第二部 VS氷取沢女学院 第三章 8
「ふぅ……」
マウンド上でセットポジションに入りながら、椿はまた一つ深呼吸をする。
ダブルプレーでツーアウトにはなったが、ランナーは未だ二人。そのうちの一人はホームベース
に最も近い三塁におり、依然ピンチであることには変わりない。
そしてランナー達は揃って大きくリードを取り、椿へとプレッシャーをかけてきていた。
(くそっ……ウザすぎじゃん……)
右投げの椿からはどうしても三塁ランナーが視界に入ってしまう。
その三塁ベースから大きく離れたリードは、キャッチャーが後ろに逸らせば迷わずホームに
突っ込むぞとアピールしまくってきている。
もう一度牽制を入れてやろうかと思ったが、菫からはサインが出ていないので自重した。
代わりに出されたサインは、左打席のバッターから見てアウトコース高めへとわざと外すよう
要求されたストレートであった。
(ボールカウントから入って様子見……?
フン……作戦が成立しなかった途端に消極的なリードじゃん)
一塁ランナーが盗塁してくるかもしれないと警戒してのリードであるのは椿にも解釈できた。
その予測通り、椿が投球モーションに入ると、初球にも拘らず一塁ランナーがスタートを
切った。
(それは先輩も読んでた!けど、こっからどうするつもりじゃん⁉)
通常ならば菫が二塁に送球して盗塁を阻止するのがセオリーではあるが、今はランナーが
三塁にもいるセオリー外の状況。
二塁に送球した瞬間、足の速い三塁ランナーがホームへ突っ込んでくる可能性が有った。
となればこの場合、二塁でランナーをアウトに出来なければ、それは同時に失点を意味する。
つまりこの状況下で確実に一塁ランナーの盗塁を阻止できる保証がない以上、菫が取るべき
最善の手は、『二塁へは送球せず、盗塁を見逃す』であった。
しかし菫のリードは盗塁を阻止するためのもの。
ならば彼女がどう動くつもりなのか、椿はその動向に注目する。
視線の先の菫は――動かなかった。
二塁へ送球するのであれば、一塁ランナーがスタートした時点で立ち上がって捕球するはずだ。
それをしないということは盗塁を見逃すと言っているようなものである。
――そう、グラウンド上にいる誰もがそう思った。
ただ二人を除いては。
椿が投じたストレートが、菫のミットに収まろうとしたまさにその瞬間――彼女が動いた。
いつ立ち上がったのか分からない程の素早い動きで捕球すると、そこからさらに
ほぼノーモーションで送球する。
二塁へではなく、三塁へ。
その球はすでに三塁ベース上で片膝をつき、地面スレスレに構えていた玲子のグローブへと
突き刺さり――
不意をつかれ慌ててヘッドスライディングで帰塁しようとしたランナーの手にへとタッチを
果たした。
「……ア、アウトーッ!」
まさに電光石火と称すに相応しい菫のプレーに、塁審のジャッジも驚きのあまり思わず遅れて
しまう。
それほどまでに、誰の目から見ても一瞬すぎて何が起こったのか即座に理解できない出来事で
あった。
「ふぅ~……」
そこでやっと菫はキャッチャーマスクを外すと、大きく安堵の息を吐いた。
そして小走りでベンチへ戻ろうとしていた玲子に並走しながら右手を差し出す。
「ありがとう、亜麻根さん。よく私の考えに気づいてくれたわね」
「い、いえ……、正直に言うと川島先輩が何をしようとしてるのかは全然分かりませんでした。
何かをする気でいるってことだけはアイコンタクトで分かりましたけど……」
「ううん、それで十分。それに三塁ランナーを刺せたのは、貴方がフェイントをかけて
ベースに入ってくれたおかげよ。本当に助かったわ」
「えっ⁉ そこまで気づいていたんですか⁉」
握手を交わしながら、あの一瞬で自分の動きまでも把握していた菫の視野の広さに玲子は
驚きを隠せなかった。
確かに菫からのアイコンタクトで三塁への送球も有り得ると感じた玲子は、椿が投球モーション
に入ると同時にベースを離れ、本来の守備位置へと戻るふりをしてからランナーに気づかれぬ
よう気配を消して再びベースカバーに入り直していた。
結果としてそれがランナーをさらに油断させ、三塁牽制死の成功へと繋がったのだ。隠れた
ファインプレーである。
「守備練習の時に何度か試そうとしていたでしょ?だから亜麻根さんとならきっとアウトに
出来るって思ったの」
試したといっても高校に入ってから行ったその練習は一日だけ。しかもほんの数回だ。
それを見逃さず憶えていた菫の記憶力にも感服したが、何よりエラーをしたばかりの自分を
信じてくれたのが嬉しくて玲子の心が感極まっていく。
「あ、あの……川島先輩……」
――と、ベンチ前まで戻った菫に環が背後から声をかけてきた。
そして菫が振り返るのを待たず、
「さっきはすみませんでした!」
サンバイザーを取って勢いよく頭を下げる。もちろん菫の指示に従わず、チームにピンチを
招いてしまったことへの謝罪だ。
しかし菫は優しく環の肩に手を置くと、「顔を上げて、蓮さん」と微笑む。
「あなたが謝る必要はないわ。私がもっと上手く説明できていれば、蓮さんだって迷わずに
済んだはずですもの。だから謝らなくちゃいけないのは私のほうよ」
そう言うと菫もまた頭を下げて、「頼りない先輩でごめんなさい」と皆の前で謝罪してみせた。
「そ、そんな!川島先輩が謝る必要なんてないですよ!悪いのは全部私なんですから!」
「ううん、私が悪いの」
「私ですって!」
「はいはい。それだと永遠に終わりそうにないですから、お相子ってことにしたら
どうですかー」
どちらも譲らない様子に呆れたファーストの金子 彩芽が割って入ると、二人は『なるほど……』
と声を合わせ、それがおかしかったのか、また同時に笑い合った。
「神那さんもエラー後のフォローをありがとう。それに萩原さんと田中さんも怖がらずよく前に
出てくれたわ」
「私は別に……。自分の役割を果たしただけ……ですから……」
「オ、オレも先輩に言われた通りにしてただけだし……」
「素直じゃねーなーお前らー。褒められてんだから、ありがたくそのまま受け取っておけば
いいじゃねーかー」
「う、うるせーな!お前は何もしてないんだから少し黙ってろよ!」
絵里香が顔をニヤつかせながら照れ隠しをする二人を茶化すと、純だけでなく、淡々とした
様子だった美央までもが顔を赤くした。
大ピンチの戦局を覆してしまった菫の頭脳とプレーは、一年生達をすっかり魅了していた。
(これが……川島先輩の選手としての本当の実力……)
ベンチから全てを目の当たりにした佳乃もまた、一年間のブランクなど全く感じさせない菫の
力を認めざるを得なかった。
自分達だって中学時代は県大会の決勝戦まで勝ち進んだのだ。自惚れでもなく、人並み以上には
野球の才能が有ると思っていた。
だが、そんな自信などまさに井の中の蛙であったと思い知らされるほど、菫とはレベルが違い
すぎた。
それを他の者達も気づいたからこそ、今の自分と同じように一瞬で川島 菫という野球選手に
心を奪われ、尊敬の念が芽吹いたのだろう。
まるで野球を始めたばかりの子供が、初めて見たプロ野球選手に憧れを抱くように。自然に。
「橋本さんもよく練習不足の球を投げ切ってくれたわ。私の無茶な要求に応えてくれて、
本当にありがとう」
そして菫は最後に一番の功労者である椿へと、他の者達にも向けていたのと同じ微笑みを
送った。
が、椿は顔をうつむかせたままピクリともせず、何も言わぬ口を真一文字に結んでいた。
そのおかしな様子に気づいたチームメイトの視線が彼女へと集まっていく。
すると椿はポツリ……と口を開いた。
「なんで……なんであんな凄いプレーが出来るのに、今までマネージャーなんて
やってたんですか……?」
その場にいた全員に代わって菫に問う。
だが、勢いよく上げたその顔は他の者達とは違い、怒りに満ちていた。
「下手くそなあたし達とじゃ一緒に野球なんてしたくなかったですか!川島先輩ッ!」
「ち、違うわ橋本さん……!私はそんなふうに思ってなんか……!」
「何も違わなくないじゃん!」
喉が潰れそうなほどの大きな叫び声に、菫だけでなくその場にいたチームメイトもビクッ!と
身を震わせ硬直させた。
椿は涙を浮かべた両目で菫をきつく睨みつけると、そのまま言葉を続ける。
「あたしは初めて先輩と会った日に思った!この人と一緒に野球をしてみたいって!
けど先輩はそうじゃなかったってことじゃん!」
「…………」
違う。そうじゃない。私だってあなた達と一緒に野球がしたいと思っていた。喉元まで
出かかった弁明の言葉を、菫は苦渋の想いで飲み込んだ。
どんなに言い繕おうとも、その一歩を踏み出せずに野球から――椿達から逃げ続けていたのは
事実だ。そんな自分が何を言ったところで言い訳にしかならない。
だから菫に出来たのは、椿から目を逸らすことだけであった。
「椿……。川島先輩にだって川島先輩なりの事情や考えがあったのよ」
そんな菫に救いの手を差し伸べたのは、同じポジションである後輩であった。
「よ、佳乃……怪我は大丈夫なの⁉」
「痛み止めが効いてきたみたいだし、無理に動かそうとしなければ大丈夫。それより――」
左手首を逆の手で固定させながらベンチから出てきた佳乃は、視線を地に這わせたままの菫へと
向き直り、
「私の言ったこと……間違っていませんよね?川島先輩」
問うが、菫は何も答えなかった。
ただ、自分の体を抱きしめるように組んだ腕の先にある両手の指に力が込められたのには
気づいた。
「聞かせてくれませんか?川島先輩がどうしてマネージャーをしていたのかを。
私達にはそれを先輩から直接聞く権利があると思うんです」
佳乃は梨花からある程度の事情を聞かされたのでおおよその予想はついていた。
それを仲間達に話せば菫への誤解は解けるし、理解も得られるであろう。
けれど――それでは駄目なのだ。
もし本当に菫が選手に戻るつもりでいるのであれば。
本当の意味で自分達の仲間となるためには。
その一歩は菫から踏み出さなければならない。
そうでなければ菫と一年生達の間には永遠に隔たりが残ったままだ。
長い沈黙が流れ、しかし誰も口を開こうとはしない。その場にいる全員が、菫の言葉を待って
いた。
やがて菫は覚悟を決めるように目を閉じ、「そう……ね」と小さく呟くと、椿からは顔を
そむけたまま小さな――か細い声で語り出す。
「皆も知っての通り、一年前……私が一年生の時に女子野球部は事件を起こして活動停止に
なったわ。その原因は……私にもあるの」
「でも、先輩は事件に直接関わっていないはずですよね」
「ううん……私は事件の原因に気づきながらも、彼女の力になってあげられなかった……。
彼女に何もしてあげられなかった……。
同じ女子野球部のチームメイトとしても……それ以前に人として失格なのよ、私は……。
そんな私がまた誰かと一緒に野球をする資格なんてない……。だから、その頃からマネージャー
に転向しようと決めていたの……」
今にも消えてしまいそうな声で独白する菫の話を一年生達は黙って聞いていた。
「退部して完全に野球から離れようとも考えたわ。でも……出来なかった。
最後の部員であった私が去ってしまったら、本当に氷取沢女子野球部が無くなってしまうと
思ったから……。
子供の頃にテレビで見て憧れた、この女子野球部を私は無くしたくなかったの……」
「そんな時に私達が先輩の前に現れた……」
佳乃の言葉に、菫は力なく小さく頷いてみせた。
「私が卒業するまでに一人でもいいから部員が入ってくれればいい……。そうすれば部としては
無理でも、同好会という形で女子野球部は存続できる……。
そんなふうに考えていた私の前に、あなた達が現れてくれた……。
本当に嬉しかった……。だからあなた達のことを大事にしたいって……邪魔にはならないように
しようって思ったの……」
そこで菫とは逆の方向へと顔をうつむかせたまま話を聞き入っていた椿がピクンと反応を
示した。
菫と初めて出会った日のことを思い出す。あの時に彼女が流した涙の意味を知り、
握りしめたままであった両手に一層の力が込められる。
「それに、先に卒業してしまう私を加えて新チームとして動くよりも、中学から同じチームで
やってきたあなた達がそのまま三年間また同じチームとして動いた方が強くなれるわ。
だから……安心して。山吹さんの怪我が治ったら、私はまたマネージャーに戻るから……」
そう言うと菫は顔をあげ、いつものように微笑んでみせた。
いつものように優しく。
いつものように寂しさを隠した仮面をつけたままで。
「……なんですか……それ……」
――けれど。
菫が見せた決意と覚悟の前に誰一人何も言えなかった中で――椿だけが震わせた声を上げた。
「いつもそうやって無理して笑って!誤魔化して!あたしは先輩のそういうところが大嫌い
なんです‼」
うつむかせていた顔を上げ、己の内に溜めこんでいた物を全て菫に向けて吐き出すように叫ぶ。
一度表に出した想いは止まらなかった。
「本当は野球がやりたかったくせに!今だってそう思ってる癖に!だったら正直にそう言えば
いいじゃん‼」
「いや、だからね椿……、先輩は私達のことを考えて……」
「それがウザイって言ってるんじゃん!」
椿は佳乃にも怒鳴り散らすと、自分でも気づかぬうちに涙が零れていた目で菫を睨みつける。
「独りでなんでもかんでも勝手に決めつけるなって言ってるんじゃんッ‼」
「橋本……さん……?」
「あたしは先輩と野球が出来て……バッテリーが組めて嬉しかった!楽しかった!それは皆も
同じはずじゃん!」
椿の言葉に、共にプレーした一年生全員が頷く。
「なのになんで自分が邪魔者だなんて決めつけるんですか!
それに例え過去に何があったとしても、あたしは先輩が誰かと一緒に野球をしてはいけない人だ
なんて思えない!それくらい馬鹿のあたしにだって分かるじゃん‼」
「…………」
「そうだよ……、あたしは馬鹿だから、ちゃんと言葉にして言ってくれないと何も分からない
じゃん……」
「橋本さん……」
菫は困ったように眉を下げると、自分が選手として復帰した場合に一番割を食うであろう佳乃
へと視線を向けた。
すると佳乃は目を閉じて、はぁ~っと深いため息をつき、
「そりゃ本音を言えば川島先輩みたいな凄い人とレギュラー争いなんてしたくありませんよ。
勝てる気がしませんし」
でも――と付け加え、静かに目を開けた佳乃はゆっくりと歩き出しながら言葉を紡ぐ。
「チームが今よりも強くなれるのならば、私はそれを第一に望みます。
だって私は皆が……中学の時から一緒に野球をやってきたこのチームが、自分のプライドなんか
よりもずっと大事ですから」
そして自分も一年生の輪に加わるべく椿の隣に並び立つと、一度彼女に笑ってみせてから菫に
向かって頭を下げた。
「だからお願いします!これからはマネージャーではなく、選手として私達に野球を教えて
ください!」
「佳乃……」
自分よりもチームを優先させた佳乃に、椿は「ごめん……」と彼女に謝罪の言葉を述べてから、
自分もまた菫に対して頭を下げる。
「あたしからもお願いします!それと今まで先輩に舐めた態度をとってすみませんでしたッ!」
二人に続くように、「私も!」「私も!」と一人、また一人と頭を下げていく。
そして一年生全員が頭を下げたその前で、菫は重ねた両手で押さえた口元から――
「……いい……の……?本当に……私があなた達のチームに加わっても……」
震わせた声を漏らす。
それに対し、一年生達は下げたままの頭を頷かせてみせた。
短く、「っ……」と言葉を詰まらせた菫の両目にみるみる涙が溜まっていき、溢れ出して頬を
伝っていく。
「嬉しい……。私もね……本当はずっとあなた達と一緒に野球がしたかった……」
涙は止まらず、むしろ勢いを増して零れ落ち、グラウンドの土を濡らしていく。
けれど、それは今まで菫が流してきた涙とは違った。
悲しいから。辛いから流す涙ではない。
独りぼっちで。けれど誰にも本心を悟られぬように苦しみ、流さなければならなかった涙でも
ない。
「こちらこそよろしくお願いします……。皆の足を引っ張らないように、私……精一杯頑張る
から……」
椿達に仲間として認めてもらえて初めて流す涙だから――あの日に捨ててしまった、作り物では
ない本物の微笑みを菫は浮かべながら、涙を流し続けた。
「またそうやってすぐ泣く……」
「うん……ごめんなさいね、橋本さん……」
「すぐ謝るのも先輩の悪い癖ですよ。まぁ、そろそろ慣れてきましたけど」
「ごめんなさい……頼りない先輩で……」
「ほら、また謝った」
椿が呆れながらもプッと笑うと、菫もつられて泣きながら笑う。そのまま二人は肩を並べて
ベンチの中へと入って行った。
そしてその様子を、佳乃は複雑そうな表情でベンチには戻らず見守っていた。
そんな彼女の頭に、不意に誰かの手が乗せられる。顔を上げれば、いつの間にか隣には梨花が
立っていた。
梨花は何も言わぬまま前を向き、ただ佳乃の頭に手を乗せているだけであった。
けれど、佳乃にはそれだけで十分にありがたかった。
おかげで今にも泣き出してしまいそうだった気持ちを堪えることができたから……
「さて……病院に行くか」
「……はい」
佳乃はうつむきながら小さく頷くと、ベンチに背を向けて先に歩き出した梨花の後を
追いかけた。
【続く】




