第12話「花火の夜」
八月も半ばを迎え、気温はさらに上昇し、街はすっかり夏祭りの雰囲気に包まれていた。昼間の蝉の鳴き声が耳に響き、夜になれば遠くで花火の音が聞こえてくる。
しかし、美咲はずっと家にこもっていた。カーテンを閉め切った部屋の中で、ただ時間だけが過ぎていく。食事も適当で、何かをする気力も湧かない。ただ、無機質な天井を見つめたり、窓から外の景色をぼんやりと眺めたりするだけだった。
ふと、スマートフォンが震えた。
手を伸ばして画面を見ると、グループチャットの通知が届いていた。
俊樹:「来週、みんなで花火大会行かね?」
紗英:「いいね!行こ行こ!」
裕也や雄太も、それに続いて「楽しそう!」とメッセージを送っていた。
美咲は、しばらく画面を見つめたまま動かなかった。
みんなが花火大会を楽しみにしているのは分かる。夏の夜空に広がる花火を見上げながら、笑い合うのはきっと楽しいだろう。
だけど、今はそんな気分になれなかった。
由紀のことを忘れようとしても、ふとした瞬間に思い出してしまう。彼女の隣には、あの男性がいるのだろうか。もし一緒に花火を見上げていたら――そんな想像をするだけで、胸の奥がチクリと痛んだ。
美咲はメッセージの返信をせず、スマホをそっと伏せた。
――今は、誰にも会いたくない。
心が落ち着くまでは、しばらく一人でいたかった。
夜になり、部屋の静寂を破るようにスマートフォンが鳴った。
画面を見ると、紗英からの着信だった。
美咲は一瞬、出るかどうか迷ったが、結局スライドして通話を繋げた。
「もしもし?」
「美咲! 花火大会、一緒に行かない?」
紗英の声は明るく、弾んでいた。
「うーん……あまり気が乗らないかも……」
ベッドに横たわりながら、美咲は正直に答えた。外に出る気力はまだ戻らないし、人混みの中で楽しそうにしている自信もない。
けれど、紗英は簡単に引き下がらなかった。
「そっか....でも、 みんなで行ったら絶対楽しいよ!」
「……でも……」
「美咲の浴衣姿、みんな見たらびっくりするんじゃない?」
「えっ?」
「せっかくの夏なんだから、可愛い浴衣を着て楽しもうよ! 」
紗英の無邪気な声に、美咲はため息をついた。
こんなふうに強引に誘われると、断る理由が見つからなくなってしまう。
「……わかったよ」
「やった! じゃあ、可愛い浴衣選びに行こうね!」
紗英の嬉しそうな声を聞きながら、美咲は小さく「うん」と返した。
――気は乗らない。でも、紗英の押しには敵わなかった。
それに、もしかしたら少しは気が紛れるかもしれない。
美咲はそう思いながら、スマホをそっと置いた。
翌日、紗英と待ち合わせた美咲は、少し気だるい気持ちのままショッピングモールへと向かった。
「美咲、こっちこっち!」
紗英はすでに浴衣の売り場にいて、いくつかの浴衣を手に取りながら美咲を待っていた。カラフルな浴衣がずらりと並ぶ店内は、夏祭りの雰囲気を感じさせ、どこか懐かしさを誘う。
「美咲には、こういうのどう?」
紗英が選んだのは、淡い水色に白いアサガオが描かれた浴衣だった。
「爽やかで涼しげな感じで、絶対似合うと思う!」
美咲は浴衣を手に取りながら、鏡に映る自分の姿を想像する。普段はモノトーンの服が多いせいか、こうした華やかな色合いのものを着るのは少し照れくさい。
「うん、かわいいけど、私、こんなの着ても大丈夫かな」
「大丈夫に決まってる! ほら、試着してみて!」
紗英に背中を押されるように試着室へ向かい、浴衣に袖を通した。
鏡の前に立つと、いつもの自分とは違う、どこか儚げな雰囲気の少女がそこにいた。
――もし、由紀さんがこの姿を見たら、何て言うだろう?
そんな考えが一瞬よぎるが、美咲はすぐにかぶりを振った。
「どう?似合ってる?」
カーテンを開けると、紗英が目を輝かせて頷いた。
「すっごく似合ってる! やっぱり水色、正解だったね!」
「ありがとう!」
美咲は小さく微笑んだ。気持ちはまだ重いままだったが、少しだけ胸の奥に温かいものを感じる。
「じゃあ、これにしよっか!」
紗英の楽しそうな声に、美咲はこくりと頷いた。
こうして、花火大会の準備は整った。
花火大会当日
夕暮れの空が橙色に染まり、街は祭りの熱気に包まれていた。遠くから響く太鼓の音、屋台の焼きそばやかき氷の甘い香り、浴衣姿の人々の笑い声があちこちに溢れている。
美咲は指定された待ち合わせ場所に着くと、すでに何人かの姿が見えた。
「おー! みんな浴衣じゃん! いいね!」
俊樹が楽しげな声を上げる。彼は紺色の甚平姿で、どこか大人っぽく見えた。隣には裕也がいて、白地に細かい柄が入った浴衣を着ている。
「美咲、めっちゃ似合ってるじゃん!」
裕也が軽くウインクしながら言うと、美咲はぱっと笑顔を作って、浴衣の裾をふわりと持ち上げた。
「でしょ? せっかくだから、今日はお祭りモード全開で楽しむよ!」
「お、いいねぇ!」
「紗英も綺麗だな!」
俊樹が軽く口笛を吹くと、紗英は「まあね!」と冗談めかしてウインクした。彼女の藤色の浴衣が街灯の光に優しく揺れる。
「美咲、ほんとに似合ってるよ。」
そう言ってくれたのは、雄太だった。彼は深い藍色の浴衣を着ていて、普段よりも落ち着いた雰囲気を醸し出している。
「ありがとう! 雄太も、なかなか渋いじゃん!」
美咲はわざと軽く肘で突きながら笑った。少しでもいつも通りの自分を演じるために。
今日は楽しむと決めたのだから。
「よーし、屋台行こう! まずは焼きそば! いや、たこ焼き? どっちにしようかなー!」
美咲は元気よく言いながら、祭りの人混みの中へと飛び込んでいった。
俊樹と裕也が「なんだよ、めっちゃノリノリじゃん!」と笑いながら後を追い、紗英と雄太も微笑ましそうに歩き出す。
でも――。
賑やかな夜の灯りの中で、美咲の胸の奥には、どうしても消えない違和感があった。
もし、由紀さんが私の浴衣姿を見たら、どんな顔をするんだろう。
そんな考えが浮かび、すぐにかき消す。
「ねぇ、どっちにする? 焼きそば? たこ焼き? それともかき氷先に行っちゃう?」
軽やかな声を出しながら、屋台の煌めく光の中を進んでいく。
「おいおい、美咲、いきなりフルスロットルじゃねぇか!」
裕也が笑いながら言うと、美咲はくるりと振り返り、にっと笑った。
「せっかく来たんだから!」
「いいねぇ、そのノリ!」
俊樹も楽しそうに肩を組んでくる。
「でもさ、最初はやっぱり焼きそばじゃない? お祭りと言えば!」
「うんうん、わかる! 鉄板でジュージュー焼かれる香り、最高だよね!」
美咲は大げさに胸の前で手を組み、食いしん坊キャラを演じてみせた。
「よし、じゃあ焼きそば行くか!」
そんなやり取りをしながら、美咲たちは屋台の列へと並んだ。
笑顔を作るのは簡単。でも、心の奥に渦巻く何かは消えてくれなかった。
屋台の赤ちょうちんの光が揺れ、漂うソースの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。周りの人々が楽しそうに浴衣姿で歩く中、美咲はふと、自分の手のひらを見た。
今、由紀さんはどこで何をしてるんだろう?
そんなことを考えてはいけないのに、心は勝手に彼女を探してしまう。
「はい、美咲。」
ふと差し出された焼きそばのパック。顔を上げると、雄太が何気なく美咲の分を買ってくれていた。
「あ、ありがとう!」
慌てて受け取ると、彼は小さく微笑んだ。
「美咲、さっきからテンション高いけど……大丈夫?無理してない?」
無理なんか、してない。……してないはず。
「えー? 何それ、せっかく楽しんでるのに、水差さないでよー!」
美咲は軽く笑って誤魔化しながら、焼きそばを一口頬張った。熱々のソースが舌に広がる。
でも、不思議と味がよく分からなかった。
遠くで、花火の打ち上がる音がした。
夏の夜空に、大きな光が咲く。
みんなが「おぉー!」と歓声を上げる。美咲も一緒に笑顔を作り、夜空を見上げた。
でも、その瞳の奥では、ひとつの願いがくすぶっていた。
由紀さんも、今この空を見ているのかな。
花火の光に照らされた美咲の横顔は、どこか切なげだった。
夏の夜空に、大輪の花が咲く
どんっ、と空を震わせる音が響き、暗闇に鮮やかな光が散る。その一瞬の輝きが、美咲の浴衣の袖を淡く照らた。
「すごいね……!」
紗英や俊樹たちが歓声を上げる。美咲も笑顔を浮かべ、楽しげに振る舞う。けれど、心の奥にはずっと重たく沈む何かがあった。
その違和感を、彼は見逃さなかった。
「美咲、少し歩かないか?」
ふと耳元で囁かれる。
「え?」
隣にいた雄太が、穏やかな微笑みを浮かべながら、美咲を見つめていた。
「人が多すぎるだろう? ちょっと静かなところで休もう。」
気遣うような、落ち着いた声色。
「でも……」
「すぐ戻るさ。」
彼は静かに、美咲の手首に触れた。決して強引ではない、けれど拒めない誘いだった。
まるで導かれるように。
気づけば、美咲は彼に手を引かれ、花火大会の喧騒から離れた小道を歩いていた。
人混みを抜けると、川沿いの静かな小道に出た。
遠くで響く花火の音と、微かに流れる夜風の音だけが、二人の周囲を包んでいる。
「ここなら、ゆっくりできる。」
雄太はそう言って、堤防のコンクリートに腰を下ろした。
「美咲も座りなよ。」
美咲は少し迷ったが、彼の隣にそっと腰を下ろした。
夜風が、少し火照った頬を優しく撫でていく。
「…楽しいか?」
ふと、雄太が問いかける。
「え?」
「今日のことだよ。」
「もちろん、楽しいよ!」
美咲は反射的に微笑む。
しかし、雄太の視線は優しく、そして鋭かった。
「嘘だな。」
「……え?」
「美咲、今日ずっと無理をしている。」
彼はまるで、美咲の心の奥を覗き込むように見つめていた。
そのまなざしに、美咲は息を詰まらせる。
「そんなこと……」
「あるさ。」
彼は静かに微笑んだ。
「君が何を抱えているのかは分からない。だけど、俺には分かるんだ。君が心から楽しんでいないことくらいは。」
言葉を詰まらせる美咲の横で、雄太はゆっくりとコンビニの袋からラムネの瓶を取り出した。
「ほら、冷たいだろう?」
美咲の手にそっと押し当てられる。瓶越しに伝わる冷たさが、少しだけ現実に引き戻してくれるようだった。
「……ありがとう。」
「遠慮しなくていいさ。」
栓を軽く押し、美咲の方に向けてそっと瓶を傾ける。
「乾杯しよう。」
「……ふふっ。」
美咲は思わず笑みをこぼした。
彼の優しさは、まるで寄り添うような温もりを持っていた。
二人はラムネの瓶を軽く合わせ、それぞれ口をつける。
シュワシュワとした炭酸が喉を滑り、ひんやりとした甘さが胸の奥の重たさを少しだけ和らげた。
「……今日は、ありがとう。」
美咲が呟くと、雄太は柔らかく微笑みながら空を見上げた。
夜空には、まだ花火が咲いている。
けれど、美咲が見ていたのは、彼の横顔だった。
どこか優しくて、でも触れたら壊れてしまいそうな儚さを持つ、その横顔を。
「……そろそろ戻ろうか。」
雄太がゆっくりと立ち上がり、美咲に手を差し出した。
「うん。」
美咲はその手を取り、立ち上がる。彼の手は大きくて温かく、握られた瞬間に胸の奥がチクリと疼いた。
――どうして、こんなに優しいんだろう。
少しだけ名残惜しく思いながらも、二人は人混みの方へと歩き出した。
再び祭りの賑わいが戻ってくる。屋台の提灯が揺れ、浴衣姿の人々が笑いながら歩いていた。
「おーい! 遅かったじゃん!」
俊樹の声が聞こえ、視線を向けると、紗英や裕也と一緒に待っていた。
「どこ行ってたの?」
紗英が少し意味深な視線を送りながら、美咲と雄太を見つめる。
「ちょっと人混みを避けてたんだよ。」
雄太が軽く笑って答えると、俊樹がニヤリと笑った。
「ほーん? 二人で抜け駆けしてイイ感じだったんじゃないの?」
「うるさい、バカ。」
雄太が軽く俊樹の肩を小突く。
「いいじゃんいいじゃん、夏の夜って感じ!」
裕也が楽しげに言い、紗英も笑って頷いた。
「せっかくだし、最後にみんなで写真撮ろうよ!」
「お、それいいな!」
俊樹がスマホを取り出し、カメラを起動する。
「じゃあ、撮るよー! みんな並んで!」
それぞれが思い思いのポーズをとり、カメラの前に集まる。
「美咲、もうちょっとこっち寄れよ。」
雄太が美咲の肩をそっと引き寄せる。その動きに美咲は一瞬戸惑ったが、自然と彼の隣に収まった。
「はいはい、いくよー! 3、2、1……!」
カシャッ
画面の中には、浴衣姿の五人が笑顔で並ぶ姿が映し出されていた。
美咲も、作り笑顔ではなく、自然と微笑んでいた。
「よし、今日はここで解散するか!」
俊樹が手を伸ばして大きく伸びをする。
「楽しかったね!」
紗英が嬉しそうに言い、裕也も頷く。
「またみんなで遊ぼうぜ!」
「もちろん!」
それぞれが別々の道へと歩き出す。
美咲は、ふとスマホを開き、さっき撮った写真を見つめた。
笑顔の自分。
「……うん、またみんなで遊ぼう。」
—
遠くに響く花火の音は、もう終わりに近づいていた。
夜の街を歩く二人。由紀と、かつての恋人、匠。
「この前の展示会、よかったな。」
匠がポケットに手を入れながら、ふと口を開く。
「お前が関わった詩集、やっぱり印象に残ったよ。昔から言葉を大事にするやつだったけど、編集者になってより磨きがかかったんじゃないか?」
「そうかしら。」
由紀は微笑みを浮かべる。
「詩は書き手の内面がそのまま反映されるものよ。私たち編集者は、その意図を尊重しながら形にするだけ。」
「お前らしいな。」
匠はくすっと笑った。
「何が?」
「自分の仕事に誇りを持ってるくせに、それを大げさに語ることはない。」
「誇りは心の中にあれば十分よ。」
由紀の言葉に、匠はどこか懐かしそうな表情を浮かべる。
5年前。
お互いに愛情はあった。けれど、匠は言葉で愛を伝え、深く踏み込むことを望むタイプだった。
対して由紀は、言葉にするよりも、静かに寄り添うことを好んだ。
価値観の違い。それだけだった。
それだけだったのに――結局、埋まることはなかった。
「そういえばさ。」
匠がスマホを取り出しながら言う。
「さっき花火が上がってたんだ。見た?」
「ええ、綺麗だったわね。」
由紀は夜空を仰ぐ。
花火の残像が、まだ瞼の裏に焼き付いている気がする。
「花火って、儚いわよね」由紀は言った。
「……確かに。」
匠は彼女の横顔をじっと見つめる。
「でも、それがいいんじゃないのか? 一瞬だからこそ、惹かれるものがある。」
「……そうね。」
由紀は微笑む。
スマホを取り出し、何気なくインスタを開く。
ストーリーには、見慣れた名前が並んでいた。
美咲。
浴衣姿で、楽しそうに笑っている。
俊樹や裕也とふざけ合いながら、グループで写真を撮っている。
彼女の隣には、雄太の姿があった。
自然な距離感。優しく寄り添う姿。
由紀は指を止めたまま、しばらく画面を見つめる。
そして――
何も言わずにスマホを閉じた。
ただ、静かに微笑む。
「ん? 何か気になるのあった?」
匠が覗き込もうとするのを避けるように、由紀はスマホをバッグにしまう。
「いいえ、何でもないわ。」
「そっか。」
二人は再び歩き出す。
「由紀、好きな人はまだいないのか?」
ふいに、匠が尋ねる。
「いないね。」
由紀は静かに答える。
「由紀。」
ふいに、匠が足を止める。
「……?」
由紀が顔を上げると、匠は迷いのない目で彼女を見つめていた。
「もう一度だけ、確かめさせてくれないか。」
「……」
次の瞬間、匠の手がそっと彼女の頬を包んだ。
そして、ゆっくりと顔を近づけ――
唇が重なる。
由紀の瞳がわずかに揺れる。
匠の唇は、強引すぎず、しかし迷いのない確かな温度を持っていた。
5年ぶりのキス。
懐かしさと、戸惑いと、心の奥で疼く何か。
由紀は、一瞬だけ身を引こうとした。
だが、匠は彼女の腰を抱き寄せ、深く、ゆっくりと唇を重ね直す。
「……っ」
由紀の身体が、わずかに震える。
彼の指先が、そっと彼女の首筋を撫でる。
由紀の呼吸が、少しだけ乱れる。
「やっぱり、ここ……弱いままだな。」
匠が低く囁き、甘く唇を這わせる。
背筋を駆け上がる、微かな快感。
「……っ、やめなさい……」
由紀は彼を押し返そうとするが、その動きはあまりにも弱い。
「本当に、やめてほしい?」
匠の声は、どこか楽しそうで、しかし真剣だった。
由紀は、答えられなかった。
部屋に戻ったのは、自然な流れだった。
玄関を閉め、ヒールを脱ぐ。
「……ワイン、開ける?」
由紀が振り向くと、匠は微笑みながら言った。
「いいや、今はお前の方が飲みたい。」
「……?」
由紀が問いかける間もなく、匠は彼女の腰を引き寄せ、再び唇を重ねた。
熱を帯びたキス。
指先が背中をなぞり、肌に触れた瞬間、由紀はわずかに息を詰まらせる。
そのまま、匠は彼女の肩を押し、ゆっくりとベッドへと倒した。
「……匠……」
彼の手が、首筋を優しく撫でる。
「昔を思い出させてやるよ。」
囁く声が、耳元をくすぐる。
由紀の指が、シーツを握る。
このまま流されてしまえば、楽かもしれない。
だが――
「……やっぱり、やめよう....こんなこと。」
由紀は、そっと彼の胸を押し返した。
匠の動きが止まる。
「……どうして?」
彼の声は、落ち着いていたが、わずかに戸惑いが滲んでいた。
由紀は静かに目を閉じ、ゆっくりと息を整えた。
「あなたを嫌いになったわけじゃない。でも……私は、あなたのそばにいる資格がないのよ。」
匠の眉が険しく寄る。
「資格……? そんなの関係ないだろ?」
「いいえ、関係あるわ。」
由紀は微笑みながら、そっと視線を落とした。
「私は、あなたを上手に愛せなかった。あなたが手を伸ばしてくれても、私はそれを握り返せなかった。抱きしめてくれても、どこかで身を引いていた。」
匠の目に、ほんの一瞬、苦しげな色が滲む。
「5年前、それが理由で私たちは終わったの。あなたは愛してくれたのに、私はそれに応えられなかった。あの頃の私は、自分が傷つかないことばかり考えていた。愛しているのに、心の奥ではずっと距離をとっていたのよ。」
由紀の指が、自分の手のひらをぎゅっと握る。
「そして今も、変わっていないの。」
「だったら変わればいいだろう!」
匠の低く震える声が、由紀の言葉を遮った。
彼の瞳には、抑えきれない激情が揺れていた。
「変われない、なんて勝手に決めるなよ! 俺は5年前、お前に振られたとき、ずっと後悔したんだ。もっと待てばよかったのか、もっと踏み込めばよかったのかって。だけど……由紀、お前もまだ俺を完全に手放せてないんじゃないのか?」
由紀はぎゅっと唇を噛みしめる。
「そんなこと……ないわ。」
「嘘だ。」
匠がぐっと距離を詰める。
「さっき、お前、俺のキスを拒めなかったよな。」
「……っ」
「お前が俺を完全に忘れたなら、こんなふうに揺れたりしないはずだろう? 俺を押し返せるはずだろう? だけど、お前は今、俺の前でこんなにも揺れてる。」
匠の手がそっと由紀の頬を包む。
「過去がどうだったかなんて、もうどうでもいい。お前が傷ついたなら、もう傷つけないようにする。俺が支える。お前が誰かを傷つけるのが怖いなら、俺がお前の全部を受け止める。」
「……」
由紀の目が揺れる。
「お前は、俺が愛してきた由紀なんだよ。何年経っても、お前がどれだけ傷ついてても、俺が好きになったのは、こうやって気丈に振る舞って、でも本当は不器用で、自分の気持ちを閉じ込めてしまう由紀なんだ。」
「……匠……」
「だから、頼むからもう一度だけ、俺を信じてくれよ。」
由紀の胸が痛かった。
喉の奥が詰まる。胸が締めつけられる。
この人は、こんなにも真っ直ぐに、変わらず自分を求めてくれている。
だけど――
「……ごめんなさい。」
由紀の声は、震えていた。
匠の表情が固まる。
「私は、今、一人でいる方が楽なの。」
由紀はゆっくりと瞳を閉じ、震えるまぶたを押し殺しながら続けた。
「もう、過去のように傷つくのは嫌なの。あの痛みをもう二度と知りたくない。愛することも、愛されることも私には怖いのよ!」
「由紀……」
「あなたの気持ちは、伝わったわ。でも、私は……あなたがどれだけ愛してくれても、やっぱり、心の奥では距離をとってしまう。私が変わらなければ、また同じことを繰り返すだけよ。」
匠は拳をぎゅっと握りしめた。
「俺は、お前がそんなふうに自分を閉じ込めたままでいいとは思えない。だけど……今のお前には、何を言っても届かないんだろうな。」
彼の声が、静かに落ちる。
「ごめんなさい……」
由紀の瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
匠が、驚いたように目を見開く。
由紀は、涙なんて見せない女だった。いつだって強がり、感情を押し殺してきた。
「……由紀。」
匠は、何も言わずに彼女を抱きしめた。
震える肩をそっと包み込み、ただ静かに、愛おしむように抱きしめる。
「……今日はもう帰るよ。」
絞り出すような声だった。
「……ありがとう、匠。」
由紀は、彼の胸に顔をうずめたまま、小さく呟いた。
「何が?」
「今でも、私を大切に思ってくれて。」
「……当たり前だろ。」
匠は、名残惜しそうに由紀の髪を撫でると、そっと彼女を離した。
最後にもう一度、彼女の瞳を見つめる。
「……じゃあな。」
そして、静かに部屋を後にした。
—
静かになった部屋。
由紀は、ベッドに座りながら、そっと自分の唇に触れた。
余韻が、まだ残っている。
窓の外には、花火の残り香が、かすかに漂っている気がした。
由紀は、ゆっくりと目を閉じた。
そして、深く息を吐いた。
過去は、美しいままでいい。




