第二部 VS氷取沢女学院 第六章 4
「ふぅ~~……」
一つ大きな深呼吸をしながら足場を固め、バットを構え始める椿の挙動を一つたりとも見逃さぬ
よう注意深く観察してから、奈月はベンチの沙希へと視線を移す。
(スクイズ、あるわよ。初球警戒していきなさい)
(はい!)
受け取ったサインから椿への対策を確認して、次に現在の状況も頭の中で再確認する。
ワンアウト満塁。沙希の指示により、内野守備はスクイズにも対応できるよう定位置よりも
少し前へ。前進守備になるほどまでは出すぎない中間守備を敷いている。
外野守備は犠牲フライを阻止するためと、万が一ヒットになった打球が内野を抜けてきた場合に
二塁ランナーをホームまで還さないよう、こちらも定位置よりも少し前へ。
椿の打撃力では外野手の頭を越えるような長打の確率は低いと判断しての守備シフトであった。
鶴川の狙いは椿を内野ゴロに打ち取り、ダブルプレーにして無失点でこの状況を切り抜ける
こと。だが、それは相手も当然お見通しであろう。
だからこそ『そうならない為に何を仕掛けてくるのか』を考えなければならない。
その中でも特に確率が高いと予測されるのがバントエンドランであった。
今の状況におけるバントエンドランとは、投手が投球モーションに入ると同時に全ランナーが
次の塁へ向けてスタートを切り、打者がバントで打球をフェアゾーンに転がしているうちに
三塁ランナーをホームインさせる作戦である。
まずは最低でも同点に追いついておきたいというチームの心情。そして打者が他の者と比べ
打撃力で劣る椿であるからこそ、氷取沢がこの手を選ぶ確率が高いと予測出来きた。
(でも、いくら確率が高くても決めつけるのは危険……。あくまで可能性の一つとして考えて、
思考は常に柔軟に……です!)
キャッチャーとしての師である久美の教えを思い出しながら、奈月は喜美へサインを出してから
体を右側――アウトコースへと寄せた。
――初球。まずはスクイズの警戒と相手の出方を伺うために、ストライクゾーンからは大きく
外した、しかも奈月が立ち上がって捕球しなければならない高さへとストレートが来る。
これに対し椿は一瞬打ちにいく素振りを見せながらも、明らかなボール球だと判断するなり
バットを止めて引いた。
(バントの構えをせずに打ちにきた……?それにランナーも動こうとしてなかった……)
打者のみにだけでなく、全てのランナーに対し神経を張り巡らせていた沙希は、自身の予想とは
違った氷取沢の動きに眉を顰めた。
バントエンドランではなく椿の打撃に賭ける強硬策だったのか。それとも、こちらにそう思わせ
るための演技なのか……。
初球だけでは見抜けず、奈月には続けてスクイズ警戒のままで行くようにサインを出した。
ただし今度はアウトコース低めに落ちる変化球でと、配球にまで細かく指示を送る。
もっともバントがしずらいコースへ変化球を投げさせることで、二球目が本命であった場合にも
簡単にやらせないようにするのが狙いだ。
『さぁ注目の二球目……アウトコース、ワンバンドするほど低めの変化球に手が出てしまい
ストラーイクッ!』
『これはまた思い切りよくフルスイングしてきましたね』
『やはりスクイズではなく、橋本さんのバットに託した……ということなのでしょうか?』
『さて……どうでしょうね。裏と見せかけておいて表、という可能性もありますからね。
ただ、私なら――』
三度ベンチから奈月へ。さらに自分へと伝えられたサインを確認して喜美がセットポジションに
入る。
『監督だけでなく守備についている選手達にも、頭の隅にしかなかった『バントエンドラン以外
の可能性』が膨らんできている次で仕掛けますね』
そう、文代が予想した通り――
喜美がクイックモーションで投球へと移った瞬間、ランナーが一斉に走り出した。
同時に椿もバントの構えを取る。
(き、喜美ちゃん!)
氷取沢の動きにいち早く反応したのは奈月であった。
慌てて立ち上がると、初球と同じように椿が立つバッターボックスとは逆方向へと体を移動させ
ながら右腕を目いっぱいに伸ばし、喜美に対して『外す』ように伝える。
喜美もまた、三塁ランナーがスタートを切ったのが見えていた。
投げ込むべき予定の場所には、すでに椿がバントの準備を終えて待ち構えていることも。
左足はすでに踏み込ませてしまっている。それでもなんとか無理やり上半身を捻って腕の振りを
修正し、立ち上がるのが見えた奈月が移動するであろう場所へと球を投げ抜いた。
「よし!外した‼」「外されただと⁉」
双方の指揮官が明暗の分かれた声を同時に上げる。
そして、誰もが氷取沢の作戦は失敗したと思ったその中で――
それでもまだ、諦めていない者がいた。
その者はバントの構えのまま両足で地を蹴り、全身を宙へと投げ出す――
(届け――届け届け届けぇッ!届かなくたって――絶対に届かせてみせるじゃん‼)
椿が捨て身のダイブを決行しながら、バットを持つ両手を限界まで逃げていく球へと向けて
伸ばす。
その執念は不可能を可能へと変え――
コン……
限界を越えた先へと突き出されたバットの先端に球を当てさせた。
僅かに浮かび上がった球は全員が行方を見つめる中、落下して地面で跳ねるとそのまま前へ
コロコロと転がって行く。
奈月と喜美の間。完全なフェアゾーンへと。
「喜美ちゃん!ファーストです!」
投げ終わると同時に全速で前へ駆け出していた喜美は、すでに三塁ランナーが滑り込んでいる
ホームへと投げたくなる気持ちを唇を噛んで押し殺し、奈月の指示通り掴んだ球を一塁へと
送る。
喜美と同じくバント処理のため前進してきており、本来守るべき一塁ベースを空けていた梓の
代わりにカバーに入っていた海帆がそれを受け取り、これでツーアウト。
しかしスコアボードには、氷取沢が今ので得た点を示す1の数字が表示され、総得点も鶴川と
同じ2へと変わってしまった。
『ど、同点――ッ!橋本さんの意地と執念が生んだスーパースクイズで氷取沢が同点に
追いつきました――ッッ‼』
「つ、椿!大丈夫⁉」
バントを成功させた後、そのまま前のめりに地面へと着地したまま動かない椿のもとへ、
ネクストバッターズサークルで控えていた菫が慌てて駆け寄る。
膝をついて椿の体を抱え起こそうと両手を伸ばしたした瞬間、ガバッ!と勢いよく上半身を
起き上がらせてきたので菫は思わず、「ひやぁっ⁉」と情けない悲鳴を上げてしまった。
「やった……!やったやったやった!やってやったじゃん‼ 流石あたしじゃん‼ あっ、菫先輩!
今の見ててくれました⁉」
「え、ええ……素晴らしいプレーだったわ。それよりも怪我とかは……」
「大丈夫です!あたし、こう見えても頑丈さには自信がありますから!」
「そう……よかったぁ……」
強がりでもなく本当にどこも怪我をしていないことを確かめると、菫は心の底から大きく安堵の
息をついた。
「後は私に任せておいて。必ずこの回に逆転してみせるから」
「はい!信じてます‼」
椿と菫は互いを信頼しきった目で見つめ合うと、パァーン!と力強いハイタッチを交わす。
そして椿がバットを拾いベンチへ戻ろうとすると、スーパープレーを称える拍手が観客席から
鳴り響いた。
「ごめん……陽菜……」
氷取沢の打順がまた一回りし、再び一番の川島 菫を迎えるところで沙希は再びピッチャーの
交代を主審に告げた。
そしてマウンドに戻ってきた陽菜を待っていたのは、すっかり意気消沈してしまっている喜美の
口から出た謝罪の言葉であった。
「? どうして喜美が謝るの?」
しかし陽菜は喜美の言葉の意味が本当に分からないといった様子で首を傾げる。
「だって同点にされちゃったし……ピンチのまま交代になっちゃったし……」
「もともと二巡目までは一巡ごとに交代って作戦だったでしょ。喜美は自分の役割をきちんと
果たしたのだから謝る必要なんてどこにもないわ」
それに、と付け加えて陽菜は言葉を続ける。
「点なら私も1点取られてるわ。同点になったことを謝らなくちゃいけないのなら、
私も喜美に謝らなくちゃいけない」
「ふみぃ……。それなら二人が打たれてしまうリードをした私が一番謝らなくちゃいけな……」
「奈月は何も悪くないわ」
間髪入れず……というか食い気味すぎる陽菜の反応速度に、それまで周りで陽菜と喜美の
やりとりを見守っていた内野陣も(フォロー速っ!)と心の内でツッコミを入れざるを
得なかった。
「とにかく、ここから先は私がもう喜美を謝らせたりしないわ。だから後は任せて」
「陽菜……。うん……お願い……」
喜美は顔をうつむかせたまま陽菜にボールを手渡すと、サンバイザーのつばを一度深く下げて
から一塁へと駆けていく。
観客席のあちこちから視線を感じる。喜美にはそれら全てが刃となり、全身を突き刺してくるよ
うに感じた。
きっと鶴川を応援してくれていた人達は皆、自分に落胆しているに違いない。
口には出さないが、どうしてこんな奴を陽菜と交代させてまで投げさせたのかという声が
今にも聞こえてきそうだった。
――けれど。
「喜美~~っ!ナイスピッチ~~~~っっ‼」
一人だけ。
たった一人だけであったが、席から立ち上がり、喉が潰れるのではないかと心配になるほどに
声を張り上げ、小さな両手で必死に拍手を送ってくれる者がいた。
「仁美……」
「ほら!春香も!」
「う、うん!」
急かされながらも、隣の席で座っていたもう一人の応援団も立ち上がり、トランペットで選手を
鼓舞する曲を奏で始める。
仁美も拍手を止めると、真っ赤になった両手で自身も楽器を持ち、そのメロディーに合流して
いった。
「……ッ」
思わず目頭が熱くなり、それを隠そうと喜美がサンバイザーのつばを限界まで下げようと
した、その瞬間――
「喜美ッ!」
ベンチからも名を呼ばれ、驚きで体をビクッと震わせながらも反射的にそちらを見る。
するとそこには優しい眼差しで口元も綻ばせ、こちらに向かって親指を立てる沙希の姿が
あった。
「氷取沢の打線を相手によく投げ抜いたわ!戻ってきたら頭わしゃわしゃしてあげるから
覚悟しておきなさい!」
これまで教え子達を褒める時に必ずと言っていいほど見せてきた、その見慣れた安心する顔と
ポーズ。
だから分かる。それが自分を立ち直させるためのものであっても、その場凌ぎだけの言動では
ないということが。
(そう……だよね……。私なんかが優勝候補相手に、まぐれだったとはいえアウト一つ
取れたんだ……。それで十分なはずじゃない……)
なのに――
喜美は、唇が切れてしまいそうになるほどにきつく噛み締める。
よくやった。
十分だ。
誰かに言われ、自分でもそう言い聞かせる度に、どうしてこんなにも――
悔しくて……堪らないのだろうか……。
「奈月」
喜美がファーストへ向かったのを合図にするようにして、他の内野陣も解散し守備位置へと
戻ろうとしていた、その時だった。
マウンドに一人残った陽菜に声をかけられ、奈月は小走りのままくるりと踵を返すと彼女の
もとに戻っていく。
すると陽菜はグローブで口元を隠し、
「『アレ』、使うわよ」
「――――! はいっ‼」
それは奈月も考えていたようで、陽菜の言葉に対して迷いなく頷いた。
【続く】




