第二部 VS氷取沢女学院 第七章 6
「穂澄!」
ベンチから出た沙希は打席に向かおうとしていた穂澄を呼び戻すと、口の動きを見られないよう
グラウンド側に背を向けて話し出す。
「無理に犠牲フライを狙う必要はないわよ。むしろ向こうはそれを阻止する為に低めへ球を
集めてくるでしょうから、逆手にとってやりなさい」
「委細承知しました」
「よし!任せたわよ‼」
最後に背中を叩いて穂澄を送り出すと、入れ違いで海帆がベンチへと帰ってきた。
「ナイスバントだったわよ、海帆!」
「あ、あれはとてもバントと呼べるようなものでは……。自分でも訳が分からないうちに
そうなっていただけでありますし……ラッキーだっただけであります……」
「そのラッキーを呼び込んだのは最後まで諦めなかったあなたの力よ。それによく言うじゃ
ないの。運も実力の内ってね」
髪型が原型を留めなくなるほど頭を撫でまわして沙希が褒めると、便乗したチームメイト達も
次々と真似をする。
「あ、あはは!そんなに撫でられたら、なんだか気持ちよくなってしまうでありますよ~!」
「はぁ~~……すぅ~~……」
右のバッターボックスに入った穂澄は、空気の入れ替えをするように大きく吐いた息の分だけ
吸い込み呼吸を整えると、静かにバットを構えた。
勝敗を左右するプレッシャーがかかる局面にもかかわらず、いつも通りのリラックスした
自然体。相手バッテリーからしてみれば、これほど嫌な雰囲気の打者はないであろう。
だが穂澄とて人の子である。全く緊張をしていないかといえば、答えは否であった。
見た目こそ普段と変わらぬが、バットを握る指先にはいつも以上に力が入ってしまっている。
その昂りを鎮めるために穂澄は父の教えを思い出していた。
『緊張を無理に抑え込もうとするな。弱さを隠したところで、それは必ず己に牙を剥く。
それも大事な局面で、必ずだ。
だから受け入れろ。緊張は己が弱さだと認め、己が未熟な心と共に燃やし、炎として全身へと
行き渡させろ。
さすれば――己が弱さは強さへと変わる』
「すぅ……」
今度は短く息を吸い込む。そして心臓の内で不安定にゆらゆらと揺れる火種を吸い込んだ息が
行き着く肺へと送り込み、炎を巻き上げるための燃料とする。
油に火をつけた如く豪快に燃え盛る炎。それを穂澄は血液と共に一気に全身へと流し込んだ。
比喩ではなく、全身が燃え上がるように熱くなってくる。熱気は四肢の先端まで行き届き、
緊張で固くなっていた指先もほぐしていく。
(よし!)
今度こそ本当の自然体の構えを得た穂澄は、サイン交換を終えてセットポジションに入った椿を
見据えた。
(先生が仰っていた通り、この場面での最も可能性が高いコースは低め。そこのみに狙いを
絞り、確実に強く叩きつける!)
ののあの足ならば、地面に叩きつけられた打球が跳ね上がっている間にホームへ帰ってくること
が可能なはずだ。
それをイメージしながら初球を待つが――
『インコース高めギリギリに決まってストライークッ!』
椿が投じて来たのは、読みとは正反対の胸元への直球であった。
『少しでも内へ甘く入れば長打のリスクがあるインハイへよく投げ込んできましたね』
『そうなんですか?』
『高めのコースの球は打者からすれば飛ばしやすいですからね。犠牲フライを打たせたくない
橋本さんからすれば、かなり勇気がいる投球だったと思いますよ』
『なるほど……。でも、どうしてわざわざそんな危険なコースに投げたんでしょうか?』
『危険なコースだから、でしょうね。手が出なかった千葉さんを見るに、まさかそこへ
投げてくるとはといった感じでしょうし、加えてインハイはバントが最も難しいコースでも
ありますしね』
『打者の裏をかきつつ、三塁ランナーへの対策もしていたということですか……。たった1球に
そこまでの意味があったなんて私には考えも及びませんでした』
『ふふっ。野球は奥が深いですから、少しずつでもそういうところに気づければ今よりもずっと
面白くなると思いますよ』
『はい!では遠慮せず、気になったことはどんどん大矢さんに聞いて行こうと思います!
視聴者の皆さんも不思議に思ったことがありましたら、番組当てにメッセージを送って
大矢さんに聞いてみましょう!』
「上手いですね、彼女。自然に視聴者を巻き込みましたよ。まぁ、試合はもう終盤ですから
メッセージを送られてきてもほとんど紹介できないでしょうけど」
「あいつは頭の回転が速いからな。アドリブに強いという点では実に生放送向きのアナウンサー
だよ」
「まっ、台本にない展開はちょっと勘弁してほしいですけどね」
苦笑しながらも、この番組のADである女性は慣れた手つきで中継映像にメッセージの送信先の
テロップを出した。
「でも実際、初めての野球実況にしてはよくやってると思いますよ。私も野球はそれほど詳しく
ないですけど、聞いててなんか楽しいですし」
「そうだな。だが私の中じゃ、まだギリギリ及第点に届いていないがな」
「え~、それはちょっと厳しくないですか?」
「それだけあいつには期待してるってことさ」
そう言うと優子は小さく笑みを浮かべるが、すぐに仕事中の顔へと戻る。
(やれやれ……。あの子も大変な人に目をつけられちゃったもんだねぇ)
何度も優子と現場を共にしている女性ADは、ある意味で涼子のことを可哀想だと思いながら
も、自身もまた己の仕事を全うしに戻った。
【続く】




