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第10話「新たな予感」

7月末

大学の期末試験が終わり、美咲は久しぶりに開放感を味わっていた。長い間、教科書とノートに縛られた日々。カフェテリアでの仲間との勉強会、深夜まで続いた暗記作業――すべてがようやく終わりを迎えた。

 窓の外には夏の夜風が流れ込み、都会の空にはネオンが揺れている。静かな部屋の中、美咲はベッドに寝転びながらスマートフォンの画面を眺めていた。

 「夏休み、どうしようかな」

 旅行? それとも新しい趣味を見つける? しかし、思考は自然と俊樹へと向かった。

 「俊樹って、あんな風に本音を話せるんだ……」

 先日、彼が見せた繊細な一面。普段の彼とは違う、不安定で、どこか儚げな姿。それがなぜか美咲の心に引っかかっていた。彼のことをもっと知りたい、理解したい。

 由紀の言葉がふと頭をよぎる。

 「無理に変えようとしなくてもいい。ただ、彼が動き出すときにそばにいてあげればいい。」

 美咲は小さく息を吐いた。

 「そばにいる、か……」

 だけど、今はそんなことを考えたくない。今日は、自分のための時間にしよう。長い試験期間を乗り越えた自分に、ちょっとしたご褒美を。

 ふと、クローゼットを開けると、目に入ったのは黒のタイトワンピース。肩を大胆に露出したデザインで、裾は膝上までの短さ。柔らかく伸びる生地が、体のラインをさりげなく強調する。

 「これ、いつ以来着てないんだろう……」

 美咲はワンピースをそっと取り出し、着替える。鏡の前に立つと、見慣れない自分がそこに映っていた。

 試験勉強に追われていた間、すっかり忘れていた感覚。視線を動かし、長い黒髪を手櫛で整える。

 リップをひと塗り。少し強めの赤。

 「よし、似合ってる。」

 小さなカバンにスマートフォン、財布、リップを入れると、美咲は部屋を出た。

 マンションのエントランスに出ると、熱を帯びた夜の空気が頬を撫でた。まだ街は眠っていない。遠くから、車のエンジン音と人々のざわめきが微かに聞こえる。

 手を挙げてタクシーを捕まえると、黒塗りの車が滑るように目の前に停まった。ドアが開くと、美咲はすっと乗り込む。

 「どちらまで?」

 運転手の低い声。

 美咲はスマートフォンを見つめながら、少し迷った後、唇を開いた。

 「渋谷までお願いします。」

 車が静かに動き出す。

 窓の外に流れる街の灯り。ガラスに映る自分の姿を見つめながら、美咲は深く息を吸い込んだ。

 今日は、すべてを曝け出す夜。

その晩、仕事を終えた由紀は、後輩の香織との飲みの約束を楽しみにしながら、少しだけ気を引き締めて居酒屋へと向かっていた。

居酒屋に着くと、香織がすでに先に到着していた。「由紀先輩!待ってました!」香織は元気よく手を振りながら迎えてくれる。

「ごめん、少し遅れちゃったね。」由紀はにっこり笑って席に着いた。「今日はゆっくり楽しもう。」

二人はメニューを開きながら、何を頼もうかと悩んでいた。香織は何かおかしなことを思いついたようで、急に顔を輝かせて言った。「由紀先輩、今度やってみたいことがあるんです!」

「やってみたいこと?」由紀は軽く驚きながらも、興味を持って香織に目を向けた。

「占いです!」香織は真剣な顔で言った。「占い師に今、私たちの未来を見てもらいたいんです!」

由紀はその突然の提案に少し目を丸くしたが、すぐに冷静に言った。「香織、占いって…私、あんまり信じてないけど。」

「大丈夫、由紀先輩も楽しめるはずです!」香織は目を輝かせながら言った。「今日は占い師が当たると言ってた日だから、行きましょうよ!」

由紀はしばらく考えた後、少し微笑んで言った。「占いか…まぁ、面白そうだね。でも、私、どうせ『あなたの未来は明るい』とか言われるタイプだから。」

「じゃあ、行きましょう!」香織は勢いよく立ち上がり、すぐにスマホで占い師の情報を調べ始めた。

由紀は少し呆れたように見守りながらも、「じゃあ、行くって決めたからには、楽しむか」と言って席を立つ準備をした。

占い師のところに到着すると、そこはなかなか怪しげな雰囲気を持つ小さな占いの店だった。占い師は真剣な顔で二人を迎え入れ、「どんなことをお聞きになりたいですか?」と尋ねてきた。

香織はすぐに答えた。「私と由紀先輩の未来について見てください!特に恋愛運を!」と、まるで決まったセリフのように言った。

由紀は目を丸くして香織を見た。「香織、ちょっと待って、私は恋愛運なんて…。」

占い師は二人をじっと見つめながら、カードを切り始めた。「なるほど…あなた方の未来、特に今後の人間関係に重要な転機が訪れます。」

香織は興奮した様子で、「ね、言ったでしょ!すごい!由紀先輩も、これから何か素敵なことが起きるんですね!」と、大きな声で言う。

由紀は少し照れながらも、「まぁ、占いだし、そんなに期待しすぎないで。」と言いつつも心の中では少しドキドキしていた。そんな由紀を見て香織はニヤニヤしている。

「由紀さんの未来には、心の中に未解決の問題があるようですね。」占い師が言うと、二人は一瞬固まった。占い師はカードを見つめながら、静かに続ける。「そして、未来に大きな選択が待っています。誰かとの関係を深めることになるかもしれません。」

由紀は急に気になってきた。「選択?どんな選択?」

占い師はカードを切りながら、「それはあなたがしっかりと向き合うべき課題です。でも、恋愛に関することも…」と言い、にやりと笑った。

香織は完全に興奮して「え、恋愛!?」と大声で聞き返す。

由紀はその反応に苦笑しつつ、「香織、落ち着いてね」と言いながらも、心の中で少しワクワクしていた。占い師の言葉に少し期待を感じていたからだ。

占いが終わると、香織は満足そうに、「未来が楽しみです!由紀先輩、これから何が起こるんでしょうね!」とニヤニヤしていた。

由紀は少し照れながらも、「香織の未来は大丈夫だと思うよ。でも、私はそんなに大きな変化はないはずだし....」と話した。

由紀は香織との楽しい飲みの後、家に帰ってきた。リビングに入ると、静かな部屋が迎えてくれた。仕事の疲れもあり、少しぼんやりとしていたが、占いの言葉が何度も頭の中でリフレインしていた。

「あなたの未来には、大きな選択が待っています。誰かとの関係を深めることになるかもしれません。」占い師の言葉が頭の中で繰り返される。あまり真剣に受け止めていないはずだったが、どうしてもその言葉が引っかかっている。

由紀はソファに座り込み、深く息をついた。占い師が言っていた言葉が、どうしても気になる。香織にはあんなに冷静に答えたけれど、心の中ではその言葉が何かを意味しているように感じていた。

「気にしすぎね…」由紀は自嘲気味に呟く。だが、何かが心の中でひっかかっている。このままその気持ちを放っておくのが正しいのか、占いが言ったように何かが起こるべきなのか、よくわからない。

一方で美咲の方は渋谷のクラブで音楽に合わせて体を揺らしていると、突然、誰かに肩を叩かれた。振り返ると、見知らぬ男性がにっこりと微笑んで立っていた。

「一緒に踊らないか?」その男性は楽しそうに言った。

美咲は少し驚いたが、酔っているせいか、それに流されるまま手を取られて一緒に踊り始めた。最初は軽い会話を交わしながら、楽しく過ごしていた。しかし、徐々に男性は彼女に近づき、意識的に距離を縮めてきた。

「あ、ちょっと……」美咲は無理に笑って言った。「そろそろ別の場所に行こうか?」

だがその男性は、彼女の言葉を無視するように、さらに身体を寄せてきた。彼女は少しだけ不安を覚えた。何となく、楽しさが薄れていく。音楽が大きく鳴り響き、クラブの入り口を出ると、外の空気が冷たく感じられた。

「どうしたんだ?少し歩こうぜ?」その男性はにやりと笑い、手を引っ張りながら歩き出した。

美咲はその手を少し強く振り払おうとしたが、男性の力は強く、冷たく感じた。だんだんと、彼女はその男性の態度に疑念を抱き始めていた。

「やっぱり、ちょっと帰ろうかな。」美咲は少し声を震わせながら言った。

しかし、男性はその言葉を無視して、さらに強引に歩き続けた。「どこ行くんだよ、今日はお前と一緒に遊ぶんだよ。」その声に含まれる威圧的な響きに、徐々に美咲は恐怖を感じ始めた。

周囲の街灯が薄暗く、道がどんどんと静かになっていく。心の中で警戒感が高まり、足音が怖くて、息が苦しくなった。

「ねえ、ちょっと……」美咲はもう一度強く言ったが、男性は無言でその腕を引き寄せ、腕を強く握り締めた。

その瞬間、恐怖が美咲を包み込んだ。彼女の心拍数は急に上がり、手のひらは汗でぬるぬるしていた。

「やばい、逃げなきゃ!」

美咲は思わずその場から逃げ出した。走りながら、脳内で必死に次の行動を考えるが、酔っているせいで頭がうまく働かなかった。辺りは暗く、タクシーはどこにも見当たらず、歩く人の影も見当たらない。息が荒くなり、足がもつれ、もう目の前の男性が迫ってくるような気がして、ただただ逃げることしか考えられなかった。

「お願い、助けて……」

彼女はもう、逃げる場所もわからず、ただ必死に足を動かし続けた。暗い路地に逃げ込むと、心が少しだけ落ち着く。涙が頬を伝いながら、震えた手で携帯電話を取り出す。指が震えて画面がうまく操作できず、何度も確認しながらようやく電話をかけた。

「由紀さん、助けて!!」

彼女の声は震えていた。涙が溢れ、息が荒い。電話の向こうからは、何かを感じ取った由紀の声がすぐに返ってきた。

「美咲さん?こんな遅くにどうしたの?」 由紀の声は冷静で、でもその中に確かな心配が込められていた。

美咲は声が震えるのを抑えようとしながらも、必死に言葉を続けた。

「男性に…追われて…怖い…」

その言葉に、由紀の声はさらに冷静に、そして優しく響いた。

「落ち着いて。今、すぐに行くから。」

美咲は携帯を握りしめたまま、息を整えようとするが、心臓はまだバクバクと鳴り止まない。深呼吸しながら、スマホの画面を見つめ、由紀が来るのを信じて待つしかなかった。

由紀は、電話を切った瞬間、心臓が激しく鼓動を打ち始めた。瞬時に、頭の中が美咲のことだけでいっぱいになる。何も考えずに急いでマンションのドアを閉め、足音を響かせながら廊下を駆け抜けた。ドアを開け、外の夜風に一瞬だけ顔を向けると、冷たい空気が頬を撫で、彼女の焦る気持ちを一層強くさせた。

「どうか、無事でいて……」由紀は心の中で呟きながら、マンションを駆け下りた。

駐車場に到着したとき、すぐに自分の車を探し、車のキーを取り出す。震える手で車のドアを開けると、すぐにアクセルを踏んでエンジンをかけた。車がエンジン音を響かせながら走り出し、由紀は次々と信号をすり抜け、街の中を進んでいく。

—正しい判断なんてできなかった。

街灯が通り過ぎ、車のライトがしばしば切れ、静けさが広がる。その中で、由紀はただ前を見つめて、意識を集中させていた。目的地に着くと、車を止めて飛び出すように降りて、すぐに美咲を探し始めた。

美咲の姿が見えた瞬間、由紀の心臓は高鳴り、安堵と緊張が入り混じった。美咲は路地の隅にうずくまり、顔を両手で覆って震えていた。その姿に由紀は駆け寄り、思わず声を上げた。「美咲さん!」彼女の名前を呼ぶと、すぐに美咲が顔を上げた。目元は涙で滲み、メイクが崩れていた。震える手で涙を拭うが、それでも止まらない涙が頬を伝って流れ落ちていく。

美咲は由紀に気づくと、何かに導かれるようにフラフラと歩き出し、そのまま由紀に抱きついてきた。小さな体が震えていて、由紀は驚きながらもすぐに美咲を抱きしめた。美咲の肩は硬く震えており、彼女の服にはよれたシワや破れたストッキングが見える。冷たい風が二人の周りを吹き抜け、暗い街並みが遠くにぼんやりと見えていた。

「美咲さん……」由紀は優しくその背中をさすりながら、彼女を抱きしめた。「もう大丈夫よ。」優しい声でそう言いながら、心の中で安堵を噛み締める。

美咲は言葉にならない声をあげながら、由紀の胸に顔を埋めた。涙が止まらない。心の中で何度も「怖かった」とつぶやいているような気がした。顔を上げて、少し震えながら「ごめんなさい……」と呟く美咲の顔を由紀は見つめる。

「何も謝ることはないわ。」由紀はそう言い、強く美咲を抱きしめながら、彼女の髪を撫でた。「今はもう、あなたが無事でいてくれたことが一番大事なの。」

美咲の震えが少しずつ収まっていくのを感じると、由紀は優しくその肩を押しながら言った。「もう大丈夫。とりあえず車に乗って。」美咲は一度小さく頷くと、由紀に引かれるように歩き出す。少しずつ、震えが和らいでいく中、二人は車へと向かって歩き続けた。


車は静かに夜の街を走り抜けていた。由紀はハンドルをしっかり握り、時折視線を美咲に向けながら、真剣な顔をしていた。街灯の光が車内に差し込んで、由紀の顔を一瞬照らす。美咲は助手席に座り、言葉を探しながらも、緊張した空気が二人の間に漂っていた。

「美咲さん、こんな遅くに、一人で外に出るなんて……危険に決まってるわ。」由紀の声は低く、冷静だったが、その中には明らかに怒りと心配が込められていた。「あなたのような綺麗な子が、そんなに無防備でいるなんて……」言葉の端々に、抑えきれない思いがにじみ出ていた。

美咲は息を呑んで、その言葉を受け止めた。由紀の声が少し震えているのに気づき、胸が痛む。「ごめんなさい……」美咲は目を伏せ、震える声で答えた。

「わかっているわ。」由紀はしばらく黙った後、続けた。「でも、こんなこと、もう二度と繰り返さないで。」言葉が強く、厳しく響いた。

「親に連絡はしないの?」由紀の声は少し硬く、心配そうだった。「こんな時間に一人で出かけて、無事かどうか心配されてるかもしれないわけだし。」

美咲は少し躊躇いながら、目を伏せて言った。「今はもう寝てるはずの時間で……バレてはいけないの。」その言葉には、しばらくの間、家族に迷惑をかけたくないという気持ちが滲んでいた。美咲は唇を噛みしめて、心の中で自分に言い訳をしていた。

由紀はその言葉を聞いて、少しだけため息をついた。心配そうに、美咲を一瞬見つめ、再び目線を前に戻す。

車はマンションの駐車場に到着し、由紀は静かに車を停めた。エンジンが止まり、しばらくの間、二人の間に沈黙が流れる。美咲は車のシートに背を預け、目を閉じた。外の静けさが、彼女の心を少しだけ落ち着かせてくれるようだった。

「もう大丈夫ですよ、由紀さん。」美咲が小さな声で言った。美咲の顔には、少し疲れたような表情が浮かんでいたが、その中にもどこか安心した様子があった。

車を降りて、静かなマンションの敷地に足を踏み入れると、夜風が美咲の髪を揺らす。足音がコンクリートに響き、二人の影が長く伸びていった。由紀は美咲の隣を歩きながら、言葉少なに歩調を合わせていた。美咲はその隣を歩く由紀の姿が、少しだけ遠く感じられた。

「今夜、由紀さんは…もう帰るの?」美咲が突然、口を開く。声が少し震えていた。

由紀は歩みを止め、美咲の方を見た。

「ええ、お疲れでしょう?」

美咲は少し躊躇いながらも、目を伏せてから再び口を開く。

「……でも、私、今夜は一人でいたくないんです。」

その言葉に、由紀は一瞬だけ反応を見せたが、すぐに冷静に微笑んだ。

「美咲さん、無理しなくても大丈夫。今日はひとりで静かに過ごす方がいいわ。」

しかし、美咲の瞳が由紀を捉えると、そこにあふれ出す感情に由紀は一瞬だけ動揺する。美咲の瞳は無言で語りかけてくるようで、彼女の心の奥底に触れるような気がした。

「でも、今は一人でいるのが怖い…少しだけでもいいから、一緒にいてほしいです。」

美咲の声はかすかな震えを帯びていた。疲れた顔をして、少しだけ子供のように見えたその姿に、由紀はどうしても心を動かされてしまう。

その瞳に見つめられて、由紀は深く息をつく。いつもならきっと断るところだった。しかし今、美咲の姿がどこか脆く、そして切なく見えて、その頼みを無下にできなかった。

「分かったわ。少しだけよ。」

由紀は小さな声で答え、そしてゆっくりと歩き始める。美咲はほっとしたように微笑んだが、すぐにその表情は少し照れたようなものに変わる。

二人はエレベーターで静かに上り、無言で美咲の部屋へと向かう。マンションの廊下は薄暗く、二人の足音が静かに響く。美咲の部屋の扉を開けると、そこには温かみのある照明と整然とした空間が広がっていた。

美咲はゆっくりと靴を脱ぎ、由紀に向かって微笑んだ。「どうぞ、ここが私の部屋です.....」

由紀は軽く頷き、静かに部屋に入る。「落ち着く場所ね。」

美咲はリビングのソファに向かって歩きながら、振り返って由紀を見つめた。「お飲み物でもどうですか?」

由紀は少し迷った後、無理をしなくてもいいという気持ちもありながら、ゆっくりとソファに座った。「ありがとう、じゃあ、少しだけ。」

美咲は小さなカップを持ち、そこに温かいハーブティーを注いだ。淡い湯気がゆらゆらと立ち上る。部屋の空気は静かで、ハーブのほのかな甘い香りが二人の間を漂う。

由紀の前にカップを置こうとした瞬間、ふいに指先が触れた。

それはあまりにも一瞬の出来事だった。

けれど、その短い接触に、美咲は息を呑んだ。指の先に伝わる、由紀の指の温度。そのわずかな感触が、まるで熱を持つようにじんわりと広がる。

「……っ」

小さく息を飲み込む音が、静かな空間の中でかすかに響いた。

美咲の目が由紀の手元へと向かう。由紀は何事もなかったかのようにカップを持ち上げ、淡々とした動作で口元へと運ぶ。その横顔にはいつものように落ち着きが宿っている。

だが、その指がほんのわずかに動いたことに、美咲は気づいていた。

──気づかれてる。

美咲はとっさに視線を逸らし、そっと自分の膝の上で手を握る。

由紀の視線が、ゆっくりと美咲に向けられる。

「美咲さん?」

名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がふわりと震えた。

由紀の声はいつもと変わらないのに、まるで違う響きを持って聞こえる。低く、落ち着いているのに、どこか美咲の心をくすぐるような温度を帯びていた。

「……すみません、ちょっと熱くて。」

美咲はとっさに嘘をついた。

由紀はわずかに目を細めた。まるで美咲の動揺を見透かすように。

「気をつけてね。」

その言葉は優しげだったが、まるで指摘するかのように、ゆっくりとした調子で告げられた。

美咲は言葉を返せず、ただ小さく頷いた。

ハーブティーを口に運ぶが、味はほとんど感じない。ただ、由紀の仕草のひとつひとつが妙に意識に焼きついて離れなかった。

──どうして、こんなにドキドキするんだろう。

美咲は自分の鼓動が、静まり返った部屋にまで聞こえてしまいそうな気がして、胸元を押さえた。

由紀は美咲のそんな仕草を、そっと横目で見ていた。美咲の長いまつ毛が伏せられ、カップの縁に添えた指がかすかに震えているのを見て、薄く微笑んだ。

「……そんなに緊張しなくてもいいのよ。」

由紀の言葉に、美咲はハッとして顔を上げた。

「えっ?」

「なんだか、落ち着かないみたいだから。」

由紀は淡々とした口調で言いながら、また一口、紅茶を飲む。その仕草があまりに自然で、涼しげで、そしてどこか試すようにも見えて、美咲はさらに混乱した。

「……そんなこと、ありません。」

そう言いながらも、声がわずかに揺れてしまう。

美咲はそっと両手でカップを包み込みながら、ゆっくりと口元へと運んだ。部屋の空気は静まり返っていた。遠くで時計の針が時を刻む音が微かに響く。

向かいに座る由紀もまた、ハーブティーを静かに啜る。涼やかな横顔。何気なく見つめていたはずのその仕草に、美咲はふと目が離せなくなる。暗がりの中で、微かな灯りに照らされた彼女の指の動き、喉を通る液体の流れ、それがなぜか異様に艶めかしく感じられた。

美咲の喉が無意識にごくりと鳴る。

由紀がカップを置く。その音がやけに大きく聞こえた。ゆるやかに目を上げると、由紀の視線がまっすぐに美咲を捉えていた。落ち着いた瞳。冷静で、けれどどこか深く見透かされるような眼差し。

「……どうかした?」由紀の声が穏やかに響く。

美咲は肩を跳ねさせ、慌てて視線を逸らした。けれど、頬にじわじわと熱が上るのを止められない。

「い、いえ……その……」

言葉がうまく出てこない。指がカップの縁をなぞる。わずかに震えているのが自分でも分かった。視線を下げながら、そっと唇を舐める。

熱に浮かされたような感覚。

カップの淵に残る紅茶の甘みが舌先に広がるが、それよりも自分が無意識にそんな仕草をしてしまったことに気づき、余計に恥ずかしくなる。

そんな美咲の様子を、由紀はゆっくりと見つめていた。

「……美咲さん。」

名前を呼ばれる。

静かで、けれどどこか優しく沈み込むような声だった。

美咲は咄嗟に由紀を見上げる。ふたりの視線が再び絡み合った。そしてなぜだか、目を逸らすことができなかった。

呼吸が浅くなる。喉が渇く。指がカップを握る力を強める。

時間が止まったような気がした。

由紀の唇がゆっくりと開く。

「そろそろ、帰るわ。」

言葉とともに、ふっと空気が動いた。

美咲は一瞬、何を言われたのか分からなかった。いや、分かっていたけれど、それを受け入れたくなかった。胸の奥に広がるこのもどかしさが、言葉にならず、ただ蓄積されていく。

由紀は時計に視線を移し、静かに立ち上がる。

「もう遅いわね。今日は、ゆっくり休んで。」

当たり前のように落ち着いた声。

さっきまでの熱は、由紀の中には残っていないのだろうか。美咲は胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。

「……はい。」

かすれそうな声で返事をする。

由紀は美咲の前を通り過ぎ、ドアの前で振り返った。

「おやすみなさい、美咲さん。」

その瞬間、美咲の体が無意識に動きかけた。

手を伸ばしたら、何かが変わってしまう気がする。

だけど、体は動かない。

由紀の背中が静かにドアの向こうへ消えていく音がした。

ドアの閉まる音が、やけに響いた。

美咲は唇をぎゅっと噛みしめたまま、静かな部屋に一人取り残された。

部屋を出て静かな廊下に出た瞬間、由紀は小さく息を吐いた。ゆっくりとエレベーターのボタンを押す。

──危なかった。

美咲の部屋の中で、あのまま長くいたら、どこかで自分の冷静さを失っていたかもしれない。彼女の視線、仕草、ふとした表情。どれもが、いつもの自分を少しずつ崩していくのを感じた。

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