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第八章  同じ空の下で

挿絵(By みてみん)



第八章  同じ空の下で






奈月達が入学してから二度目の日曜日。


穂澄のお誘い通り、彼女の自宅へお招きにあずかることにした奈月達は、前日のうちに沙希へ


練習を休みたいと伝えていた。


「部員勧誘のためなら仕方ないわね」と沙希は快く承諾してくれた。加えて「練習を一日減らして


行くからには必ず引き抜いてきなさい」と発破をかけることも忘れなかった。


なんにせよ、これで結果を出さなくては自分達を信じてくれている沙希に申し訳ないと奈月は


気合を入れ直し、私服姿で鶴川駅の改札口前で他のメンバーを待っていた。


「おっまたせ~」


一番乗りの奈月が待つこと暫し。集合の五分前きっちりに喜美がやってきた。


「陽菜はまだ?」


「はい。まだ私だけです」


「そっか。まぁあたし達が早く来すぎてるだけだしね」


奈月と喜美は幼馴染だけあって、互いにどのくらいの時間に来るかは分かっていたが、陽菜は


そうではない。


そもそも学校以外で彼女と会うのはこれが初めてだった。そのせいもあってか、


奈月はいつもよりもうきうきした様子で陽菜が来るのを待ち焦がれる。


そして駅の時計が集合時間を示した、ちょうどその時。


「お待たせ」


学生服ではない私服の陽菜が現れた。


「ほほう~、これはこれは~」


挨拶もそこそこに、喜美が陽菜の私服姿を舐め回すようにチェックしていく。


紺色のTシャツに赤のフレアスカートというシンプルな組み合わせ。だが、それが背の高い


美人系の陽菜にはよく似合っていた。


「へ、変かしら……。私、お母さんが買ってくれた服しか持っていなくて……」


しかし陽菜は自信なさげに自分の服を隠すように腕を組むと、顔をそむけてしまう。


そもそも中学時代の陽菜は三年間、毎日が野球漬けでファッションになど興味を持つ暇もなかった。


家から学生寮に持って行ったのも下着類だけで、私服は持っていかなかった。寮の中では中学校の


指定ジャージで過ごしていたし、大会中など午前中で試合が終わり、午後がオフになった時に


買い物へ行こうと千沙と杏子に誘われた時もジャージ姿で行ったら、「ないわ~……」と二人に


呆れられたほどのファッションオンチである。


なので母親が選んだこの服が自分に似合ってるかも分かるはずがなかった。


「いかがですかなぁ?奈月さん?」


「とっても素敵です!大人っぽい陽菜ちゃんによく似合っていて、とっても綺麗です!」


「だ、そうよ。ちなみにあたしも同意見だから」


奈月と喜美に褒められ、陽菜がそむけたままの顔を真っ赤にさせる。


「そ、そういう奈月だって……その……可愛いわよ……」


丸襟の白いブラウスに長めのピンクのスカート。自分とは真逆で幼い顔立ちの奈月によく似合って


いると陽菜は思った。


そこに奈月と同じく白のレーストップスに黒のオールインワンを合わせた服装の喜美が間に入って


くる。


「じゃあ、あたしは?あたしは?」


「あ、うん。いいんじゃないかしら」


「え。なにその奈月の対応との温度差」


急に真顔で褒められ、喜美も真顔にならざるを得なかった。


「あっ、そろそろ電車が来ちゃいますよ!」


「っと……こんなところでファッション談議してる場合じゃなかったわね」


奈月達は切符を買うと急いで改札を通り、発車のメロディーが鳴っていた電車に飛び乗った。






穂澄の家がある寺子安駅は鶴川駅から電車で一駅のお隣さんである。


なので自転車で行こうと思えば行ける距離ではあったが、奈月達の誰も一度も行ったことが


ないため土地勘がないのと、今日は別行動をしている雅が駅からの地図を用意してくれたために


電車での移動となった。


たった一駅なので立ちながら電車に揺られること五分少々。


「寺子安~。寺子安~~」


目的地に着き、奈月達は電車を降りた。


「えっと……風見さんから貰った地図によるとこっちですね」


奈月が地図を見ながら先頭を歩く。


地図には駅から穂澄の家まで赤い線で分かりやすく道順が書かれており、その道中にも可愛らしい


文字とイラストで目印になる建物やお店などの名前が書かれていた。


「その文字って雅のなのかしら。あまりイメージじゃないわよね」


「あのメイドさんが作ってくれたんじゃない?」


「あはは、まっさか~。それこそあんなクールそうな人がこんな子供っぽいのなんて描く訳ない


じゃない」


二人の会話中に、今は別の場所にいる千代が「くちゅんっ」と可愛らしいくしゃみをしたが、


それはまた別のお話。


――ともかく。


初めて歩く土地に、なんだか冒険をしているような気分になりながら三人は歩き、


時折、奈月が野良猫に気をとられて道を間違えそうになったりしながらもなんとか穂澄の家へと


近づいていると……


「喜美ちゃん、どこからか子供の泣き声が聞こえませんか?」


「確かに言われてみれば……」


二人は地図を覗き込んでいた顔を同時に上げ、これまた同時に辺りをキョロキョロ見回し始める。


「あっ……。あの子じゃないかしら」


陽菜が指さした先は片道二車線ずつの道路の反対側。歩道に植えられた大きな街路樹の下で、


小学校に入学したばかりに見える小さな女の子が泣いていた。


「なにかあったんでしょうか?」


「とりあえず行ってみましょう」


三人は頷き合うと、少し先の信号を渡って反対側へと移る。


そして先程の女の子のところまで戻ると、奈月は優しく声をかけた。


「どうしたんですか?なにか困ったことでもありましたか?」


尋ねられた少女は、泣きながら街路樹の上の方を指さした。するとそこには


バスケットボールらしき物が、太い枝の間に引っかかってしまっていた。


少女の話ではドリブルをしながら歩いていて、ちょっと大きくボールを跳ねさせたらあそこまで


飛んでいってしまったそうだ。


「なるほど……確かにこれは困ったわね……」


「喜美ちゃん、木登りはしたことありますか?」


「ないわよそんなの。陽菜は?」


「私もないわ。ジャンプしても届きそうにないわね」


揺らしてみようとしたがびくともせず、むぅ~と三人が頭上のバスケットボールと睨めっこを


していると、陽菜が何かを思いついた顔で指を鳴らした。


「私が奈月を肩車すれば届くんじゃないかしら」


「大丈夫?この子、おっぱい大きいから見た目より重いわよ?」


「ふ、ふみぃ⁉た、体重のことは言っちゃダメですぅ!」


思わぬ流れ弾に涙目になる奈月。そして肩が命の投手が危ない真似しちゃダメですという奈月の


真っ当な意見に、陽菜はしぶしぶ諦めるしかなかった。


会議は振り出しに戻り、またも三人が知恵を絞りだそうと頭をひねっていた――その時だった。


「ヘイ!お困りのようならワターシにお任せネー!」


背後から声が聞こえたかと思うと、次の瞬間には奈月達の間を一陣の風が吹き抜けていった。


その風は街路樹の根本から枝が生えている高さまで、まるで地面を走るかのように重力を無視して


一気に駆け上がると、最後に樹皮を蹴って飛び、見事バスケットボールを両手で掴んで着地を


決めてみせた。


「これでもう泣かなくても大丈夫ネー」


「あ、ありがとうお姉ちゃん!」


陽の光に反射して輝く金色の髪を顔の左側でアップヘアにしたその少女は女の子にボールを


手渡すと、嬉しそうに手を振りながら去っていくその子に、「もう歩きながらボールで遊んじゃ


駄目デスヨー」とこちらも元気よく手をブンブンと振ってみせた。


「あの……すみません。なんかあたし達まで助けてもらっちゃったみたいで……」


「ノープロブレムネー。困った時はお互い様デース」


喜美が礼を述べると、金髪の少女は綺麗に整った歯を見せてニカッと笑い、親指を立ててくる。


「わ、わ!喜美ちゃん、外国人さんです!私、英語は喋れませんどうしましょう⁉」


「落ち着きなさい。どう聞いても日本語を喋ってるでしょうが」


「イエス!ワターシ、マミーはイギリス人だけどダディは日本人ネー。だから日本語も


問題なっしんぐヨー」


「あ……本当です。外国人さんなのに言葉が分かります」


「正確にはハーフね」


陽菜が訂正すると、「ありがとう、助かったわ」と改めて礼を述べた。


「オウ!あまりゆっくりしてる場合じゃなかったネー。マミーとの待ち合わせに遅れちゃいマース」


私はこれにてドロンさせてもらうネーと言い残すと、少女はまたも風のように走り去ってしまった。


「なんか……色々と慌ただしい子だったわね」


「でも、さっきの樹を駆け上っていったのは凄かったです。まるで忍者みたいでした」


「奈月、知ってる?イギリスでは忍者を育成する学校があるそうよ」


「ふみぃ⁉そうなんですか⁉」


「陽菜……あんた、さらっと奈月に嘘を教えないの」


しばらくその場で金髪の少女について語り合っていた三人だったが、当初の目的を思い出すと


我に返り、慌てて穂澄の家に続く道へと戻って行った。






一方その頃――






天端から河川敷で野球をしている少学生チームを眺める一人の少女がいた。


松本梓だ。


黒のトレーニングウェアのポケットに両手を突っ込み、何をする訳でもなく、ただ立ち止まって


二人の指導者達が教えている野球を遠くから見つめている。


その距離感は、まるで今の梓と野球との距離を示しているようでもあった。


「やはりここに来ましたわね」


不意に遠間から声をかけられ、しかし梓は特に驚いた様子も見せずに視線だけをそちらに向ける。


そこには昨日、学校で自分を女子野球部へと勧誘しにきたうちの一人がこちらへ向かって歩いて


きていた。


「……なんでお前がここにいるんだよ」


「お前ではありません。風見 雅と名乗ったはずですわ」


不機嫌そうな梓の問いを、雅もまた不機嫌そうに返すと、「まぁいいですわ」と仕切り直す。


「昨日のあなたの様子を見て、きっとここに来ると思い待っていましたの」


嘘である。実際は梓が女子野球部を辞めてからも、毎日のランニングだけは欠かさなかったのは


調べがついていたからだ。


走るコースと時間はその日の気分によって多少変わるが、この河川敷沿いの道を必ず通るのだけは


変わらない。


それらを調べ上げた上で、今日もここに彼女が来ると確信していた雅は日が昇る直前から千代に


梓の家を見張らせ、自身はこの河川敷のすぐ近くに停めさせた自家用車の中で、目的の人物が


来るまで優雅にティータイムを過ごしながら千代からの連絡を待っていたという次第である。


「ハン。アタシが昔ここで野球をやってたのも調査済ってか。お前、探偵かなんかかよ」


「少し家の力を使っただけですわ。風見にとってこの程度の情報収集などお手の物でしてよ」


そこで梓は初めて、雅がどこかのお嬢様なのだと気づいた。とはいえ、だからといって今さら


彼女に対する態度を変える気は微塵もない。


むしろ、より硬化させた棘のある口調で、


「で?感傷に浸ってるアタシなら口説けるとでも思ったか?」


「まさか。この程度で手に入るような簡単な方なら、こちらから願い下げですわ。


ですので今日は少々、搦手を使わせてもらいますわ」


そう言うと雅はスマホを取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。


「わたくしですわ。ええ。今、目の前にいますわ。……分かりました。では、後のことは


お願いしますわね」


何やら手短に通話相手と言葉を交わすと、通話中のままのスマホを梓に差し出してきた。


戸惑う梓にそれを半ば無理やり手渡すと、雅は「後はお二人でごゆっくりと」と言い残し、


通話が聞こえない距離まで離れていってしまう。そしてどこからか姿を現した千代がテーブルと


椅子を道のど真ん中に設置していき陣取ると、場違いなティータイムを始めてしまった。


「お、おい!アタシにこれをどうしろっていうんだよ⁉」


知らない電話番号が画面に表示されているスマホを梓は困った表情で少しの間見つめたままで


いると、とりあえず相手と話してみることにした。


「……もしもし?」


「あっ……も、もしもし……?あ、あの……松本……梓さん……ですか……?」


河川敷で野球をしている子供達の声にかき消されてしまいそうなほどか細い声。いかにも自分に


自信がなさそうな、儚い女性のその声に梓は聞き覚えがあった。


「え……まさか……。も、もしかして……上諏訪先輩……っスか⁉」


「あ……!う、嬉しい……憶えていてくれたのね……!」


梓が当ててみせると、電話の声の主は声を弾ませてきた。


上諏訪 桃子。梓の中学時代の一つ上の先輩で、女子野球部の先輩でもあった。


そして、梓が野球を辞めるきっかけとなった事件で三年生に虐げられていた……あの先輩だ。


「本当に久しぶり……元気にしてた……?」


「あ……はい……。先輩も元気そうで……その、なによりっス……」


ああいう形で離ればなれになってしまったこともあり、気まずそうに答える梓。それは桃子も


同じだったようで、互いにどう言葉を交わせば良いか分からず、沈黙だけが流れていく。


そんな状況を先に打破したのは、意外にも桃子のほうであった。


「あ、あのね……!私ね……今は福岡の来栖女子で野球をしているの……」


「来栖女子って……全国大会常連の強豪校じゃないっスか⁉」


「うん……。それでね、今年はもしかするとレギュラーになれるかもしれないのよ」


「マジっスか……」


梓は心の底から驚いた。


確かに桃子は当時の女子野球部で唯一、二年生でありながらレギュラーになれるほど野球が


上手かったが、全国レベルの強豪校でもレギュラーになれるほどであったかというと贔屓目で


見ても疑問が残る。


それ故に、きっと文字通り血の滲むような努力をしたのであろうことは容易に想像がついた。


「ははっ……凄ぇや!あの上諏訪先輩が……アタシも後輩として鼻が高いっス!あ……でも、


もう野球部の後輩じゃないか……」


「そ、そんなことない!私がここまでこれたのは、全部松本さんのおかげだから……!」


「え……」


それまでとは違い、突然大きな声を出してきた桃子に梓は驚いた。彼女が野球の試合以外で


こんなにも感情を表に出すの極めて珍しかった。


梓の記憶の中にあるだけでも、それはあの日だけ――桃子と過ごした最後の日のことを思い出し


そうになり、梓は唇を噛みしめた。


「あの日……あの事件の後、松本さんが女子野球部を辞めたって聞いて頭の中が真っ白に


なったわ……。どうしてあなたが辞めなくちゃいけないのかって……本当に辞めなくちゃ


いけなかったのは私だったはずなのに……」


「先輩……」


それは違うっスよ、と梓は否定してから言葉を続ける。


「アタシがあいつをブン殴ったのは事実っスから。それに本当のことを言うと、前々からあいつには


ムカついてたんスよね。だから先輩の件がなくても、遅かれ早かれああしてたっていうか……」


「嘘……」


「嘘じゃないっス」


「だったら……どうして誰にも本当のことを言わないで女子野球部からいなくなったの……?」


「それは……」


「私が先生に何度かけあっても真実は全て揉み消されたわ……。松本さんが何も言わずに辞めた


理由を察してやれって言われて、私もそれ以上……何も言えなくなった……。


結局……女子野球部ではあなたが悪者扱いされて……私もあなたに会うのも禁止されて……」


電話越しの、小さな声が震えていた。


「私も女子野球部を辞めて……抗議するべきだったのに……。松本さんは何も悪くないって


証明しなくちゃいけなかったのに……。ごめんなさい……私……弱くて……何も出来なかった……」


「先輩……」


ああ、そうか……。この人もあの日からずっと過去に縛られ続けていたんだ……


最後のほうは泣き声が混じっていた桃子の言葉に嘘偽りが無いことは、梓にもよく伝わっていた。


だからこそ、最後に彼女に対してつけなければならないケジメがある。


もう自分は大丈夫だから。だから先輩はアタシのことなんか気にせず野球を続けてください、と


嘘であろうと、彼女をあの日の呪縛から解き放ってあげることこそが、そうさせてしまった自分が


つけるべきケジメなのだ。


だから梓は言う。できるだけ明るい声で。誰よりも尊敬していた先輩のために。


「もういいっスよ、先輩。今は凄ぇ高校の女子野球部で先輩がレギュラーになれるかもしれない。


それを聞けただけでアタシは十分に救われました。だから、先輩ももう自分を責めるのは止めて


下さい。アタシは本当にもう大丈夫ですから」


「……じゃ…ない…………大丈夫……じゃ…ない……」


「……え……?」


聞こえてきた、震える……しかしはっきりとした意思を感じる桃子の声に、梓は思わず聞き返して


しまう。


すると――


「それで救われるのは私だけだよ!松本さんは全然大丈夫じゃないよ!そんなの……あの時と


同じじゃない……!」


「――――!」


悲痛な叫び声。それはあの日に聞いたものと同じ声。


自分が桃子の望まぬ過ちを犯し、叫ばせてしまった声。


当時の記憶と重なり合い、また自分は桃子が望まぬ過ちを犯してしまったのだと理解した梓の顔が


一瞬にして蒼白になっていく。


「……ごめんなさい……。私だって……こんなことを言えた立場じゃないよね……」


そして桃子もまた、同じであった。


あの日のことを思い出すと今でも震えが止まらなくなる。それは三年生に受けた暴力が原因では


なく、梓という大切な友人を失ってしまった後悔でだ。


自分達はまた同じ過ちを繰り返そうとしている。


互いに相手を思いやりすぎた故に生じてしまった過ちを。


だから今度こそは。


同じ轍を踏む訳にはいかなかった。


「……私ね……松本さんみたく野球を辞める勇気がなかったから……せめてもっと野球を上手く


なろうって思ったの……。全国大会に出られるような強豪校でレギュラーになれるくらい上手く


なって……プロでもレギュラーになれるくらい上手くなって……。


あの日……あなたに助けてもらった私はこんなに凄かったんだって……それを証明できれば、


少しでもあなたに恩返しが出来ると勝手に思い込んでた……」


そこで梓は理解した。自分の記憶にあった上諏訪 桃子が、どうして来栖女子でレギュラー候補に


なれるまで成長できたのかを。


だから彼女は先程こう言ったのだろう。


私がここまでこれたのは、全部松本さんのおかげだから、と。


「けど……やっぱりそれは違ったよ……。そんなのただの自己満足でしかない……。


私が本当にしなくちゃいけなかったのは……本当に望んだ未来はそんな物じゃなかったから……」


桃子は通話越しにも聞こえるくらい鼻を大きくすすり無理やり涙を止めると、その伝えるべき言葉を


梓に向けて口を開く。


「私、もう一度あなたと野球がしたい……!もう同じチームでは無理かもしれないけど、


それなら全国大会の舞台で、あなたがいるチームと戦ってみたい……!」


「先輩……」


あの気弱だった桃子が、今はこんなにもはっきりと己の気持ちを主張してきている。


自分なんかのために。


あの日から止まってしまっている、梓の時間を再び動かすために。


「もしもあなたも私と同じ気持ちでいてくれるなら……もう一度野球を始めてくれないかしら……?


もう私は大丈夫だから……今度は、私があなたを助ける番だから……!」


だから!と桃子は言葉を紡ぐ。


「今は違う空を見上げてしまっているけど……いつかきっと、また同じ空の下で一緒に野球を


やりましょう!松本さん‼」


――音が、した。


梓の体から。パリーン!と大きな音が。


自分の心までをもずっと縛り続けてきた重い……重すぎた鎖が砕け散り、


粉々になっていく音が――はっきりと梓には聞こえた。


(そうか……アタシはまた野球をやってもいいんですね……先輩……)


ずっと怖かった。


仕方なかったとはいえ、桃子に何も告げずに女子野球部を辞めてしまったことが、彼女に負い目を


感じさせ、追い詰めてしまったかもしれない。


その上、もし自分が他のチームでのうのうと野球をしている姿を見たら桃子はどう思う。ますます


桃子は、梓が自分と一緒にいるのが嫌になったのだと思ってしまうだろう。


もしそうなったら――彼女はますます苦しむことになってしまう。


そう考えると、ずっと怖かった。


けれど……そうではなかった。


彼女は自分のことよりも、それ以上に何倍も、何十倍も、ずっと……今でも自分のことを想って


くれていた。信じていてくれた。


そして、言ってくれた。


あなただって、もう過去に縛られる必要はないのだと。野球をしてもいいのだと。


また一緒に――野球をやろうと。


「ははっ……全国大会で一緒に、か……。無茶言ってくれるなぁ……。こっちはまだ部員すら


揃ってないんスよ……」


涙が零れてしまう前に、梓は空を見上げた。


「でも松本さんが入るチームだもの……。それにあなたのことを理解してくれる、素敵な子達が


いるチームだもの……。きっとすぐに強くなるわ」


「先輩はアタシを信頼しすぎっスよ……でも……」


ずずっ……と鼻をすする。先程の桃子のように。


「そこまで信頼してもらって、やらない出来ないじゃ女がすたるってもんスよね」


梓は空を見上げたまま言い切った。


空を覆い隠そうとしていた雲はいつの間にかなくなり、目の前にはどこまでも続く青い空が


広がっていた。


そしてこの空はきっと、桃子が今見上げている空と繋がっている。


「分かりました。全国大会で会いましょう、先輩」


「松本さん……!」


「その代わり、アタシらに負けても泣かないで下さいよね」


「ふふっ、そうならないように私ももっと練習するわ」


「じゃあ先輩……また」


「ええ……またね、松本さん」


梓は通話を切ると、自ら雅に歩み寄ってスマホを投げて返した。


「ったく……お節介な真似しやがって」


「それは申し訳ありませんでしたわ」


「けど……ありがとうな」


照れた顔で赤くなった鼻先を人差し指で擦りながら、小声で礼を述べる梓。


すると雅はわざとらしく耳を梓に向けると、


「あら?よく聞こえませんでしたわ。もう一度おっしゃっって下さいませんかしら」


にやにやと意地悪く笑ってみせた。


「ちょ、調子に乗んなよてめぇ!」


「あら怖い。それより入部を決めたのなら、顧問の立花先生へ挨拶に参りますわよ」


雅は梓を簡単にあしらうと椅子から立ち上がり、法面の階段を降りると、河川敷へと向かい


歩いていく。


「チッ……食えねぇ野郎だ」


舌打ちをすると雅の後を追い、その隣に並ぶ梓。そこで気になっていたことを雅に尋ねてみる。


「なぁ、立花先生ってまさかあの立花 沙希さんか?」


「あら、ご存知でしたの?」


「そりゃ女子で野球やってて知らない奴のほうが珍しいよ。なんかあそこに似てる人がいるなとは


思ってたけど、まさかあれが本人で、しかもあの鶴川女子野球部の顧問とはなぁ」


河川敷で小さな女の子にバットの振り方を教えている女性を見ながら、世間は狭いもんだと梓は


思った。


「正確には顧問就任予定ですけどね。部員が九人揃ったら正式に引き受けて下さるそうですわよ」


梓が加わったことで、これで残りは四人となった。


今日、もう一人の部員候補を勧誘しに行っている奈月達は上手くやっているだろうか……


(まぁ…あの方がいれば心配はいりませんわね)


雅は『彼女』の顔を思い浮かべて信を置くと、沙希に声をかけて梓を紹介する。


その少し後、十年前の決勝戦の例のアレを知る部員がまた一人増え、沙希が立ち眩みを


起こすのは……また別のお話。




【続く】

この章を書いてる時はサブタイトルの元ネタになったKOTOKOさんの曲をずっと流してた。

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