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5 不意打ちのキス

「おばあさまに教えていただいたのがこれです」


 翌週の水曜日、約束通り伯爵家にやってきたヘンリーに、ミゼルは祖母から教えてもらった記憶を取り戻すコツを見せた。

 今日はベランダからではなく、まっとうな客人として伯爵家を訪れたので、紅茶とケーキのセットを出してもてなしている。


 ケーキは、ミゼルがパティシエに特注したブラックフォレストガトーだ。

 チョコレート味のスポンジの中に、たっぷりのクリームとチェリーを挟み、クリームチーズの特製クリームで覆った贅沢なお菓子である。


 ヘンリーはこれが好物らしい。

 かつて彼と交際していた令嬢に接触して教えてもらったので間違いない。彼女はヘンリーについて聞きたがるミゼルに驚き、次に心から心配してくれた。


 ――あんな男に関わってはなりませんわ!


 言い分はもっともだ。だって、ヘンリーは彼女と同時に四人の女性と交際していたらしい。

 令嬢の敵である。ろくでもない遊び人である。


(それなのに、どうして?)


 ミゼルは、ヘンリーが周りが言うほど悪い人に思えなかった。

 婚約を解消するまで自分の気持ちに素直になれなくて苦しんだせいか、彼の自由奔放さは美徳のように感じられた。


 恋愛関係にならなければ、きっと大丈夫。


 ミゼルは自分にそう言い聞かせて、ヘンリーがやってくる水曜日を待った。

 日に何度もカレンダーを見てはソワソワして、落ち着かない気持ちをもてあますように彼に出す紅茶の茶葉やお菓子、テーブルウエアまで完璧にそろえてしまった。


 ケーキに舌鼓を打つヘンリーは、お皿に盛った分はすでに食べきって二切れ目に手をつけている。

 わざわざミゼルが彼の好物を用意したとは気づいていないようだ。


(よかった。気づかれなくて)


 彼を喜ばせたかったのに、彼の好きな物を知りたくて元カノに聞き込みをしたとは知られたくない。

 こんな複雑な気持ちになるのは初めてだった。


 紅茶を飲んで一息ついたヘンリーは、興味深そうにミゼルのメモを引き寄せた。


「子どもだましみたいな方法だけど、一応試してみようかな。もしもそれで記憶が戻ったら王子サマも助かるし、めでたしめでたしだ」


 ミゼルがまとめたメモには


 ・びっくりさせる

 ・氷で冷やす

 ・棒で殴る


 と三つの事項が書かれていた。


「まずはヘンリー様をびっくりさせるところからですね」

「オレはびっくりしないよ? 実戦も経験しているし、夜襲の訓練だって定期的にあるからね」


 一瞬の隙が命とりになる騎士は、びっくりしない訓練もしているらしい。

 物陰から現れたり、突然大きな声で呼びかけたられたりしてもヘンリーは驚かないそうだ。


 驚かすのはとりあえず諦めて、ミゼルはそばで控えていた執事に氷を持ってくるように命じた。

 銀のワインクーラーに山ほど積まれてきた氷を見て、ヘンリーは目を丸くする。


「こんなによく用意できたね」

「我が家の領地に標高の高い山があるので、雪や氷は手に入りやすいんです」


 高い山にある湖から切り出した氷は不純物が少なく溶けにくいので、夏場だけでなく一年中出荷している。

 主な取引先は、王城や貴族のお屋敷。つまりは高級品なのだ。


 ミゼルは、ワインクーラーをのせたワゴンの前に行くと、ワゴンを運んできた執事に目で合図した。


「それでは、ヘンリー様。これから頭を冷やさせていただきます」

「氷を頭にのせるの?」


 座ったまま首を傾げるヘンリーに、ミゼルは大きく首を振った。


「いいえ。もっとしっかり冷やします。こうしてっ!」


 執事と一緒にワインクーラーを持ち上げて、ヘンリーの頭上で逆さにする。

 アイスピックで砕いた氷の山は、溶け出た水と一緒にヘンリーに降り注ぐ。


 ドシャシャシャシャ!!


 冬も間近のこの時期に、氷水をぶっかけられる衝撃にヘンリーは飛び上がった。


「つめたっ!!!」


(作戦成功だわ)


 ヘンリーが下手なことでは驚かないと予測していたミゼルは、必死に方法を模索した。

 使用人たちとも相談して臨んだのが、この氷で急襲作戦だった。


「ヘンリー様、びっくりしましたね? 頭も冷えましたね? 記憶は思い出しましたか?」


 わくわく顔で問いかけると、ヘンリーは指を伝う水滴を払いながら「勘弁してよ」と肩を下げた。


「びっくりしたし頭も冷たいよ。だけど、記憶はぜんぜんだよ」

「そうですか……」


 ミゼルががっかりするのと、ヘンリーが大きなくしゃみをするのは同時だった。

 このままでは風邪を引いてしまう。


「ヘンリー様をバスルームへ。お湯で体を温めて差し上げて!」


 ヘンリーが客室のバスルームを使う間、ミゼルは暖炉のそばのソファでうなだれていた。


「びっくりも頭を冷やすのも効果なし。残りは……」


 頭に強い衝撃を与えること。祖母は殴るといいと言っていた。

 でも、ミゼルはヘンリーを殴れる自信がなかった。


 目の前のテーブルには、執事が用意してくれた木のこん棒と、鉄の火かき棒、ミゼルが用意した掃除用のはたき棒がある。


 衝撃度は、火かき棒>木のこん棒>はたき棒の順で強いが、強ければ強いほど怪我をする。


(ヘンリー様を傷つけたくない……)


 困っていたら、耳朶に息をふっと吹きかけられた。


「ひゃっ!?」

「お待たせ」


 耳を押さえて振り返ると、首にタオルをかけたヘンリーが立っていた。


 貸したナイトウェアのシャツとズボンはゆるく、すっかり体があったまったせいで頬や唇には赤みが差している。

 濡れてぺたんとした髪も、眠たげに見える目元も、急に彼が見知らぬ男になったみたいで目に毒だ。


(ど、どうして胸がドキドキしているの?)


 騒ぐ心臓の辺りを手で押さえて視線を泳がせていると、気づいたヘンリーが濡れた襟足をつまんだ。


「ごめん。ミゼルちゃんには色っぽすぎたね。ドキドキしたかな?」

「いいえ! 十分にあたたまりましたか?」

「うん。でも、さっきはだいぶ冷えたからね。もっと熱くなりたい気分」

「では熱々の紅茶を用意してきます」

「必要ないよ」


 ヘンリーは、立ち上がりかけるミゼルの肩を押さえてソファに縫いとめた。

 彼女の耳が真っ赤に染まっているのを見て、愉しそうに微笑む。


「期待してる? それとも、ミゼルちゃんも氷をかぶって風邪を引いちゃったのかな? オレでよかったら温めてあげるけど」

「けっこうです。私、ヘンリー様を恋愛対象だと思っていないので!」

「ふーん」


 突然、後ろから腕を回されて抱きしめられた。


「じゃあ、どうしてオレの好物を聞きまわっていたの?」

「っ!」


 甘く切ない囁き声に、体の芯がしびれた。


(全部、知られていたんだわ……)


 焦りと恥ずかしさで胸がさらに騒いだ。

 今すぐに腕を引き剥がして言い訳をしなくては。


 伯爵家では客人の好物を作っておもてなしする家訓がある、とか。

 祖母に調べてこいと命令されたから仕方なく、とか。


 何でもいいから、ヘンリーに興味がないふりを貫かなければならない。

 すべてが終わったその後に「つまらない令嬢だった」と思われるような関係を築くのが理想だ。


 理想、だったのに。


(どうしよう。腕をふりほどけない……) 


 胸を締めつける切なさが、ミゼルの体の自由を奪っていた。

 目をうるませてくたっと身を任せるミゼルに、ヘンリーは「ミゼルちゃん、オレのこと好き?」と囁く。


「わ、わからないです。まだ……」

「わからせてあげる。こっち見て」


 声を吹き込まれた方に顔を向けると、すかさず唇を奪われた。


「んんっ!?」


 びっくりした。

 今までの記憶がぜんぶ飛んでしまうかと思うくらい。


 ヘンリーの腕に手をかけてもがく。

 彼は片方の手でミゼルの頬を包み、何度も角度を変えて吸い付いてくる。


 ちゅ、ちゅとなまめかしい音が響く。

 恥ずかしい。顔から火が出そう。


 息が苦しくなって思わず口を開けたら、舌が入ってきた。


(もう、無理っ!)


 ミゼルは服に忍ばせてあったベルを取り出して思いきり振った。

 チリンチリンと鳴るより早く、ドアを蹴飛ばして執事が駆け込んでくる。


「お嬢様、どうなさいました!?」


 ドアが完全に開かれる前にヘンリーが口を離したので、キスは見られていないはずだ。

 でもでも、さっきのキスが夢幻になるなんてこともない。


(私、ヘンリー様とだけはそんな関係にならないと決めていたのに!)


「ばかばか! ヘンリー様のばか!」


 涙目になったミゼルは、子どもみたいに泣き叫んで無意識に掴んだこん棒を振りおろす。


 ガツンとヘンリーの頭を殴打していたと気づいたのは、彼が悶絶して倒れたその後だった。

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