第14話「試み」
9月中旬
大学の講義で、小さなレポート課題が出た。テーマは「現代文学における表現技法」。正直、そこまで難しい内容ではない。けれど、美咲にとっては 絶好のチャンス だった。
これを 由紀に近づく口実にする。
スマホを手に取り、由紀の連絡先を開く。指が躊躇する。
美咲は軽く息を吐いて、メッセージを打ち始めた。
美咲: 「由紀さん、こんばんは!突然すみません。今、大学のレポートを書いてるんですけど、文章の構成がイマイチで……もしお時間があれば、少し見てもらえませんか?」
一度、深呼吸をする。
送信ボタンを押すと、数分後に 既読 がついた。
由紀: 「こんばんは。レポートの内容によるけれど、どんなもの?」
美咲は小さく笑った。
(断られなかった。よし……。)
美咲: 「現代文学の表現技法についての簡単なレポートなんです。でも、私の書く文章ってまとまりがなくて……由紀さん、文章を整理するの得意ですよね?」
由紀: 「そんな大したことじゃないよ。でも、いいわ。どこかで時間を作ってみるね。」
その一言に、美咲の胸が高鳴る。
でも、その喜びと同時に、 焦り もあった。
正直、由紀の近くにいると 息が苦しくなる。
――あの静かな瞳。
――低く、落ち着いた声。
――少しでも目が合うと、すぐに逸らしてしまう。
それなのに、その 心が跳ね上がる感覚 に、少しずつ ハマっていく 自分に気付けずにはいられなかった。
由紀と話すたびに、 心臓が痛いほど高鳴る。
けれど、その高鳴りを もう嫌じゃないと思ってしまう 自分がいる。
—
その夜、美咲はマンションのラウンジでリラックスしながら、ふと外の景色を眺めていた。少し肌寒く感じる夜風が窓から入ってくる。どこか心地よい静寂の中、彼女は自然とスマートフォンを手に取り、由紀とのやり取りを思い出していた。
エントランスのドアが開き、そこから出てきたのは 仕事から帰宅する由紀だった。
美咲はすぐに立ち上がり、何気なく エレベーターに向かうふりをした。
「由紀さん!」
美咲はできるだけ自然に声をかけた。
由紀は驚いた様子で、少しだけ足を止めた。美咲の表情を見て、しばらくしてから微笑んだ。
「偶然ですね…」
美咲は心の中で、 内心の動揺を抑えながらさらりと言った。
由紀はその視線を合わせたまま答えた。
「ええ、そうね。大学帰り?」
美咲はほんの少しだけ息を呑み、すぐに自然に答えた。
「いえ、少し外を散歩していただけです。」
少し足を踏み出すと、由紀も歩きながら美咲の話に耳を傾けている。
「そういえば、レポートを添削してもらえる件についてなんですけど、いつ頃空いてますか?」
美咲はその言葉を、まるで何気なく話すように聞こえるように意識して発した。
由紀は少し考える様子を見せ、目を伏せながら言った。
「えーっと、そうね……来週の金曜日とかどう?」
その言葉に、美咲は心の中で 小さなガッツポーズをした。
美咲は笑顔を浮かべて、できるだけ穏やかに言った。
「ありがとうございます!それでは、金曜日に。」
由紀は静かに微笑んだ。
その微笑みに、心の中で美咲は 確かな手ごたえを感じた。
—
約束の日まであと数日。
美咲はクローゼットの前に立ち、ハンガーにかかった服をじっと見つめていた。
「……うーん。」
手に取るたびに「これじゃない」と首をかしげ、また別の服を選ぶ。
今日は由紀さんに会う日じゃない。ただの準備。なのに、こんなにも悩んでしまう。
「少しでも大人っぽく見られたい。」
その一心だった。
手に取ったのは、肩が出るオフショルダーのトップス。ボディラインがうっすら浮かぶ、黒のタイトスカート。
美咲はゆっくりと鏡の前に立ち、そっと髪をかき上げる。
「……どうだろ。」
ゆっくりと髪を指で梳かしながら、鏡の前で軽くポーズをとる。
由紀の反応を想像すると、心臓がドクンと高鳴る。
クールな表情を崩さないあの人が、もし私の服装を見て目を泳がせたら——。
「試してみる価値は、あるよね?」
美咲は、唇をそっとなぞるように指を滑らせた。
由紀の瞳に、少しでも自分を焼きつけるために。
彼女の平静を、ほんの少しでも崩すために。
—
約束当日
大学の講義室。陽射しが窓から差し込み、退屈な教授の声が単調に響く。
美咲はノートを開きながらも、全く集中できずにいた。
あと数時間で由紀さんに会える。
朝から何度も考えた。何を話そう。どんな反応をするだろう。
ふと、隣の席の紗英がこっそり囁く。
「今日の服、いつもより露出多くて可愛いね。」
美咲は少し得意げに微笑む。
「ほんと? 今日は由紀さんにレポート添削してもらうの!」
「はいはい、“落とす計画”ね。」
紗英は呆れたように笑いながら、美咲の肩を軽く小突く。
美咲はちらりと自分の服装に視線を落とした。
いつもより少し大胆に。オフショルダーのトップスは鎖骨を綺麗に見せ、ピタッとしたスカートが大人っぽさを演出している。
「やっぱりちょっと攻めすぎかな?」
「全然ありでしょ。美咲、そういうの似合うし。」
「そう? ならよかった!」
美咲は満足そうに頷いた。
そのやり取りを、前の席に座る雄太が何気なく聞いていた。
「……美咲、今日めっちゃ楽しそうじゃん。」
突然の声に、美咲はハッとして雄太の方を見た。
「え、そうかな?」
「そうだよ。最近、考え込んでること多かったのに、今日はなんかワクワクしてる感じ。」
雄太は振り返り、美咲をじっと見つめる。
「なんかあった?」
美咲は一瞬だけ迷ったが、いたずらっぽく微笑んだ。
「ちょっとね。楽しみな予定があるの。」
「ふーん。」
雄太は意味ありげに唇を噛みながら、美咲をじっと見つめる。
「いいじゃん!楽しめよ。」
—
時計の針が21時を指した頃、美咲は由紀の部屋の前に立っていた。
緊張と高揚感がないまぜになりながら、深呼吸をしてインターホンを押す。
……しかし、応答はなかった。
(あれ?)
少し戸惑いながら、スマホを確認すると、すぐにメールの通知が入る。
由紀:
「美咲さん、仕事が少し長引いてしまいそうで……22時からでもいいかしら?
それか、データを送ってくれればこっちで添削するわ。」
美咲は迷うことなく返信した。
美咲:
「直接アドバイスいただきたいので、お待ちします!」
スマホを握りしめながら、ひとり微笑む。
(このまま帰るなんて選択肢、あるわけないじゃん。)
むしろ、少し遅れるくらいの方がいい。
焦らされる時間が、期待を膨らませる。
由紀は仕事を終えて疲れているはず。そのタイミングで、自分が“待っていた”と知ったら?
少しは、私のことを特別に思ってくれるかもしれない。
美咲はゆっくりと廊下を歩き、マンションのラウンジへ向かった。
22時までの1時間。
ラウンジのソファに腰を下ろしながら、美咲はスマホのカメラを起動した。
鏡のように映し出された自分の姿を、じっと見つめる。
メイクは少し濃いめにして、色っぽさを意識した。
「……うん。」
指で髪を梳かしながら、微かに微笑む。
リップを塗り直し、そっと胸元を直す。
由紀さんが、少しでも「ドキッ」とするように。
思わず、口元が緩む。
22時。
エントランスのドアが開いた瞬間、美咲の鼓動は少しだけ速くなった。
由紀がジャケットを片手に持ち、ゆったりと歩いてくる。
いつも通りの落ち着いた雰囲気。だけど、仕事帰りの疲れが滲むその姿が、妙に色っぽく見えた。
「由紀さん! お疲れ様です。」
美咲は自然な笑顔を作って駆け寄る。
由紀は小さく微笑み、緩やかに髪をかき上げた。
「ああ……待ってくれて、ありがとうね。」
落ち着いた声。
「私の部屋に行きましょう。そこで添削させてもらうわ。」
美咲は頷きながら、少しだけ足を早めた。
エレベーターに乗り込むと、扉が静かに閉まる。
狭い空間に、由紀の香水の残り香がかすかに漂った。
美咲は、意識しないふりをしながら、その香りを吸い込む。
ふと、横に目を向けると、由紀は疲れを隠すように静かに目を閉じていた。
「忙しかったんですか?」
「ええ、まぁ……少しトラブルがあってね。」
「大変でしたね。」
美咲は少しだけ甘えるような声を出してみる。
すると、由紀がちらりと視線を向けた。
「……美咲さん、今日はいつもと雰囲気が違うわね。」
「えっ?」
「服装も、メイクも……少し大人っぽい感じがするわ。」
——気づいてくれた。
「そうですか?」
美咲は無邪気なふりをしながら、わざと肩をすくめた。
「たまには、変えてみたくなるじゃないですか?」
「ふふ、そうね。」
由紀は微笑んだものの、その目は一瞬だけ美咲の胸元を通った……気がした。
エレベーターが到着し、二人は廊下を歩く。
由紀が鍵を取り出し、部屋のドアを開けた。
「どうぞ、入って。」
美咲は、期待と緊張を胸に抱えながら、その空間へと足を踏み入れる。
部屋の中は、整然としていて、心地よい静けさが漂っていた。
由紀の香りが染みついた空間に、美咲の心がさらに高鳴る。
「そこに座ってて。」
由紀はジャケットをソファに置き、髪をかき上げながらキッチンへ向かった。
「紅茶でいいかしら?」
「はい、お願いします。」
紅茶を淹れる由紀の背中を見つめながら、美咲はわざと脚を組み直す。
短めのスカートの裾がわずかに持ち上がる。
けれど——
由紀は特に反応を示さなかった。
ただ、美咲の全身に一度だけ目を通しただけで、それ以上は何も言わない。
由紀はソファに深く腰掛け、美咲のレポートに目を通している。
美咲は、その隣に座りながら、じっと由紀の横顔を盗み見ていた。
指先でページをめくる仕草、時折ペンを持ち上げて思案する表情。
どれも美しく、無意識に見惚れてしまう。
「全体的な内容はいいわ。」
由紀が静かに口を開いた。
「構成も整っているし、論理の流れも悪くない。でも……」
ペンの先で、軽く数か所をなぞる。
「ここ、もう少し具体的に説明できると、説得力が増すと思う。」
美咲は、ペンの動きを追いながら、ゆっくりと頷いた。
「なるほど……」
「それと、ここの表現ね。」
由紀は美咲の書いた文章を指で示しながら、ふっと微笑んだ。
「ちょっと文学的すぎるというか……あなたらしいと言えばそうなんだけど、もう少しシンプルにしたほうが伝わりやすいわ。」
「私らしい、ですか?」
美咲は、その言葉に少しだけ心をくすぐられるような感覚を覚えた。
由紀はクールな顔のまま、軽く肩をすくめる。
「ええ。比喩表現が独特で、どこか詩的なのよね。でも、学術的なレポートには、もう少し端的な表現のほうが向いているわ。」
「つい、そういう言葉を選んじゃうんですよね。」
美咲はカップを手に取り、紅茶を一口含む。
「でも、由紀さんに『私らしい』って言われるの、なんか嬉しいな。」
そう言いながら、わざと視線を合わせる。
由紀は、特に動揺することもなく、淡々と微笑んだ。
「ふふ、そう?」
「はい。」
美咲は少し身を乗り出し、由紀の視線の先へと覗き込むようにする。
「じゃあ、ここはどうしたらいいですか?」
指先が、ほんの少しだけ由紀の手に触れる。
けれど——
由紀は特に気にする素振りもなく、ペン先で別の部分を示した。
「ここの主張を強調するために、前後の流れを少し整理するといいわ。」
美咲は、唇を噛む。
(やっぱり、そう簡単には崩れない……)
由紀の落ち着き払った態度に、わずかに悔しさを感じながらも、それが逆に美咲の興奮を掻き立てる。
(でも、それなら……)
美咲は、もう少しだけ距離を縮めてみようと決めた。
「……さすが由紀さん。文章を整理するの、すごく得意ですね。」
ゆっくりと、甘く転がすように言葉を紡ぐ。
由紀は、ふっと微笑んだ。
「まぁ、仕事柄ね。」
「……由紀さんに教えてもらえて、なんだか得した気分です。」
美咲は視線をそらさずに言う。
けれど、由紀は変わらず、穏やかな笑みを浮かべたままだった。
「とりあえず、添削はこれで終わりかしら。あとは修正して仕上げれば、十分いいものになるわよ。」
「……ありがとうございます。」
美咲は、礼を言った。
由紀はやはり、揺るがない。
でも、それが……たまらなく面白い。
美咲は、由紀の部屋の本棚にふと目を向けた。
壁一面に並ぶ本の数々。整然と並べられた背表紙は、専門書や文学作品が大半を占めている。
「難しそうな書籍ばかりですね。」
美咲は軽く指で背表紙をなぞりながら言った。
由紀は美咲の視線を追い、微笑む。
「そうね。仕事柄、読むものが偏りがちだけど……でも、読みやすい小説とかも好きよ。」
「へえ……例えば?」
美咲は興味津々で、本棚を見渡した。
そんな彼女の様子に、由紀はふと考える素振りを見せた後、すっと一本の本を取り出した。
「これはどう?」
美咲は本の表紙を見つめた。
「……あ、この本……!」
「知ってる?」
「はい、少しだけ読んだことがあります。でも、途中でやめちゃって……。」
由紀は微笑む。
「そう。これは静かで淡々としてるけれど、心の奥に響く物語なの。言葉の選び方も美しいし、余韻が残る。」
「由紀さんらしいですね。」
美咲は本を手に取りながら、そっと由紀を見つめた。
「私らしい?」
「うん。なんか、落ち着いてるのに、どこか寂しさがあるっていうか……。」
由紀は一瞬だけ視線を逸らし、穏やかに微笑んだ。
「……ふふ、面白いわね。」
美咲は由紀の微かな反応を見逃さなかった。
もっと知りたい。
この人の過去、そして本当の気持ち。
「由紀さん、この本、貸してくれませんか?」
由紀は少し驚いたように美咲を見たが、すぐに優しく微笑んだ。
「いいわよ。でも、ちゃんと最後まで読んでね。」
「もちろんです!」
時計を見ると、すでに23時が近い。流れる時間に気づいた美咲は、ようやく立ち上がり、帰る準備を始めた。心の中では、もっとこの空間にいたいという気持ちと、もう帰らなければならないという現実の間で揺れ動いていた。
美咲は立ち上がり、身支度を整える。その一歩一歩が、どこか名残惜しげに感じられた。帰りたくない、ここにいたい。けれど、やっぱり帰らなければならない。美咲の心は複雑で、胸の奥が少し締めつけられた。
その時、由紀がゆっくりと顔を向けた。静かな眼差しが、美咲の心に直接触れるような気がして、思わず胸が高鳴る。
「また、来てもいいですか?」美咲は少し震える声で、心からその言葉を口にした。気づけば、頭の中でその言葉を繰り返していた。また、会いたい。その気持ちが溢れてしまう。
由紀は静かに笑い、答えた。「ええ、先に言ってもらえたら、時間がある時教えるわ。」
その言葉に、美咲の胸は温かく満たされるような感覚に包まれた。こんな些細な一言で、こんなにも心が揺れるなんて。思わず唇が緩んだ。
「ありがとうございます!」美咲は、笑顔で答え、心の中で何度もその言葉を繰り返した。




