高貴な私の番がチンピラだった
「マリーナ・ユール!お前との婚約を破棄する!お前の番が現れたのだ!私は涙を呑んで身を引こう!」
王家主催の夜会で、そう叫んだのはオスカー・リデネル第3王子だった。金髪、青眼の見惚れるような美男子だが、頭の中身は空っぽと評判の、残念な男である。
オスカーの右腕に腕を絡めているのはラナ・アース男爵令嬢。栗色の髪と栗色の瞳の儚げな美少女だが、その交友関係は淑女とは言い難い派手なもので、彼女に籠絡された貴族子息も多い。マリーナが先日卒業した学園内でも、複数の男性を侍らせた姿がよく目撃されていた。その筆頭はオスカーだったのだが。
オスカーとラナはピッタリと身体を寄せ合っている。婚約者がいるのに他の女に触れるのも、婚約者のいる男に寄り添うのも品位のない行為だ。夜会の招待客達は、オスカーとラナに眉を顰めてヒソヒソと囁き合っている。
連れ立って夜会に参加していたユール侯爵夫妻は、突然の娘の婚約者の暴挙に、侯爵は顔を真っ赤にして怒り、反対に夫人は周囲を凍らせそうな冷笑を浮かべていた。
「お前も知っているであろう、獣人の性質を。獣人は番を生涯愛し抜く!喜べ、お前はそこにいる獣人の番なのだっ!」
そう言ってオスカーが指差した先の扉から、1人の男がのそりと会場に入ってきた。確かに獣人を示す獣の耳がピンと頭の上に立っているが…、銀色のボサボサの髪と酒に濁った鋭い碧眼、無精髭だらけの顔、堂々とした威圧感のある筋肉を派手なシャツで覆い、太い脚には短パン、フサフサした銀の尻尾。簡素で薄汚れた靴。どう贔屓目にみてもチンピラ。柄が悪いけど、大物感は全くないチンピラ。細い路地とかで、カツアゲに精を出していそうなチンピラ。
煌びやかな装いの紳士、淑女の中で異質な存在だった。どうやって夜会に紛れ込んだのか…、もちろん阿呆殿下が連れてきたのだろう。
マリーナは扇子の奥で嘆息した。学園の卒業パーティーで阿呆殿下が起こそうとしていた『マリーナがラナを虐めたという冤罪の果ての婚約破棄』は、挙動不審なオスカーを監視していたお陰で未遂に終わらせることができたが、まさか王家主催の夜会でこんな真似をするとは。自分の婚約者がどうしようもない阿呆だとは分かっていたが、まさかここまで救い難い阿呆だとは思っていなかったのだ。
「お前は獣人の番としてこの男の国であるゴール王国に共に行くがいい!ユール侯爵家には予定通り私が継ぎ、ここにいるラナを侯爵夫人とするっ!」
オスカーの言葉に、マリーナはピクリと眉を釣り上げた。
ユール侯爵夫妻は冷えた目でオスカーとチンピラを睨む。あまりに馬鹿馬鹿しい言葉に、元々無かったオスカーへの信頼はマイナス値を突破した。いくら王家からの命令とは言え、ユール侯爵家を乗っ取るような発言を受け入れられるはずもない。
オスカーの腕にへばりつくラナが勝ち誇った顔でマリーナに笑顔を向ける。しかし男の気を引く以外の何の能力もないラナなど、マリーナの眼中にはない。あくまで厄介なのはこの馬鹿王子なのだ。
思えば10歳の時、王命でオスカーとの婚約してから、マリーナの生活はこの男の尻拭いに明け暮れていた。ユール侯爵家の一粒種として生まれ、いずれは侯爵領を継ぐ身として、マリーナの教育は過酷なものだった。それに加えて第3王子が引き起こす騒動、主に女関係と金銭関係のトラブルに振り回されてきた。フラフラと好き勝手に遊び歩く阿呆とは対照的に、マリーナは馬鹿王子の分も学ぶべく努めてきたお陰で、若い令嬢らしい楽しみなど一度も経験したことはない。
「マリーナ!お前の夫の手をとってやるといい!よもや我が国の友好国、ゴール王国の重大な番の習慣を蔑ろにするつもりはなかろうなっ!!」
オスカーは得意満面の顔で、再度男を指差した。人を二度も指差すなど、王族のくせに行儀の悪い男である。
獣人の男は、皆の注目を集めているというのに、微動だにしない。ジッとマリーナを見つめているのみだ。
「こっのっ!大馬鹿者がぁっ!」
そこに、天地が割れんばかりの怒声が響いた。場内にいる者たちが、ざっと頭を下げた。
「オスカーっ!余の主催する夜会で、貴様、何という阿呆なことをっ!」
顔を真っ赤にした王が、席を立ってズカズカとやってくる。
父親である王の剣幕に一瞬怯んだオスカーだったが、すぐに王へ笑顔を向けた。
「父上!私は父上の教えを忠実に守っています。ゴール王国は我が国の重要な友好国。その習慣や関係性を大事にせよと…」
「お前はっ!余がどれほどこの縁談を結ぶのに苦労したのか分かっておらぬのかぁっ!」
オスカーの言葉など一蹴し、王は額に青筋を立てて怒鳴りつけた。
ユール侯爵家は王国の西に広い領地を持つ有力な貴族だ。現ユール侯爵は西の貴族を束ねており、その結束は堅い。王はユール家の娘に第3王子を娶せることで、王家の地盤をより一層固めたかったのだ。
「し、しかし。私はこんな目も髪も陰気な色のマリーナより、美しく華やかな愛しいラナと結婚したいのですっ!ユール侯爵家は、予定通り私が継いで、ラナと共に治めます」
「な、な、な、な…」
余りのことに、王は言葉も出ない。口をぽかんと開けて、真っ赤な顔でオスカーを睨みつけた。
「陛下」
そこへ、静かな声が響いた。淑女の礼をとったままのマリーナの声だった。
「発言を、お許しいただけますでしょうか」
柔らかなマリーナの声に、王は眉を下げる。有能で賢明なマリーナに、またオスカーの尻拭いをさせることになりそうだと、王は情けない気持ちになった。10歳の頃より、オスカーが何か問題を起こすと、マリーナが東奔西走の働きで解決し、何とか婚約を維持させてきたのだ。今回も上手くマリーナが丸くまとめてくれるだろうと、王は思った。本当に、良くできた義理娘だと、安堵していたのだ。
「許そう。マリーナ」
だが、マリーナは今回ばかりはオスカーの尻拭いをする事は出来なかった。どれほどオスカーに無体を強いられ、侮辱されても、王家とユール侯爵家の決めた婚姻。マリーナに否という事はできない。だが…。
「敬愛する陛下、お教えくださいませ。いつからユール侯爵家は、それ程までに王家の不興をかってしまったのでしょうか」
マリーナは悲しげに目を伏せ、扇子で顔を隠した。
「な、何を言う、マリーナ。ユール侯爵家は我が王家を支える大事な礎。不興などっ!」
王は慌ててマリーナの言葉を否定する。ユール侯爵家に王家が悪感情を持つなどと、噂であってもあってはならない。西の勢力を敵に回せば、安定した政情を揺るがしかねない。
「ですがオスカー殿下は、我がユール侯爵家の血を途絶えさせ、王家の血で塗り替えるおつもりだと、2度も宣言なさいました。これがユール侯爵家に対する罰と言わずして、何と言うのでしょうか」
マリーナの伏せた瞳から涙が溢れる。貴族にとって、後継に恵まれなかった以外の血の断絶ほど重い罰はない。いつもは無表情なマリーナの儚げな涙は妙に色香に溢れ、興味深げに見守っていた貴族達、主に紳士達はゴクリと喉を鳴らしてしまった。淑女達は震えながら涙をこぼすマリーナに同情の色が濃い。幼い頃からのマリーナのオスカーへの献身と苦労を知っているだけに、番が現れたとはいえ、婚約者にここまで手酷く扱われる彼女が気の毒だった。
「その様なことがあるわけが無いっ!此度のオスカーの発言は王家としての発言ではないっ!」
そんな理屈が通らぬ事は、王とて分かっていた。王族の発言は重い。一度口から出た言葉を覆すなど、あってはならぬ事だ。
あぁ、と王は心の中で嘆息した。賢明なマリーナとは思えぬ発言だった。いつものマリーナなら、何一つ非はなくともオスカーに謝罪し、ラナを愛妾と認め、オスカーとの婚姻を持続させようと尽力してくれただろう。そうすれば王自ら、王命での婚約を覆してはならぬと釘を刺し、場を治めることが出来たかもしれない。ゴール王国との関係は大事だが、マリーナは王子妃。獣人の平民に嫁げとは言えない。
だがマリーナは、オスカーの言葉に涙し、ユール侯爵家と王家の不仲を思わせる発言をした。オスカーとの婚姻を、放棄する行動を取ったのだ。
オスカーへの愛想などとうに尽きていた筈だ。どれほどオスカーに貶されようと、マリーナは懸命に王家とユール家の為に耐えていた。その努力を放棄させたのは、間違いなくオスカーの『ユール家乗っ取り宣言』のせいだ。ユール侯爵家の跡取り娘として、その宣言を飲み込めるはずがない。さすがユール侯爵が心血を注いで育て上げた娘。切り捨てるとなると容赦がない。
離れて控えるユール侯爵夫妻など、顔に笑みは浮かべているが、先ほどからずっと臣下とは思えない殺気をこちらに向けている。ユール侯爵家が全力で王家から離れようとする今、出来る事は第3王子を切り捨てることだけだ。
王は頭を抱えたかった。ようやくあと少しで、オスカーの婚姻が成立し、憂いのない治世となるはずだった。有能な義娘も手に入る筈だったのに。この考えなしの阿呆息子の軽はずみな発言で、全てが水泡に帰した。
王はギロリとオスカー、そしてその後ろで微動だにせず立ったままの獣人を睨んだ。
ここで親心を加え、オスカーを変に庇えば、王家の傷は広がるばかりだ。どうこの場を治めるべきか。
せめてこの獣人がマリーナの婿となるのを阻止せねば。ユール侯爵家の婿が、チンピラなどと笑い話にもならん。
「そこの獣人よ、マリーナがお前の番だというのは本当か?」
王に問われていると言うのに獣人は答えない。ひたすらジッとマリーナを見ていた。
「おい!余が尋ねているのだ!答えぬか!」
王が苛立たしげに問うと、ピクリと顔を動かした。
「…俺の番だ」
視線はマリーナから外さぬまま、獣人は答える。
ザワザワと彼らを取り囲む貴族達が騒めいた。その視線はマリーナへの同情が込められている。
友好国ゴール王国の獣人の番について、リデネル王国でもよく知られている。獣人は番に恐ろしいほどの独占欲を持ち、番に異性が近づくと命をかけて排除する。同じ獣人同士であればどちらも番と感じ合いお互いしか目に入らなくなるので問題はないが、どちらかが人族の場合、人族の方が番を受け入れられない事がある。人族には番の感覚が分からないので仕方のないことなのだが、リデネル王国は友好国ゴール王国を慮り、番と見出された者を婚約者と別れさせ獣人と沿わせる事例も何件か発生していた。大事にされるとはいえ、慣れ親しんだ婚約者や国から引き離されるとあって、気の弱い令嬢など、獣人と会うだけで緊張で倒れる者もいた。
さすがに侯爵家の跡取り娘とチンピラの獣人を娶せることは出来ないとは思うが、番の習性を重んじるゴール王国が干渉してくるかもしれない。不安は大きい。
「まぁ。私は貴方様と初対面でございますが?こんな僅かな時間で分かるものなのですか?」
マリーナは不思議そうに小首を傾げる。獣人の男はその可愛らしい様子に目を見開き、かあっと顔を赤らめた。
「たしかに今初めて会ったが、番は一目見れば分かる」
熱に浮かされたような目でチンピラに凝視され、マリーナは困ったように顔を背けた。
「マリーナ嬢。その男の言う事は本当だ。獣人は番を見れば一目で分かる」
そう声を掛けてきたのは、ゴール王国からの留学生アベル・ガルーだった。ゴール王国の伯爵家次男である彼は、昨年の春から1年間の留学予定でリオネル王国に滞在していた。アベルも共に学園を卒業していたので、もうすぐゴール王国に帰るはずだ。彼は彪獣人である。
「まあ、ガルー様。ありがとうございます。ではもう一つ教えていただけますでしょうか?獣人は他の獣人の番が分かりますの?」
「…番う前のという質問ならばそれは無理だ。番はその獣人本人しか分からない。獣人ならば己の番を一目見れば分かるがな。番った後なら、番の匂いがつくので一目瞭然だ」
「まぁ。そうでしたのね。教えて頂いて有難うございます」
ふわりと、涙目の美女に微かな笑みが浮かぶ。儚げで消え入りそうなその笑みに、周囲からため息が漏れた。何ともいえず庇護欲をそそる笑みだ。いつも控えめながらも一輪の百合のような凛とした姿が常のマリーナだが、これほど頼りなげに見えるのは初めてだ。血気盛んな子息たちの心を一瞬で鷲掴みにする程、魅力的だった。
「マリーナ…」
チンピラ獣人が心配そうな視線をマリーナへ向ける。それと同時に、周囲の子息たちには殺気の籠った牽制の目を向けた。チンピラとは思えぬほど、鋭い目だった。
「でもそれでしたら、やはり番というのは偽りと言うことになりますわね?」
「偽りでは無いっ!!」
オスカーが否定するより早く、チンピラが吠える。傷ついたような必死の形相でマリーナに近づこうとするが、護衛に阻まれ舌打ちをする。
「マリーナ嬢。番について獣人が嘘をつくなどありえない。それは非常に侮辱的な言葉だ。撤回してほしい」
アベル・ガルーが不機嫌そうに顔を顰める。獣人が己の番について虚偽を申し立てるなど、彼らの本能を否定する事だ。番いからの信頼もなくなる、最も不名誉な行為なのだ。
「まぁ。でも先程ガルー様は仰ったわ。獣人の番は、番う前は獣人本人しか分からないと」
こてり、と可愛らしく首を傾げ、マリーナはアベルを見つめる。その仕草に周囲の子息たちがまた顔を赤らめ、チンピラ獣人が周囲を威嚇するようにグルグルと喉を鳴らした。
「そ、そうだが?」
本意を測りかね、アベルは取り敢えず頷く。
「ですが、私とそちらの方がお会いする前から、オスカー様は私がその方の番であると宣言なさいましたわ。今、この場でお会いした初対面のその方の番が私であると、オスカー様はどうしてご存知なのでしょう。同じ獣人でも、他の獣人の番は分からないというのに」
鋭い視線をマリーナから向けられ、オスカーは反射的にビクリと身体を震わせた。ざわり、と周囲の客たちからも疑念の視線が向けられる。
「そ、それはっ!そこの獣人から、以前にマリーナを見かけたとっ」
「ご自身で初対面と仰ってましたわよ?」
マリーナがチラリとチンピラ獣人を見ると、目が合ったことが嬉しかったのか、顔を赤らめコクコクと頷く。素直か。
「では殿下。私がその方とお会いする前に、どうして番だとご存知でしたの?わざわざ夜会に連れていらっしゃったんでしょう?その方がたまたま夜会に参加していたとは思えませんし、このような大勢の皆様の前で婚約を破棄する為に、私がその方の番だとでっち上げた様にしか思えませんわ」
広げた扇で口元を隠し、マリーナは憂いを帯びた目をオスカーに向けた。
「それ程、私との婚約を破棄したかったのですか?そして、ユール侯爵家の血を絶えさせ、そちらのアース男爵家に我が領地を継がせるおつもりなのでしょうか。これが、建国以来、王家に忠義を尽くした我がユール家への仕打ちなのでしょうか…」
「マリーナ嬢!それ以上は言ってはならぬ!我がリデネル王家を、臣下の忠義を蔑ろにする無頼者と思ってくれるな!」
怒りの籠った王の言葉に、マリーナは一礼して引き下がった。扇の奥の唇が大きく弧を描くが、誰の目にも止まらなかった。
「第3王子オスカー・リデネル。嘘偽りなき真実を述べよ!お前は何故、その獣人がマリーナ嬢の番と分かったのだ?」
怒りの余り血走る王の目に、オスカーは思わず一歩下がった。末っ子王子として甘やかされ、叱られても結局は許されてきたオスカーにとって、いつもと違い鬼気迫る王のその有様に恐怖を覚え、口がカラカラになり、言葉が出てこない。腕にぶら下がる様にして縋るラナ嬢は、青ざめて口をぱくぱくさせるだけで、何の役にも立たない。
「マ、マリーナ?」
ついいつもの様に助けを求めるべくマリーナに視線を向けるが、マリーナは無感動に見返すばかりだ。
「私もお答えをお聞きしたいですわ」
冷たく突き放され、オスカーはオロオロと辺りを見回し、自分の味方を探すが、友人達は目を逸らし、知人達は反対に興味深そうにオスカーを見ている。結局オスカーは何も答えられず、俯いてしまった。
怒りが治まらぬ王は、オスカーを詰問するが、オスカーは半泣きであの、その、などと要領を得ない返事をするばかりだ。王の怒りは頂点に達した。
「もう良い!それではそこの獣人、答えよ。何故オスカーは、マリーナ嬢がお前の番だと分かったのだ」
王の詰問に、チンピラ獣人は反抗的な目を向けるばかりで答えようとしない。
マリーナはジッとチンピラ獣人を見つめ、小首を傾げた。
「私、嘘をつく不誠実な殿方は大嫌いですの」
ピッとチンピラ獣人の耳と尻尾が逆立った。怯えた様にマリーナを見つめ、慌てて口を割った。
「酒場で飲んでいたら、その男の遣いの者に声を掛けられ、マリーナが番だと夜会で言えば金をくれると言われた」
チンピラ獣人の言葉に、周囲から響めきが起こる。
「貴方はそれを承諾して、殿下の手引きでこの夜会に参加なさった訳ね?」
マリーナの言葉に、チンピラ獣人が頷く。アベルが「そんな馬鹿な…獣人が番に関して偽りを述べるなんて」と呟いていたが、周囲の人々の喧騒に紛れ、その声はマリーナ以外には届かなかった。
「あい分かった。第3王子オスカー・リデネル。其方はそこの獣人と図り、王命で定めたユール侯爵家との婚約を破錠させようとした。国の安寧よりも己の欲を優先する愚か者を王族の一員に連ねる事は出来ぬ。望み通りマリーナ・ユール嬢との婚約を解消し、王籍より抹消する。今後の沙汰が決まるまで、白の塔への幽閉とする。同じく、王家の者を誑かし国を騒がせたラナ・アース男爵令嬢も同罪。追ってアース男爵家もユール侯爵家乗っ取りの疑いで詮議を行う」
厳かな王の言葉に、オスカーがヘナヘナとその場に崩れ落ちた。やっと聞こえるような微かな声で、父上、父上と繰り返しているが、王は一顧だにしない。ラナも真っ青な顔でオスカーに縋り付いたまま、小さな悲鳴をあげている。
「マリーナ・ユール侯爵令嬢。此度の事はもちろん、其方に一片の責はない。長年、我が息子が迷惑をかけた。済まなかった」
王の言葉に、また周囲が騒めく。王が一家臣に詫びるなど、ありえない事だ。
「勿体なきお言葉。陛下のご判断に感謝いたします。ユール侯爵家はリデネル王家の忠臣であり続けましょう」
マリーナは美しい所作で臣下の礼をとる。周囲も王の公平な判断に満足そうに頷き、揃って臣下の礼を取った。
オスカーとラナが兵士に連れられ夜会を去った後、チンピラ獣人も同じく兵士に連れられていく。ゴール王国の国民が罪を犯した場合、リオネル王国で裁く事は出来ず、ゴール王国に引き渡される事になっている。逆の場合も同じ取り扱いになる。
「陛下。そちらの方の裁可はゴール王国に委ねられるのが両国の取り決めでございましょうが、差し出がましくも私、その方にお聞きしたい事がございます」
マリーナが王に願い出ると、王は快諾した。
「許す。だが場所は変える。その男の取り扱いに不利が生じないよう、証人としてアベル・ガルー、並びにゴール王国駐在大使にも同席を願おう」
その場で、夜会はお開きとなった。興奮した客達は、思い思いに歓談しながら、粛々と帰り支度を整えた。
◇◇◇
王とマリーナ、マリーナの両親のユール侯爵夫妻、アベル・ガルーはそのまま別室に移動した。
「お付き合い頂き申し訳ありません、ガルー様」
「我が国の獣人が関わる事。マリーナ嬢が謝る必要はありません」
そう答えながらも、アベルの頭の中には疑問だらけだ。獣人が番に関して嘘をつくなど、獣人の感覚では不可能なことなのだ。それをあのチンピラはオスカーに金で雇われ、番だと嘘をつくつもりだったと証言したのだ。リデネル王国の人間ならそんなものかと信じるかもしれないが、獣人であるアベルには激しい違和感を感じていた。
そこへ、ゴール王国駐在大使であるリンドがやってきた。突然呼び出されたリンドは、遣いの者に事のあらましは聞いていたものの、アベルと同じように信じられないという顔だ。
やがてチンピラ獣人が兵に連れられ、やって来た。
王や高位貴族を前にしても、チンピラ獣人は動じる様子はないが、マリーナのことだけは気になる様だ。全く視線を向けてもらえぬ事に気が気ではない様で、哀れなほど熱心な目を彼女に向けている。
その時、ゴール王国駐在大使のリンドが、ガタンッと不作法に音を立てて立ち上がった。目をまん丸に見開き、驚きに満ちた顔でチンピラ獣人を見つめている。チンピラ獣人はチッと舌打ちをして、顔を背けた。
「リンド大使?どうかしたのか?」
「まさか…まさか…」
真っ青な顔で、リンドはプルプル震え、チンピラ獣人に近づいていく。間近でその顔をしっかりと確認し、ヘナヘナとその場に蹲った。
「何故ここに…。まさか、先ほど伺った、侯爵令嬢に番を騙った獣人というのは…」
「…?そこにいる獣人だが」
「何という事だっ…」
リンドが顔を覆い、ため息を漏らすのを、マリーナとチンピラ獣人以外の者が不思議そうに見つめる。
マリーナは扇子を開いて、フッと漏れた笑みを隠したが、チンピラ獣人だけはそれに気づいて、ポッと頬を赤らめ、相変わらずマリーナを凝視している。
「リンド様はそちらの方をご存知ですのね?」
「真か?リンド大使?」
マリーナの言葉に、王は厳しい目をリンドに向ける。まさかこのチンピラ獣人とリンドが組み、リデネル王国に奸計を用いたのか。
「は、は、はぁ、そ、それが、その…」
チラチラとチンピラ獣人を見ながら、リンドは大量の汗を流した。切れ者として評判の大使にしては、ハッキリしない事ばかりを口にする。
「良い、リンド。私から話そう」
突然、凛とした声が響く。それが始終、気怠げな雰囲気だったチンピラ獣人から発せられたと知り、その場の全員に驚きが走る。装いは変わらぬが、中身がガラリと別人に入れ替わった様に、男の所作はキビキビとした動きになっている。
「私の名前はジャンク・ゴール。ゴール王国の第3王子だ」
そう言い切ったチンピラ獣人改めジャンク王子は、マリーナを見つめ懇願した。
「マリーナ・ユール嬢!私の妃になってくれ!」
兵に抑えられながらもジャンク王子は必死でマリーナに近寄ろうとする。兵は突然の事に戸惑いながらも、王の命令に忠実に自称王子の腕を捉え続けた。
「ま、まて!ジャンク王子だと?!確か今、王子と言ったか?ゴール王国の、幻の王子か?」
「あら。彼の国の王族の方と似たご容姿だと思っておりましたが、第3王子殿下でいらしたのね?」
マリーナはゆったりと微笑み、自称王子の懇願は無視した。
「そう言えば、似ているか…?リンド大使?」
「その方は我がゴール王国の第3王子ジャンク殿下に相違ございません…」
「なんと…。何故ジャンク殿下があの様な事を…」
そしてなぜ、そんなすさんだチンピラの様な格好なのだと王は思ったが、兵に命じ、ジャンクを解放させる。途端にジャンクはマリーナに駆け寄りその傍らに跪いたが、マリーナはツンとジャンクから顔を逸らしている。
「ジャンク殿下。何故我が国にいらっしゃったのです?我々はゴール王国より何の連絡も受けておりません。また、何故あの様な振る舞いをなさったのですか?」
ジャンクは一心にマリーナにのみ視線を注ぎながら、王の問いに眉を顰めた。
「連絡もなく入国したことは謝ろう。私はお忍びで色々な国に渡るのが好きなんだ。ゴール王国の風来坊と呼ばれているのはリデネル国王もご存知であろう」
確かに、ゴール王国の第3王子の噂は王も知っていた。ゴール国王自らも、末っ子である第3王子の放蕩癖に悩まされていると頭を抱えていた。まだ番を持たぬ故、落ち着きなくフラフラして困ると。
「平民の格好をして、色々な場所に行くと、その国の様子がよく分かる。リデネル国でも王族だとバレないように、側近に平民の服を用意させた」
どうやら側近のリサーチが甘かったようだ。どうみても堅気ではない服装に、生来のガタイの良さが災いして、チンピラの扮装になってしまったようだ。アデルは頭を抱えたくなった。馘首しろ、そんな側近。
ジャンクはチンピラの服を意外と気に入っているようだ。元々の服のセンスも少しアレなのかもしれない。
「平民が多く利用するという酒場で呑んだくれていたのだが、そこへオスカー殿下の手の者に声を掛けられた。ある女性との婚約を破棄したい。その女性の番のフリをしてくれたら、一生遊んで暮らせる金をくれるとな」
ジャンクはその話を持ち込んだのがまさか、一国の王子なのだとは思ってもいなかった。そんな大金をくれるのだから、どこぞの商家が慰謝料を払いたく無いためにそんな事を言い出したのかと思い、女性を憐れに思って話に乗った振りをした。
獣人は番に関して偽りは言えない。逆にその婚約解消の場で全てを暴露して、女性を救ってやろうと思ったのだとか。
「それが連れてこられたのが王宮で、雇い主がまさかの王子だったので、私もどうしようかと思ったが、王子自ら友好国の番の習性を悪用するなど許されることでは無い。予定通り、全てを暴露してやろうと思ったのだが…」
オスカー殿下も番の習性は知っていたが、不勉強の塊のような男なので、獣人の習性にそこまで詳しくはなかった。番と言い張ればなんとかなると思ったのか。結局マリーナに反論されてすぐに潰れてしまった。
「オスカー殿下には感謝している。まさか、本当に番に出会えるとは…」
アデルはようやく合点がいった。嘘を暴いてやろうと夜会に乗り込んだジャンクは、奇跡的に番であるマリーナ嬢に出会った。オスカー殿下の杜撰な計画は、嘘から真を生んだわけだ。
トロンとした目つきでジャンクはマリーナを見つめるが、マリーナは一向にジャンクに目を向けることはなかった。チンピラが淑女に纏わりつく姿は、ただの犯罪現場にしか見えない。これが街中なら、間違いなく警吏を呼ぶ案件だ。
両国の王子の行動に、リンドとアベルは頭を抱えた。オスカー王子は番の習性を軽んじているし、ジャンクは正義感は辛うじて評価できないこともないが、放蕩癖といい、服のセンスといい、色々と王族として誉められたものではない。下手したら両国の友好関係にヒビが入りかねない。リデネル国王も頭痛がするのか片手で額を押さえた。マリーナの両親であるユール侯爵夫妻も困惑顔だ。
そんな中、マリーナだけは美しい姿勢のまま、扇子を広げ、何やら思案顔だった。それをジャンクが傍でうっとりと眺めている。
やがてマリーナはパチリと扇子を閉じると、傍のジャンクに目を向け、艶やかな笑みを浮かべた。ジャンクは目を見開き、ボンッと音が出そうな勢いで真っ赤になり、硬直している。
「ジャンク様が、私の、番?」
コクコクコクと言葉は出ないが勢い良く頷くジャンクに、マリーナは可愛らしく首を傾げる。
「でも私、獣人ではありませんもの。番など、分かりませんわ。私、貴方のことを愛せるかしら…?」
幼子の様に頼りない表情で、マリーナは小さく呟く。ジャンクはマリーナに取り縋る。
「マリーナ。君は私の番で間違いないっ!私は君を心から愛しているんだ」
「それはジャンク殿下のお気持ちでしょう?私、つい先程まで、オスカー殿下の婚約者でしたのよ?愛する方をそんなにすぐに切り替えられませんわ」
オスカーの事など1秒たりとも愛した事はないが、マリーナは悲しげに呟く。実情を知るユール侯爵夫妻は、こっそり笑いを噛み殺した。
「そんな、マリーナ。君は間違いなく私の番だ。どうしたら私を受け入れてくれるんだ?どうしたら私を好きになってくれる?」
ゴール王国の王族といえば誇り高き銀狼の一族だが、マリーナに取り縋る姿はどうみても主人の気を惹きたい大型犬だ。恥も外聞もないその姿は、番に冷たくされた獣人としてはよくある光景であるが、リンドとアベルは出来るだけ見ないフリをしようと顔を逸らした。番である妻や恋人に同じ様な態度を取られたら、自分達とてジャンクの様になるだろう。見て見ぬふりをしてやるのが、獣人としてのせめてもの情けだ。
「私、先ほど婚約破棄をされてしまいましたわ。婚約者がいながら、他の女性と心を通わせるような方は、もう嫌ですわ」
「番以外の女性に、獣人が惑うはずがないっ。生涯、君一人を愛し続けると誓う。もしこの誓いを違えたら、私を殺すといい」
物騒な言葉が少し気になるが、愛は深そうだ。マリーナは安心した。浮気の心配はなさそうである。
「それに、私はユール侯爵家の一人娘。私の夫となる方は、婿入りが条件ですの」
「私はゴール王国の第3王子だ!身分的な釣り合いは問題ないし、婿入りも出来る!」
確かに身分的な問題はない。リデネル王国において、ゴール王国の影響は大きい。オスカー殿下との婚約破棄の傷が帳消しになるぐらいの縁談だ。
「侯爵家に婿入りするということは、ユール領主としての能力を求められますわ。ジャンク殿下は色々な国に赴かれるのがお好きなのでしょう?それではとてもユール領主としては…」
「番がいるのに他の国をフラフラする獣人などいないっ。私が諸外国を回っていたのは、番を捜していたからだ!どうしても君に逢いたかったんだよ、マリーナ。私は国でいずれは領地を賜り臣下に下る予定だったから、一通りの領主教育は受けている!君の国でもきっと上手くやれるように死ぬほど努力する!」
ユール侯爵夫妻の目がキラリと光る。なかなか優良な婿候補だと、獲物を品定めするような顔になっている。
「その服のセンスもちょっと…」
「むっ?私は良いと思うが、マリーナは嫌いか?改めよう!」
その服に疑問を持たないセンスは気になるが、改善の意思はあるようだ。甘えながら「こちらの服がお似合いですわ」とか言えば、素直に薦められた服を着てくれそうだ。ジャンクは今は酒場の酔っ払いの様ななりだが、元はかなり良い。着飾れば美しいだろう。
「…しばらく私に考える時間を下さいませ。私も、貴方様の事を知る時間が必要なのです」
そっと目を伏せたマリーナに、ジャンクは優しく、甘い声で囁いた。
「生まれてから今まで、君と逢うのを夢見てきたんだ、マリーナ。いくらでも待つよ。君の気持ちが私に向いてくれるまで、私は諦めない…」
ガチャンと、檻の鍵が閉まる音を聞いた気がした。
儚気で美しいリデネル王国の淑女の鑑と言われるマリーナの仕掛けた罠に、たんまりと宝を背負った銀の狼が捕った音だったと、その光景を目の当たりにしていたリンドとアベルは、その後長く語り継ぐのだった。
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男性を立てることが女性の嗜みとされてきたリデネル王国において、オスカー殿下とマリーナ嬢の婚約破棄は一つの転機となった。
理不尽で一方的な男性からの要求に、女性は諾々と従うのではなく、反論も辞さなくなったこと。これまで婚約者や夫の浮気や不倫など泣き寝入りするしか無かった女性達が、男性有責の婚約破棄、離縁も可能になった。女性の権利というものが、僅かながらも認められる様になったのだが、男性優位なリデネル王国にとっては大きな一歩だ。
マリーナとジャンクの仲は、初めは手探りでぎこちないものであったが、マリーナの心が向けられるまではと、宣言通りにジャンクが熱烈にマリーナに尽くし続け、厳しいユール侯爵の後継教育も貪欲にこなす姿を見せたため、次第にマリーナもジャンク添う様になり、一年の婚約期間を経て無事成婚に至った。
これを見守っていた年若い令嬢達も、同じ政略ならば一途な獣人男性の方が幸せになれるかもと、国内よりもゴール王国での婚活に積極的になることで、両国の関係は益々深まり、強固なものになっていった。その結果、大国であるゴール王国に引け目を感じていたリデネル王国も、対等な立場での国交が可能となった。但し、国内の男性貴族の価値が大きく下がり、結婚相手がなかなか見つかりにくくなったという弊害も出ている。
マリーナと婚約破棄をしたオスカー殿下は、王の宣言通り、王籍から抹消された。その身に流れる王族の血を無闇に撒き散らすことがないよう、断種の上、平民として放り出された。可愛らしい恋人のラナ嬢も仲良く男爵家から追い出され、今では以前の仲睦まじさはどこへ行ったのか、お互いに罵り合いながらも、情けで与えられたボロボロの家で一緒に暮らしているという。
「最初は、ようやくオスカー殿下と婚約破棄出来てホッとしていたのに、また不良債権の王族を押し付けられるのかと、うんざりしていたんですけどね。仕事も出来ず、浮気ばかりでどこに種を蒔くか分からない馬鹿より、放蕩癖はあるけど一途な馬鹿の方が婿としては調教の余地があるかと思ったのよ」
晩年、夫を見送り寡婦となったマリーナ・ユールはこっそりと、孫達に笑いながら話していた。
「でもねぇ、調教なんて必要なかったわ。夫は私のために、それこそ全てを尽くしてくれたもの。あのチンピラが私の番だったから、私、本当に幸せだったのよ」
突発的に作った短編です。設定が甘いのはご容赦ください。
※「大魔術士の遺産」「追放聖女の勝ち上がりライフ」も連載中。宜しければご覧ください。恋愛要素もあります。
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