「だって、あんなに顔真っ赤にして必死に誤魔化そうとしてた香織なんて、なかなか見られないもの。」
「もう二度と酔いません……。」
「ほんと?でもこの間も、"先輩の横顔、けっこう好きかも" って酔っ払って呟いてたわよね?」
「それも覚えてたんですか!?」
香織は耳まで真っ赤に染めながら、震える指先で由紀を指差した。
「ほんっとに意地悪!!!」
「あなたが先にからかってきたのが悪いわ」
由紀は涼しい顔でコーヒーを口に運びながら、くすっと笑う。




