魔王様の専属シェフは、港町へ向かう
港町テーラ。神王国との貿易港として栄えるこのテーラは、数多の港町の例に漏れず新鮮な魚介が有名だ。
「砦の方も特に目立った問題もありませんでしたし、テーラに滞在できる日数が多めに確保できて良かったです」
「はい!」
「ニャーン!」
ジャル様に連れられて、私とマロンはこの港町テーラに足を踏み入れていた。
「うーん、潮風の匂いだ」
肌を撫でる風は少し湿っぽくて、海の匂いが混じっている。久しく嗅いでなかった匂いに、私の胸は弾んだ。
何を隠そう、前世の私の実家は海の近くにあった。いや、近くなんてものじゃない、それこそ玄関を出て徒歩一分レベルで目の前が海だった。
そんな実家も、私がこの世界に転生する頃にはもう無くなっていた。両親も早くに他界してしまったから、私一人では家の維持もできないということで家も土地も引き払ったのだ。
そうして私は一人になった。親戚とも疎遠だったから、死んで転生するっていう時にあまり迷いが無かったのだろう。
……いやいや、今はそんなことを考えなくていいじゃない。
「ニャァ!」
マロンが嬉しそうに鳴いている。彼女の視線の先には、とても賑やかな魚市場があった。
「もう、マロンったら! そんなにお魚が食べたいの?」
「ニャン!」
私の声に反応するマロンを見て、ジャル様がクスリと笑った。
「ふふ、そんなに期待されたら行かなければなりませんね。それでは、まずはあちらの市場へ向かいましょうか」
「はい!」
今にも走り出しそうなマロンを抱っこし直して、私はジャル様の後ろを歩く。身長差があるから歩幅だって全然違うはずなのに、私とジャル様の距離が開くことはない。つまり、ジャル様が私の歩幅に合わせてくれているのだ。
ジャル様はやっぱり紳士だ。初対面の時から抱いている認識は今日また強化される形となった。
しばらく歩けば、賑やかな声が飛び交う魚市場に到着する。すぐ横に漁船が停泊しており、漁師だろう人たちの姿もたくさん見えた。他には魚の買い付けに来ているらしい人が多いだろうか。
そんなふうに辺りを観察していると、ジャル様がにこやかな笑みを浮かべてこの魚市場を仕切っている男性に近付いて声を掛けた。
「お疲れ様です。本日の調子はいかがですか?」
「うん? ……おお、ジャルか! 久し振りだな!」
ジャル様に挨拶を返した男性は魔族だった。とても気安い雰囲気からして、ジャル様とは親しい間柄なのだろう。
それにしても、その男性は魔族にしてはやけにラフすぎる格好をしている。下は水濡れに強い素材でできているズボンを穿き、上は白のタンクトップを着用、頭にはバンダナを巻いていた。これはもう周りの漁師とそう大して変わらない服装だ。
「そういやお前、この間の襲撃ではなんで直接出向いてたんだ? あの程度、砦の連中だけでも問題なかっただろうに」
男性がジャル様に尋ねたのは、人族が魔王国に襲撃を仕掛けたあの事件のことだろう。質問されたジャル様は、そろ、と視線をずらし、わざとらしく咳払いをした。
「ああ、それは少々……いろいろ、ありまして」
「なんだよそれ」
言葉を濁すジャル様に対し男性は不服そうな声を上げる。彼はまた何か言おうと口を開いたが、その時頭が少し動いたのか私と目が合った。
「うん? 若いお嬢ちゃん?」
男性は不思議そうにそう言ってわずかに首を傾げる。確かに周りは男性ばかりだから、私のような女は珍しいのだろう。
二人の会話の邪魔をしない方がいいかと思って一歩引いていたけれど、今のタイミングならジャル様の近くに行っても大丈夫だろう。
そう考えて一歩進もうとしたところ、私の腕の中からマロンがするりと抜け出して駆け出した。
「ニャア!」
マロンが向かう先は、たった今運び込まれてきた箱。狙うは、その中の新鮮なお魚だ。
「……って、マロン! 勝手にお魚食べちゃダメ!」
私は慌ててマロンを追い掛ける。ジャル様も突然のことに呆然としていたけれど、すぐに何が起こったのかに気が付いたらしい。私の後に続くようにジャル様も追い掛けてきた。
「マロンちゃん! あとで好きなものを買ってあげますから、つまみ食いはダメですよ!」
人族の女と魔族の大男が小さな生き物を追い掛ける姿は、この場にいる人々の目にはとても珍妙に映ったらしい。
「おう、なんだなんだ、ぬすっとか?」
「あんな上等な服を着てる人がぬすっとなワケないだろ!」
「それより、あの獣はなんだ? 魔獣じゃないよな?」
「若ぇ娘っ子がこんなとこにいるなんて、珍しいな」
そんなふうに魚市場の人々の見世物になっているとは、この時の私たちは気付いていなかった。
「……あのジャルが女連れで出歩いてるだと? いったい何があった?」
魔族の男性がそんなことを呟いていることも、私たちは気付いていなかった。
なかなかの大物をくわえて逃げ回っていたマロンを捕まえることができたのは、三十分ほど経った時のことだった。
「ゥニィー……」
「不満げに鳴いてもダメなものはダメ!」
意地でも魚を放そうとしないマロンの両脇を掴み持ち上げる。思っていた以上によく伸びた。
ぶらぶらと揺れるマロンの伸びきった胴体と尻尾を見て、魔族の男性が豪快な笑い声を上げた。
「アッハッハ! なかなか面白い見世物だったぜ!」
「おう、面白かったぜ嬢ちゃん!」
「でっかい旦那もな!」
「そこのちっさい獣も、なかなかすばしっこくて面白いヤツだなぁ!」
やいのやいのと声を掛けられて、私たちのドタバタ劇が魚市場の人々に見られていたと顔に熱が集まるのを自覚する。
「ふぇっ」
これはちょっと恥ずかしすぎる。
私の羞恥心など知らないマロンは、ぐねぐねと体を動かして私の手の中から抜け出すと、もそもそと魚を食べ始めた。
「ゥルルニャン」
可愛らしい鳴き声を上げ、それはそれは嬉しそうに喉を鳴らしながら、マロンは魚にかぶりつく。ああ、うちのこかわいい、なんて言葉が一瞬脳裏を過ったけれど、いやいやそんなことを考えている場合じゃないと頭を振った。
「こらっ、マロン! 勝手に食べちゃダメ!」
心を鬼にして叱るけど、マロンは素知らぬ顔だ。……そうだった、マロンはお猫様だった。お猫様が下僕である人間の言うことなんて聞くはずがなかったんだ。
「うう、マロン……」
マロンのあまりの自由さに私がうなだれていると、ジャル様が私の肩を優しく叩いた。
「アイラさん、こうなっては仕方がありません。この魚の代金は私が支払って来ますから、マロンちゃんを見ていてください」
「はい……」
ジャル様もなんとなく諦めたような口ぶりだ。私たちは二人して短く溜め息をついた。
その後、ジャル様が魚代の支払いのために離れたのを確認してから、私はその場にしゃがみ込む。マロンは私たちの気苦労など知らないと言わんばかりに、夢中で魚を食べていた。




