第1話「銀座の夜」
この物語は、光と影が交錯する都市・東京を舞台に、若さゆえの不安と期待、そして複雑に絡み合う人間関係を描いたものです。
主人公の美咲は18歳。幼い頃から心に影を落とす過去を抱えながらも、大人の世界に憧れ、その扉を開きます。しかし、華やかさの裏に潜む危うさや孤独に気づき始めたとき、彼女の心は揺れ動きます。
夏の夜風が銀座の街に漂う。煌びやかなネオンと行き交う人々の気配に、何か特別な期待を抱かせる。この街には大人の香りがする。18歳の美咲はその香りに、少し胸を高鳴らせながら歩いていた。
「銀座のバーなんて初めて!ドキドキする」と、美咲は一緒に来た友人の紗英に笑顔を見せた。
肩より少し長い暗めのアッシュグレーの髪が、紗英の白い肌に柔らかく映えている。そして、その首元にはいつも身につけているルビーのネックレスが輝いていた。
紗英の洗練された姿に、美咲は息を呑むことがしばしばあった。
紗英は軽く肩をすくめ、「そうね。でも、あんまりハメを外すとバレるよ?」と意味深なことを言う。
「大丈夫よ」と美咲はいつもの口癖をつぶやきながら、さりげなく長く伸びた黒髪を整えた。今日はいつもより少し背伸びをした服装。お気に入りの白色のタイトワンピースに小さなゴールドのアクセサリーをつけ、髪も巻いてエレガントに仕上げた。年齢を偽り、刺激的な大人の世界に飛び込むことが、美咲にとっての一種の冒険だった。
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銀座の裏通りにある小さなバーの扉を開けると、柔らかなジャズの音とほのかな灯りが二人を包み込む。カウンターには、ゆったりとした空気が漂っていた。バーテンダーの篤史が、静かに彼女たちを迎え入れる。
カウンターの一角に座ると、美咲の視界の端に一組の男女が映る。女性の方は、ミディアムの茶髪にゴールドのネックレス、落ち着いた色のファッションが目を引く。そして彼女の隣には、スーツ姿の男性が座り、静かに会話を交わしている。
女性の方と何度か目が合ってはすぐに逸らした。
「紗英さん、こんばんは。お元気そうね。」その女性の落ち着いた声が、穏やかに店内に響いた。
「こんばんは、由紀さん。今日も来てるんですね。」紗英は軽い口調で返しながら、隣の美咲に目をやった。「今日は大学の友達も連れてきました。紹介します、美咲です。」
由紀は紗英の言葉に軽く頷き、美咲に視線を向けた。彼女の目は鋭く、しかしどこか柔らかな温かさも感じさせた。その視線を受け止めた瞬間、美咲の心臓が跳ねた。由紀の存在感に圧倒され、緊張が一気に高まる。
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「美咲さん、初めまして。紗英さんのお友達なら、きっと素敵な方ね。」由紀は柔らかく微笑み、手にしたグラスを軽く傾けた。「あなたも、紗英さんと同じくらいの年齢かしら?」
美咲の胸に一瞬、動揺が走った。年齢を偽るのは初めてではないが、由紀のまっすぐな視線が、自分の嘘をすべて見透かすのではないかと感じた。美咲は一瞬、紗英の方に助けを求めるような視線を送る。
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「う、うん……22歳です。」美咲は努めて冷静に答えたつもりだったが、自分の嘘をその鋭い目にすべて見抜かれている気がしてならない。
由紀はその答えを聞いても、特に驚く素振りもなく、艶のある唇にゆっくりと微笑みを浮かべた。その微笑みにはどこか挑発的なものがあり、美咲の視線を吸い寄せるような不思議な力を持っていた。ふと、由紀がグラスを持つ指先に目が留まる。細くしなやかな指が、氷を揺らしながらグラスの縁をそっとなぞる仕草。
「そう、22歳ね…..若いわね」由紀は一瞬視線を美咲から外し、グラスに目を落とした。その言葉には何か含みがあり、まるで美咲が自分の真実を告白するのを待っているかのようだった。
紗英はその雰囲気を感じ取ったのか、すかさず話題を変えようとした。「さ、何か頼もっか!美咲は何にする?」
美咲はほっとしたように紗英に目を向け、「甘めのカクテルでいいかな……」と控えめに答えた。
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由紀は再び美咲に視線を向け、優しく微笑んだまま言った。「初めての場所は、落ち着かないでしょう?」
「まぁ……少し、緊張しますよね....」美咲は視線を落とし、なんとか冷静を装った。
「若い頃は、何もかもが新鮮に見えるものね。でも……」由紀は一瞬言葉を切り、わずかに微笑んだ。
「その方が人生は刺激的よね......刺激は強すぎると代償を伴うけれど、私も戻りたいわ。」
その言葉に、美咲は少し笑みを浮かべた。大人が言いがちなセリフだ、とどこかで思っていたが、不思議と今はその言葉に共感できる自分がいた。どこかで感じていた、日々の新鮮さや興奮が徐々に色あせていく感覚を思い出しながら、美咲は由紀の言葉に心の中で頷いていた。
由紀は続けることなく、ふっと視線を外し、再びグラスに口をつけた。美咲は彼女のその態度に、どうしようもない憧れと不安が同時に湧き上がるのを感じた。
「……きっとそうですね」美咲は、由紀の言葉の奥にある何かを探ろうとするかのように、彼女を見つめ続けた。由紀の冷やかな視線の奥には、何か美咲には理解できない感情が潜んでいる気がしてならない。
「ええ、そうよ。」由紀は微笑みを浮かべたまま、美咲に向かって言う。その口調は柔らかいが、どこか断絶感を伴っていた。美咲はそれ以上何も言えず、グラスを手に取って口をつける。甘いカシスの香りが口いっぱいに広がるが、心には小さな棘が残るような違和感を覚えた。
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友達といるとき、美咲はいつも笑顔を絶やさなかった。完璧なメイクに艶やかな髪、隙のない立ち居振る舞い。誰にも弱さを見せない美咲の姿は、自分の中で作り上げた「理想の自分」そのものだった。しかし、鏡に映る瞳だけは、まるでその理想を拒むかのように冷たく、どこか寂しげだった。誰もその違和感に気づくことはない。いや、気づかせるつもりもなかった。美咲自身が一番、その正体に触れることを恐れていたのだから。
そんな中、彼女の視線は自然と由紀を追っていた。隣の男性と軽くグラスを合わせ、穏やかに微笑む由紀。その姿は美咲にとって、手の届かない完璧な大人の女性そのものだった。
だが、その由紀の表情や仕草が、ふと過去の記憶を引きずり出す。何気ない微笑み、ふとした仕草、声のトーン、目つき――そのすべてが、あの人を彷彿とさせる。あの人――幼い頃、いつも優しい顔で近づいてきたのに、裏では美咲の心に深い傷を刻みつけた存在。その記憶は長い間美咲の中で眠っていたはずなのに、由紀を目にするたび、鮮やかに蘇るのだ。
美咲はずっと、誰かの期待や制約に縛られる生活から抜け出すことを夢見ていた。今日のように、少し背伸びしてでも新しい世界に触れることが、自分を変えるきっかけになる気がしていた。
由紀の振る舞いや言葉に、自分の理想像を投影し、彼女に近づきたいと共に早く離れたいという願望が強まっていく。
由紀はただ静かに座っているだけなのに、その場を支配するかのような雰囲気を放っていた。口元に浮かぶ冷静な笑み、シャネルN5の香水の香り、そして何よりも強い目力。「この女性は何かが特別」――そう思った。
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美咲の心に、由紀が投げかけた一瞬の対話が静かに響き続けた。まるで由紀の微笑みが、自分の中の何かを引き出そうとしているかのように。彼女はその後、何を言おうとしていたのか、何を伝えたかったのかを想像する。だが、その答えは由紀の含み笑いとともに、闇の中へ消えていく。
「なんだったんだろう、今の……」美咲は由紀との短い会話を何度も思い出しながら、心の中に広がる不安と興奮を抑えられなかった。由紀の一言一言が、何か深い意味を持っているように感じられ、彼女の声、仕草、視線、そのすべてが美咲を圧倒していた。
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「大学って、どう?」再度、由紀が微笑みながら美咲と紗英を交互に見た。その声は柔らかく、どこか親しみを感じさせるものだった。
「うーん、忙しいですけど、楽しいですよ。」紗英が軽く肩をすくめながら答える。「でも、テスト期間は地獄ですね。徹夜とか当たり前ですし。」
「徹夜で勉強なんて、若さの特権ね。」由紀はグラスを軽く傾けながら笑った。「私はもう、徹夜する体力なんてないわ。」
「由紀さんも学生時代は徹夜とかしてたんですか?」美咲が少し身を乗り出しながら尋ねた。彼女の目には純粋な興味が宿っていた。
「ええ、もちろん。」由紀は懐かしむように目を細めた。「でも、徹夜するのは勉強よりも、友達と話し込んでるときとか、何かに夢中になってるときの方が多かったわね。勉強のためって言うと、ちょっと格好良すぎるでしょう?」
「そういうの、わかります!」紗英が勢いよく頷く。「結局、友達と夜中に笑いながらどうでもいい話してるときが一番楽しかったりするんですよね。」
「紗英は今でもそんな感じだよね。」美咲が苦笑しながら続けた。「この間も、夜遅くまで部屋で映画観て、翌日寝坊して怒られてたし。」
「え、あれは違う!」紗英は軽く手を振って否定しつつ、照れ隠しのように笑った。「あれは映画が面白すぎたから仕方ないの!」
「あら、紗英さん、ダメじゃない。」由紀は穏やかな声で笑った。その声にはどこか親しみがあり、まるで年下の妹を軽くたしなめるような優しさが感じられた。
「由紀さんにまで言われると、なんだか余計に恥ずかしいですね……」紗英は少し赤面しながらグラスを持ち上げた。
由紀は、「でも、そういう無邪気さが紗英さんらしいのかもしれないわ。」と続けた。その柔らかい言葉に、美咲は少し意外な気がした。由紀の穏やかさは紗英に向けられると、どこか優しさが際立つように思えたからだ。
しばらく3人で何気ない話題を楽しんだ後、由紀はふと何事もなかったかのようにバーテンダーの篤史と会話を再開した。その横顔は、さっきまでの軽やかな雰囲気から一転し、何か別の世界に戻ったかのようだった。まるで、3人の会話が一瞬だけ交差した夢のように思えてしまう。
「さっきからどうしたの?」隣で美咲の様子を気にしていた紗英が尋ねた。美咲は一瞬、彼女に答えようとしたが、何をどう伝えていいのか分からず、首を振った。
「ううん、なんでもない。ただ……」美咲は再び視線を由紀の方へと向ける。
由紀の含みを持たせた言葉が、まるで彼女の心に何かを投げ込んだようだった。美咲は無意識に胸に手を当て、その違和感を確かめるように深く息を吸い込んだ。
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「ねぇ、美咲?」紗英が心配そうに覗き込んでくる。「もしかして.....あー!由紀さんに惚れちゃったのか!」
美咲は少し笑って、紗英の質問に答えた。「いやいや、なんかね……不思議な人だなって思っただけ。私、ああいう雰囲気を持ってる人に慣れてないからさ、憧れちゃう。」
「オーラあるよね、由紀さん。」紗英は前髪を櫛で解かし、ウイスキーを一口飲んだ。「でも、美咲には美咲の魅力があるし、焦らなくていいんじゃない?私も背伸びしたいと思うときあるけど、それで疲れちゃうこともあるしね。」
美咲は頷くものの、心の中で何かがもやもやと膨らんでいくのを感じていた。楽しく過ごしているつもりだった大人の世界は、由紀と目が合った一瞬にして色を変え、美咲にとって未知の領域へと姿を変えた。
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由紀はグラスを持ち、窓の外を静かに眺めている。その横顔には何か考え込んでいるような影があり、まるで美咲にさらなる謎を提示しているようだった。
「そろそろ次行こっか」紗英がグラスを置き、席を立つ準備を始めた。
「もう少し賑やかな場所がいいかも。クラブとかどうかな?」美咲は、頭の片隅に残る由紀の存在を振り払うように笑みを浮かべた。
席を立つ間際、美咲は思わず由紀の方へ振り返り、視線を合わせた。由紀はふと目を上げ、美咲に軽く微笑みを浮かべる。「またどこかでお会いしましょう。」由紀は静かに、そして深みのある声で言った。その一言に、美咲は何か約束めいたものを感じてしまう。
「はい……」美咲はそう答えることしかできず、心の奥底で何かがざわめくのを感じた。そして同時に恐れていることに気づく。
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美咲はクラブに向かう道すがら、頭の中を由紀の言葉がぐるぐると巡っていた。「その方が人生は刺激的よね....」由紀のその言葉には、何か見えない境界線を意識させるものがあった。
夜の銀座の街を抜け、クラブの明るいネオンが目に入る。美咲はわざと笑顔を作り、紗英とともに騒ぎの中へと身を投じた。しかし、どんなに音楽に身を委ねても、由紀の言葉と視線は消えることなく、彼女の心に何かを残し続けていた。
夜が更けるにつれて、クラブの空気も次第に熱を帯びていった。周りの人々が踊り、笑い、楽しそうに過ごしている様子が、かえって美咲に一層の孤独感を与えた。自分は本当にここにいるべきなのか――そんな疑問が、心の奥底から湧き上がってくる。
「私、少し外の空気吸ってくるね。」美咲は紗英にそう告げると、クラブの喧騒から抜け出して外へ出た。夜風、その冷たさがかえって心地よかった。街は、まだ人々の熱気で溢れているが、美咲の心の中には静かな不安が広がっていた。
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「由紀さん......」美咲は自身の中の葛藤を認めざるを得なかった。由紀の存在が、彼女の心に今まで封じ込んでいた叔父の存在を蘇らせたのだった。
翌朝、クラブからの帰り道、美咲は自分が何に心を掻き立てられたのか、答えを見つけられずにいた。ただ、由紀の言葉の一つ一つが自分を見透かし、導こうとしているような感覚に囚われていた。そして、その先にあるものが何なのか、美咲はどうしても知りたいと思ったのだった。




