婚約者は天使の顔を……顔は、している
仕事を終えて迎えに来てくれた婚約者と王宮の長い廊下を歩いていると、目の前に立ちふさがるように見ず知らずの令嬢が現れた。
服装からして王宮に支える使用人ではなさそうだ。この辺りは王宮図書館利用の関係上、申請書を書けば貴族の子女は問題なく入ることができるのでそちらだろうか。
ずい、と前に出てきた令嬢が代表だろうか、後ろの人たちはいわゆる取り巻き……柔らかい言葉でいうと「お友達」になるあれだろう。ドレスが代表っぽい令嬢よりも地味なのでその辺り間違いはないんじゃないかと思う。
「デリア・ハーシード、ミシェル様と即刻別れなさい」
「……はぁ」
「インク濡れのネズミは、まともな返事もできないのかしら?」
そんなことを言われても、普通こういうのって婚約者がいないときにやりません?もしかして今すぐにミシェルを置いてお前一人で帰れと言うことだろうか。
せっかく私と帰るために魔道課のある北の塔から長い廊下を通って迎えに来てくれたミシェルにそれはどうかと思うというか、もっと違うタイミングとかなかったのだろうか。
私は王宮の東の端、王宮図書館近くの代筆課で働いているため職場は同じとはいえ課なり距離が離れている。代筆課は招待状等の手紙を定められた筆跡で代筆する仕事をする場所で、王宮の女性使用人の中でも少ないインクで手を汚す部署である。
そんなわけなので、インク濡れのネズミというのは私にたいしての暴言だ。お仕着せはインクの色と同じ濃紺なのでネズミっぽくはないが、私の髪が灰がかっているところから来ているのだろう。
そんなことを考えて少し気が散っていたからだろうか、どうにも相手がヒートアップしてしまっているようだった。これはどうにも不味い気がする。
後ろの人たちも声を上げるため、正直なにを言ってるのか聞き取りづらい。せめて悪口の内容くらい示し合わせて来てほしかったし、声を揃える協調性も欲しかった……ではなく。
相手がタイミングをちゃんと見計らってくれて私一人であればよかった、しかし今は婚約者であるミシェルも一緒なのだ。こんなところを見せてしまっては今後どうなるのかを考えただけでも嫌な汗が出る。
「ええと、そろそろ終わりませんか?」
「まぁ!聞いてくださいましミシェル様!こんな愚鈍な女などあなたに相応しくありません!!」
そう言いながらミシェルに触れるというか、最早しなだれかかろうとする早業に私はちっとも対処することができなかった。これでは愚鈍と言われてもあまり否定ができない。
しかしこれは大変にまずいぞ、と私が思ったところでバチッ!と静電気を十倍くらい凶悪にした音がして早業令嬢が弾かれた。ああもうこれは、ダメなやつかなとミシェルを見上げると、馬鹿にしたような目と目があった。
のろま、と言われた気がする。
「うるさいなぁ、盛りのついた猫だってもう少し分別があると思うけど」
始まってしまった、もうおしまいである。彼女たちは私の婚約者にボロボロになるまでいたぶっても問題ない存在と認識されてしまった。私も私なりに頑張ろうとはしたが、もうこうなってしまえばどうにもならない。
大きな声でギャンギャン怒鳴っている様子から録音などしていないというのがバレてしまっているのもよくない。ミシェルの顔面でしおらしく「婚約者を貶されてカッとなって……」と言えば証拠などない相手がなにを言っても勝ち目がないのだ。
見るからに温厚で繊細で泉で鳥と戯れるお姫様のように心優しそうに見える我が婚約者は、その実性根からひん曲がっており図太くその見た目じゃなくてもダメだろうというほどに性格が悪い。心優しさはおば様のお腹の中に置いてきてしまったのだろう。
それがなんで私の婚約者をしているかといえば、単純に彼が私のことを「こいつを参考にしたら周りになにも言われない対象」と認識したからに他ならない。私と一緒にいるとまともな人間のようになるため、あちらの家から土下座せんばかりにお願いされてこうなっている。
私は生来わりとぼんやりしているので、彼の口が絶望的に悪くても少し前に食べたレモンのマドレーヌのことなんかを考えていて適当に聞き流せるので相性と言う点ではそれほど悪くない、のかもしれない。
両親などは「ミシェルくんがいればミシェルくん以外の問題を心配する必要がなくなるし」などと私に対しての信頼が全くないことを言っている。反論できないのが苦しい限りである。
「なに?さっきまで口から馬みたいに唾飛ばしてカニみたいに泡吹いて大騒ぎだったのに、動物真似の大道芸は終わりにしたの?」
「な、な……」
「馬鹿みたいに回る舌くらいしか取り柄のない空っぽの頭が本当の役立たずになるけど、喋らなくて大丈夫?」
心の中にいた恋しい天使様の虚像がバキバキに崩れ落ちている最中に酷なことを言うなぁ、とぼんやり眺めていたらミシェルに軽くつねられた。部外者みたいな顔をするんじゃないということだろう。
だって私になにかできることなんて一つもないじゃない、口も挟めるわけないしなにをすればいいというのだろう。横でニコニコしてればいいのだろうか、それもどうかと思うけど。
「なんか言ったらどうなのブス。中も外も醜いとか朝の支度でよく絶望しないね?」
「わ、私はあの女よりは美しいでしょ!」
「鏡見るといいよ。それでもその顔面を美しいと言えるなら、ボクは目玉をくりぬくことをおすすめするかな」
どんなに美人でも怒鳴り散らかしてたらそりゃ見れない顔になるのは当然なのでは。髪も振り乱してるし、顔も上気を通り越してなんか赤黒くなってきているので普通に怖い。激怒した人間の顔色はあまりお目にかかりたくない色をしている。
対するミシェルは大理石の天使像のように顔色ひとつ変えずに罵詈雑言を吐いている。こんなのと教会で出会ったら信心深い人も神と天使を疑いたくなるのではないかという有り様だ。そのうち天罰がくだるかもしれない。
「後ろの臭いものに集るハエみたいな連中もさ、なんか言ったらどう?せっかくお前たちが話したがってたボクが口聞いてあげてるんだけど?」
自分達のリーダーがミシェルに情け容赦のない暴言を浴びせかけられているのに目を白黒とさせていた取り巻きの人たちが、私が見てもわかるくらいに肩をはねあげさせた。
人間ってびっくりすると結構跳ねるのね。そういえば乳母のハリヤの手のひらに弟が蛙を乗せたときも飛び上がっていた覚えがある。今のミシェルは不意打ちの蛙と同じくらいには彼女たちにとって恐ろしいものなんだろう。
少し前までは婚約者を引き剥がしてでもほしい天使様だったろうに、現実というのはどうしようもなく残酷である。残酷なのは現実ではなくミシェルかもしれないが、それも含めて現実だ。
「え、あ、ええと……」
「なに?え、とかあ、とか。猫のあくびの方がもう少し聞き応えあるんじゃない?」
はっ、と鼻で笑う姿すら見目がここまで麗しいと様になるのだから、ミシェルはもうちょっとその見た目に産んでくれたおじ様とおじ様への感謝の気持ちを持った方がいいんじゃないだろうか。
いや、感謝の気持ちがミシェルなりにあるから最近はそこまで大暴れしたりしていないかもしれない。誰かをこっぴどくフッたという話もここのところ聞いていないし、ミシェルも大人になったのかも。
……目の前の惨状を見ると、後々が面倒じゃなく罵れる相手が減っただけのような気がする。ミシェルが真人間になる日なんて、天からの罰がくだって汚れものみたいに心が漂白でもされない限り無理なんじゃないだろうか。
「ああ、インク濡れのネズミだっけ?悪口にもセンスと教養って出るんだって君のおかげでよくわかったよ」
ついには私への罵倒へのダメ出しまで始まってしまった。こうなると、もうお前の全てを否定してやるからなと言わんばかりだ。ミシェルは揚げ足を取るのも相手の得意分野でやり込めるのも大好きなのである。
かわいそうに先程の私よりもよっぽど猫の前のネズミや蛇の前のカエルのようになってしまった、未だに名前どころか名字すらわからない令嬢は脂汗で少し化粧が浮いている。
「代筆課は扱いとしては妃殿下の直属なんだよ、それをインク濡れのネズミとは……君たち随分と偉いらしいね?」
「きょ、今日はもう遅いですもの!失礼いたしますわ!」
「チッ、逃げたか。根性なしどもめ」
代筆課が妃殿下の直属なのは招待状を書くときにいろんな部署をたらい回しにされると面倒だからで、私たちが偉いわけではないというのも、舌打ちしたこの婚約者は知っているのだろう。
この顔面から罵詈雑言が飛び出てくることが予想できないのは仕方ないとはいえ、令嬢たちももうちょっと早く逃げればよかったのに。第一声でやりあうものじゃないと判断できるほどミシェルは口が悪いのだから。
でも学園の頃にもこんなことはあったなぁ、なんて逃げるように去っていく色とりどりな令嬢の背中を見送った。あの頃のミシェルは今よりイライラしていたので、攻撃できる相手と判断すると八つ当たり混みでそれはもうひどい有り様だった。
おじ様とおば様にどうにか卒業だけはしてくれと懇願されていたので問題を起こそうにも起こせず、顔に惹かれて集まってくる人たとを羽虫の群だのなんだの言いながら鬱憤を貯めていたのも今は懐かしい。
結局ミシェルは魔法研究にその性格の悪さを注ぐことにしたようで、話を聞いただけでもネジ曲がった性格の人間が作ったのだなぁとわかる魔法をいくつも作った。
普段はなにをしても反応しないのに特定の行動で反応する魔法を他の魔法に影響がでないように組み込むのがミシェルは大の得意らしく、やってはいけないことをやる人間を辱しめることに全力を出していたようだった。
そうして作られたミシェルの性格の悪さの煮凝りのような魔法は、幸いにして好評なようである。その矛先が違反者や犯罪者となれば、性格の悪さというのもよい部分になるのだろう。悪用しようとする人間を嘲笑うような仕組みがあるのもいいらしい。
しかもミシェルの性格の悪さを魔術課の課長が絶賛していたそうで、私としては適材適所というのはあるのだなぁとよくわからない感慨を覚えたりする。
なにはともあれ自分を隠さずにやっていける場所を得てミシェルも少しは落ち着いたかなと思っていたのだ。今回のことでそんなこともなかったなぁと思い知ることになったわけだけども。
「なに間抜け顔してるのさ、帰るよ」
「ああ、うん、ミシェルはそうよね。そのままよね」
「なにが?ほら、どうせあいつらの話半分も聞いてないくらいボーッとしてたんだろ?早くしなよ」
「あんなにいっぺんに話されたら、聞き取るのも難しいと思うのよ」
言い訳を試みた私を一瞥したあと、ミシェルは鼻で笑った。それを見ながら「鼻で笑う、のお手本みたいね」なんてことを考えつつミシェルの後をついて歩く。さっきまでとは逆になった。
ミシェルはすっかりなれたものなので、ずんずん歩いていくものの私を置いていくことはない。小さい頃は置いていかれて勝手に帰ったことをものすごく怒られたりしたものだが、それを繰り返した結果言っても無駄だと思ったようで歩幅を合わせてくれるようになった。
「別にデリィは、ボクがそのままでもいいでしょ」
「そうね、急にミシェルがいい人になったら怖いもの」
「……そう」
「ついに天使の評判を下げたって天罰を食らったのかと思っちゃうわ」
「なにそれ」
急に外見そのままの性格になったミシェルを想像してみたけど、天罰で悪心を奪われたか天使に体を奪われたとしか思えなかった。体を奪われた場合のミシェルは、きっと教会のガーゴイルにでもなって来る人来る人をあらんかぎり罵るのだ。
なんだかそういう昔話でもありそうね、なんてぼんやり歩いていたら急に止まったミシェルの背中に激突した。私がちびっちゃいから背中ですんだけど、大きかったら頭と頭でぶつかっていたのじゃないだろうか。色々かわすのが上手いミシェルにしては珍しいことだ。
「その注意力の散漫さでよく生きてこれたね」
「ミシェルが急に止まるからでしょ?」
「今日はいつもより遅いから引っ張ってあげるよ、どうせぼんやり歩いてるんだし」
ミシェルが私の手を握って、そのまま歩きだした。なんだか小さい頃のひたすら連れ回された時のことを思い出して少しだけ懐かしくなる。歩幅を合わせるだけでなく、手を握っていればはぐれないと学習した幼い頃のミシェルはしょっちゅうこうしていたものだ。
おじ様とおば様はびっくりするくらい恐縮していたけど、私はわりと楽しかった。ミシェルはアリの巣に水を注いだりするけど危ないことはしなかったし、私が聞くことには馬鹿だなという顔と口の悪さでもちゃんと答えてくれたから。
「デリィはこれからもずっと、ボクについてくればいいんだよ」
「ミシェル、なにか言った?」
「次にあの女が来たらビンタしてやりなよ」
「無理言わないで、名前がわからないし顔も覚えてないのよ」
何人もいて名乗られもしてないのに今日のあの人!なんて分かるわけがない。話せばわかるかもしれないけど、しばらく話した後で急に思い出してビンタしたらもうなにがなんだかだろう。
そう話せばミシェルはなにがおかしいのかケラケラと笑い出して、珍しく嬉しそうに目を細めながらこちらを見た。基本的に悪巧みか人を貶すことばかり考えてるので、こんな顔は珍しい。
「デリィも結構いい性格してるよね」
前言撤回。やっぱりミシェルは人を貶せると思うと嬉しそうな顔をするらしい。できれば素直に嬉しく思うようなことがあってほしいものだが、ミシェルと素直という言葉は水と油のように混ざり会わない気がする。
それでも人が顔から想像する天使のようなミシェルよりも、こんな風に性格が悪く口も悪いミシェルの方が私はなんだか安心する。それだけ一緒の時間を過ごしてきたのだ、急にいい人になる方がやっぱり怖い。
でもちょっとムッとするのは、また別の話なのだ。
「ミシェルのせいじゃない?」
私がそうやって言い返すと、ミシェルはまた声を上げて笑って、今度こそ本当に嬉しそうな顔と声で「それはいいね」と言った。