第二部 VS氷取沢女学院 第六章 5
『さぁ、秋月さんの投球練習も終わり試合再開です。
ツーアウトながらランナーは二・三塁。そして打席には最もチャンスで期待が出来る打者、
川島さんが入ります』
菫が打席に立つと、一際大きな歓声が三塁側の観客席から上がる。
もう一点! もう一点! ここで逆転!という願いが込められた応援は巨大な熱気の渦となり、
球場全体までをも包み込んでいく。
その熱さを一身に受け止め、自らの心と体とを同化させるように高揚しながらも、しかし決して
冷静さを失わぬよう思考だけは冷ましたまま菫はバットを構えた。
『大矢さん。鶴川としては依然ピンチが続きますが、ここはどう守るべきでしょうか?』
『そうですね……。一塁は空いていますし、敬遠も有りだとは思います。
勝負するにしても、フォアボールで歩かせるのを前提とした、ストライクゾーンの外で
バットを振らせる配球にするべきでしょうね』
『つまり、まともには勝負をしないと?』
『次の神那さんも巧打者ではありますが、川島さんと比べた場合の抑えられる確率を考えれば、
そうするのが定石かと。
もっとも――秋月さんに切り札があれば話は変わってきますが』
『切り札……あっ!笹川さんと交代したことで生まれる球速差はどうですか⁉』
『確かに球速が遅い物から速い物に変わったほうが打者としてはやりづらいでしょうね。
ですが……』
『並みの打者が相手であれば有効な手かもしれないけど、川島さんの打撃力は並みではない……
でしたっけ?』
『です』
前の菫の打席で自分が言ったセリフをほぼそのまましっかりと覚えていた涼子に向かって、
文代はクスッと笑いかけると、首を縦に振ってみせた。
そして、その文代の予想通り――
初球から奈月が中腰で立ち上がると、菫の目と同じ高さを通過する明らかなボール球から
入ってきた。
当然、菫はこれを見送る。しかし十分な余裕を持っているように見えたその姿とは裏腹に、
内心は決して穏やかではなかった。
(想像していた以上に速く見えたわね……。思わずバットを振りそうになってしまったわ)
喜美との球速差が生むスピードの幻影は、決して菫に対しても効果がない訳ではない。
今の初球にしてもそうだ。
体感的には対 比良坂 叡用として練習で打ってきた、160km/hの球速に設定された
バッティングマシーンと遜色がないと菫には感じられた。
――けれど。
そのたった1球で頭の中のイメージをより正確な物へと修正できるのが、並みの打者ではないと
文代に言わしめる所以なのである。
(後は目が慣れるまではコースの見極めに集中して、1打席目と同じタイミングでバットを
振りにいけばいい)
ストレートはカットしてファールにし、ストライクを取りに来た変化球を狙い撃つ。やるべき
ことは何も変わらない。
何も変わらなければ、結果も変わらぬはずなのだから。
そして二球目――
陽菜の左手から球がリリースされるタイミングに合わせて、菫もスイングを始動させる。
ここで投じられた球がストライクゾーンに入っているようならばこのままスイングを続け、
外れているのならばバットを止める。
その最初の判断を迫られるポイントで、菫の目はストライクゾーンに入っていると捉えた。
故にスイングを続ける。続けながら、次の判断ポイント――これがストレートか変化球かを
識別し、それに合わせてスイングの軌道を変えていく。
――はずであった。
(球のスピードが……おかしい……⁉)
ここで初めて、菫は違和感に気づいた。
陽菜が投じたその球のスピードは、頭の中でイメージしていたどの球種とも違っていた。
そこまで気づいたが、一度振りに行くと全身に命令を下したバットは止められない。
球は――『まだ来ない』。
頭では分かっていても、止められないバットは体を泳がせながら、球が存在しない空間を
通り過ぎていく。
そして、バランスを崩したまま空振りをして片膝をつく菫を球は横目で見届けるように、
悠々とストライクゾーンを通過し奈月のキャッチャーミットへと収まった。
『二球目は空振りーッ!……って、あれ……?川島さんがこの試合で空振りしたのって
初めて……じゃないですか?』
『え、ええ……そうです。それよりも今の球は……』
『今の球……ですか?そう言えばなんだか今までのよりも遅かったですよね。
なんかフワッとしてて『すっぽ抜けた』みたいな……。もしかして投球ミスでしょうか?』
『いえ……今のは多分――』
「チェンジアップ……だとぉ……⁉」
球場にいる誰よりも驚きを露わにし、同時に奥歯が砕けてしまいそうなほどにギリッ……と
噛み締める口から、梨花はその球の名を吐き出した。
チェンジアップ。
現代の魔球とも呼ばれ、プロで活躍する投手にも使い手が多い変化球の一つである。
単体で見れば、ただの『遅い疑似ストレート』である。打者からしても、これほど打ちごろの
球はないであろう。
なのに魔球たらしめる理由は、ストレートと同じ投球フォーム、同じ腕の振り、同じ軌道から
繰り出されながらも、スピードだけが遅くなるという点。
そして何よりも、遅くなった分だけ生まれるストレートとの球速差――緩急にあった。
『でもそれって……秋月さんと笹川さんの二人でやっていたことですよね?
川島さんの二打席目では特に緩急を苦にすることなくヒットを打たれていましたし、
それがどうして急に空振りをさせられるようになったんですか?』
『これまで鶴川の投手二人でやってきたのは、言うなれば『共同作品のチェンジアップ』なん
です。相手の頭の中に、前の投手のイメージが残っているうちに球速の差が大きい球で
幻惑させる手品のような物ですね。
ですがぶっちゃけてしまえば、それは頭の中に残った前の投手のイメージさえ消してしまえれば
何の意味も成さなさないんです』
『だからそれが出来た川島さんや他の打者はヒットを打てた……と?』
『です』
文代は一つ頷いてから、さらに説明を続ける。
『けれど今回はそうはいきません。笹川さんの『緩』と秋月さんの『急』が個々で別れていたの
とは違い、秋月さん一人で『緩』と『急』のどちらも使えるようになった訳です。
これにより、今まで『急』だけを考えていれば良かった打者にも、『緩』という選択肢が生まれ
ます。これがチェンジアップの肝なんですよ』
『つ、つまり……え、えぇっと、ちょっと待って下さいね……』
段々と理解が追いつかなくなり頭からプスプスと白い煙を出し始めながらも、
涼子はショート寸前の思考回路で即座にこれまでの説明を整理していく。
『今まで通り『急』の球に合わせてスイングしようとすると『緩』の球が来てタイミングが
合わず空振りしてしまう。当然それはその逆も成り立つ訳で……
あっ!しかもそれだけじゃなく、一度どちらかの球速を見せてしまえば逆の球速の体感スピード
も狂ってしうまから……ええと……えぇっと……』
そこで涼子は突然、両目をくわっ!と見開き、
『今までよりも打つのがめっちゃ難しい!』
『フフフッ。です、ね』
最終的に辿り着いた解答は子供じみたものであったが、しかし何よりも的を得た百点満点の
解答であると文代は微笑ましく思い笑みを浮かべると、パチパチパチと称賛の拍手を送って
みせた。
(これは……マズイわね……)
そして陽菜が投げたチェンジアップに驚異と焦りを最も感じていたのは、打席に立つ菫だった。
思い切りの良い腕の振りから打者にはストレートだと思わせておいて、実際に来るのは球速が
20km/h以上も遅い球。
騙されたら最後。ストレート狙いで早く始動させたバットは途中で止めることが出来ず、
タイミングを崩された不完全なバッティングフォームで空振りの山を築くしかない。
(まさかこんな切り札まで隠し持っていたなんてね……)
一回戦で陽菜が投げた映像を、菫は梨花と共に漏らすことなく調べ尽くしたはずだ。
それだけではない。梨花の復讐心が生んだ執念は中学時代にも及び、全国大会での投球映像すら
も知り合いのつてを借りて全て目を通していた。
その上で陽菜がチェンジアップを投げたことなど――それどころか緩急を使ったピッチングすら
一度もしていなかったと自信を持って言い切れる。
ならば考えられる結論はただ一つ。そこへベンチにいた梨花も同時に辿り着く。
(この試合の為に習得してきたっていうのか……?しかも切り札として、最も効果的な
この時まで温存してただと……!?)
梨花の奥歯が再び歪んだ音を立てる。先程よりも、一段と大きくなって。
脳裏に浮かび上がるのは十年前の記憶。
幾重にも張り巡らされた策の前に敗れた、かつての自分の姿と現状が重なりかけた瞬間――
「立花ぁぁ……!立花沙希ぃぃぃ……ッッ‼」
梨花は狂うほど激しい憎悪の炎で、無理やり過去の記憶を燃やし尽くした。
『またもや空振りーッ!今度は初球とほぼ同じコースのストレートに手が出てしましたーッ!』
『精密機械のようだった川島さんのバッティングが、あの1球によって完全に狂わされてしまい
ましたね』
川島 菫の野球は事前に集めた対戦相手の情報を丸裸になるまで徹底的に解析し、その上で状況と
合わせて最適化させることで得られる最も高い確率を選択していくデータ野球だ。
故に、彼女が試合中に勘に頼るということは全くと言っていいほど無い。
もしも菫がこの打席に入る前に、陽菜が他の打者にチェンジアップを使っていたのなら結果は
また違っていたかもしれない。
けれど――そうはならなかった。
頼るべきデータが一切存在しない状況。チェンジアップを加えた際の配球がどのようになるのか
分からない以上、後は勘と経験に頼らざるを得ない。
そうなった時点で――
『最後は縦に沈むスライダーにバットが回り三振――ッッ!
鶴川高校、この大ピンチを凌ぎ切りました――ッッ‼』
勝敗は――決していた。
【続く】




