第二部 VS氷取沢女学院 第八章 4
『ついに貴重な勝ち越し点をあげました鶴川高校!
しかもまだワンアウト。さらなる追加点を奪い、勝利をより確実な物としたいこの場面で、
最もチャンスで期待が出来る主砲・南さんが打席に入ります!』
打席に入るとヘルメットを脱ぎ、一礼する奈月。
チームメイトからの期待と信頼をその小さな体で背負いながら再びヘルメットを被り直すと、
打席内でのルーチンワークを一通り終わらせバットを構えた。
それを椿はマウンド上から見届けると、小さく細い息を吐き出した。
ここまで奈月と三打席対戦し、内容は一勝二敗。しかもその一勝も、相手のデータになかった
スラーブという奇襲で得た物だ。
これ以上の点はやれないこの状況下で、ホームランも打たれている打者。梨花からは敬遠の
指示が出されるかと思っていたが、指揮官がバッテリーに与えたのは勝負の二文字であった。
(へへっ……。監督も少しは空気を読めるじゃん)
武者震いをしながらも、椿は口端を緩ませた。
もとより奈月との勝負から逃げるつもりは微塵も無かった。
ロージンを右手で躍らせながら、目を閉じてもう一度小さく息を吐く。
マウンド上で不安を感じた時に必ず思い出すものがある。
それは――菫と交わした、あの日の約束。
「川島先輩!」
今から一年前の夏。県大会を直前に控え、最後の調整であった練習試合を終えた後のこと。
試合の反省会も含めたミーティングを終え、いつものように独りで自宅への帰路についていた
自分の名を呼ぶ声に、菫は足を止めて振り返った。
「橋本さん……?」
そこには息を切らせた椿がいた。どうやら自分を追いかけて走ってきたらしい。
「ど、どうしたの?私に何か用があったのかしら……?」
「用が無ければこんなとこまで走ってきませんし、名前を呼んだりもしませんて」
「そ、そうよね……。ごめんなさい……」
当たり前のことを聞いてしまったと菫はすぐに謝り、頭を下げた。
出会った頃から全く変わらない、おどおどとした弱腰な態度。そしてすぐ自分が悪いと
決めつけ、謝る癖。
それらが相変わらず椿には癇に障り、湧き上がる苛立ちを自分の髪をかき乱すことでなんとか
堪えた。
「別にあたしが勝手にやったことなんで謝られても困るんですけど?」
「ご、ごめんなさ……」
「だーかーらー!なんでもすぐ謝んなって言ってるんじゃん!」
このままでは菫が謝ってばかりで話が進まないと思い、思わず敬語を使うのも忘れて大声を
張り上げる椿。
反射的に菫もまた謝ろうとしたが、ジト目でこちらを見てくる椿の視線に気づき、
両手で自分の口を塞いで言葉を閉じ込めた。
「そ、それより私に用って……」
「試合中のリードについてです。単刀直入に言いますよ。川島先輩、あたしに気を遣って
ませんか?」
「え……?そ、そそそんなこと……な、な、なななないわわわよ……?」
分かりやすいまでにきょどり、目を明後日の方向へと逸らした菫を見て、椿は深いため息を
ついた。
「そりゃあたしだって投げたい球ばっか投げれたら気持ちいいですよ。けど、県大会を勝ち抜く
にはそれじゃ駄目なはずですよね」
「そ、それは……」
肯定すれば、それは椿の実力を否定するのと同じであった。だから返答に迷う菫に対し、
椿は自ら答えを口にする。
「今の自分がどの程度の投手かくらい、これまでの練習試合で分かってますよ。
悔しいけどあたしはまだ高校野球で通用するレベルじゃない……」
自身の実力不足を認め、ぎゅっと両手で拳を握りしめる。
「だからお願いします!これからはあたしのこと、椿って名前で呼んでください!」
「………え………?」
突然話の前後が日本とブラジルくらい離れて繋がらなくなり、菫も思わずきょとんとなって
しまった顔で首を傾げるしかなかった。
そんな菫の様子に何かがおかしいと感じた椿もすぐに自分が口にした言葉を頭の中で
反芻して――
「あ……」
気持ちばかりが先行して、過程を通り越して最後に言おうと思っていた言葉をいきなり口走って
しまったことに気づき、顔が一瞬にして茹蛸のように真っ赤になっていった。
「ち、ちちち違うんです!い、今のは別に川島先輩にそう呼んでほしいって意味じゃなくて!
いや結果的にはそう呼んでほしいんですけど⁉」
最早自分でも何を言ってるのか分からなくなり、椿は髪型が無茶苦茶になるほど両手で
かき乱すと、バクバクと跳ねる心臓を落ち着かせるように何度も大きく深呼吸を繰り返す。
「え、えっと……ですね!要するにですよ!お互いに対等な立場になれれば、川島先輩も
あたしのことを甘やかしたりできないんじゃないかって思ったんです!先輩が遠慮なくリード
してくれれば、あたしでも上級生相手に戦えるのも分かりましたし!」
そこまで早口でまくし立てるように言うと、椿はまだ真っ赤なままの――むしろ先程よりも
さらに赤くなってしまっている照れた顔を菫から逸らしながら、
「だ、だから……あたしもこれからは菫先輩って呼ばせてもらっても……いいですか……?」
「橋本さん……」
すると菫はグスッ……と鼻を鳴らし、口を閉ざしていた手で目元の涙を拭う。
「やっぱり私は駄目な先輩ね……。一年生のあなたにそこまで考えさせてしまうなんて……」
「い、いや!あたしはそんなつもりで言ったんじゃ……」
「ううん。正直に言ってくれてありがとう。――椿」
「‼」
「私もこれからは椿と対等でいられるように一層頑張らないとね」
「あ、あたしも頑張ります!菫先輩に相応しいピッチャーになれるように!
あたしがこのチームのエースだって胸を張って言えるようなピッチャーになってみせます!」
「ふふっ。それじゃ、明日から一緒に頑張りましょ?」
「はい!菫先輩‼」
(あたしが菫先輩と呼ぶようになって、皆も真似をするようにそう呼ぶようになった)
けど。
(菫先輩が下の名前で呼ぶのはあたしだけ……。それはこのチームのエースであり続ける限り
許された、あたしだけの特権)
だから。
(ここで逃げるなんて選択肢があるわけないじゃん!)
両目に宿った闘志の炎が、瞬く間に全身へと燃え広がっていく。
いつしか手の震えは止まっていた。
相手は間違いなく全国レベルの打者。だが、だからどうした。
(あたしと菫先輩を繋ぐこの絆の1球――打てるもんなら打ってみろじゃん!)
全身全霊を賭した球が椿の手から放たれる。
対する奈月は、その球がミートポイントに到達するまでの僅か1秒にも満たない間にコース、
球種を見極め、さらにバットを振るかの判断を行う。
奈月が下した判断はGOであった。
自身の膝元――インコース低めのストライクゾーンギリギリへと飛来する直球に対し照準を
合わせ、スイングを開始する。
そして――金属バットが球を捉え、打ち返す快音が鳴り響いた。
『打ったぁー!三塁線への強烈な打球ぅッ――‼』
涼子がそう言い終える頃にはすでに三塁ベース前で小さく一度バウンドしているほどに速く、
鋭い打球。
目で追うのも難しいほどのスピードの打球であったが、それに反応してみせた者がいた。
『サ、サード捕ったぁ‼』
地を這うような超低空の横っ飛びで、ヒット確実だと思われたその打球を玲子は止めてみせた。
(捕っただけじゃ駄目だ!これだけじゃ私のミスは1%すら消せたりしない‼)
自身に言い聞かせながら、空中で伸び切った体を捻りながら丸め、柔道の前回り受身を
するように回転して着地すると、さらには片膝をついて一瞬で起き上がる。
そして二塁ベースへと上半身を向けると、投げようとしていたそこへとすでに走り込んでいた
彼女目がけて送球する。
「絵里香‼」
「あいよー!」
打球が速すぎたことが、一塁ランナーの穂澄には不利に働いてしまった。
奈月が打ち返したのとほぼ同時にスタートを切っていたが、それでもまだ一塁と二塁の中間点を
やっと過ぎたばかりであった。
玲子からの送球を受け取った絵里香は余裕を持って二塁ベースを踏み、これでランナーの穂澄は
アウト。
さらに一塁へと送球し、奈月がベースに到達するよりも早く、球は彩芽のグローブに届いた。
『一塁もアウトでダブルプレー完成ぃぃ!亜麻根さんのスーパーキャッチから流れるような
ボール回しで鶴川高校の追撃を強制シャットダウンさせましたぁぁッッ‼』
「玲子!」
名前を呼ばれ、ユニフォームを汚した土を払うのも忘れるほど興奮させた顔を向けると、
椿がこちらへと駆け寄りながら立てた親指を向けてきた。
「サンキュー!助かったじゃん!」
「でも、これで自分のミスが帳消しに出来たなんて思ってないからね!この後の打席で
完全返済してみせるから!」
玲子も同じように親指を立てると、握った他の指の部分でタッチを交わし、そのまま二人は
並走しながらベンチへと戻っていく。
これで鶴川高校の残り攻撃回は1。しかし後攻の氷取沢女学院には2回残されている。
果たして勝利はどちらへと転がろうとしているのか――
その答えは未だ誰にも予想がつかなかった。
【続く】




